■2017.4.1パンセ通信No.130『サッチャリズムとレーガノミクスの登場と政治ゲームの変質』
皆 様 へ
1.1970年代に起こった構造転換
第二次世界大戦後半世紀弱にわたって、世界の政治ゲームは、自由主義対社会主義という対抗軸で動いてきました。そのゲームの構造が、1970年代のスタグレーション(インフレと不況の同時進行)という経済的危機と停滞の時期を経て、次第に変質していきます。このスタグフレーションに対処するために、イギリスとアメリカで、1980年代から新自由主義に基づく経済政策が展開されます。それはこれまでの需要の創出(完全雇用)と、国民の福祉向上を含めた市場調整を重視する政策から、180度の転換でした。つまり供給サイド(企業)の投資を誘引し、市場原理に委ねる自由競争を促進して人々のインセンティブを高め、財政政策に代わって貨幣供給量や金利操作を重視して政府の役割を限定し、結果として小さな政府を目指すという政策です。
経済政策が変われば、当然のことながらその政策を推進するための法制度も整備され、新しく力を増す勢力も台頭してきます。やがて社会や文化、価値観にも影響を及ぼし、政治ゲームの構造も変化していきます。前回は第二次世界大戦後から1970年代までの状況を見てきましたが、今回はそれ以降の政治ゲームに変質を与えた経済の状況を追っていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月3日月曜日です。18時から渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.1970年代の構造転換と苦境
(1)イギリス病とサッチャー政権の登場
さて経済政策が転換されるのは、もちろん直面する経済状況が変化したり危機を増して、それへの対処を迫られるためです。しかし同時に、人々の求めや価値観も変化してきて、それにも対応するものでなければ、新しい政策は受け入れられずに、大きな摩擦を引き起すだけになってしまいます。例えば1970年代末のイギリスでは、スタグフレーションとあわせて、いわゆる“イギリス病”が問題となっていました。第二次世界大戦後の英国では、労働党政権の影響もあって、「ゆりかごから墓場まで」と称される福祉政策と基幹産業の国有化が進められてきました。そのこと自体は、戦後復興と重化学工業を主体する経済成長(経済の規模拡大)に、大きな役割を果たしたことに間違いはありません。しかし1970年代になって総需要が頭打ちとなり、またオイルショックによるエネルギーを中心とする製造コストの高騰と、インフレによる賃金上昇圧力に晒(さら)されて、経済の効率化が大きな課題となってきていたのです。
経済が停滞し、十分な付加価値が生み出せない状況で福祉政策を続けると、国家財政への負担が増していきます。そのために国営企業を始めとする企業環境整備に対する十分な投資が行えず、産業競争力がさらに低下していくことになります。こうした悪循環に直面して、これまでの高福祉や基幹産業の国有化などの措置が、労働者の労働意欲を低下させ、産業の効率化を阻害するという議論や価値観が強まっていったのは、当然のことだったでしょう。
こうしてイギリスにおいては、1979年にサッチャー保守党政権が誕生し、民営化と規制緩和、また市場の調整機能に影響力を及ぼす労働組合の影響力を排除する経済政策が展開されます。それによって競争を喚起し、自己責任と自助努力を旨とすることが目指され、この一連の取り組みのことがサッチャリズムと称されたのです。
(2)スタグレーションとレーガノミクス
次にアメリカの変化について見てみます。第二次世界大戦においても、国土が戦火の影響を受けなかったアメリカは、戦後世界の復興需要を担う一大生産拠点となりました。このために大量生産システムを導入する巨大企業が誕生し、また企業と融和的な労働組合のもとで、労使関係も安定的なものとなりました。こうして1960年代のアメリカは、ケネディー大統領のニュー・エコノミーに代表されるケインズ理論に基づく政策によって、高経済成長、完全に近い雇用率、低インフレを達成し、世界の金の6割を保有するという空前の繁栄を遂げることになったのです。
しかし1970年代になると様相は一変していきます。すでに繊維などの産業で、人件費の高いアメリカ企業の国際競争力は低下していましたが、70年代には鉄鋼などの基幹産業分野においても、60年代に最新鋭の設備投資を行った日本やドイツなどの企業に対して競争力を失っていきます。そして71年にはついに貿易収支が赤字に転落することになったのです。さらに冷戦に伴う軍事支出や途上国援助が、アメリカの国際収支の赤字幅を拡大させ(その補填を保有する金の売却で補っていました)、1972年にはついにドルと金の兌換(だかん)が停止され、ドルを基軸とした固定相場制が放棄され(ニクソンショック)て、各国通貨は変動相場制へと移行することになりました。
