ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.114『良心に生きる - チャップリンからのメッセージ』

Dec 10 - 2016

■2016.12.10パンセ通信No.114『良心に生きる - チャップリンからのメッセージ』

皆 様 へ

今回のパンセ通信では、映画『独裁者』のラストでチャップリンが語るメッセージから、私たちが生きて共に社会をつくる時に、どんな過ちを犯し、何を大切に守っていかなければならないのかについて考えていければと思います。チャップリンのメッセージは、第二次世界大戦直前のファシズムが猛威を振るう時代に向けてのものですが、現代においても、そしてこれからの時代においても、私たちが本当に生き易い人生と社会をつくっていくために、傾聴し心すべき価値が含まれているように思われます。それを聞き取っていければと思います。なお次回のパンセの集いは、12月12日の月曜日18時から、渋谷区の本町ホームシアターを会場にして行います。

1.入れ替わったチャーリーとヒンケル
(1)チャーリーとシュルツの脱走
ヒンケルとナパロニが、首脳会談において、自己顕示の張り合いと子供じみた我の張り合いを演じている間に、チャーリーとシュルツは、将校の服を奪って収容所を脱走し、オスタリッチとの国境の村に向かいます。トメニア軍は航空機まで動員して必死で二人の捜索を行いますが、シュルツは下手に逃げ隠れして怪しまれるより、むしろ二人が完全にトメニア軍の将校になりすまして、堂々と国境を越えることを選択し、チャーリーに同調させます。

一方ヒンケルは、会談が終わってナパロニがオスタリッチ国境から軍隊を引き揚げた後に、宣伝相ガビッチと立てた卑怯な計画に従い、トメニア軍を秘かに国境に集結させます。そして自身もカモ猟を装い、国境地帯に赴きます。ところが、狩猟服姿でたまたま一人でいるところを、脱走したチャーリーと間違えられて逮捕されてしまうのです。そう、チャーリーとヒンケルは、顔だちもからだ身体つきもそっくりだったからです。

ところでシュルツとチャーリーが向かった国境の村は、なんとトメニア軍がオスタリッチに進駐するための集結地点に当たっていました。幸か不幸か、今度は将校姿のチャーリーがヒンケルと間違われます。チャーリーとシュルツがいふうどうどう威風堂々と村に向かって歩いてくる姿を目撃した警備の兵士たちは、指揮官にヒンケル総統がやってきたと伝えます。この報告により部隊の全員が総統を出迎えるために召集されます。兵士たちはオスタリッチへの進軍を、総統自ら陣頭指揮を執るためにやってきたと思い込んだのです。そして総統の横に付き従うシュルツの姿にも喜びます。突撃隊にも軍部にも人望のあったシュルツが、許されて復帰したと思ったのです。そして二人を出迎えた司令官が、ヒンケル(チャーリー)総統にオスタリッチ進軍の裁可を仰ぎます。こうなったら後には引けません。チャーリーはシュルツにうまくいざな誘われるままに、オスタリッチ進軍の命令を下します。チャーリーたちを先頭に、カモフラージュして隠されていた戦車や装甲車が一斉にオスタリッチになだれ雪崩れ込んでいきます。

(2)オスタリッチの併合
これを機にトメニアでは国内の不満をそ逸らすために、ユダヤ人への弾圧が強化され、抵抗する者は容赦なく殺されて財産が没収されます。そしてトメニアの支配に服したオスタリッチでも、ユダヤ人への迫害が始まります。オスタリッチに逃げていたハンナやジェケル夫妻が身を寄せていた農場も、進駐してきたトメニアの突撃隊の襲撃を受けます。

