ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.113『映画「独裁者」-笑いの本質とチャップリンの批判精神3/3』

Dec 03 - 2016

■2016.12.3パンセ通信No.113『映画「独裁者」-笑いの本質とチャップリンの批判精神3/3』

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今回もチャップリンの映画「独裁者」の内容を追っていきます。チャップリンは、ヒットラーとムッソリーニをも模したヒンケルとナパロニの姿を喜劇的に描くことによって、徹底的にファシズムの独裁者の幼児的本性を暴いて見せます。こうして彼らの権威と神話性削ぎ落とすことによって、もはや愚かさや滑稽さが先に立ってしか、独裁者の派手な扇動的パフォーマンスを見られないようにしていくのです。その内容を具体的に見ていくと共に、笑いの構造と批判力についても考えていってみたいと思います。次回のパンセも集いは、12月5日月曜日の18時から開催します。場所は渋谷区本町ホームシアターです。

1.ヒンケルの幼児的本性
(1)機械的時間と使い捨てのいのち
場面は転換して、ヒンケル総統の官邸での執務状況が描かれます。トメニア国の全権力を掌握し、強力な軍事力で世界最強の帝国を築いていこうとするヒンケルの1日は多忙で、分刻み、秒刻みで業務を行っていきます。手紙を書き、封筒を糊付けするために舌を出す役割だけの衛兵にその手紙を託し、自分の肖像画と彫像のモデルになり、ピアノを弾き、美人秘書を誘惑します。その間に戦争相ヘリング元帥(ナチスの空軍総司令官兼航空相のヘルマン・ゲーリング元帥がモデル)が、新発明の情報をもたらし、その実験に立ち会います。1つは絹のように軽くて薄い防弾服です。発明者の教授が試着して、ヒンケルがピストルで撃つのですが、弾は難なく貫通し、教授は息絶えます。次は帽子型のコンパクトパラシュートです。これも発明者の教授が自ら実験台となり、ハイル・ヒンケルを叫びながら官邸の塔から飛び降りて、いのち生命は助からなかったものと思われます。

ここで描かれているのは、最高の富と権力を手にした人物の日常と時間が、モダンタイムスの作業員と同じスケジュールに追われる生活を送っている姿です。肖像画も彫刻も、ピアノ演奏や秘書の誘惑のようなプライベートなひと時までもが、くつろぎを与えていのちを養う豊かなものとはならずに、ただ慌ただしくこなされていきます。個人の精神の豊かさの領域にまで作業的時間が押し寄せてきて、人間を機械化していくのです。それがファシズムの世界の特徴です。そしてまた一国の最高の頭脳である教授たちまでが、ただ独裁者ヒンケルの歓心を買うためにだけ知恵と知識を用いようとします。その時、いのちは目的でなく、ただ使い捨ての道具としてしか扱われれないことが、ここでは暗示されています。

(2)戦費調達と一時的なユダヤ人への迫害の緩和
しかしながらこのように、トップのみならず一般国民に至るまでも、精神の自由が奪われ、日常生活が統制されてくると、人々の不満が募ります。その不満の矛先を逸らすために、ヒンケルはオスタリッチ(オーストリアをイメージ)進駐を企てます。しかしそれには戦費が必用で、その資金をユダヤ系資本から調達しようとするのです。そのためにヒンケルは、一時的にユダヤ人への抑圧を緩和する措置を講じます。ファシズム体制ではすべては独裁者の一存で決まり、配下のすべての者が無条件にその決定に従うことになりますから、すぐさまこの措置は実施されます。