このように戦後復興需要の終焉に伴う需要低迷のもとで、国際競争力を失ったアメリカ経済は、すでに労働生産性を低下させていて経済成長が落ち込み、失業率と(ドル安による)消費者物価が上昇するという困難な状況に陥っていたのです。そこにオイルショックが追い打ちをかけ、生産コストが大幅に上昇したのです。生産コストの上昇は、物価を上昇させ、需要を低迷させ、アメリカは戦後最大の不況に陥りことになりました。これに対して民主党カーター政権は、ケインズ理論に基づく需要拡大(財政投資、金融緩和)政策で臨むのですが、高コストでの需要拡大は、さらにインフレを加速させただけで、不況を脱するほどの生産の落ち込みと失業をカバーするには至らなかったのです。
こうして経済はスダグレーションに陥ることになったのですが、それを立て直すためにはマクロ経済的には供給サイドを強化して効率化投資を促し、生産性を高めて(生産コストを引き下げて)、総供給線を総需要線に対して右下にシフト(オイルショックで起こったのと逆の現象)させることが必要になってきます。これによって物価を引き下げ、需要を喚起し、生産を拡大させることによって経済成長を回復することが可能となってくるのです。こうしてレーガノミックスが登場してくることになったのです。
3.サッチャリズムとレーガノミクスの成否
(1)サッチャリズムの展開
1981年からスタートした共和党レーガン政権は、まず規制緩和と減税(減税財源捻出のために社会保障費を削減)により、企業の投資活動を刺激します(サプライサイド経済政策)。あわせて金融政策により通貨供給量を抑制して(マネタリズム政策)通貨高を誘導し、インフレを抑制しようとしました。このサプライサイドとマネタリズムを合わせた政策が、レーガノミクスと呼ばれます。
サッチャリズムもレーガノミクスも、石油ショックにより製造原価が高騰した当時の状況に対処するために、効率化投資を促進して生産性を向上させ、製造コストを低減させて物価を引き下げ、経済成長と国民所得の増加を促すためには、確かに妥当な経済政策であったと思われます。しかし実際のサッチャリズムもレーガノミクスも、経済政策として成功したかというと、必ずしもそうとは言えない面がありました。
その原因の1つは、サッチャリズムもレーガノミクスも、その主張とは裏腹に市場原理主義(レッセフェール)と小さな政府を徹底しなかったということです。サッチャーの場合は、民営化と規制緩和は推進しつつも、国民の支持を得るために、社会保障費の拡大を続けました。減税も行ったのですが、その一方で付加価値税(消費税)を導入し、その効果を相殺しました。またインフレ抑制のために金利を引き上げ、ポンド高を招きました。この結果輸出産業が打撃を受け、不況が長期化して企業が淘汰され、失業率は1983年以降11%を上回るまでに至りました。この間イギリスの経済を支え続け、1990年代の回復をもたらしたのは、実はサッチャリズムではなく、生産が本格化した北海油田からの石油および石油関連商品の輸出収入だったのです。その頼みの北海油田も、2000年代に入ると枯渇が始まって産出量が減少し、2006年にはイギリスは再び石油の純輸入国に転落します。そして経常赤字が拡大してポンドが下落し、それを必死でイングランド銀行が、金融の量的緩和で支えるという状況が今日至るまで続いているのです(金利引き下げによる借金の利払い負担の軽減と国債の買い支え)。
(2)レーガノミクスの展開
次にレーガノミクスの場合は、規制緩和と減税、マネタリズムよる通貨供給量の抑制は良いのですが、社会保障費の縮小とは裏腹に、「強いアメリカ」の復活のために軍事費を増やし、結局は政府支出を拡大させることになりました。さらに国民の政策への支持を得続けるために、実際には社会保障費の削減もなされなかったのです。この結果政府の財政赤字は急速に拡大していくことになりました。実はレーガノミクスは、サプライサイドの経済運営を目指しながら、結果としてはこの財政赤字によって、ケインズ型の大規模な需要刺激を行うことによって、景気を回復していくことになるのです。
このことはさらにもう1つの結果をもたらすことになりました。減税と財政赤字による需要増に対応するために民間部門、政府部門の投資は増大していったのですが、国民の貯蓄はむしろ低下傾向を示し、資金需要に応じることが出来ないことから金利が上昇し、マネタリズム政策と併せてドル高をもたらすことになったのです。その結果輸出減と輸入増をもたらし、経常収支の赤字をも拡大させていくことになったのです。レーガン政権時代、確かにアメリカのGDPは2兆7000億ドルから5兆ドルへと約1.8倍に拡大していきます。しかしそれは、700億ドルから2000億ドルに増えた財政赤字と、若干であった貿易収支の赤字が1600億ドルに拡大するという、財政と貿易収支の双子の赤字との引き換えに達成されたものだったのです。
(3)日本への影響