トメニア軍のオスタリッチ進駐は、オスタリッチ市民の熱狂的な歓迎によって迎えられました。実際の歴史でも、1938年3月のナチス・ドイツによるオーストリア進駐と併合は、オーストリア国民によって熱狂的に迎えられます。そしてオーストリアの名前も改称され、ドイツ国内の「オストマルク州」とされました。もともとオーストリアの中には、かつてヨーロッパ中部を支配したオーストリア帝国(ハプスブルク王家、神聖ローマ帝国の後継)再来へのしょうけい憧憬があったものですから、全ドイツ語圏の国家を一堂に統一する大ドイツ主義は、受け入れやすい風土があったのです。それでもこの併合の直前までは、ナチズムに反対する人々の勢力も強く、当時の政権が実施しようとした国民投票では、ドイツとの合併が否決され、自主独立の選択が多数を占める情勢にありました。民主派支持の人々と、ナチズム支持の人々の数はきっこう拮抗していたのです。その国民投票がヒットラーの圧力により中止され、ナチス・ドイツ軍のオーストリア進駐を許した後の4月に実施された国民投票では、97%の合併賛成票を得るに至ったのです。武力による強権と恐怖を背景に、人々の熱狂をこぶ鼓舞するファシズムが政権をしょうあく掌握する時、いかなる事態がもたされるかは、このオーストリアの事例からも、歴史の教訓として学ぶべきことでしょう。

(3)大群衆を前に
さてトメニア軍の進駐を熱狂して迎え入れたオスタリッチの国民は、何十万人もの群衆が集い、ヒンケル総統がオスタリッチ国民とトメニアの国民に、そしてまた全世界へと向けて行う演説を待ち受けます。この緊迫した場面においても、ヒンケルと入れ替わったチャーリーが座ろうとする椅子が壊れて、しりもち尻餅をつき、また壊れた椅子を取り換えようと何人もがもたもたする場面を、チャップリンは挿入して笑わせます。さすがに喜劇王です。同時にチャーリーが恐怖の独裁者ではなく、親しみある民衆の一員であることを、この興奮高まる場面でのコントにより暗示します。

ようやくヒンケル(チャーリー)総統が着座したところで、まずトメニア内相兼宣伝相のガビッチが、腕を組んだままの威圧的なスタイルで、大群衆に向けて次のような演説を行います。
「勝利はそれに値する者(ヒンケルとファシズム)に来る。本日民主主義と自由は、大衆をあざむ欺くものに過ぎないことが明らかとなった。民主主義によっては、国は発展しない。むしろ発展を妨げる。諸君は、今後は国家に服従せねばならない。また、ユダヤ人は市民権をはくだつ剥奪される。彼らは国家の敵であり、彼らを憎むことは、我々の義務である。今後我々はこの国を併合する。オスタリッチ国民は我が総統に従わねばならぬ。トメニア総統、オスタリッチの征服者、未来の世界君主に!」

そしてこのガビッチの演説をつゆはら露払いとして、いよいよ群衆が待ちかねるヒンケル総統の演説が始まります。しかしヒンケルは、もちろん入れ替わった床屋のユダヤ人チャーリーです。ヒンケルに成りすまして、チャーリーとシュルツが助かるためには、何でも良いからチャーリーが民衆の前で話す以外に“望み”はありません。かたわ傍らに座るシュルツにこうさと諭されたチャーリーは、仕方なく演説台に上り、“望み”を語り始めるのです。

2.チャップリンのメッセージ
(1)不自然でもチャーリーが演説する理由
こうしてシュルツにむちゃぶ無茶振りされたチャーリーを通して、映画史に残る6分間に及ぶチャップリンの名演説が始まります。しかしこの演説には、演出においても内容においても批判があります。まずさして教養の無い床屋のチャーリーが(しかも20年間も記憶喪失で病院に入院していた人物です)、人間性の喪失へと暴走を始めるオスタリッチの大群衆を前に、またトメニアの人々と全世界に向けて、人間的な良心の呼び覚ましを訴えて、人々の心を奮い立たせるメッセージなど行うことが出来るのかという疑問です。実際に映画を観ている私たちも、この部分のストーリー展開に関しては現実離れした感があり、喜劇だから仕方が無いのかなというという気持ちも起こってきます。

確かにそのとおりでしょう。しかし忘れてはいけないのは、映画はあくまでもドラマであるということです。ドラマというのは、現実の中に起こった出来事や起こり得る出来事の中から、人間存在の本質を垣間見せるような事象を取り出して、それを強調して鑑賞者に印象付けるものです。そしてそれはまた作者のメッセージを、感性的にも論理的にも伝えるフィクションであるということです。映画『独裁者』は、この解説文の最初の部分でも述べたように、ファシズムを人間の本来自然な生活感覚から観て、如何に愚かでこっけい滑稽なものであるかをあば暴き出すことを目的として、チャップリンが製作したものです。そして人々が、再び人間本来の信頼と良心に向けて、歩み出すことを願ったものです。そのためにチャップリンは、この映画において戦争の愚かさを茶化し、ファシズムの恐怖に支配された社会のあ在りよう様を茶化し、そしてヒットラーとムッソリーニをイメージさせる独裁者の幼児性を茶化して、もはや人々がファシズムに対して、いかなる幻想も抱けなくなるように演出をほどこ施していったのです。そのドラマの帰結として、ごく普通の庶民が、ごく自然な人間の感覚をもって、私たちに訴えかけて心を共鳴させるシナリオがどうしても必要だったのです。

