ゴンと高野山体験プロジェクト〜

老・病・死の持つ豊かな意味

shinuimi

老・病・死の持つ豊かな意味

- いのちの持つ深い配慮への一体感が、世界の見方と生き方を変える -

苦しみや悲しみは、本当に辛く耐え難いものです。でもその耐え難い痛みを体験するからこそ私たちは、それまでの自分のままではもういられなくなって、自身を変えざるを得なくなっていきます。でも頑固な自我を編み変えて、自分自身の捉え方や現実への働きかけ方を改めるのは、並大抵なことではありません。自分を変えないままで、苦しみの原因を人のせいにしたり、いたずらに自分を責めて落ち込んだり、努力が足りないからともっと頑張ろうとしたり。いずれにしても自分自身の芯は変えずにそのままで、表面の対応だけを変えて繕おうとするものですから、その愚かさのためにかえって苦しみ悲しみを深めていってしまいます。
老・病・死は、その苦しみの最たるものでしょう。しかし老・病・死の苦しみは、他の苦しみと違って、人のせいにしようとしても、自分のせいにしよとしても、もっと頑張ってなんとかしようとしても、なんともならずに直面せねばならないという特質を持っています。愚かささえも、働きようがなく封じられてしまう苦しみです。私たちはただ、その苦しみを受け入れて、向き合っていく他ありません。それでは私たちは、もはや愚かさでさえも繕うことの出来ないその苦しみと、いったいどう向き合っていけば良いのでしょうか。

■根源的な負い目から解き放たれて

とても難しい問題です。私たちのいのちの懸かった心の領域の葛藤ですから、科学の通用する問題ではありません。論理や法則による理屈よりも、心が本当に納得して慰められ、老・病・死を受け入れて勇気の湧いてくるような、感じ方や気分が持てるようにしなければなりません。
 二つ前の「自分自身を知る」の節で、自分自身の可能性が見えてきて、“心底(しんそこ)嬉しく”なるような自分の捉え方が出来ないと、結局私たちは、自分自身がわかったという気にはならないものだと申しました。それではいったいどのような捉え方をすると、私たちは心底心が晴れて、嬉しさと平安の気分に包まれるものなのでしょうか。そういう捉え方が出来ると、老・病・死に対しても、心が励まされる向き合い方が出来るようになるのかもしれません。そこでまず、本当に自分が心から嬉しくなる状況ということから考えてみたいと思います。しかしこれも、本源的なところまで遡って考えてみようとすると、結構厄介な問題が横たわっていることに気づいてきます。
 宮沢賢治が『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』と述べています。深遠な言葉です。でもやはり私たちは、一人でも不幸な人や不幸な生き物たちがいたら、どこかに負い目を感じて、心底心が晴れるものではないでしょう。ただそんなことはとっても不可能なことですから、結局は見ないふりをして、普段はごまかして生きていくことになるのですが。それ故私たちは、心の中のどこかで、申し訳なさや負い目を感じて生きていくことになります。考えてみれば、私たちは大地自然からたくさんの恵みを頂いて生きています。自然の資源がなかったら、人間の文明も社会も成り立ちません。ましてや私たちのいのちは、他のいのちを頂いて食することで保たれています。じつはここに私たちの、根源的な負い目というものが存在しています。だから私たちには、他のいのちの幸せを願ったり尽くしたりすることで、この負債の借りを返して、根源的に負い目を解消したいという深い心の求めを持っているのです。場合によっては、自分を犠牲にしてでさえも。いや、人のために生きるということは、必ず何がしか自分の犠牲を伴うものなのです。でももし私たちが、他の誰かやいのちのために役立つことが出来たなら、そして有難うと感謝されるなら、私たちは、本当に心からの喜びを感じるものでしょう。たとえそのために自分が犠牲を被ったとしても、そこに自分の生きる意味と価値が鋭く立ち上がってきて、心からの嬉しさを実感することが出来るのです。このように考えてくると、私たちは少しは宮沢賢治の言葉の意味が、わかってくるのではないでしょうか。私たちが人の幸せのために尽くして生きる時に、初めて私たちは、もはやなんらの疚(やま)しさを覚える必要なく、心解き放たれて晴々と自分の幸せを満喫することが出来るようになるのです。

