ゴンと高野山体験プロジェクト〜

妙純対談第1回『自分を解き放つ宗教の智慧』2/3

Dec 03 - 2014

妙純対談第1回『自分を解き放つ宗教の智慧』2/3 その2(2/3) 自分を解き放つ宗教の智慧


(対談者)
芳賀妙純(僧侶妙純)
平成19年真言宗豊山派護国寺(東京)で得度
新潟県善照寺、奈良県長谷寺で修行
平成21年9月真言宗豊山派教師資格取得
現在は群馬県伊勢崎市に在住し、葬儀・法要・供養等仏事を 行いつつ、布教師として、『法話』を東京・西新井大師、巣鴨の真性寺、奈良県・長谷寺などで行い、思い悩む方に答えている。
           URL:http://myojun.web.fc2.com/sermon.html
尼僧タマゴ
見習い尼僧

トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)

■科学の知恵と宗教智慧

トリ:
今本当にすごい沢山の人が生き苦しさを抱えています。そして不安も。大きな会社でバリバリ働いていても、1つ足を踏み外すと、どんと落っこちていくかもしれない。そんな不安がいっぱいあります。たとえ今は良くても、それがこれからも続くのか。そんな不安や息苦しさに対して、どう私たちは対処していけば良いのか。
私たちはいろんな問題を解決するために、科学の知というものを持っています。そして今、科学はすごく発達している。でも果たして科学の方法で、私たちの抱える不安や息苦しさを無くす解答を見つけることができるのか。こんな不安の自分を越えて、生きづらさを抱えながらも前向きにちゃんと生きていく答えを、科学は導き出してくれるのだろうか。
じつはこうした人の生きる術を求める領域では、科学とは違う智慧みたいなものが必要になってくるのではないかと思うのです。今は科学万能の時代で、科学だけが知恵だと思ってしまうのですけど、じつは科学とは違う智慧があって、それが宗教なんじゃないかと思うのです。

妙純:
宗教といっても、けっしてそれは難しい智慧ではなく、ほんとに身近な智慧なんですね。日常の生活の中で、自分が良く生きられるように正しく見聞きする。宗教というと堅苦しくなるのですけど、じつは日常の中で難しくなくできることなので、是非やっていただきたいと思います。

■苦しみの原因

トリ・コ-ジ:
宗教の中にも教学とかいうジャンルがあって、いくらでも難しく考えていくところはあるのですけれど、でもそれが言わんとしている核のところは、じつは直観的には単純なことなのかもしれませんね。そこで今、お応えして頂ける範囲で結構なんですけど、人が生きていくという中で、いろいろの悩み煩いが出てきて、放っておくとますますひどくなってしまいます。でも、それもそのようになる原因があるはずだと思うのです。それを仏教の智慧ではどう捉えるか、わかりすくお教えいただけないでしょうか。

妙純:
原因があるから、結果という形になるわけですよね。例えばある人を好きになった。好きになったけれども受け入れられなかった。そこで自分はどうしようと苦しむ。そこにはまず、その人を好きになったという原因がある。そして嫌われてしまって苦しむという結果があります。簡単に言うと、その人を好きにならなければいいわけですよね。だからこれ以上苦しまないためには、もう関わらないということが、一番いいことなんです。
  お釈迦様のお話の中にも、あるお弟子さんが町に出て行って托鉢をする時に、すごく美男子なので、まわりからいろんなファンがやってきて、たいへんなことになってしまう。それでそのお弟子さんが、どうしたらいいのですか、とお釈迦様に尋ねる話があります。その時にお釈迦様は、それはもう関わるなとおっしゃったそうです。そのことがわからないで、ついついのめり込んでいってしまうのが私たちです。家族の問題もそうですね。自分の感情から関わってしまって、いろんな気まずいことになってしまう。私なんかそういう時は、写経をしますね。写経をするといやなことを忘れますし、また書いているうちに自分が悪かったなという気持ちにもなってきます。それでまた自分が申し訳ないという気持ちが起こされて、相手の人に接することができるようになります。手っ取り早いのは、般若心経の写経をお勧めします。

■日常の自分を離れる手段としての修行

トリ・コ-ジ:
そのように、煩いの種に関わらないようになれれば良いのですけど、その関わる思いが断ち切れないのが、私たち人間ではないでしょうか。

尼僧タマゴ:
私は丁度修行を終えてきたばかりなのですけど、修行とかすると、実際に日常から離れることになります。また修行中は、修行のことで精一杯で、日常のことを考える暇がない。普段はいろいろな関わりあいの中で、煩いが生まれてきて、頭の中が一杯になって悶々と悩むのですけど、修行の時は、そんなことを考える間が無くなってしまいます。日常の自分からは、離れて生きることになるのですね。実際には日常の煩いごとが無くなるわけではありませんが、それに捉われないですむ時間ができる。これは意味のあることで、延々とその煩いを心で突っついて考えていても、何も変わりません。余計に自分がその深みにはまって、落ちこんでいってしまうだけです。

トリ;
日常の自分のままでいると、同じことをずっとぐるぐる回りで悩み続けるということですね。 妙純;尼僧タマゴさんは修行して、丁度良い機会を与えてもらったという感じですね。

尼僧タマゴ:
同じ日常の中にいると、考えないようにしようと思っても、同じ煩いが浮かんできてしまって、そこから脱することが出来ない。私なんかの瞑想のように、考えないようにしようと思って、かえって考えてしまうのと同じです。だから煩いの悪循環を断ち切るためには、日常の自分を離れることが必要で、そのためには、スポ-ツなんかであっても良いのかもしれません。夢中になって、日常の自分以外の何かに集中することが大事なのですね。だから、写経なんかも効果があるのです。