そしてこのシナリオは、多くの映画の専門家からの批判をよそに、観客からの圧倒的な支持を受け、最後の場面でのチャップリンの訴えかけは、多くの人々の心を捉えて戦争のきすう帰趨を左右するほどのものにまでなっていったのです。それではごく普通の庶民チャーリーの演説の内容とは、いったいどういうものだったのでしょうか。次に、このチャーリーにふん扮したチャップリンの演説の内容を、具体的に見ていきたいと思います。

(2)チャーリーの演説
恐る恐るだんじょう壇上に上がり、ナチス式敬礼で待ち受けるガビッチに丁寧にお辞儀をしたチャーリーは、巨大な広場を埋め尽くす大群衆を前に、次のような言葉で演説を始めます。
「申し訳ないが、私は君主などになりたくはない。そんなことは私の役割ではない。私は誰も、支配も征服もしたくはない。出来ることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も」
ここでチャップリンは、人間の中にある2つの求めと価値観について語っています。1つは支配するのではなく、助け合いたいという求めであり、もう1つは他者よりも自分が優位に立って従属させ、出来れば皇帝になりたいという求めです。人間は誰でもこの2つの背反する求めを持っているのですが、自分は、
助け合う価値観を優先させたいというのです。

そしてこう続けます。
「私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなのだ。私たちは皆他人の悲惨ではなく、他の人の幸福と寄り添って生きたいのだ。憎しみ合ったり見下しあったりはしたくないのだ。」
つまり互いに助け合いたいという求めは、自分だけが抱く価値観ではなく、人間にとって普遍的なもので、こちらの方が人間らしいものなのだとチャップリンは言うのです。随分と楽観的で理想主義にも聞こえるのですが、チャップリンが言いたいのは、普通の人間の自然な感覚に基づけば、憎しみ合ったり軽蔑しあったりするよりも、お互いの幸福のために助けあって生きる方が心地良く、楽しく生きられると言いたいのです。

その上でチャップリンは、私たちが生きづら辛くなってしまった原因を探ります。
「この世界には、全人類が豊かに暮らせるだけの余地があり、大地は皆にその恵み与えてくれる。人生は自由で美しいものであるはずなのに、私たちはその道を見失ってしまった。貪欲が人の心をむしば蝕み、憎しみを生んで世界を隔て、悲惨と流血へと私たちを突き進ませていったのだ。」
もし私たちが互いに信頼しあい、助け合って生きるならば、この世界は十分に豊かで、私たちは自由で美しく人生を送れるはずだとチャップリンは言うのです。しかしそれを出来なくしてしまったのが、私たちの心の底に巣くう、貪欲なのだというのです。貪欲は自分だけの利益をむさぼ貪ろうとする心で、これが人を隔て、憎しみを生み、流血の惨事をもたらすのだと説き明かすのです。

さらにチャップリンは、私たちを非人間的にするもう1つの原因について説明します。
「私たちはスピードを優先させたが、自らを孤立させてしまった。豊かさを与える機械が、貧困をもたらし、自分たちの身勝手さに役立つだけの知識を増やし、また無情で思いやりのない知恵を生み出していった。私たちは多くのことを考えるが、人間にとって大切なことを感じようとしない。機械よりも人間性の方が必要で、知恵よりも優しさや思いやりが必要なのだ。それがなければ世の中は横暴に満ち、すべては失われてしまうだろう。」
人類は確かに素晴らしい知恵と知識を増やしました。しかしその知恵と知識を、今私たちは、ただ自分たちの貪欲に奉仕させるためにだけ用いようとしています。本来機械を生み出し、私たちを便利に、そして豊かにするはずの知恵と知識が、そのような用い方をすれば、逆に私たちを孤独にし、お互い同士の横暴な戦いを生み、格差を拡大させて多数の貧困を生み出してしまうのです。チャップリンは、人類の宝であるはずの知恵と知識の、そうした身勝手な用い方に対する警鐘を鳴らしているのです。

