
(対談者)
芳賀妙純(僧侶妙純)
平成19年真言宗豊山派護国寺(東京)で得度
新潟県善照寺、奈良県長谷寺で修行
平成21年9月真言宗豊山派教師資格取得
現在は群馬県伊勢崎市に在住し、葬儀・法要・供養等仏事を
行いつつ、布教師として、『法話』を東京・西新井大師、巣鴨の真性寺、奈良県・長谷寺などで行い、思い悩む方に答えている。
URL:http://myojun.web.fc2.com/sermon.html
尼僧タマゴ
見習い尼僧
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■宗教は時代遅れ、 実生活の役に立たない?
トリ・コ-ジ:
仏教(宗教)は時代遅れで、おじいちゃん・おばあちゃんがやるものというイメ-ジ があり、若い人はあまり関心を示しません。
その理由の1つは、宗教は心の慰めになるかもしれないが、実生活には役立たないという思いがあるからではないでしょうか。心の中で自分を慰めることができても、会社で仕事がうまくできるようになるとか、夫婦関係が良くなるとか、子供の成績が上がるとか、実生活での効果には直接的につながらない。仮に子供の成績が悪かったとしても、自分の心の持ちようで、自分の子にもどこか良いところがあるんだと思うことは出来ます。そうやって自分で自分を慰めることには役立っても、実際には子供の成績は良くならない。宗教は単なる気持ちの持ち方を教えるだけで、実生活で生きる力にはならないという思いが、どこかにあるからではないでしょうか。
また他にも、今のイスラム過激派やカルト教団のように、宗教は排他的で、洗脳されて怖いというイメ-ジもあります。
妙純:
確かにお葬式とか法事とか、そういう時だけのものが仏教だと若い人には思われていますね。
尼僧タマゴ:
lその法事も、小さい子供のうちは大人に連れられて行くけれども、高校生ぐらいになると、もう着いて来なくなる。
トリ・コ-ジ:
へたをすると最近は、お葬式もやらなくていいのではないかという風潮。直葬なんかも当たり前になってきていますね。
■葬式仏教、でも葬儀も形骸化
妙純;
でもお葬式を簡略にすることで、また違う問題がおこってきています。昔はお葬式があるというと、親戚中、近所中が集まって、その遺族の心の痛みを癒しました。初七日、四十九日とだんだんと家族の心の痛みを和らげていく仕組みをつくっていた。今はそれをやらないことによって、悲しみが脱いきれなかったり、故人をいつまでたっても忘れられなかったりと、その苦しみから抜けられない問題もおこっています。やはりお葬式、法事という順番があるとおりにやっていくことは、大切だと思っています。
トリ・コ-ジ:
このまま行くと、お葬式なんて、日常生活に何の必要があるのかとか、ましてや法事なんて、という考え方になってしまいます。これまでの世の中の伝統やしきたりから、やらないと肩身が狭いからやるだけで、単に風習として残っているだけのもの。実際自分が生きていく上で、お葬式や法事は意味があるのかと言われると、本音ではお金かかって面倒なだけということになってしまう。でもじつは、昔の人たちが葬儀や法要を守ってきたということは、ちゃんと意味があったからなんですね。
■葬式が持つ大切な役割
妙純:
もちろん意味がありましたね。私ごとですけど、母が亡くなり、次に祖父母がと次々に亡くなっていった時、たくさんの人がお葬式とお参りに来てくれました。それで悲しさを忘れることができたのです。一段落して人が来なくなると、また悲しみに襲われるのですけど、でもその時はもう、どん底の悲しみからは抜けている。そのどん底の悲しみの時に皆さんが来て下さったので、そこで自然に癒されてくるのです。そればかりか、悲しみの時に自分を支えてくれる人がいる、自分は一人ではないと実感することは、これから先も周囲の人たちから支えられて、いろんな教えを頂いて生きていけるという、信頼が湧いてきます。お葬式はそんな思いが持てるようになる、すごく重要なところがあるのです。学校の勉強では学べない教えを、私はお葬式に参列した親類や縁者の方々から頂きました。それが何より有難かったですね。
トリ・コ-ジ:
朝の連続テレビ小説「花子とアン」で、主人公の腹心の友、蓮さまが、1人息子を戦争で亡くします。そして悲しみのどん底に落ちて、ずっとふさぎこんでしまう。一夜で髪が真っ白になるほどの悲しみです。悲しみは1つ間違うと、慰められない悲しみになってしまいます。ずっと悲しみの中に沈み込んで、そこにうずくまってしまう。そしてちゃんと生きられなくなる。あのドラマはそういう状況を表しています。悲しみには慰められないといけないのに、慰められない悲しみとなってしまう。人にとって大事なことは、前向きに生きていけるように、悲しみから立ち直ることなのに。
妙純:
それを周りの人がさせてくれるのです。それがお葬式の有難いところです。誰も教えてくれないが、周りの人からそのことを自然の形で教えて頂ける。そして再び明るい生き方ができるようになる。悲しみから自分を押し出してくれるのですね。
■気づかない宗教の効用
トリ・コ-ジ:
宗教というとなんとなく古臭いと思うかもしれませんが、でもじつはみんなが気づいていないだけで、あれ、こんな大切な働きがあったんだ、というところがありますね。
妙純:
それは目に見えないものなのでわかりにくいのです。計算できてこれぐらい儲かるとか、そういうものではないので、宗教は役立たないと、そう思われがちになるのでしょう。
トリ・コ-ジ:
では妙純さんの実体験から、宗教がどう自分に役立ったか、教えて頂けますか。たとえば、妙純さんの仏教との出会いというのは?