この間日本の企業は、円安ドル高を利用して電化製品や自動車をアメリカに輸出し、そこで得た米ドルを日銀で円に交換し、その円を国内の生産設備に投資することで、さらに競争力を高めていきました。そして日銀には、膨大な外貨準備が蓄積されていくことになったのです。一方ドル高によってアメリカ企業の国際競争力は弱まり、双子の赤字は、それをファイナンス(赤字を埋める資金調達)する必要に迫られたのです。そのためにまず1985年、ドル高是正のために各国が協調介入を行うというプラザ合意が図られ、1ドル240円前後であった円は、1年後には150円台にまで高騰することになります。このドル安によってアメリカ企業は国際競争力を取り戻すことになりました。またアメリカ政府はなお高金利政策を継続することで、日銀の外界準備がアメリカの財務証券(米国債)購入へと向かう道を開いていったのです。そしてレーガノミクスは、高金利へと向かう日銀等の外貨準備資金でファイナンスを行うことによって、双子の赤字政策を継続していったのです。
この間円高不況に陥った日本では、それに対処するために日銀が公定歩合の引き下げを行うことになります。その成果もあって景気の回復を遂げるのですが、米国債の購入を続けるために、日米の金利差(米国の金利の方が高ければ、お金は日本から運用利回りの良いアメリカに向かいます)を維持する必要に迫られ、低金利が据え置かれることになりました。このことが日本経済に過剰な資金供給を行うこととなり、その余剰資金が土地や株式へと向かって、バブル経済を引き起こすこととなったのです。
4.サッチャリズムとレーガノミクスの政治理念への影響
(1)新自由主義の理念
このようにサッチャリズムもレーガノミクスも、当初の期待とは裏腹に、経済的には必ずしも成功したと言えるものでは無かったのですが、それ以上に政治理念の面においては大きな影響を及ぼすことになりました。そして新しい理念・イデオロギーを生み出すことによって、政治ゲームの構造を理念の面から変質させていくことになったのです。
ところでサッチャリズムやレーガノミクスで目指された経済政策の理念は、次のようなものでした。「まず減税によって特に富裕層の貯蓄の増加と労働意欲の向上が図られる。そのことが企業減税と規制緩和(小さな政府)と合わさって、投資が促進され、生産性が向上し供給力が増加する。そして(減税により中間層以下の可処分所得も向上し、需要が増加しているから)経済成長が回復し、歳入が増加して減税による歳入低下を補い、むしろ歳入を増加させることも出来る。同時に福祉予算を抑制して財政を縮小均衡させ、小さな政府を達成する(もし財政余力が出た場合には、軍事や成長分野への投資原資とする)。福祉が低下しても、経済成長により国民の雇用や所得は向上し、むしろ生活向上や成功へのインセンティブが働く。仮に格差が拡大しても、富める者の支出増大から、貧困層も含め、全体の所得が底上げされる(トリクルダウン)。インフレーションは、金融政策(通貨量調整)によって抑制されるので、軍事等への財政支出を行っても、影響は大きくならない。」
こうした経済政策のことを新自由主義と言います。新自由主義が経済政策として実効性があるものであるかどうかは賛否が分かれるところですが、1つはっきりしていることは、新自由主義の政策は、2つの思想(信念)に裏打ちされているということです。
(2)自由至上主義と一元的価値
1つは自由至上主義(リバタニアリズム)です。他者の身体や財産を侵害しない限り、誰もが自由に行動し、自分の望み追求することが良いことだとする思想です。例えば経済においては、政府の規制を極力無くし、自由に競争を行えば市場原理が調整し、すべてはもっともうまく機能するという信念です。
もう1つは、価値の一元化に対する信念です。新自由主義を信奉する人の中には、市場での競争と成功こそが、人間の存在意義だと考える人がいます。自分の利益と存在価値を最大化するために、効率性と成功を考えて人生をマネージメントし、友人も趣味も配偶者などもその視点から選択していく。つまり無意識の内にも市場原理を、人生の非経済的領域にまで拡大して、人生の価値を、利潤を求めての成功ゲームに一元化していくのです。
それではこうした自由至上主義や市場での競争と成功の価値一元化という信念は、いったいどこから生まれてきたものなのでしょうか。次にそのことを考えていってみたいと思います。
5.市民社会の底流にある4つの理念
(1)価値多様性と民主主義の理念
そもそも近代になって市民社会が成立すると、人間は封建的身分社会の専制と抑圧から解放されて、職業選択や恋愛の自由を始めとして様々な自由を手に入れ、その生活は人類史上初めて多様化していきます。その生活の多様性にともなって、各人の欲望も価値観も多様化していくことになるのです。こうしてそれぞれの人間が、自分なりの多様な憧れやロマンをもって、それを実現していくために自由に取り組んでいくことになるのです。この各人の自己価値を求めての自由な欲望追及を、互いに承認しあって(価値の多様性)、それを調整(民主主義)しあいながら実現(一般意思)していけるように、社会契約を結んで成立したのが近代市民国家です。このように多様な価値を追求する自由と、その営みを相互に承認して調整していく民主主義原理は、近代市民社会を形成する第1の理念となりました。