方針転換により、一転してユダヤ人への迫害は弱まり、ユダヤ人街に平穏な日常が戻ってきます。そして突撃隊員たちのユダヤ人に対するふるまいも、親切で人間らしいものに変化していきました。そうした中で、床屋のチャーリーとハンナが恋を育んでいきます。ハンナはチャーリー同じく、面倒見の良い大家のジェケルから部屋を借りる隣人で、身寄りが無く、洗濯ものの配達や掃除などでかろうじて生計を立てている若い娘です。ハンナを演じるのは当時のチャップリンの妻であるポーレッド・ゴダードですが、このハンという名前は、チャップリンが敬愛した母親の名前でもあります。ユダヤ人街の人々は、貧しく抑圧されていますが、ささやかな夢を育んで互いに助け合い、チャーリーとハンナの愛を温かく応援します。

ところで床屋を営むチャーリーは、売上のお金をレジに入れずに自分の胸ポケットにしまい込みます。レジの引き出しは、その都度一応開くのにも関わらずそうします。現金の代わりにレジの中には、理容道具や生活小物が入っています。このようなさりげない部分にも、チャップリンの現代のマネー文明に対する批判を見て取ることが出来ます。

(3)短絡思考と妄想の独裁者
一方総統官邸のヒンケルは、相変わらず寸暇を惜しんだ日常を送っています。それは生活のすべてを国家に捧げた偉大な指導者の姿なのでしょうけれども、自分を振り返るいとま暇がないために、目先のことで頭が一杯になって常にいらだ苛立ち、ちょっとしたことでかんしゃく癇癪を起こしてしまいます。チャップリンはその様子をじつにこっけい滑稽に描いて見せてくれます。そうまで忙しくしてヒンケルの求めるものは、人間を道具として用いて生産を拡大し、それに逆らう者は容赦なく処罰し、また処刑することです。ヒンケル自身が支配し、すべてをあやつ操っているようでいて、じつは彼自身が国力の増大という目的のための奴隷となっているようにも見えます。

そんな・・偉大・な国家の指導者の思考回路からもたらされる判断は、短絡的で、恐ろしく非合理なものです。反抗的で常にトラブルを起こすのは黒髪の人間であるとみなし、それ故に黒髪を滅ぼして、きんぱつ金髪へきがん碧眼の純粋なアーリア人種の国トメニアをつくって、世界を支配せねばと結論づけるのです。そしてその世界帝国に、唯一の黒髪であるヒンケルが独裁者として君臨する。

自分が黒髪である劣等感に対する、異常なこじつけによる正当化です。しかしこうしたしりめつれつ支離滅裂の論理が、実際にナチス・ドイツにおいて、正当なものとしてまかり通っていたのです。もちろんそんな論理を、ファシズムの圧力の及ばぬところから私たちが映画の観客として客観的に見る時に、それがどれほどこっけい滑稽に見えてきてしまうことかを、チャップリンはよくわか解らせてくれます。

チャップリンは、さらに独裁者の愚かな本性を次々とあば暴いていきます。側近の内相兼宣伝相ガビッチが、ヒンケルに対して、ユダヤ人と黒髪を抹殺して純粋なアーリア人の世界をつくり、自らはその世界の神として敬われるようになることを進言した時のことです。恐らく本心を突かれたからでしょう、ヒンケルはおのの慄いてガビッチに「神と言うな、自分が怖くなる」とその言葉を控えさせます。しかしそれを機に、ヒンケルの自己陶酔が始まってしまいます。この場面は、映画史に残るコメディの名シーンです。高揚する心を抑えきれなくなったヒンケルは、小躍りしながらカーテンによじ登ってぶら下がったかと思うと、次は風船で造られた地球儀を、バレーダンサーのようにしなやかに舞って、体のあちこちで弾いて空中に打ち上げます。こうしてヒンケルは、世界を自分の手の中で様々にもてあそ弄ぶ幼児的妄想にふけ耽るのです。そう、独裁者の頭の中にあるのは、一人一人の人間の夢や希望をつないで現実的に多くの人のいのちを生かすビジョンなどではなくて、ただ自分が世界を支配したいという妄想にしか過ぎないのです。このヒンケルが地球儀の風船を優雅にもてあそ弄ぶシーンの背景に流れるのが、ワーグナーの歌劇ローエングリン第1幕の前奏曲です。ナルチシズムのじょじょうてき抒情的とうすい陶酔を繊細に表現するには、まさにうってつけの音楽で、ワーグナーはまたヒットラーが深く傾倒した音楽家でもあるのです。