妙純:
実家が寺で、私にとってお寺はあたり前の生活でした。尼僧タマゴさんも同じです。その兄が一時具合が悪くなって、お寺の後継者問題が浮上しました。姉もおりまして、その姉のことも気掛りでした。いろいろ先の事で思い悩んでいた時、突然12年前に亡くなった父親が、今まで何の音沙汰もなかったのに、ふっと私の夢の中に出てきました。そして「お前がやらないといけないぞ」って言うんです。父が出てきたのは、後にも先にもそれ1回きりでしたけど。それで私が出家して寺を継がないと、という思いになったのです。そのように寺の後継問題があったことで、仏門に入りました。その後後継問題は落ち着いて、今は兄が80歳になりますが、寺を継いでいます。それで私は、今は自分の家で仏の道を歩んでおりますが、この後継問題がきっかけで、得度させて頂くことになりました。
僧侶になった最初の頃は、亡くなった人への弔いが中心の仕事かと思っていました。ですがそんなことはなく、むしろ生きている人との関わりが何より強いと感じます。今生きて生活している人たちと触れ合い、様々な苦しみを乗り越えて楽しく生きて行こう、というお話をするのが、私の主な役目だということが、僧籍に入ってみてすごくわかりました。
トリ・コ-ジ;
なるほど、仏教はお葬式で死んだ人をどう弔うか、ということが仕事だと思いますけれど、しかし実際やってみると、生きている人がいかに良く生きていけるか、ということが課題だったということですね。
妙純:
仏様の教えにもあるように、今この世に生きている人たちがいかに救われるか。私のようなものに何ほどのことが出来るかわかりませんが、少しでも苦悩する人のお側にいて、お話を聞いてさしあげることが、自分の仏門に入った役目かと思っています。
トリ・コ-ジ:
尼僧タマゴさんの場合はいかがですか。1か月の修行を終えられたばかりとのことですが、修行に行く前と行った後で、何か変わったことはありましたか
尼僧タマゴ:
私は割と対人恐怖症で、他の人と関わるのが苦手な方でした。それは自分がお寺の子で、それを知られるのが嫌で、ずっと自分を隠すようにしてきたからかもしれません。それが修行から帰ってきて、何かパンとふっきれた感じがしたのです。今まで初対面の人には壁をつくってきたのですが、もう自分が仏門の世界に入ってしまったので、お寺の子である自分を隠す必要はありません。ふっきれてすっかり軽くなったのは、ありのままの自分を隠さず、出すことが出来るようになったからかもしれません。
トリ・コ-ジ:
修行してみて、自分が変わったということですね。
尼僧タマゴ:
はい、そして自信になりましたね。
トリ・コ-ジ:
仏教もキリスト教も他の宗教も、伝統宗教と呼ばれるものには、じつは、そこに何か自分が変わることができるための、何らかの知恵や教えや力が隠されているのですね。
妙純:
そのとおり、自分を変えられますね。今悩んでいる方が沢山いらっしゃいますけど、1度修行された方が早いんじゃないかと思うこともあります。長い間悩んでいるのだったら、こういう修行をして、自分がこのように変われるのだということを実体験してもらった方が、苦しみの自分を吹っ切るためには、一番早いかもしれません。
芳賀妙純(僧侶妙純)
平成19年真言宗豊山派護国寺(東京)で得度
新潟県善照寺、奈良県長谷寺で修行
平成21年9月真言宗豊山派教師資格取得
現在は群馬県伊勢崎市に在住し、葬儀・法要・供養等仏事を
行いつつ、布教師として、『法話』を東京・西新井大師、巣鴨の真性寺、奈良県・長谷寺などで行い、思い悩む方に答えている。
URL:http://myojun.web.fc2.com/sermon.html
尼僧タマゴ
見習い尼僧
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■宗教は時代遅れ、 実生活の役に立たない?
