ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.133『富を生み出す原初形態-分業の仕組みと文化の役割』

Apr 22 - 2017

■2017.4.22パンセ通信No.133『富を生み出す原初形態-分業の仕組みと文化の役割』

皆 様 へ

1.古典派経済学における富と富を生み出す仕組み
富とは何か、その富を生み出す宝とは何か?前回はこの問題を、主に18世紀の経済学の勃興期の人々(特にアダム・スミスを始めとする古典派経済学の人々)がどう考えたのかについて見てきました。それまでの世界(ヨーロッパ)では、富とは金銀や貨幣のことであり、豊かさとはそれを蓄財することだと考えられてきました。これは直感的には、誰にでも非常に分かり易い考え方です。そのために国家を富ませる政策として、16~18世紀には重商主義という政策が採用されました。海外から貴金属を勝ち得てきたり、輸出促進と輸入制限を行って貿易を黒字化することが、経済政策の目標となったのです。その動機となったのは、絶対王政を支える官僚機構と常備軍の費用を調達することでした。すでに重税を課している農民からは、これ以上の税を取るわけにはいきませんでしたし、絶対王政を支える貴族の地代収入を削る訳にもいきません。そこで東インド会社などの特権商人と組んで、海外から資金を調達しようとしたのです。

ここで留意しておかなければならないのは、重商主義における国家とは絶対王政のことであり、国家が豊かになるということは、絶対王政が豊かになることに他(ほか)ならなかったということです。これに対して古典派経済学においては、富とは国民が享受できる生産物の量、つまり国民の消費水準であるとし、国家の豊かさとは、国民の生活の豊かさであると定義し直したのです。そしてその富を生み出す(供給する)宝が、産業という仕組みだと考えたのです。そうすると経済政策は、貴金属を蓄財することから、産業を振興することへと抜本的に転換されることになります。そしてその目的も、君主が豊かになることから、国民が豊かになることへと180度転換されることになったのです。そうした発想転換が出来たのは、近代への移行に伴う市民社会の成立と、その理念の浸透による価値観の変化が大きく影響していたからでしょう。その結果、重商主義に対して産業の興隆を図ったイギリスが、19世紀に世界の工場として空前の繁栄を遂げることになったのです。重商主義は、海外から金銀を調達し、それを官僚制と常備軍の維持に費やすだけで、どこにも富を生み出す仕組みが無かったのですから、当然の帰結と言えるでしょう。

それでは現在における富とは何でしょうか、その富を生み出す仕組みとしての宝とは一体何でしょうか。そして豊かさとは何なのでしょうか。そのことを考えてみるために、今回は富とその富を生み出す仕組みについて、最も原初的な形態を振り返ることによって本質的な原理を掴(つか)みだし、その後現在に至るまでの歴史の展開を把握する糸口を整理していってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は日本映画の社会派・人道派の旗手、木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月(1957年)』を予定しています。4月24日月曜日の18時から、渋谷区本町の本町ホームシアターで開催致します。

2.分業が可能とした生産物の余剰
(1)富の正体としての“余剰”
それでは経済学の勃興期に、人々が金・銀・貨幣の蓄財に代わって、富を生み出す宝(仕組み)として着目した産業とは、いったいどういうものなのでしょうか。そのことを考えるために、まず“富”について、その最も基本的なところから考えていってみたいと思います。“富”とは、その原初的な正体を明かせば“余剰”のことです。かつて私たちの先人たちが自給自足の生活をしていた時、普段よりも一生懸命働いて、もし自分が生存するために必要な量以上のものを生産することが出来たなら、それが余剰となります。余剰というのは、言い換えれば“価値”の貯蔵のことです。それを取り崩すことによって生活することが出来るので、働かなくても済みますし、自然災害や異常気象などのまさかの時にも備えることが出来るのです。