こうしてヒンケルが、妄想のとうすい陶酔のままに地球儀の風船をもてあそ弄ぶうちに、やがて風船は割れて露と消えてしまいます。チャップリンは、ヒンケルを通じてヒットラーの幼児的な短絡思考と、自己陶酔の妄想意識を明らかにし、私たちに、こんなやつに国家の命運を委ねて大丈夫なのかという気持ちを呼び起こしてくれるのです。

2.チャーリーとシュルツの逮捕
(1)シュルツの反抗と逮捕
ヒンケルがワーグナーに合わせてナルチシズムの妄想にふけ耽っている時に、ユダヤ人街では床屋のチャーリーが、ブラームスのハンガリー舞曲にかみわざ神技のごとくピッタリとあわせて、お客にひげそ髭剃り、ちょうはつ調髪とサービスを施していきます。ハンガリー舞曲はジプシー音楽をもと基にして創られた民族舞曲で、現実的な庶民の生活のいきづか息遣いが感じられ、ヒンケルのローエングリンと対照的です。こうしたバックグラウンドミュージックの用い方にも、チャップリンの音楽的才能の高さがかいま垣間見られます。

しかしそんなユダヤ人たちの平和も、長くは続きませんでした。ヒンケルがオスタリッチ進駐のために、戦費の借入を起こそうとしていたユダヤ系金融資本エブスタイン(ロスチャイルドがモデル?)から、依頼を拒絶されたのです。ヒンケルはユダヤ人の弾圧を再開するために、信頼する突撃隊隊長のシュルツを呼びますが、シュルツは人道にもとるヒンケルの命令に服しません。怒ったヒンケルは、シュルツを逮捕し収容所に送ることを命じます。

(2)迫害の再開
そんな暗転する政情を知るよし由もないチャーリーとハンナは、隣人たちに祝福されながら初めてのデートに出かけます。この時この映画の中で一度だけ、チャーリーを演じるチャップリンは、トレードマークの放浪紳士のスタイルで正装して登場します。しかしそんな幸せなデートの最中に、二人は再びユダヤ人を襲撃するように命じる、ヒンケルの怒号のような演説をラジオから聞くのです。

突撃隊が、チャーリーたちの住居も襲撃します。一度はシュルツ隊長の命令があるので引き上げますが、シュルツが逮捕されたと知って、シュルツを慕う隊員たちがチャーリーのせいだと逆上し、チャーリーを血祭に上げようと押し寄せてきます。チャーリーとハンナは、危うく難を逃れて屋根の上に逃げるのですが、チャーリーの床屋は、爆破されて炎上してしまいます。

(3)ヒンケル暗殺計画とチャーリーの逮捕
夜になって二人が、突撃隊が引き上げたつか束の間の静けさの中で、夜空の星々の美しさに安らぎを覚えていた時に(夜空の星々にはヒンケルの支配は及びません)、大家のジェケルがもう安全だから降りてくるようにと伝えにやってきます。あわせて収容所を脱走したシュルツ隊長をかくま匿っていることを知らせ、夜中に会議を開くことを話します。

会議というのは、総統官邸を爆破してヒンケルを暗殺しようとするもので、シュルツが計画し、そのために自爆テロを敢行する者を人選するために開かれました。実際にヒットラーの暗殺は、何度も企てられ、未遂に終わりましたが実行されています。さて人選は、会議に出席した隣人たちに出されるケーキの中に、銀貨が入っていた者が暗殺の役割をにな担うものとして選ばれ、大義のためにいのち命を捧げることになります。しかし幾ら大義を掲げても、誰でも自分のいのち命は惜しいものです。皆が何とか銀貨を受け取らないようにと、せこいやりとりが繰り広げられます。