ところで中世封建制を解体し、近代市民社会を到来させるためには、社会の経済基盤の構造的な変化が大きな影響を及ぼしました。おおよそ14世紀ぐらいまでにヨーロッパにおいては、地中海交易圏とバルト海・北海交易圏が結び合わさり、ヨーロッパ全土において特産品が交易(交換)される市場が形成されていきました。そして市場で売買する特産品を生産するために、分業が進展していくことになるのです。こうして分業によって安い商品が大量に市場に供給されることになり、より多くの人々が商品を消費できるようになっていったのです。この大規模な分業と交換と消費の組み合わせが、経済の規模を飛躍的に拡大し発展させていくことになったのです。
(2)利潤追求を一元的価値とする理念
しかしこの分業・交換・消費のサイクルを拡大循環させていくためは、その動力となる力が必要になってきます。それが貨幣です。貨幣というのは、あらゆる商品の価値を、自身の価値との比較で一元的序列として表現する尺度となる商品です。市民社会になって人間の欲望が解放されて、人間は多様な欲望ゲームを展開することになるのですが、同時に、この多様な欲望が普遍的に交換されることで貨幣が一般価値(尺度)として登場してくることになるのです。その結果、人間の多様な価値追及のゲーム(人間性や倫理など)は、この貨幣という一般価値を求めるゲームへと収斂(しゅうれん)されていくことになるのです。
こうして欲望の解放と価値の多様性を求めて始まった市民社会において、市場競争のもとで貨幣的利潤のみを唯一の価値として、欲望ゲーム、成功ゲームを展開していくことが始まりました。この貨幣的利潤のみ一元的価値として自由に競争することが、近代市民社会の第2の理念として現れてくることになるのです。そしてこの理念が、新自由主義の源流となっていったのです。この理念においては、何か新しい価値を生み出すというよりは、利潤を実現する手腕の技量が競われることになります。しかし利潤を求めて富の蓄積を行い、それを再投資してより多くの利潤を得ようとする欲望は、分業・交換・消費を循環させる原動力となり、やがて社会全体動かす普遍的なものとなって、資本主義を生み出すことになるのです。こうして普遍分業、普遍交換、普遍消費の循環によって始めて人間は、生産を飛躍的に向上させ続け、社会を発展させていく原理を得ることになり、封建社会の身分制、権威、そして自給自足的で定常的な生産体制を、根本的に解体していくことになるのです。
(3)保守の理念と社会主義の理念
実は市民社会において現れてくる理念としては、上記以外にもう2つのものがあります。その1つが保守の理念です。民主主義の理念による価値の多様性の進展は、それまで伝統的に守ってきた自分たちの信仰や価値観を毀損(きそん)することになります。また市場原理と利潤追求の理念に基づく資本主義の展開は、自分たちが培ってきたライフスタイルや文化、人間性までをも利潤的価値によって解体し、一元化していくことになります。これに対して、自分たちが培ってきた伝統や文化を守ろうとする理念が生まれてくることになるのです。
そして4つ目が社会主義の理念です。放埓(ほうらつ)な資本主義の結果として生まれた、激しい格差と労働者の悲惨な生活と貧困に対処すべく、19世紀にマルクス等によって体系化された理念・イデオロギーです。利潤を求めての他者を顧みない自由勝手な欲望追及が、多数の人々の悲惨を招くことに対して、自由よりも平等を原理して社会を組み立てようとする理念です。
19世紀末移行の市民社会は、原則として上記の4つの理念が交錯しながら動いていたのですが、特に第二次世界大戦以降は、強固なイデオロギー体系を持つ社会主義の理念と対峙するために、民主主義と自由(利潤追求至上)主義の理念が合わさり、保守主義の一部もそれに加わって一体となり、対抗関係をつくって政治ゲームが展開されていました。それが1970年代のスタグレーションを経て、自由至上主義の理念が価値多様性の民主主義の理念から分離し、むしろ保守理念と合体して新しいイデオロギーを生み出し、政治勢力を形成していったのです。その詳しい経緯と現在に至る政治ゲームの展開を次回に見ていきたいと思います。なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月3日(月)の18時から、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.129まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
皆 様 へ
1.1970年代に起こった構造転換