そして知恵と知識の本来の用い方がもたらすはずの、夢と希望について語るのです。
「飛行機やラジオは、私たちの距離を縮め、より親密にするものだ。こうした発明の本質は、人間の良心に呼びかけ、世界が変わることのない友愛で、一つに結ばれることを可能とするものだ。今まさに私の声は、世界中の何百万人もの人々のもとに届いている。希望を失った人々や幼い子供たちに、そして罪のない人々を苦しめ、投獄する権力の犠牲となっている人々に届いている。そして私は、その人たちに告げる。“絶望してはいけない”と。」
人間の知恵と知識は、人々を苦しめる道具としても用いられますが、人々を結び付け、互いに幸せにするためにも用いることが出来るのです。いや、知恵や知識は本来そのために発達してきたものであり、そうした用い方のほうが自然で無理がないのです。だから私たちは希望を失ってはならないのだとチャップリンは力強く宣言して、私たちを勇気づけるのです。そして人間同士の信頼と良心が、必ず勝利する日が来ると訴えるのです。
「今私たちをおお覆う悲惨は、一時の強欲にまど惑わされたものに過ぎず、人類の進歩を恐れる者たちのあえ喘ぎによるものでしかない。やがて憎しみは消え去り、独裁者は滅び、人々から奪い取られた権力が、人々の手に戻る時がやってくる。人間は死ぬ定めにあっても、自由は決して滅びることがないのだ。」

その後でチャップリンは、今度は兵士たちに告げます。すでにヨーロッパとアジア(日中戦争)で戦争が始まっている状況において、戦いは避けられないからです。その時、これから銃を取らざるを得なくアメリカの兵士をも含めて、兵士たちがいったい何のために戦うのかは、人類の未来のきすう帰趨を制する重要事になってくるからです。
「兵士の皆さん、人非人たちに身を託してはいけない。彼らはあなたがたをさげす蔑み、奴隷にし、人生をあやつ操り、そして何をし、何を考え、どう感じるかを指図する。またあなたがたをしつけ、決まった食べ物しか与えず、家畜として、あるいは捨て駒として扱うのだ。そんな人間性に反する者たちのために、身をささ献げてはならない。彼らは機械の心を持って、機械的な考え方しか出来ない、機械に支配された人間なのだ。あなたがたは機械ではない、家畜でもない、人間なのだ。心に人類愛を持った人間なのだ。憎んではいけない。ただ愛を知らないものだけが憎むのだ。愛を知らず、自然な人間性に反する者だけが憎しみを抱くのだ。」
チャップリンは、ファシズムを煽動する者たちの本性が、獣性や機械のような非人間的なものであり、その独裁者のために戦うことは、人間としてのいのちの滅びでしか無いことを、兵士たちに、そして私たちに訴えるのです。そして本来の自然な人間性に立ち返ることを求めるのです。

それでは私たちは、いったい何のために戦うのでしょうか。チャップリンは次のように語って、兵士たちを、そしてこのスピーチを聞くすべての人たちを鼓舞していくのです。
「兵士の皆さん、奴隷になるために戦ってはならない。自由のために戦うのだ。『ルカによる福音書』の17章に「神の国は人間の中にある」と書かれているではないか。一人の人間だけで実現するものではなく、一部の人間の間だけで実現するものでもなく、すべての人間の中において初めて実現するものなのだ。そう、人と人の間において実現するものなのだ。皆さん、人間には力がある。機械を作って役立てる力がある。幸福を生み、人生を自由で美しいものにし、誰もが人生の素晴らしい冒険に踏み出せるようになる力を持っている。それ故に、民主主義のために、その力を用いようではないか。そしてそのために一つになろうではないか。新しい世界の実現のために戦おう。誰もが働く機会を得て、将来に希望を抱き、とし歳を取っても安心に暮らせる、良識のある世界の実現のために!」
神の国は人と人の間にある。誰か一人でも不幸にすることで成り立つ世界は、神の国ではない。人間は、人間同士の関わり方次第で、奴隷にもなれば、皆が幸せにもなれる。実は私たちは、皆が幸せになれる能力を持っているのだ。そのためにこそ力を用いて戦い、今こそ新しい世界を生み出そう、とチャップリンは私たちに語り掛けるのです。