結局全員のケーキの中に銀貨が入っていたというのが落ちなのですが、これはハンナの機転によってなされたことでした。どれほどの大義があったとしても、弾圧者に対して同じように武力やテロをもってこた応えるのでは問題は解決せず、本当の意味での正義にはならないのです。出席者の全員は、ハンナによってそのことに気づかされ、私たちもチャップリンからその愚かさを教えられます。

それからほどなく、シュルツがユダヤ人街に潜んでいることが知れ、結局チャーリーとシュルツは、突撃隊によって捕らえられ、収容所へと送られてしまいます。ジェケル夫妻とハンナは、オスタリッチに逃れ、ジェケル氏の弟が営む農場で、チャーリーの身を案じながら、しばしの平安なひと時を過ごします。

ところでこの映画が製作された時点での情報に基づいて描かれた強制収容所の姿は、けっして過酷極まるものではありません。ハンナとチャーリーの手紙のやり取りも許されていました。しかし1941年以降に始まる、ホロコーストの舞台となる絶滅収容所での地獄絵図をチャップリンが知ったなら、いくらヒットラー批判といえど雖も、喜劇としてのこの映画を、彼は製作することが出来なかったと思われます。


3.ヒンケルとナパロニ
(1)オスタリッチ進駐とナパロニの妨害
その後紆余曲折はあったのでしょうけれど、腹心の戦争相ヘリング元帥(ビリー・ギルバート)の尽力で、ヒンケルは何とかオスタリッチ進駐にこぎつけます。実際の歴史でも、1938年にナチス・ドイツがオーストリアに進駐し、同国を併合しています。この記念すべき進駐を祝うために集まったヒンケル独裁政権の高官たちが、乾杯の後に一斉にグラスを投げ捨てて床にたた叩き割ります。グラスを割るのは、不退転の決意を示す行為です(グラスを割ると、二度と元には戻りません)。またこの席で、功績のあったヘリング元帥に勲章が授与されます。ヘリングの胸はすでに勲章で一杯で、新たに付けるところを見つけるのに一苦労するほどです。ところがそこに一本の電話が入り、バクテリア国の独裁者ベンツィーノ・ナバロニ(これはイタリアとベニート・ムッソリーニをもじっています。)の軍隊が、オスタリッチ国境に集結しているとの情報がもたらされます*。このまま進駐すれば、トメニア軍はバクテリアの軍隊と衝突して、戦争に発展することを覚悟しなければなりません。
* 実際に1934年に、イタリアとの結びつきの強いオーストリアのドルフス首相がオーストリア・ナチスに殺害された時、ムッソリーニは国境に軍隊を派遣し、ナチス・ドイツの介入をけんせい牽制しています。

怒ったヒンケルは、勲章を授与したばかりのヘリング元帥の不手際をなじって当たり散らし、今度はヘリングの胸元一杯に飾られた勲章を、1つ1つは剝ぎ取って投げ捨てていきます。権力のかいてい階梯を上り詰めようとする者たちが、その証として求める勲章も、こうして見ると子供がブリキのバッチを欲しがって集めるのと大して変わりはありません。チャップリンは勲章から“栄誉”や“権力”という象徴性をは剥ぎ取って私たちに見せることよって、その内実が、単に偉い人にほ褒められたいとか、他の人よりも偉いというしるし印を得たいとかいった、幼児的な承認欲求にもと基づくものにすぎないことをばくろ暴露していきます。

(2)ナパロニからの電話
先にヒットラーにも模したヒンケルの幼児的短絡思考についてお話しましたが、ここでもヒステリーを起こしたヒンケルは、後先を考えることもなく、バクテリアに対して短絡的に宣戦を布告しようとします。その時、再び電話が入ってきます。今度はオスタリッチの支配をめぐって軍隊が対峙する、ナパロニ本人からのものでした。トップ同士の直接協議によって、事態を打開することを求めてきたのです。ところが部下を相手に宣戦布告だと息巻いていたヒンケルが、ナパロニからの電話だと聞いてびびります。おじけ怖気づいて自分では電話に出ようとせず、ガビッチ宣伝相に電話応対をまか任せます。そう、世界には覇を唱えんとするヒンケルは、一個人としては極めて気が小さいのです。結局ナパロニがトメニアにやってきて、ヒンケルと直接協議を行うことで話がまとまります。ヒンケルはナポロニにトメニアの軍事力を見せつけて、いかく威嚇してオスタリッチから手を引かせようともくろ目論みます。

