ゴンと高野山体験プロジェクト〜

苦しみのわけと意義

kurushimi

苦しみのわけと意義

- 避けることの出来ぬ苦しみの持つ意味 -

苦しみや悲しみは、誰もが避けたいものです。しかし、苦しみや悲しみに出会わぬ人生などあるのでしょうか。私たちが生きていく限り、苦しみや悲しみは、喜びや楽しみともども、自分たちの意図を越えて押し寄せてきます。
このように、苦しみや悲しみが避けられないものであるとするなら、私たちが苦しみや悲しみに襲われた時には、いったいどう対応すれば良いのでしょうか?また苦しみ悲しみが癒され、さらにはその先に希望や喜びが拓けていくためには、私たちはどう自分を捉え、どう対処していけば良いのでしょうか。

■ものの見方の原理 - 欲望との相関

そこでまず、私たちのものの見方や感じ方の基本構造を捉えることから始めてみて、苦しみや悲しみの感情が引き起こされる原因と、それへの対処について、順を追って考えてみたいと思います。
 さて私たちの意識は、カメラのようにレンズの捉える世界を、すべてそのままに映し出しているわけではありません。例えば毎日の通り道で、建物が工事で壊された時、そこに何があったのか思い出せないことがよくあります。でもそれがお気に入りのカフェだったら、大ショックです。つまり私たちは、自分の興味や関心のあるものは意識するけれども、必要のないものは、たとえそこにあったとしても意識していないのが現実です。このように私たちの世界の捉え方は、けっして平板なものではなく、自分の欲望を手掛かりとして濃淡のある捉え方をしています。それでは私たちは、いったいどのような欲望のもとにこの世界を捉えて生きているのでしょうか。

■世界を自分の手の上に - 思いどおりに生きたい“自我”

私たちの興味関心や欲望は人それぞれで、それにもとづく物事の捉え方や感じ方も千差万別です。しかし人間誰しも持つ欲望は、自分の思い通りに生きたい、欲しいものを自由に手に入れて、他の人を自分の願いどおりに動かしたいというものでしょう。それこそが、人間の生きる動力ですからね。
 そうしてこのように思いのままに生きられることを、“自己実現”と称し、またより多く自己実現出来た人のことを“成功者”として賞賛し、人生の目標とするのが現代の自由市場経済社会に顕著な傾向でしょう。
しかし、ちょっと考えてみれば当たり前のことですが、みんながそれぞれに自分の思い通りに生き、他人を自分の思い通りに動かしたいと思えば、当然そこでぶつかり合いが生じます。このぶつかり合いに勝利して、自分の我を通せる者が“成功者”ということになるのですが、100%自分の思いを実現できる者など1人もいません。そこで誰しもが、自分の欲望と、現実の自分の存在との間に生じる葛藤に悩まされることとなります。思い通りにならない世を恨むか、思い通りに出来きぬ自分を責め、悲嘆に暮れるか。
 この自分の都合で世界を捉えようとして生じる葛藤が、苦しみを生む根源となってきます。またこの葛藤の個人差から形成されるのが、“自我”と呼ばれる、その人なりの現実への対応の仕方や自身の捉え方であり、その捉え方を支えるものの見方や感じ方、判断の仕方などのまとまりです。

■自我のもたらす苦悩

“自我”は、必ずしも悪いものではないのですが、厄介なものでもあります。自分本位の自我があるから、人間は外界を対象化して観察し、自分の思い通りに動かそうと法則を見い出し、科学を発展させます。しかし一方で、自分本位であるが故に、却って自分を生かそうとして他者と軋轢を生じ、苦しみをもたらします。このように自我は、苦しみとそして求めるものの取り返せぬ喪失である悲しみをもたらす原因となるのですが、一方で自分のためにと培ってきたものの見方・感じ方であるが故に、それが囚われとなって、容易に編み変えることが出来ません。こうして私たちは、同じ過ちと苦しみ・悲しみを繰り返していく、定めを持つこととなるのです。

■“自我”を超える意識の深層 -“いのち”への気づき

しかし人間の意識を構成するのは、“自我”だけなのでしょうか。例えば赤ちゃんには、自我はまだ形成されていません。自分本位に世界を対象化して、手段として利用しようとする“自我”という心性があるなら、一方で、自分も世界の中の一部であり、他の人間や生き物と支えあい、育みあって生きているという心性があるのも、私たち人間です。この心性のことを、“自我”に対して、このサイトでは“いのち”と呼ぶことにしています。(“いのち”については、次節「老・病・死の豊かな意味」でもう少し詳しく考えていきます。)
 私たちは、この“いのち”への配慮に基づいて、互いに大切にしあって生きて行く時、励まされ高められ、生きる勇気と希望が湧いてきます。そして、嬉しい気持ちが起こってくるものなのです。私が“生きる”こと自体が、私に関わるすべての“いのち”の励ましとなり、私が悲しむ時には、皆が私を慰めてくれる。そこに、私の生きる意味と価値が確かに実感され、自分と世界の可能性が拓けてくるのです。

■苦しみ、悲しみの持つ大きな意味

それでも苦しみ、悲しみは、私たちの喜びを突き破って、容赦なく襲い掛かってきます。また、その苦しみをもたらす自我の囚われからも、私たちは容易に脱するとが出来ません。  しかし私たちが、私たちの“自我”のさらに意識の奥底にある、本来の“いのち”の存在に気がつく時、苦しみ・悲しみの意味は異なったものとなってきます。苦しみ・悲しみは、確かに辛く、痛みを伴うものです。しかしその痛みによって苦しみは、私たちが、今のままでは立ち行かなくなることを痛切に教えます。苦しみがあるから、始めて私たちはその苦しみをもたらす、自分自身の“自我”の囚われに気づくことができます。そして本来の“いのち”の力から、自我を編みかえる機会を得ることができるのです。それは困難で、時間のかかる辛い修復の作業です。しかし再び同じ苦しみ・悲しみを味あわず、自分も人も生かせるように人格を高めていくためには、その道しかありません。
 もちろん苦しみに陥っても、自分を顧みることなく、他者を責めるばかりの人はいくらでもいます。そういう状態のことを“愚か”といいます。また苦しみに陥っても、“自我”を編みかえることなく頑張りとおして、“自己実現”することが、“強さ”だと思っている人がいます。しかし本当の“生きる強さ”というのは、愚かな自分の実像を見据える痛みに耐えて、囚われの身勝手な“自我”を、本来の共に生きる“いのち”の発現へと編みかえる勇気をもち、挑み続ける強さのことです。
 こうして苦しみ・悲しみは、私たちが本当に自分を生かし、他者を生かし、世界を励ます“いのち”に生きられるようになるための、貴重な契機となるのです。こうして愚か者にならず、この“いのち”の強さに生きられた人のことを、私たちは、人生の真の“成功者”また“勝利者”と言ってよいのではないでしょうか。