妙純;
そうですね。無心になるということが大事なのですね。

トリ・コ-ジ:
私たちが日常のままに生きていく時に、たとえば会社の人間関係が悪くて、いじめなどもあったりすると、あいつは許せない、あんのやろうと思う時があります。そうなると、その人の悪い所ばかりが目につくようになって、ますます拍車がかかって腹が立ってくる。そうなることってありますよね。でもその状況の自分を傍から見れば、まことに愚かなことで、そのまま突き進んで行けば、ますます自分が悪循環に陥ってしまうのは必然です。だからある意味では、仏教なり宗教といのは、そういう固執した思いに執着する自分を、ちょっと外してみて、違うもっと広い視野から観る智慧や技術とも言えるのでしょうね。
  私たちは、毎日いろんなことを思いながら生きているわけなんですけど、基本的には自分の得になるように、プラスになるように、自分の利益に固執して生きています。その欲得の捉われから離れたら、ほんと随分と楽になる。離れないで固執した自分がすべてになってしまって、それしかないと思ってしまうと苦しくなる。そこに私たちを苦しみに追い込んでしまう頭の働き方、ものの見方というのがあるように思うのです。

■自分以外のものを媒介にする宗教のわざ

妙純:
そうですね、固執してしまうと、自分ではもう気がつかず、抜け出せなくなるのですね。私事で恐縮なのですけど、小さい時に母が亡くなりまして、その後祖父や祖母が次々と亡くなってしまって、すごい悲しみの中にありました。どういうふうにしていいかわからない。その時、境内にお大師様が銅像の姿でいらっしゃいまして、そのお大師様にすがったんですね。お友達がみんな家に帰って、誰も見ていない所でお大師様におすがりしました。そしたら、なんとなく亡くなった人たちが出てきたような気がしたのです。優しい顔が現れて、亡くなってもこうして私を守ってくれている人がいるんだというふうに思えたのです。そうやって、悲しみのどん底にいる自分を離れることが出来たのですね。小さい時から自然に手をあわせて、仏像を見るということをしてきのが、自分のつらさを越える強さになったのかもしれません。大人になってからもいろいろ波乱万丈ございましたが、それを乗り越える術を持っていたことが、自分が幸せになる1つのきっかけだったかと思います。小さい時から信仰の力に生かされて、大人になっても、いろんなことに太刀打ちができました。だから私は、信仰の力は強いなと今も感じています。

トリ・コ-ジ:
妙純さんの実体験として、苦しみ悲しみの自分を越えるために、自分の力だけでは出来なくて、何かにすがる必要がある、それが信仰だったということですね。
  先ほどからの話の中で、私たちを消耗させる原因に、日常の生活の中で、いろんなことに捉われて視野が狭くなって、頭の中がいっぱいになってしまうということがありました。その自分をちょっと外してみるということが必要で、それによって自分を客観的に見ることができるようになります。多分写経というのも、そういう形で無心になって、お経、般若心経を書いていく中で、じつは何と向き合っているかというと、字を書いているというよりは、自分と向き合っている。向き合う内に次第に自分を冷静に見られるようになって、主観を離れて外から自分を見る時間を持てるようになるということでしょうか。凝り固まった自分を離れて見る。でも、それがなかなか自分の力だけではできないのですね。

妙純:
出来ないんですよ、何かに頼らないと

トリ・コ-ジ;
そこに妙純さんのお話だと、お大師様なりお釈迦様なりに頼る方法があるということなのですね。

妙純:
私にとっては、それは自然にやっていたことなのですね。

トリ・コ-ジ:
それはある意味では、家がお寺であって、お父さんなり周りの人のそういう姿を見ていたから、おのずと出来たということなのでしょう。でも全くそういうことが無い家だと、何に頼って自分をずらしたら良いか、自分を客観視する手段がなかなか無いのが今の時代の悲劇です。
  でも、私は全く宗教を信じない、無神論者だという人でも、本当に何かに困った時には、神様、仏様と、思わず助けを求めるものです。神様がいるか、仏様がいるかわからないですけど、やっぱり苦しみ悲しみを乗り越えていく1つの方法として、固執した自分を外して、もっと広く自由な所へ自分を連れ出す何らかの手立てが必要になる。自分以外のものを媒介にする宗教のわざは、そのために有効なのでしょうね。そうでないと私たちは、捉われの中でいつまでも煩いを脱せないで、ぐるぐる回りするだけです。

妙純:
そうなのです、いつもおなじことを繰り返してしまうのです。それが自我の自分なんですね。だから人とトラブルが起こった時などには、早く帰って写経をしたりしていると、自我に捉われた自分から解き放たれて、のびやかに広く状況を見られるようになってきます。そうすると相手を思いやる気持ちも芽生えてきて、相手のことを許すという気持ちにもなってくるのです。それで次の朝すっきりした気持ちになって、本心から相手におはようございますと挨拶すれば、相手の人の心も解けて、昨日のトラブルが嘘のように改善していく動きになっていきます。そのように良い方向に巻き込んでいく動きを、自分の方から作れるようになっていくのですね。そうすれば必ず、相手も嫌な顔はしない。自分を自我の捉われから解き放つ術を知っていれば、ちょっとしたトラブルであれば、大抵のものは簡単に解決できるんじゃないかと思います。