(3)自己顕示欲を競う二人の独裁者
いよいよバクテリアの独裁者ナパロニが、夫人を同伴してトメニアにやってきます。ナパロニはじこ自己けんじ顕示よく欲のかたまり塊のような男で、それはヒンケルにも共通しています。ヒンケルは風船の地球儀をもてあそ弄んだ時に紹介したように、自己とうすい陶酔(ナルシシズム)のもうそう妄想に生きる人物です。他者を配慮することなく、自分のことにしか関心の向かないナルシストというのは、他者と共感する関係性の中に自分の存在感を見出せないものですから、単に自分の中だけで、自分は素晴らしい存在だと妄想を抱く他ありません。その妄想を人に認めさせるためには、じこ自己けんじ顕示するしかないのです。しかし現実の自分は、特に優れているわけでもないものですから、妄想の自分とのギャップを感じて劣等感も抱きます。つまりじこ自己けんじ顕示とは、実は自分の中に隠し持つ劣等感の裏返しでしかないのです。

いよいよナパロニ(ジャック・オーキー)が、トメニアのこくひん国賓として特別列車を仕立ててやってきます。ナパロニは列車を降りる瞬間から、自分の威容をヒンケルとトメニア国民に見せつけようと、うずうずして待ち兼ねています。一方ヒンケルも、市民総出で出迎えることでトメニア国民の忠誠心を見せつけ、自らも駅頭まで出向いて、ナパロニを威圧する姿を世界に見せつけようと画策します。ところが列車が到着して、いよいよ両巨頭の出会いの瞬間における目立ち合いが試されようとする時に、列車がうまく停車位置に停まりません。そのために列車が行ったり来たりして、ナポロニもヒンケルも右往左往します。文明の利器を使いこなしたつもりで侵略の具としてきた二人の独裁者が、逆に当時の再先端の“列車”という文明の利器にもてあそ弄ばれてしまうのです。

出会った二人は、早速自分の方が目立って威厳に満ちているように見せようと、自己顕示の張り合いを行います。ヒンケルはナポロニを自国に招いた地の利を生かして、自分の方を高めて見せる演出を仕掛けますが、うわぜい上背もあってかっぷく恰幅も良く、ラテン的な厚かましさをもったナパロニの方が一枚上手で、ヒンケルの影はどうも薄まりがちです。

なおナパロニを演じたジャック・オーキーは、底抜けの明るさで、徹底的に身勝手でせっかちな独裁者の姿を、実に滑稽に演じてみせ、アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされています。またナポロニのモデルであるムッソリーニは、実際に1937年9月にトイツを訪問してヒットラーと会見しています(ムッソリーニはドイツ語が堪能でした)。このムッソリーニのドイツ訪問が、ベルリン=ローマ枢軸を確固たるものとしたのですが、同時に日独防共協定にイタリアが参加することで、やがて日独伊三国同盟へと発展していく契機ともなりました。