トリ・コ-ジ:
仏教(宗教)は時代遅れで、おじいちゃん・おばあちゃんがやるものというイメ-ジ があり、若い人はあまり関心を示しません。
その理由の1つは、宗教は心の慰めになるかもしれないが、実生活には役立たないという思いがあるからではないでしょうか。心の中で自分を慰めることができても、会社で仕事がうまくできるようになるとか、夫婦関係が良くなるとか、子供の成績が上がるとか、実生活での効果には直接的につながらない。仮に子供の成績が悪かったとしても、自分の心の持ちようで、自分の子にもどこか良いところがあるんだと思うことは出来ます。そうやって自分で自分を慰めることには役立っても、実際には子供の成績は良くならない。宗教は単なる気持ちの持ち方を教えるだけで、実生活で生きる力にはならないという思いが、どこかにあるからではないでしょうか。
また他にも、今のイスラム過激派やカルト教団のように、宗教は排他的で、洗脳されて怖いというイメ-ジもあります。
妙純:
確かにお葬式とか法事とか、そういう時だけのものが仏教だと若い人には思われていますね。
尼僧タマゴ:
lその法事も、小さい子供のうちは大人に連れられて行くけれども、高校生ぐらいになると、もう着いて来なくなる。
トリ・コ-ジ:
へたをすると最近は、お葬式もやらなくていいのではないかという風潮。直葬なんかも当たり前になってきていますね。
■葬式仏教、でも葬儀も形骸化
妙純;
でもお葬式を簡略にすることで、また違う問題がおこってきています。昔はお葬式があるというと、親戚中、近所中が集まって、その遺族の心の痛みを癒しました。初七日、四十九日とだんだんと家族の心の痛みを和らげていく仕組みをつくっていた。今はそれをやらないことによって、悲しみが脱いきれなかったり、故人をいつまでたっても忘れられなかったりと、その苦しみから抜けられない問題もおこっています。やはりお葬式、法事という順番があるとおりにやっていくことは、大切だと思っています。
トリ・コ-ジ:
このまま行くと、お葬式なんて、日常生活に何の必要があるのかとか、ましてや法事なんて、という考え方になってしまいます。これまでの世の中の伝統やしきたりから、やらないと肩身が狭いからやるだけで、単に風習として残っているだけのもの。実際自分が生きていく上で、お葬式や法事は意味があるのかと言われると、本音ではお金かかって面倒なだけということになってしまう。でもじつは、昔の人たちが葬儀や法要を守ってきたということは、ちゃんと意味があったからなんですね。
■葬式が持つ大切な役割
妙純:
もちろん意味がありましたね。私ごとですけど、母が亡くなり、次に祖父母がと次々に亡くなっていった時、たくさんの人がお葬式とお参りに来てくれました。それで悲しさを忘れることができたのです。一段落して人が来なくなると、また悲しみに襲われるのですけど、でもその時はもう、どん底の悲しみからは抜けている。そのどん底の悲しみの時に皆さんが来て下さったので、そこで自然に癒されてくるのです。そればかりか、悲しみの時に自分を支えてくれる人がいる、自分は一人ではないと実感することは、これから先も周囲の人たちから支えられて、いろんな教えを頂いて生きていけるという、信頼が湧いてきます。お葬式はそんな思いが持てるようになる、すごく重要なところがあるのです。学校の勉強では学べない教えを、私はお葬式に参列した親類や縁者の方々から頂きました。それが何より有難かったですね。
トリ・コ-ジ:
朝の連続テレビ小説「花子とアン」で、主人公の腹心の友、蓮さまが、1人息子を戦争で亡くします。そして悲しみのどん底に落ちて、ずっとふさぎこんでしまう。一夜で髪が真っ白になるほどの悲しみです。悲しみは1つ間違うと、慰められない悲しみになってしまいます。ずっと悲しみの中に沈み込んで、そこにうずくまってしまう。そしてちゃんと生きられなくなる。あのドラマはそういう状況を表しています。悲しみには慰められないといけないのに、慰められない悲しみとなってしまう。人にとって大事なことは、前向きに生きていけるように、悲しみから立ち直ることなのに。
妙純:
それを周りの人がさせてくれるのです。それがお葬式の有難いところです。誰も教えてくれないが、周りの人からそのことを自然の形で教えて頂ける。そして再び明るい生き方ができるようになる。悲しみから自分を押し出してくれるのですね。
■気づかない宗教の効用
トリ・コ-ジ:
宗教というとなんとなく古臭いと思うかもしれませんが、でもじつはみんなが気づいていないだけで、あれ、こんな大切な働きがあったんだ、というところがありますね。
妙純:
それは目に見えないものなのでわかりにくいのです。計算できてこれぐらい儲かるとか、そういうものではないので、宗教は役立たないと、そう思われがちになるのでしょう。
トリ・コ-ジ:
では妙純さんの実体験から、宗教がどう自分に役立ったか、教えて頂けますか。たとえば、妙純さんの仏教との出会いというのは?