第二次世界大戦後半世紀弱にわたって、世界の政治ゲームは、自由主義対社会主義という対抗軸で動いてきました。そのゲームの構造が、1970年代のスタグレーション(インフレと不況の同時進行)という経済的危機と停滞の時期を経て、次第に変質していきます。このスタグフレーションに対処するために、イギリスとアメリカで、1980年代から新自由主義に基づく経済政策が展開されます。それはこれまでの需要の創出(完全雇用)と、国民の福祉向上を含めた市場調整を重視する政策から、180度の転換でした。つまり供給サイド(企業)の投資を誘引し、市場原理に委ねる自由競争を促進して人々のインセンティブを高め、財政政策に代わって貨幣供給量や金利操作を重視して政府の役割を限定し、結果として小さな政府を目指すという政策です。
経済政策が変われば、当然のことながらその政策を推進するための法制度も整備され、新しく力を増す勢力も台頭してきます。やがて社会や文化、価値観にも影響を及ぼし、政治ゲームの構造も変化していきます。前回は第二次世界大戦後から1970年代までの状況を見てきましたが、今回はそれ以降の政治ゲームに変質を与えた経済の状況を追っていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月3日月曜日です。18時から渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.1970年代の構造転換と苦境
(1)イギリス病とサッチャー政権の登場
さて経済政策が転換されるのは、もちろん直面する経済状況が変化したり危機を増して、それへの対処を迫られるためです。しかし同時に、人々の求めや価値観も変化してきて、それにも対応するものでなければ、新しい政策は受け入れられずに、大きな摩擦を引き起すだけになってしまいます。例えば1970年代末のイギリスでは、スタグフレーションとあわせて、いわゆる“イギリス病”が問題となっていました。第二次世界大戦後の英国では、労働党政権の影響もあって、「ゆりかごから墓場まで」と称される福祉政策と基幹産業の国有化が進められてきました。そのこと自体は、戦後復興と重化学工業を主体する経済成長(経済の規模拡大)に、大きな役割を果たしたことに間違いはありません。しかし1970年代になって総需要が頭打ちとなり、またオイルショックによるエネルギーを中心とする製造コストの高騰と、インフレによる賃金上昇圧力に晒(さら)されて、経済の効率化が大きな課題となってきていたのです。
経済が停滞し、十分な付加価値が生み出せない状況で福祉政策を続けると、国家財政への負担が増していきます。そのために国営企業を始めとする企業環境整備に対する十分な投資が行えず、産業競争力がさらに低下していくことになります。こうした悪循環に直面して、これまでの高福祉や基幹産業の国有化などの措置が、労働者の労働意欲を低下させ、産業の効率化を阻害するという議論や価値観が強まっていったのは、当然のことだったでしょう。
こうしてイギリスにおいては、1979年にサッチャー保守党政権が誕生し、民営化と規制緩和、また市場の調整機能に影響力を及ぼす労働組合の影響力を排除する経済政策が展開されます。それによって競争を喚起し、自己責任と自助努力を旨とすることが目指され、この一連の取り組みのことがサッチャリズムと称されたのです。
(2)スタグレーションとレーガノミクス
次にアメリカの変化について見てみます。第二次世界大戦においても、国土が戦火の影響を受けなかったアメリカは、戦後世界の復興需要を担う一大生産拠点となりました。このために大量生産システムを導入する巨大企業が誕生し、また企業と融和的な労働組合のもとで、労使関係も安定的なものとなりました。こうして1960年代のアメリカは、ケネディー大統領のニュー・エコノミーに代表されるケインズ理論に基づく政策によって、高経済成長、完全に近い雇用率、低インフレを達成し、世界の金の6割を保有するという空前の繁栄を遂げることになったのです。
しかし1970年代になると様相は一変していきます。すでに繊維などの産業で、人件費の高いアメリカ企業の国際競争力は低下していましたが、70年代には鉄鋼などの基幹産業分野においても、60年代に最新鋭の設備投資を行った日本やドイツなどの企業に対して競争力を失っていきます。そして71年にはついに貿易収支が赤字に転落することになったのです。さらに冷戦に伴う軍事支出や途上国援助が、アメリカの国際収支の赤字幅を拡大させ(その補填を保有する金の売却で補っていました)、1972年にはついにドルと金の兌換(だかん)が停止され、ドルを基軸とした固定相場制が放棄され(ニクソンショック)て、各国通貨は変動相場制へと移行することになりました。
