■2014年10月12日 パンセ通信No.1 - 『伝統宗教の智慧とゴンの物語』
皆 様 へ
またまた台風が接近しております。避けられぬ自然の現象のことゆえ、多少の被害は覚悟せざるを得ないとしても、その被害が、最小の許容できる範囲に止まることを祈るばかりです。
さて、明日10月14日(火)もプロジェクト会議を、16時からフィルムクレッセントで行います。
今回から名称を、「プロジェクト会議」から「パンセの集い」に変えようと思います。1つには、前回2名の若い女性が参加して下さり、少し柔らかい名称の方が良いかと思ったからです。また、プロジェクトのために集まるのではなく、参加する誰もが、自分のための支えとなる何かを、肩ひじ張らずに気楽に見つけて頂ける場にできればと思ったからです。
それで今回は、この取り組みの原点であり、またシンボルでもある『高野山の案内犬ゴン』について、そもそも『ゴンって何?』をテ-マとして、当初の目的に戻って考えてみたいと思います。
もともとこのプロジェクトは、高野山の開創1200年を機に、伝統宗教の智慧をもう1度私たちの生活に生かしてみようということで始まりました。伝統宗教の智慧とは、毎日の生活の中で様々に追い立てられて、視野が狭まり、行き詰りに陥ってしまう私たちが、そんな“自分(自我)”を脱して、私の中にあるもっと大きな広がりを持つ“いのち”というものに気づいて、多様ないのちとの交わりの中に開かれてのびやかに、自由に生きてゆけるようになろうというものです。
この大きないのちの広がりがある“あっち”の世界に生きて、そこから私たちを招くのが、“聖職者”あるいは“出家者”と呼ばれる人々です。そして生きるための生産活動に従事し、日々労苦しつつ喜び悲しみのあざなう“こっち”の世界に暮らすのが、仏教の言葉で言う“衆生”ということになります。そして“信仰者”あるいは“信徒”というのは、日々の生業(なりわい)に生きつつも、のびやかないのちの広がりの世界の存在も知っており、この“こっち”の世界と“あっち”の世界とを行き来しつつ、惰性化し煩いの積み重なる“日常”をみずみずしく再生し、創造性豊かに生きる術(すべ)を心得た者ということになります。
まあ、現実には全くそうはなっていないのですが、理想論を言うとこういう構図になります。
この生活意識の上での“こっち”と“あっち”の世界の切り換えは、脳科学的に言えば、日々の暮らしの中であたり前に働かせている脳の領域から、普段は使用していない他の領域へと脳の活動領域を切り替え、異なった回路を働かせるということになります。でもこれは、日常の窮屈さがたまらなくなった時、誰もが本能的には行っていることなのですね。それを酒に紛らわせたり、単なるウサ晴らしに終わらせず、いのちの豊かさへと生き直しが出来るように、意識的・方法的に確立しようとしたのが、伝統宗教の智慧とわざなのです。なにしろ普段とは異なる脳の働き方をさせるのですから、ちょっと巧みな技術を要するのですね。
でもそのように伝統宗教を持ち上げたからといって、なにも特定の宗教の信者になることを勧めるものではありません。伝統宗教の中に蓄積された先人たちの智慧とわざを、ちょっと知って活用するだけで、私たちの生き方や世界の捉え方が随分と異なってくることを知って頂ければ良いのです。ジョン・レノンやスティ-ブ・ジョブズを始め、多くの欧米の人たちが、日本の伝統宗教に魅せられて、そこからいのちと創造の糧を得てきたのは、よく知られた事実です。そもそも“布教”や“伝道”活動というのは、自分の宗派のメンバ-獲得競争を行うことなどではなく、この智慧とわざを伝えて、“日常”に煩う人々の、少しでも助けになろうとすることなのです。そこが伝統宗教と新興宗教の相違するところです。そしてこの『パンセ・ドゥ・高野山』の取り組みでは、この伝統宗教の智慧とわざを、今度は宗教的な概念や用語をも極力用いず、私たちの日常の観念と言葉で紹介して、普通の私たちが特定の宗派に属する必要なく、“信仰者”の自由に生きられるようになろうとする試みです。(もちろん個人の確信として、自分に一番肌の合う宗派に属されることは、全く“信仰の自由”でやぶさかではありませんが。)