しかし余剰(富)を生み出すと言っても、次の3つの理由があって、それほど簡単なことではありませんでした。まず第1に、冷蔵庫も燻製(くんせい)技術も無かったような時代には、保存が困難であったということです。例えば川を遡ってくる鮭の群れに遭遇したり、イチゴの実がいっぱい生(な)っている場所を見つけたとしても、それは余剰にはなりません。なぜならそれらは、大量にあってもすぐに朽ち果ててしまい、保存できないからです。第2には、生存(生活)に必要なものと言えば、食料ばかりでなく衣服や住居や道具など様々なものが必要であり、その全てについてバランス良く余剰を生産し、保有しなければなりませんが、それは困難なことだったからです。そして第3に、とりあえず自然の恵みが豊かで、日々生きていくに足りる自給自足が行える環境にあるならば、そもそも余剰を生み出そうというインセンティヴが起こらないからです。もちろん病気や飢餓への不安はあって、余剰備蓄へのニーズはあるのですが、余剰生産と備蓄の困難さの方がニーズを上回ってしまうために、余剰への欲望は諦められてしまうのです(あるいは無駄な労力はかけないという選択が行われる)。

(2)分業による生産量の拡大
以上は人間が一人で自給自足している場合の、余剰物生産について考えてみたのですが、実際には人間がロビンソンクルーソーのように一人だけで自給自足するようなことはありません。人類へと進化する過程において、必ず人間は群れで(集団で、後に社会で)生活してきたからです。その方が強力な捕食動物に対して、安全(特に弱い子供の)を守ることが出来たからです。しかし人間の場合はそれだけではなく、集団生活によって分業をも行うようになっていったのです(これは他者への共感能力と、他者と自分を区別する自我を発達させ、また言語による概念を用いたコミュニケーションを行えるようになったからこそ可能になったことです。)。例えば男性が狩猟に出かけている間に、女性が木の実を集めたり、小さな焼き畑をつくったり、薪を集めたりするような働き方です。

分業は作業を分担して一人が1つの作業に集中することにより、その作業による個々の生産量を増やし、それを持ち寄って合わせることにより、生活に必要な全体の生産物の量も増やすことが出来るようになります。もし集団のメンバーの各々が、(いがみ合わずに)自分の最も得意とする作業で腕を振るえるようにマネージメントが出来れば、生産量はさらに拡大することでしょう。そしてクオリティの高いものや、さらに創意工夫を凝らして、従来以上に便利なものやニーズを満たす新しいものをつくり出すことも可能となってくるのです。

このように人間は、集団で分業を行うことにより、一人で自給自足を行うよりもはるかに大きな生産物を生み出すことが出来るようになりました。そして働く人間に必要な量以上の生活物資を生み出すことが出来るようになり、子供や老人を養い、また備蓄できるものに関しては余剰を生み出すことが出来るようになっていったのです。

3.富を生み出す根源的原理
(1)奪い合えば足りず、支え合い分かち合えば満ちて余る
この事実から“富”に関して、「富とは余剰である」(つまり存在する人間を養える以上の生産物)という原理の他に、その富を生み出すための原理としてもう2つほどのことが浮かび上がってきます。その1つ目が集団で分業を行うということです。これが“富”を生み出す(供給する)仕組みとしての“宝”と言うことが出来ます。しかしさらにその背後に、富を生み出すための根源的な原理があるのです。それが『奪い合えば足りず、支え合い分かち合えば満ちて余る』という原理です。

人間は集団で生活するといっても、属人的に個性と個人の自由が無い訳ではありません。また原始共同体の中にあっても、衣服をはじめとして弓や槍などの狩猟道具や装身具などについては、誰の帰属物であるかということがはっきりしていたことでしょう。無断で人のものを使ったり奪い取ったりすれば、やはり争いになったものと思われます。つまり最低限の身の回りのものについては、所有権が認め合われていたのです。所有は、人間が一人の自立した人間となるために根底的に必要なものであり、所有権を認め合うということは、それぞれの存在を受け入れ合うということと一体のことなのです。