しかし注意も必要です。ファシストや権力者たちは、同じような理想を掲げて、私たちをあざむ欺いてせんどう煽動するからです。そのごまか誤魔化しを見抜いて、本当に自由と民主主義を実現するために、団結して戦おうと呼びかけて、チャップリンは以下のように世界の人々に向けたメッセージを締め括るのです。
「野獣の本性を持つ独裁者たちも、同じような約束をして権力を伸ばしてきた。しかし彼らの約束は本気ではない。彼らは約束を果たしたことが無く、これからも決して果たさないだろう。独裁者たちは、自らを自由にするだろうが、人々を奴隷にする。さあ、今こそ約束を本当に実現するために戦おう。世界を自由にし、国境を隔てるものを無くし、貪欲を、憎しみと不寛容と共に打ち砕くために戦おう。理性ある世界のために、科学と進歩が、すべて人々を幸福へと導く世界のために戦おう。兵士の皆さん、民主主義の名のもとに団結しよう!」
そして演説が終わった後に、広場を埋め尽くした群衆からは、万雷の大歓声が沸き起こるのです。

(3)ハンナへの呼び掛け
始めはたどたどしく始まったチャップリンの演説も、次第に熱を帯び力強いものとなっていきます。しかしそれはヒットラーのものとは根本的に異なります。ヒットラーの演説は、人々を情感的に洗脳するために、計算しつくされたテクニックを駆使します。その内容は、敵を仕立て上げ、それを徹底的に悪者に見立ててばとう罵倒し、聴衆と自分たちを正義とする手法です。単純なワンフレーズを繰り返し、無力な庶民が国家と一体となることで、偉大な力の主体となるかのごとく幻想を抱かせてこうよう高揚させます。それに対してチャップリンのスピーチは、テクニックなどではなく、人間の本心からの良心の叫びとでも言うものでしょう。人間にとって本当に大切なものを守る社会、 誰もがいのちを生かし合い、自由を認めあって生きていく社会がつくれるのだという、人間の本心からの求めに訴えることによって、人々の心の底からの共感の輪を力強く広げていくのです。

チャップリンの演説とヒットラーの演説の相違は、それだけではありません。群衆や社会の全体に対して訴えるだけでなく、チャップリンは、か弱い、心から愛するたった一人の人間であるハンナに対しても語りかけるのです。名も無き一人一人の人間、つまり私たちのささやかな人生にも寄り添って、言葉を投げかけてくれるのです。
「ハンナ、聞こえるかい。どこに居ようとも、元気を無くしちゃいけない。雲は晴れ、必ずひ陽はまた降り注ぐのだから。暗闇は光にか換わり、新しい世界がやってくる。人間が、憎悪と貪欲と暴力を乗り越えて実現する世界がやってくる。だからハンナ、元気をお出し。人間のいのちが翼を得て、ついに羽ばたく時がやってきたのだ。虹の中に、希望輝く未来に向かって飛び立つ時が。君も、僕も、そしてすべての人々が、輝かしい未来に向かって歩み出せる時がやってきたのだ。だからハンナ、顔を上げて、未来を見つめて!」

このチャーリー(チャップリン)の演説が、群衆に向けてのものから、ハンナ一人に語り掛けへと切り替わる場面において、再びワーグナーの歌劇ローエングリンの第1幕前奏曲が流れ始めます。独裁者ヒンケルが一人執務室に閉じこもり、じこ自己とうすい陶酔にふけ耽って地球儀の風船とたわむ戯れていた場面で流れていた曲です。反ユダヤ主義者であるワーグナーは、ヒットラーに崇拝され、またローエングリンからのこの曲は、リリシズムを誘発するが故に、ヒンケルが一人世界征服の妄想に耽る場面で用いられていました。しかしその一方で、ワーグナーはその思想性とは別にまぎ紛れも無い芸術家で、現実の中からいのちの真実を鮮やかに切り取って見せることの出来る人物でした。チャップリンは、決してこのワーグナーの芸術性を見落としませんでした。ローエングリンの第1幕前奏曲は、実は人間と世界の神話的再生を象徴する曲でもあるのです。すでにこの曲は、チャーリーが演説のために講壇に上る時から始まっていました。その時点から世界の再生は始まっていたのです。しかし演説が始まると曲は途切れ、一切の背景音は止められます。チャップリンが、観客に演説の内容に集中してもらいたいと考えたからでしょう。そして大群衆に向けてのメッセージが終わり、ただハンナにだけ語り掛ける場面において、再びこの音楽が始まります。世界の再生は、政治やリーダーが変わることによってではなく、そこに生きる一人一人の人間の心といのちのありよう様が変わることによって初めて、本当にもたらされることを暗示したかったのでしょう。