さて、そこでこのプロジェクトの取っ掛かりとなった、『高野山の案内犬ゴン』についてです。ゴンというのは、平成の初めに実在した犬で、高野山の麓(ふもと)九度山にある慈尊院から山上の高野山まで、22kmの山道を、巡礼者に寄り添って道案内したワンちゃんです。ゴンは、単に地理的な道案内をするだけではなく、人生の様々な憂いや煩いをもって高野山を訪れる人々の苦悩に寄り添い、その人たちを立ち直りのいのちへとも導いていった犬でした。
何故ゴンは、そんなことが出来たのか? ゴンは動物の本性として、自我を脱した大きないのちの広がりを知っていた犬で、そこへ人々を案内していったのです。物語では、麓(ふもと)の慈尊院から高野山へと空間的地理的に案内することになりますが、実際には人が内面での“自分・自我”の苦悩から立ち直り、解き放たれた“甦りのいのち”に生き直せるように、橋渡しを行っていきます。
従ってゴンの物語を伝え、ゴンの物語との出会いの機会をつくるということは、出会った人々が自分と向き合い、囚われの自我から、解き放たれたのびやかないのちへと導かれる端緒を提供することを意味します。そして1人1人がゴンに案内されて、立ち直りに向けて歩み始め、それぞれに私の“いのちの物語”を紡ぎ始めることを期待します。ゴンの物語はそのための契機であって、『パンセ・ドゥ・高野山』は、その取り組みを支援するサイトという位置づけになります。
明日の集いは、そんなこのプロジェクトの原点に立ち返って、伝統宗教の智慧とわざを自分の生活に生かし、それぞれにいのちを刷新していける道を、考えあっていければと思います。
明日16時からフィルムクレッセントです。台風の後で、支障の出る方もいらっしゃるかと存じますが、お時間許す方はご参加ください。
皆 様 へ
またまた台風が接近しております。避けられぬ自然の現象のことゆえ、多少の被害は覚悟せざるを得ないとしても、その被害が、最小の許容できる範囲に止まることを祈るばかりです。
さて、明日10月14日(火)もプロジェクト会議を、16時からフィルムクレッセントで行います。
今回から名称を、「プロジェクト会議」から「パンセの集い」に変えようと思います。1つには、前回2名の若い女性が参加して下さり、少し柔らかい名称の方が良いかと思ったからです。また、プロジェクトのために集まるのではなく、参加する誰もが、自分のための支えとなる何かを、肩ひじ張らずに気楽に見つけて頂ける場にできればと思ったからです。
それで今回は、この取り組みの原点であり、またシンボルでもある『高野山の案内犬ゴン』について、そもそも『ゴンって何?』をテ-マとして、当初の目的に戻って考えてみたいと思います。
もともとこのプロジェクトは、高野山の開創1200年を機に、伝統宗教の智慧をもう1度私たちの生活に生かしてみようということで始まりました。伝統宗教の智慧とは、毎日の生活の中で様々に追い立てられて、視野が狭まり、行き詰りに陥ってしまう私たちが、そんな“自分(自我)”を脱して、私の中にあるもっと大きな広がりを持つ“いのち”というものに気づいて、多様ないのちとの交わりの中に開かれてのびやかに、自由に生きてゆけるようになろうというものです。
この大きないのちの広がりがある“あっち”の世界に生きて、そこから私たちを招くのが、“聖職者”あるいは“出家者”と呼ばれる人々です。そして生きるための生産活動に従事し、日々労苦しつつ喜び悲しみのあざなう“こっち”の世界に暮らすのが、仏教の言葉で言う“衆生”ということになります。そして“信仰者”あるいは“信徒”というのは、日々の生業(なりわい)に生きつつも、のびやかないのちの広がりの世界の存在も知っており、この“こっち”の世界と“あっち”の世界とを行き来しつつ、惰性化し煩いの積み重なる“日常”をみずみずしく再生し、創造性豊かに生きる術(すべ)を心得た者ということになります。