妙純:
実家が寺で、私にとってお寺はあたり前の生活でした。尼僧タマゴさんも同じです。その兄が一時具合が悪くなって、お寺の後継者問題が浮上しました。姉もおりまして、その姉のことも気掛りでした。いろいろ先の事で思い悩んでいた時、突然12年前に亡くなった父親が、今まで何の音沙汰もなかったのに、ふっと私の夢の中に出てきました。そして「お前がやらないといけないぞ」って言うんです。父が出てきたのは、後にも先にもそれ1回きりでしたけど。それで私が出家して寺を継がないと、という思いになったのです。そのように寺の後継問題があったことで、仏門に入りました。その後後継問題は落ち着いて、今は兄が80歳になりますが、寺を継いでいます。それで私は、今は自分の家で仏の道を歩んでおりますが、この後継問題がきっかけで、得度させて頂くことになりました。
僧侶になった最初の頃は、亡くなった人への弔いが中心の仕事かと思っていました。ですがそんなことはなく、むしろ生きている人との関わりが何より強いと感じます。今生きて生活している人たちと触れ合い、様々な苦しみを乗り越えて楽しく生きて行こう、というお話をするのが、私の主な役目だということが、僧籍に入ってみてすごくわかりました。
トリ・コ-ジ;
なるほど、仏教はお葬式で死んだ人をどう弔うか、ということが仕事だと思いますけれど、しかし実際やってみると、生きている人がいかに良く生きていけるか、ということが課題だったということですね。
妙純:
仏様の教えにもあるように、今この世に生きている人たちがいかに救われるか。私のようなものに何ほどのことが出来るかわかりませんが、少しでも苦悩する人のお側にいて、お話を聞いてさしあげることが、自分の仏門に入った役目かと思っています。
トリ・コ-ジ:
尼僧タマゴさんの場合はいかがですか。1か月の修行を終えられたばかりとのことですが、修行に行く前と行った後で、何か変わったことはありましたか
尼僧タマゴ:
私は割と対人恐怖症で、他の人と関わるのが苦手な方でした。それは自分がお寺の子で、それを知られるのが嫌で、ずっと自分を隠すようにしてきたからかもしれません。それが修行から帰ってきて、何かパンとふっきれた感じがしたのです。今まで初対面の人には壁をつくってきたのですが、もう自分が仏門の世界に入ってしまったので、お寺の子である自分を隠す必要はありません。ふっきれてすっかり軽くなったのは、ありのままの自分を隠さず、出すことが出来るようになったからかもしれません。
トリ・コ-ジ:
修行してみて、自分が変わったということですね。
尼僧タマゴ:
はい、そして自信になりましたね。
トリ・コ-ジ:
仏教もキリスト教も他の宗教も、伝統宗教と呼ばれるものには、じつは、そこに何か自分が変わることができるための、何らかの知恵や教えや力が隠されているのですね。
妙純:
そのとおり、自分を変えられますね。今悩んでいる方が沢山いらっしゃいますけど、1度修行された方が早いんじゃないかと思うこともあります。長い間悩んでいるのだったら、こういう修行をして、自分がこのように変われるのだということを実体験してもらった方が、苦しみの自分を吹っ切るためには、一番早いかもしれません。