こうして所有の承認と自己存在が一体となった社会に暮らす人間は、本質的に自分の存在の自由を拡大してくために、所有を増やしたりより良質のもの求めるようになっていきます。この自己利益(自己の所有と自由の拡大)を求める欲望は、人間(生物)にとって根源的なもので、生きるということの原動力となるものでもあります。従って自己利益の欲望を持つこと自体は、けっして悪いことではありません。もし人間が富(余剰)を生み出すのでは無く、動物のようにあくまでも相手を否定して(エサとして食べて、縄張り争い等に勝利して)、自分の存在の自由を確保・拡大して生きていこうとするなら、この自己利益の欲望のままに生きるのも良いでしょう。しかしそこには組織的に富(余剰)を生み出す原理は無く、また互いに自分の存在の自由を拡大していこうとする者同士での争いに労力を費やすことになり、結局個人的に余剰を蓄えることも困難となってしまうのです。

(2)自己利益の欲望と関係性の欲望の調整
従って私たち人間が、富を増やしてより豊かに生きていくためには、この(勝手気ままな)自己利益を求める欲望をうまく制御して、お互い同士の信頼と協力を醸成して分業を行い、公平(互いに納得のいく)に分配する仕組みをつくっていかなければならないのです。そのことによって私たちの先人たちは、目先の利益(自己利益)に目を奪われることなく、集団による支え合いによってより大きな富を手にすることが出来るようになっていったのです。

ところで人間が他の動物と異なるのは、自己利益の欲望だけでなく、パンセ通信No.116で述べたように、関係性の豊かさを求める欲望をも持っていることです。集団(社会)で生きる人間が富を得て、しかもそれ増やしながら(発展しながら)ますます豊かに生きていけるようになるためには、この自己利益の欲望と関係性の欲望(支え合いと分配)という2つの相矛盾する欲望を、巧みに調整していくことが求められてくるのです。そしてこの調整の仕組みこそが、“富”を生み出す“宝”だったのです。

このために私たちの先人たちが、原始共同体の原初において編み出した仕組みが、まずはより本能的な自己利益を求める欲望を制御するための“掟(おきて)”と“文化”でした。掟(おきて)を定めることで私たちは、例えば他人が大事にしている持ち物は奪わないといったような合意形成を行います。しかし掟(おきて)というのは、単に合意や約束を交わすだけではなく、それを破った場合の罰則をも規定し、共同体全体での強制力をもってその合意を守らせようとするものです。例えば掟を破った者は村八分に処するなどの、懲罰措置が必ず伴われるのです。

(3)掟(おきて)と文化の役割
そして文化です。祭りや宗教や宴(うたげ)や慣習などを通じて、共に楽しさを分かち合って親しさや信頼関係を深め、また言い伝えや神話などを通じて、自分本位の身勝手さや貪欲を戒め、共生と共存の価値観を醸成していったのです。また当時の掟(おきて)と文化の中には、自然との共生のために、自然の恵みの乱獲を防ぐ仕組みも含まれていました。このようにして太古の時代の私たちの先人たちは、“掟(おきて)と文化”によって目先の自己利益を求める欲望を抑え、共生と共存によってより大きな富(余剰)を手にする欲望が育まれる仕組みをつくっていって、自己欲望と関係性の欲望のバランスを図っていったのです。

ここで“富”について、その最も原初的な形態(原初的であるが故に最も原理をよく現す)における本質をもう1度整理すると、次のようになります。まず“富”とは、余剰生産物のことである。その余剰生産物を生み出すのは、分業と公平な(誰もが納得のいく)分配の仕組みである。しかし人間のより本源的な欲望は自己利益の欲望(自己の存在拡大への自由への欲望)であって、もしこの欲望が貪欲となって発現するままに放置すれば、分業によって富を生み出すどころか、互いに争い合い、人間は不信と不安と恐怖のもとに、滅びの淵へと転げ落ちていってしまうことになる。そこでこの自己利益の欲望と、人間のもう1つの欲望である関係性の豊かさを求める欲望と調和させていくことが必要となる。そのために“掟(おきて)”と“文化(ぶんか)”を生み出して、貪欲を抑制し、共存と共生によって個人だけでは得られない大きな利益を求めるように仕向け、分業がうまく機能する仕組みをつくっていった。