まあ、現実には全くそうはなっていないのですが、理想論を言うとこういう構図になります。
この生活意識の上での“こっち”と“あっち”の世界の切り換えは、脳科学的に言えば、日々の暮らしの中であたり前に働かせている脳の領域から、普段は使用していない他の領域へと脳の活動領域を切り替え、異なった回路を働かせるということになります。でもこれは、日常の窮屈さがたまらなくなった時、誰もが本能的には行っていることなのですね。それを酒に紛らわせたり、単なるウサ晴らしに終わらせず、いのちの豊かさへと生き直しが出来るように、意識的・方法的に確立しようとしたのが、伝統宗教の智慧とわざなのです。なにしろ普段とは異なる脳の働き方をさせるのですから、ちょっと巧みな技術を要するのですね。
でもそのように伝統宗教を持ち上げたからといって、なにも特定の宗教の信者になることを勧めるものではありません。伝統宗教の中に蓄積された先人たちの智慧とわざを、ちょっと知って活用するだけで、私たちの生き方や世界の捉え方が随分と異なってくることを知って頂ければ良いのです。ジョン・レノンやスティ-ブ・ジョブズを始め、多くの欧米の人たちが、日本の伝統宗教に魅せられて、そこからいのちと創造の糧を得てきたのは、よく知られた事実です。そもそも“布教”や“伝道”活動というのは、自分の宗派のメンバ-獲得競争を行うことなどではなく、この智慧とわざを伝えて、“日常”に煩う人々の、少しでも助けになろうとすることなのです。そこが伝統宗教と新興宗教の相違するところです。そしてこの『パンセ・ドゥ・高野山』の取り組みでは、この伝統宗教の智慧とわざを、今度は宗教的な概念や用語をも極力用いず、私たちの日常の観念と言葉で紹介して、普通の私たちが特定の宗派に属する必要なく、“信仰者”の自由に生きられるようになろうとする試みです。(もちろん個人の確信として、自分に一番肌の合う宗派に属されることは、全く“信仰の自由”でやぶさかではありませんが。)
さて、そこでこのプロジェクトの取っ掛かりとなった、『高野山の案内犬ゴン』についてです。ゴンというのは、平成の初めに実在した犬で、高野山の麓(ふもと)九度山にある慈尊院から山上の高野山まで、22kmの山道を、巡礼者に寄り添って道案内したワンちゃんです。ゴンは、単に地理的な道案内をするだけではなく、人生の様々な憂いや煩いをもって高野山を訪れる人々の苦悩に寄り添い、その人たちを立ち直りのいのちへとも導いていった犬でした。
何故ゴンは、そんなことが出来たのか? ゴンは動物の本性として、自我を脱した大きないのちの広がりを知っていた犬で、そこへ人々を案内していったのです。物語では、麓(ふもと)の慈尊院から高野山へと空間的地理的に案内することになりますが、実際には人が内面での“自分・自我”の苦悩から立ち直り、解き放たれた“甦りのいのち”に生き直せるように、橋渡しを行っていきます。
従ってゴンの物語を伝え、ゴンの物語との出会いの機会をつくるということは、出会った人々が自分と向き合い、囚われの自我から、解き放たれたのびやかないのちへと導かれる端緒を提供することを意味します。そして1人1人がゴンに案内されて、立ち直りに向けて歩み始め、それぞれに私の“いのちの物語”を紡ぎ始めることを期待します。ゴンの物語はそのための契機であって、『パンセ・ドゥ・高野山』は、その取り組みを支援するサイトという位置づけになります。
明日の集いは、そんなこのプロジェクトの原点に立ち返って、伝統宗教の智慧とわざを自分の生活に生かし、それぞれにいのちを刷新していける道を、考えあっていければと思います。
明日16時からフィルムクレッセントです。台風の後で、支障の出る方もいらっしゃるかと存じますが、お時間許す方はご参加ください。