駅頭での最初の出会いでは、ナパロニの天性の自己顕示欲の強さに圧倒され気味のヒンケルでしたが、参謀のガビッチの進言を受けて、ごうまん傲慢極まりないナパロニに、なんとか引け目を感じさせて自分の方が威圧出来るようにと、こそく姑息な心理作戦を講じます。ヒンケルの執務室で、ナパロニにわざと低い椅子に座らせて、自分を見上げさせるようにしたのです。しかしとにかく何が何でも上に立つのでなくては気が済まないナパロニは、そんな小細工など物ともせずに机の上に座って、逆に相手をうろた狼狽えさせることで自分が優位に立ってしまいます。用も無いのにマッチを要求して、ヒンケルとガビッチがとまど戸惑って持ち合わせの無いことを謝罪すると、実は自分で持っていたマッチを二人の前で擦ってみせ、得意のそぶ素振りを行うのです。二人の独裁者は、こうした自分を優位に立たせるための小細工を応酬しあい、この後も子供じみた張り合いが続いていきます。総統官邸の理髪店では、二人は少しでも自分の方が上位になろうと、椅子を高く上げることを競い、その後の軍事パレードでは、子供が自分の持ち物の方がすご凄いとくちげんか口喧嘩するように、自国の軍事力自慢で虚勢を張り合うのです。ところでこの軍事パレードの場面は、実際の武器や軍隊の行進はいっさい見せずに、ただ観兵する人々の視線だけでパレードのリアリティを感じさせます。こういうところにも、チャップリンの演出の卓抜さが見られて感心させられます。

(4)巨頭会談のお粗末さ
その日の夜に開催された舞踏会の最中に、ヒンケルとナパロニは、それぞれガビッチとバクテリアのトメニア駐在大使だけを伴い、人払いをして一室にこも籠ります。いよいよ二人によるオスタリッチ問題の直接協議の開始です。ナパロニは、互いにオスタリッチに進駐しないことを約する協定に調印すれば、バクテリアの軍隊を国境から引き上げることを主張します。一方ヒンケルは、ナパロニが先に軍隊を国境から引き上げれば、その協定に調印すると言って、二人は互いに一歩も譲りません。隔離された部屋で誰にも見られていないものですから、二人は次第にヒートアップして本性を現し、まるで自分の我を通そうと駄々をこねる子供のようにけんか喧嘩を始め、ついには開戦を叫んで食べ物を投げつけ合う始末です。これが世界の枢軸を担う首脳の姿かと、誰もがあきれずにはおれません。

こうしてチャップリンは、ファシズム体制の独裁者の本性が、ヒステリックな短絡思考で、自己陶酔の妄想に生き、人を信用出来ない小心と劣等感を抱き、またその裏返しとしての自己顕示と虚勢を張り、そして駄々っ子のように我を通すことしか出来ない幼児性に過ぎないことを、徹底的に描いて見せ、その滑稽さをこれでもかと私たちに示してくれるのです。

結局ヒンケルが、ガビッチの進言に従い協定にサインすることで事は収まります。ヒンケルは卑怯にも、ナパロニが軍隊を引き揚げれば、協定をほご反故にして秘かにオスタリッチ国境にトメニア軍を進駐させようと算段したのです。そしてヒンケルは鴨猟を装ってオスタリッチ国境に移動し、秘かに配置された軍の部隊が一挙にオスタリッチに進軍する間に、別に国境から車で向かい、首都を制圧したトメニア軍が彼を迎えるという計画を練ったのです。

史実においてもナチス・ドイツ軍は、1938年にオーストリアに進駐しています。そしてオーストリア国民はウィーンで熱狂的にヒットラーを迎え、オーストリアはドイツに併合されることになるのです。しかしチャップリンが、執拗にヒンケルとナパロニの子供じみた愚かな振る舞いを描いたものですから、この映画を観たアメリカや連合国の人々は、この後現実のヒットラーとムッソリーニの扇動的なパフォーマンスを目にしても、もはや滑稽さが先に立ってしまい、どうにも以前のような威厳を感じられなくなったのです。こうしてチャップリンは、笑いによって独裁者の本性をあば暴き、その神話性を徹底的にそ削ぎ落とすことに成功したのです。

さて、次回のパンセ通信ではいよいよ映画「独裁者」のラストでチャップリンが行う演説から、現代という時代の問題の本質と、今後私たちが求めていく人間的価値について考えていきたいと思います。なお次回のパンセの集いは、12月5日月曜日の18時から、渋谷区本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。