このように戦後復興需要の終焉に伴う需要低迷のもとで、国際競争力を失ったアメリカ経済は、すでに労働生産性を低下させていて経済成長が落ち込み、失業率と(ドル安による)消費者物価が上昇するという困難な状況に陥っていたのです。そこにオイルショックが追い打ちをかけ、生産コストが大幅に上昇したのです。生産コストの上昇は、物価を上昇させ、需要を低迷させ、アメリカは戦後最大の不況に陥りことになりました。これに対して民主党カーター政権は、ケインズ理論に基づく需要拡大(財政投資、金融緩和)政策で臨むのですが、高コストでの需要拡大は、さらにインフレを加速させただけで、不況を脱するほどの生産の落ち込みと失業をカバーするには至らなかったのです。
こうして経済はスダグレーションに陥ることになったのですが、それを立て直すためにはマクロ経済的には供給サイドを強化して効率化投資を促し、生産性を高めて(生産コストを引き下げて)、総供給線を総需要線に対して右下にシフト(オイルショックで起こったのと逆の現象)させることが必要になってきます。これによって物価を引き下げ、需要を喚起し、生産を拡大させることによって経済成長を回復することが可能となってくるのです。こうしてレーガノミックスが登場してくることになったのです。
3.サッチャリズムとレーガノミクスの成否
(1)サッチャリズムの展開
1981年からスタートした共和党レーガン政権は、まず規制緩和と減税(減税財源捻出のために社会保障費を削減)により、企業の投資活動を刺激します(サプライサイド経済政策)。あわせて金融政策により通貨供給量を抑制して(マネタリズム政策)通貨高を誘導し、インフレを抑制しようとしました。このサプライサイドとマネタリズムを合わせた政策が、レーガノミクスと呼ばれます。
サッチャリズムもレーガノミクスも、石油ショックにより製造原価が高騰した当時の状況に対処するために、効率化投資を促進して生産性を向上させ、製造コストを低減させて物価を引き下げ、経済成長と国民所得の増加を促すためには、確かに妥当な経済政策であったと思われます。しかし実際のサッチャリズムもレーガノミクスも、経済政策として成功したかというと、必ずしもそうとは言えない面がありました。
その原因の1つは、サッチャリズムもレーガノミクスも、その主張とは裏腹に市場原理主義(レッセフェール)と小さな政府を徹底しなかったということです。サッチャーの場合は、民営化と規制緩和は推進しつつも、国民の支持を得るために、社会保障費の拡大を続けました。減税も行ったのですが、その一方で付加価値税(消費税)を導入し、その効果を相殺しました。またインフレ抑制のために金利を引き上げ、ポンド高を招きました。この結果輸出産業が打撃を受け、不況が長期化して企業が淘汰され、失業率は1983年以降11%を上回るまでに至りました。この間イギリスの経済を支え続け、1990年代の回復をもたらしたのは、実はサッチャリズムではなく、生産が本格化した北海油田からの石油および石油関連商品の輸出収入だったのです。その頼みの北海油田も、2000年代に入ると枯渇が始まって産出量が減少し、2006年にはイギリスは再び石油の純輸入国に転落します。そして経常赤字が拡大してポンドが下落し、それを必死でイングランド銀行が、金融の量的緩和で支えるという状況が今日至るまで続いているのです(金利引き下げによる借金の利払い負担の軽減と国債の買い支え)。
(2)レーガノミクスの展開
次にレーガノミクスの場合は、規制緩和と減税、マネタリズムよる通貨供給量の抑制は良いのですが、社会保障費の縮小とは裏腹に、「強いアメリカ」の復活のために軍事費を増やし、結局は政府支出を拡大させることになりました。さらに国民の政策への支持を得続けるために、実際には社会保障費の削減もなされなかったのです。この結果政府の財政赤字は急速に拡大していくことになりました。実はレーガノミクスは、サプライサイドの経済運営を目指しながら、結果としてはこの財政赤字によって、ケインズ型の大規模な需要刺激を行うことによって、景気を回復していくことになるのです。
このことはさらにもう1つの結果をもたらすことになりました。減税と財政赤字による需要増に対応するために民間部門、政府部門の投資は増大していったのですが、国民の貯蓄はむしろ低下傾向を示し、資金需要に応じることが出来ないことから金利が上昇し、マネタリズム政策と併せてドル高をもたらすことになったのです。その結果輸出減と輸入増をもたらし、経常収支の赤字をも拡大させていくことになったのです。レーガン政権時代、確かにアメリカのGDPは2兆7000億ドルから5兆ドルへと約1.8倍に拡大していきます。しかしそれは、700億ドルから2000億ドルに増えた財政赤字と、若干であった貿易収支の赤字が1600億ドルに拡大するという、財政と貿易収支の双子の赤字との引き換えに達成されたものだったのです。
(3)日本への影響