そして映画は、苦悩の中に打ちひしがれて大地に伏していたハンナとジェケル一家の人々が、チャーリーの呼びかけを耳にして、再び立ち上がって空を見上げるところで終わっていくのです。

(4)今も続くチャップリンの戦い
当初チャップリンは、この映画のラストについて次のような脚本を考えていました。“世界各地での戦争は終わり、日本軍は中国に爆弾の代わりにおもちゃ玩具を落とし、ドイツ兵とユダヤ人が手を取ってダンスし、世界に平和が訪れる。”しかしナチス・ドイツによってフランスが陥落し、ヨーロッパ全土がファシズムの手中に陥る現実の中で、このような甘い幻想は許されませんでした。チャップリンはチャーリーの演説によって、世界に呼び掛ける内容に変更せざるを得なかったのです。

確かにこの演説には、無理があります。無学のチャーリーが、大群衆を前にまとまった内容の演説など出来ようはずがなく、まして愛するハンナに語り掛けるなど無茶でしょう。批評家からは散々に酷評されました。また演説の内容についても、右派からは共産主義的と攻撃され、左派からはなま生ぬる温いセンチメンタリズムと批判されたのです。加えて、喜劇とはいえ反ファシズムを内容とするこの映画は、すでにナチスの手に落ちたヨーロッパや独裁体制のソ連、そしてアジアの日本の支配地域(日本で上映されたのは戦後の1960年になってからです)での上映が見込めず、アメリカの映画資本はチャップリンを見捨てて、この映画の製作や配給から手を引きました。さらにアメリカ内部の親ドイツ勢力やファシズム支持勢力からは、この映画の製作に激烈な妨害キャンペーンが施され、チャップリンの下には多数の脅迫状が届くまでになったのです。

しかしチャップリンは屈しませんでした。そしてこの映画を完成させたのです。チャップリンの中に宿っていた普遍的な人間の良心が、その精神を不屈のものにさせたのでしょう。そして社会の指導層からのあらゆる批判に反して、大衆はこの映画を支持したのです。映画が封切られて5ヶ月後の1941年2月末の時点で、なんと世界中で3,000万人もの人々がこの映画を鑑賞し、ラストのチャーリーの演説に感動して喝采の拍手を送ったのです。

さらにこの映画を観た人々は、以降ファシズムの呪縛から解かれて、そのこっけい滑稽さ笑い、その愚かさを心底実感するようになったのです。実はアメリカと世界は、チャップリンのこの映画によって、武力でファシズムと戦う以前に、すでに人間の良心の側面においてファシズムに勝利していたのです。

しかし人間が貪欲や憎しみや不寛容を越えて、互いのいのちを生かし合う自由に生きられるようになるチャップリンの戦いは、これで終わったわけではありませんでした。チャップリンはこの映画と「モダンタイムズ」、そして戦後1947年に製作された戦争経済批判の「殺人狂時代」によって、そのリベラリズムが共産主義を容認するものと非難され、赤狩り旋風の標的となったのです。そして1952年には、ついにアメリカを追放されるに至ってしまうのです。容共というよりも、人間の生活やいのちを犠牲にしてでも儲けようとする貪欲な資本主義の推進者たちが、チャップリンの映画が与える庶民をかくせい覚醒させる影響に、どうにも許容出来ないものを感じて取った措置だったのでしょう。

チャップリンのこの戦いは、今も続いています。映画「独裁者」のラストのチャップリンの演説は、現代に生きる私たちへの呼びかけでもあるのです。人間が本当に、相互にいのちを育み合って生きていける世界が、現在実現しているのでしょうか。そしてチャップリンのメッセージは、いつかこの理想が実現する時まで止むことなく続き、人間の良心に呼び掛けていくのです。

次回のパンセの集いは、12月12日月曜の18時から、渋谷区本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。