つまり原始共同体の社会の人々にとって、富を生み出す(供給する)仕組みとしての“宝”とは、分業と分配であり、それを機能させるための“掟(おきて)と文化”がセットになったものだったのです。

4.イノベーション原理と富を生み出す仕組みの高度化
(1)交換・貨幣・市場による富の増大
さてこのように分業を核として富を生み出す仕組みをつくっていった人間は、次に交換と貨幣と市場を発展させることにより、さらに大きな富を手にするようになっていきました。より大きな富を得たい、より豊かになりたいという人間の欲望が、まず分業の仕組みを他の部族にまで拡大することによって、部族間での有用品の交換を実現していきます。また交換の頻度が上がるにつれて、ある品物が交換の過程で、一般的価値尺度としての地位を得るようになり、貨幣が誕生していったのです。そして交換がより大規模かつ効率的に行えるようになるために、市場が発展していくことになりました。

こうして交換(交易)・貨幣・市場は、一部族を超えて多くの部族を結合して分業を行う仕組みを可能としていき、人間にさらに大きな富をもたらしていくことになったのです。さらに富の象徴となった貨幣と、交換により品物の価値を高める(より多くの貨幣・富を得られる)機能を持った市場とは、貨幣を求める人間の自己利益の欲望を、市場を介して他者のニーズに応えるという機能に転換する役割を果たすようになっていきます。これは利己的な自己利益を追求する欲望を、貨幣と市場を介して自動的に協働と共生を可能とする活動に結び付け、人間の関係性の欲望をも満たしていくという画期的なイノベーションだったのです。

(2)富を生み出す原理への回帰
このようにイノベーション(新しい価値の創造)というのは、例えば「軽くて頑丈な素材を開発する」といったように、相矛盾する2つの要請に同時に応えて、双方の要求を充たしていこうとする苦闘の中から生まれてくるものなのです。“富”に関して言えば、自己利益の欲望と関係性(協働と共生)の豊かさを求める欲望の双方を満たせるように調整していくことで、富を生み出す仕組みを一層高度化して発展させていくことになるのです。しかしながらこの富を生み出す仕組みについては、長い年月をかけて制度化されていくうちに、その本来の機能は無意識化され、その目的は忘却されていくことになります。例えば原始共同体において、自己利益の欲望を制御して関係性の豊かさ(分業)へと向かわせる装置であった“掟(おきて)”や“文化”は、やがて無意識化されてその本来の目的は忘却され、ただその掟や文化・習俗に従うことだけが自己目的化して残っていくことになるのです。

しかし危機の時、すなわち富の生産や拡大が停滞し、社会に動揺が及ぶようになってきた時には、習慣的に同じことを繰り返している訳にはいかず、様々な努力が試みられるようになります。その時、この利己利益の欲望と関係性の豊さを求める欲望とのバランスを図るという原点に立ち返って、その再調整を図ろうとする苦闘が営まれた時にのみ、富を生み出す仕組みについてイノベーションが起こり、新たな経済と社会の仕組みが立ち現れてくることになるのです。そんな視点から、次回においては交換(交易)・貨幣・市場という原始共同体以降の富を生み出す仕組みの詳細について、およびその後の経済・社会の展開について見ていきたいと思います。

なお次回のパンセの集いは、4月24日(月)の18時から、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は日本映画、木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月(1957年)』を予定しています。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。

P.S. 現在パンセ通信は、No.132まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

『パンセ・ドゥ・高野山』トップページ、 http://www.pensee-du-koyasan.com/(9/8アップ文章)参照
 『パンセ通信』のサイト、http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/category/4