この間日本の企業は、円安ドル高を利用して電化製品や自動車をアメリカに輸出し、そこで得た米ドルを日銀で円に交換し、その円を国内の生産設備に投資することで、さらに競争力を高めていきました。そして日銀には、膨大な外貨準備が蓄積されていくことになったのです。一方ドル高によってアメリカ企業の国際競争力は弱まり、双子の赤字は、それをファイナンス(赤字を埋める資金調達)する必要に迫られたのです。そのためにまず1985年、ドル高是正のために各国が協調介入を行うというプラザ合意が図られ、1ドル240円前後であった円は、1年後には150円台にまで高騰することになります。このドル安によってアメリカ企業は国際競争力を取り戻すことになりました。またアメリカ政府はなお高金利政策を継続することで、日銀の外界準備がアメリカの財務証券(米国債)購入へと向かう道を開いていったのです。そしてレーガノミクスは、高金利へと向かう日銀等の外貨準備資金でファイナンスを行うことによって、双子の赤字政策を継続していったのです。
この間円高不況に陥った日本では、それに対処するために日銀が公定歩合の引き下げを行うことになります。その成果もあって景気の回復を遂げるのですが、米国債の購入を続けるために、日米の金利差(米国の金利の方が高ければ、お金は日本から運用利回りの良いアメリカに向かいます)を維持する必要に迫られ、低金利が据え置かれることになりました。このことが日本経済に過剰な資金供給を行うこととなり、その余剰資金が土地や株式へと向かって、バブル経済を引き起こすこととなったのです。
4.サッチャリズムとレーガノミクスの政治理念への影響
(1)新自由主義の理念
このようにサッチャリズムもレーガノミクスも、当初の期待とは裏腹に、経済的には必ずしも成功したと言えるものでは無かったのですが、それ以上に政治理念の面においては大きな影響を及ぼすことになりました。そして新しい理念・イデオロギーを生み出すことによって、政治ゲームの構造を理念の面から変質させていくことになったのです。
ところでサッチャリズムやレーガノミクスで目指された経済政策の理念は、次のようなものでした。「まず減税によって特に富裕層の貯蓄の増加と労働意欲の向上が図られる。そのことが企業減税と規制緩和(小さな政府)と合わさって、投資が促進され、生産性が向上し供給力が増加する。そして(減税により中間層以下の可処分所得も向上し、需要が増加しているから)経済成長が回復し、歳入が増加して減税による歳入低下を補い、むしろ歳入を増加させることも出来る。同時に福祉予算を抑制して財政を縮小均衡させ、小さな政府を達成する(もし財政余力が出た場合には、軍事や成長分野への投資原資とする)。福祉が低下しても、経済成長により国民の雇用や所得は向上し、むしろ生活向上や成功へのインセンティブが働く。仮に格差が拡大しても、富める者の支出増大から、貧困層も含め、全体の所得が底上げされる(トリクルダウン)。インフレーションは、金融政策(通貨量調整)によって抑制されるので、軍事等への財政支出を行っても、影響は大きくならない。」
こうした経済政策のことを新自由主義と言います。新自由主義が経済政策として実効性があるものであるかどうかは賛否が分かれるところですが、1つはっきりしていることは、新自由主義の政策は、2つの思想(信念)に裏打ちされているということです。
(2)自由至上主義と一元的価値
1つは自由至上主義(リバタニアリズム)です。他者の身体や財産を侵害しない限り、誰もが自由に行動し、自分の望み追求することが良いことだとする思想です。例えば経済においては、政府の規制を極力無くし、自由に競争を行えば市場原理が調整し、すべてはもっともうまく機能するという信念です。
もう1つは、価値の一元化に対する信念です。新自由主義を信奉する人の中には、市場での競争と成功こそが、人間の存在意義だと考える人がいます。自分の利益と存在価値を最大化するために、効率性と成功を考えて人生をマネージメントし、友人も趣味も配偶者などもその視点から選択していく。つまり無意識の内にも市場原理を、人生の非経済的領域にまで拡大して、人生の価値を、利潤を求めての成功ゲームに一元化していくのです。
それではこうした自由至上主義や市場での競争と成功の価値一元化という信念は、いったいどこから生まれてきたものなのでしょうか。次にそのことを考えていってみたいと思います。
5.市民社会の底流にある4つの理念
(1)価値多様性と民主主義の理念
そもそも近代になって市民社会が成立すると、人間は封建的身分社会の専制と抑圧から解放されて、職業選択や恋愛の自由を始めとして様々な自由を手に入れ、その生活は人類史上初めて多様化していきます。その生活の多様性にともなって、各人の欲望も価値観も多様化していくことになるのです。こうしてそれぞれの人間が、自分なりの多様な憧れやロマンをもって、それを実現していくために自由に取り組んでいくことになるのです。この各人の自己価値を求めての自由な欲望追及を、互いに承認しあって(価値の多様性)、それを調整(民主主義)しあいながら実現(一般意思)していけるように、社会契約を結んで成立したのが近代市民国家です。このように多様な価値を追求する自由と、その営みを相互に承認して調整していく民主主義原理は、近代市民社会を形成する第1の理念となりました。