■私の意識と自然界の深層に息づくいのちの叡智

 他のいのちを生かす、出来ればすべてのいのちを生かす、そしてそのことによって自分のいのちが生かされる。この時私たちの心が、なんら後ろめたさを覚えることなく根源的な喜びに満たされるのは、間違いのないことでしょう。さらに今のいのちのことだけではなく、後の世代のいのちの幸せのことも考えて対応していく。そして過去のいのちにも配慮して敬意を払い、そこから学んで叡智を受け継いでいく。そして過去も現在も未来もすべてのいのちが励まし合って、共に仕合せになれるようにしていく。そういうものとして自分たちの生きる可能性の見えてきた時、私たちは本当に心嬉しく、希望をもって自分が見られるようになってくるのではないでしょうか。
 じつは生命というものは、時間を超えてすべてのいのちを配慮するという、非常に深い智慧を持って存在しています。地球上に生命が誕生してから36億年といわれていますが、その間幾度となく絶滅の危機に瀕し、その都度より豊かに進化して生き残り、滅びずに繁栄する術(すべ)を蓄えてきました。実際私たちを支える大地自然においては、無数のいのちが育まれ、そこでは1つ1つのいのちが自分を大切にし、みんな精一杯に生きています。そしてそれぞれのいのちが見事に調和し、互いに生かし合う生態系をつくっています。この生命の智慧は、当然私たちの深層にも息づいています。だから私たちが大地自然と触れる時、いのちの息吹に心が洗われ、いのちが甦って躍動するような感覚を覚えるのです。大地自然のいのちと、私たちのいのちが呼応して、いのちが確かに再生されていくからでしょう。
 前節でも申し上げたとおり、私たちの意識は、自分本位で頑迷な自我だけで構成されているものではありません。自我のさらにその奥に、この生命の叡知が息づいているのです。だから私たちが自分の自我の呪縛から解き放たれる時、深層のいのちの叡知が作動し始めます。そして自分を生かし、他のいのちを生かし、過去のいのちにも配慮し、未来のいのちのためにもその繁栄の礎を残せるように生きられる時、私たちの魂は、本当に心から喜ぶことが出来るのです。

■宗教の智慧と働き

 一方で私たちが、自分本位で他のいのちを傷つけて生きる時、必ずどこかで私たちのいのちも傷ついてしまいます。他者への負い目を深くし、孤立と報復への不安や恐れが深まり、自分の思いも十分には満たされずに、苦しみ痛みが増していきます。でも苦しみ痛むからこそ、自分と向き合って、その愚かさを痛切に顧みざるを得ないことにもなっていきます。そして頑固な自我を編み変えて、意識の奥底にある深層のいのちの叡知に気づく道も拓けてくるのです。
 こうして私たちが、自分を含めてすべてのいのちを生かそうという思いに包まれる時、それまで自分を苦しめるものでしかなかった日常の現実の中に、様々な可能性が見えるようになってきます。様々ないのちの様々な呻(うめ)きが見えてきて、その呻きに寄り添い、励まし、そしてそれによって今度は自分が励まされる道が見えてきます。こんな愚かで、人も自分もいっぱい傷つけてきた自分であってさえ、赦されて励ましあって生きる道が見えてくるのです。
 じつは宗教的な自覚とは、この体験のことを言うのです。いのちを傷つける者でしかなかった自分が、普遍的ないのちの叡智に触れて、日々日常の現実の中にいのちの可能性が見えてきて、いのちを慈しみ励ます存在へと変えられていく。宮沢賢治が先ほどと同じ文章の中で、そのことをこう表現しています。「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。」時空を越えてすべてを生かす生命の叡智と、自分たちが一体化して生きていき、そのいのちの求めに応じて互いに生かしあっていく。これは、頭の中で理屈でわかって出来るものではありません。骨身に染みる実感を味わう体験が必要になってきます。伝統宗教の智慧とは、まさにその実感に至るための智慧と方法を指し示してきたのです。

■老・病・死の持つ豊かな可能性

このような宗教的な自覚に至り、自分を取り巻く現実のすべてにいのちを生かしあう叡智を見出し、その可能性に生きていけるようになるためには、どうしてもそのようには生きていけない“今のまま自分”の否定が必要になってきます。老・病・死は、私が今のままの自分ではいられなくなってしまう最たる経験です。しかも冒頭でも申し上げたとおり、この経験は、自我の愚かさが働きようもなく現実を受け入れさせ、真っ直ぐに自分自身に向き合わせていくことになります。その時、私たちが意識の奥底に分かち持っている深層のいのち叡智が、崩れた自我の亀裂から噴出し始め、必ずそのいのちの力が働き出してくるのです。こうして老・病・死は、他の経験に優れて深く私たちがいのちの叡智を自覚し、その叡智と一体になることで新たに生まれ変わっていく機会を提供するのです。
 それでは、具体的にどのように私たちは、自分と向き合って自分のいのちを養い、いのちを励ます存在へと生まれ変わっていくのでしょうか。それについては、次節の「いのちを養うために」でさらに考えていくことと致しましょう。