ところで中世封建制を解体し、近代市民社会を到来させるためには、社会の経済基盤の構造的な変化が大きな影響を及ぼしました。おおよそ14世紀ぐらいまでにヨーロッパにおいては、地中海交易圏とバルト海・北海交易圏が結び合わさり、ヨーロッパ全土において特産品が交易(交換)される市場が形成されていきました。そして市場で売買する特産品を生産するために、分業が進展していくことになるのです。こうして分業によって安い商品が大量に市場に供給されることになり、より多くの人々が商品を消費できるようになっていったのです。この大規模な分業と交換と消費の組み合わせが、経済の規模を飛躍的に拡大し発展させていくことになったのです。
(2)利潤追求を一元的価値とする理念
しかしこの分業・交換・消費のサイクルを拡大循環させていくためは、その動力となる力が必要になってきます。それが貨幣です。貨幣というのは、あらゆる商品の価値を、自身の価値との比較で一元的序列として表現する尺度となる商品です。市民社会になって人間の欲望が解放されて、人間は多様な欲望ゲームを展開することになるのですが、同時に、この多様な欲望が普遍的に交換されることで貨幣が一般価値(尺度)として登場してくることになるのです。その結果、人間の多様な価値追及のゲーム(人間性や倫理など)は、この貨幣という一般価値を求めるゲームへと収斂(しゅうれん)されていくことになるのです。
こうして欲望の解放と価値の多様性を求めて始まった市民社会において、市場競争のもとで貨幣的利潤のみを唯一の価値として、欲望ゲーム、成功ゲームを展開していくことが始まりました。この貨幣的利潤のみ一元的価値として自由に競争することが、近代市民社会の第2の理念として現れてくることになるのです。そしてこの理念が、新自由主義の源流となっていったのです。この理念においては、何か新しい価値を生み出すというよりは、利潤を実現する手腕の技量が競われることになります。しかし利潤を求めて富の蓄積を行い、それを再投資してより多くの利潤を得ようとする欲望は、分業・交換・消費を循環させる原動力となり、やがて社会全体動かす普遍的なものとなって、資本主義を生み出すことになるのです。こうして普遍分業、普遍交換、普遍消費の循環によって始めて人間は、生産を飛躍的に向上させ続け、社会を発展させていく原理を得ることになり、封建社会の身分制、権威、そして自給自足的で定常的な生産体制を、根本的に解体していくことになるのです。
(3)保守の理念と社会主義の理念
実は市民社会において現れてくる理念としては、上記以外にもう2つのものがあります。その1つが保守の理念です。民主主義の理念による価値の多様性の進展は、それまで伝統的に守ってきた自分たちの信仰や価値観を毀損(きそん)することになります。また市場原理と利潤追求の理念に基づく資本主義の展開は、自分たちが培ってきたライフスタイルや文化、人間性までをも利潤的価値によって解体し、一元化していくことになります。これに対して、自分たちが培ってきた伝統や文化を守ろうとする理念が生まれてくることになるのです。
そして4つ目が社会主義の理念です。放埓(ほうらつ)な資本主義の結果として生まれた、激しい格差と労働者の悲惨な生活と貧困に対処すべく、19世紀にマルクス等によって体系化された理念・イデオロギーです。利潤を求めての他者を顧みない自由勝手な欲望追及が、多数の人々の悲惨を招くことに対して、自由よりも平等を原理して社会を組み立てようとする理念です。
19世紀末移行の市民社会は、原則として上記の4つの理念が交錯しながら動いていたのですが、特に第二次世界大戦以降は、強固なイデオロギー体系を持つ社会主義の理念と対峙するために、民主主義と自由(利潤追求至上)主義の理念が合わさり、保守主義の一部もそれに加わって一体となり、対抗関係をつくって政治ゲームが展開されていました。それが1970年代のスタグレーションを経て、自由至上主義の理念が価値多様性の民主主義の理念から分離し、むしろ保守理念と合体して新しいイデオロギーを生み出し、政治勢力を形成していったのです。その詳しい経緯と現在に至る政治ゲームの展開を次回に見ていきたいと思います。なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月3日(月)の18時から、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.129まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
『パンセ・ドゥ・高野山』トップページ、http://www.pensee-du-koyasan.com/
『パンセ通信』のサイトhttp://www.pensee-du-koyasan.com/posts/category/4