ゴンと高野山体験プロジェクト〜

映画紹介<かかしの旅>『原罪としてのいじめ』

Nov 04 - 2014

人間の原罪としてのいじめ問題 -宗教者(キリスト教)の視点から

►1.“自我”の生き物としての人間
►2.“自我”がある故の喜びと苦しみ
 - 二つの欲求の矛盾、いのちに至る欲求と滅びにつながる欲望
►3.人間の原罪としてのいじめ  - 思春期の子供たちの苦悩
►4.いじめの回避は大人たちの責務
►5.いじめを克服していくために - 互いに生かしあう関係の喜びに生きて

1.“自我”の生き物としての人間

   動物は本能によって、自然環境を、個体としての自分の肉体の力を頼りに生きていきます。しかし他者と社会を形成し、文化を営む人間は、本能ではなく意識の中に自我を形成して、それによって日々判断して生きています。
   人は、親や他者と関係を取り結びながら成長していくにつれて、言語や慣習、文化や制度など膨大な“ル-ル”を身につけていきます。自我は、この過程で形成されていく自己意識です。この自我によって私たちは、自分を他者や外界から区別して、自分を自分として意識します。また人と自分との関係をも、意識するようになっていきます。そして私たちは、身体的な「快」、「不快」を超えて、この自我のうちに自己の理想や価値を形成し、その実現をめがけて生きていくようになるのです。
   
2.“自我”がある故の喜びと苦しみ - 二つの欲求の矛盾、いのちに至る欲求と滅びにつながる欲望

   自我は、人間を人間たらしめる素晴らしいものです。しかしまたこの自我によって、私たちは傷つき、苦しみの中を生きていくことにもなります。
自我によって私たちは、他者とともに支えあい、生かしあって、喜びのうちに共に豊かに生きていくことが可能となります。しかしその一方で、自己意識があるが故に私たちは、自分の利益を貪(むさぼ)る強い誘惑にさらされます。自分が安心して生きていくためには、他人が犠牲になっても仕方がない。自分が損するわけにはいかない。人間は、社会を形成して他者と共にしか生きていけないはずなのに、私たちは自己の利益の誘惑に負けて、他者の存在を脅かしていきます。しかしそのことは、結局は他者との軋轢を生み、他者を傷つけることで自分の人間性を傷つけ、不安を生み、やがては自分の生存の安心をも脅かしていくことになります。
   例えばキリスト教の聖書においては、この自分勝手な利益を貪る欲、すなわち我欲のことを、原罪と呼びます。我欲は罪を生み、やがて私たちを破滅の死へとまでも追いやります。

    『むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。』  新約聖書ヤコブの手紙1章14節

   一方で聖書は、本当に自分を大切にし、人を愛する意欲は、私たちを永遠のいのちに導くと教えます。

    『「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書い
     あるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、
     力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさ
     い』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得ら
     れる。」』                   新約聖書ルカによる福音書10章25節b~28節
       ※神様の目的は、私たちを滅びから救うことです。そして私たちが、いのちの生かしあいに生きるようになることです。この目的は、キリスト教に関わらずすべての宗教に共通です。すぐにいじけ、挫折しそうになる私たちを、キリスト教の場合には神様が、十字架上の主イエス・キリストという姿で必死に支えてくれます。この神様を愛する思いは、そしてどんな宗教にせよ信仰を持つということは、自分を本当に大切にし、他者を大切にして励ましあって生きていきたいという願いと、1つになっていきます。
   
   私たちの自我の中で、この滅びへの我欲と、自分と人を生かすいのちへの愛という二つの欲の力が、せめぎ合います。しかし目先の我欲に目を奪われる私たちの自我は、いのちに至る意欲を覆い隠し、私たちの生を困難なものとしていきます。私たちクリスチャンの場合は、人がそのいのちに至る意欲に生きるためには、我欲に覆われた人の力だけでは無理で、まことのいのちへ導く神様の恵みと助けが必要と考えるのです。

    『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を
     通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』  新約聖書ロ-マ信徒への手紙3章23節~24節

3.人間の原罪としてのいじめ  - 思春期の子供たちの苦悩

   さて、人は子供から思春期にかけて、この自我を確立させる大切な時期にさしかかります。同時に、人格が非常に不安定ともなってきます。
「自分は自分である。」、「他の誰とも異なる、特別の価値ある存在である。」、「自分は、常に主人公でありたい。」
  自我はこの時期にオバケのように膨れ上がって、子供たちを翻弄します。自分が独自の自分であることを確認するために、また周囲に自分を誇示するために、自我は子供たちを、躍起になって突き動かします。しかし実際には、子供たちにはまだ生きる現実的な力が備わっていないために、「特別に価値ある自分」という自意識と、無力で惨めな現実の自分とのギャップに苦しみ、挫折感を味わっていきます。
   この過程で、ある子供は自分自身の中に閉じこもって、自分の価値と独自性を内的に確保しようとします。そして他のやつはバカだ、自分の価値は自分にしか分からないと、1人よがりの皮肉な笑いを浮かべます。しかしある子供たちは、他人の弱点を見つけて攻撃することで、自分の優位性、独自性を確保しようとします。そして思うにまかせぬ自意識のイライラを、弱いもの、無抵抗なものにぶつけて解消しようとしていくのです。こうして、子供が自我を確立させていく過程において、いじめの芽は必然的に生じてきます。
   存在の根底に原罪(我欲)を有する人間は、我欲に先んじて他者との共生を意欲することはできません。ましてや自分自身のことで必死な状況にある思春期の子供たちに、自主的に他人の痛みや悲しみに思いはせることを求めるのは、きわめて困難なことなのです。

4.いじめの回避は大人たちの責務

   悲しいことですが、私たちの中に互いを傷つけあって生きていく必然がある以上、いじめを無くすことはできません。またそれ故にこそいじめは、子供たちに言って聞かせて解決出来る問題ではないのです。だからいじめの現実に直面するとき、私たち大人は、まずは断固としてこれを止めさせなければなりません。躊躇してはならないのです。放置すれば、いじめられる子供にも、いじめる子供にも、そしてそれを傍観する子供にも、必ず深い傷を残します。
   もちろん子供たちが、自律した人格を形成していくために、それぞれの意識と行動の自由を持てるように配慮していくことは大切なことです。しかし、人を傷つけ自分を傷つける罪の自由に対しては、これを厳しく戒めなくてはなりません。それは、私たち大人の子供たちに対する責務でもあるのです。

5.いじめを克服していくために - 互いに生かしあう関係の喜びに生きて

   また私たち大人は、いじめを制止するだけではなく、いじめとは異なるもっと別の楽しい方法で、子供たちが「ほんとうに価値ある存在」として自らを承認できる道を、示していってあげなければなりません。
   人は誰でも、「自分を価値ある存在」と思いたい強い欲望を持っています。しかしその欲望は、じつは他者からの承認によってしか叶えられません。「君はほんとうにすごいやつだ 。」  ほかの人たちからそう言ってもらわないと、私たちは「自分の価値」を確認することが出来ないのです。でもそれは、なかなか容易なことではありません。そこで力も忍耐も乏しい子供たちは、手っ取り早く、他者と争って自分の力が強いことを示そうとしたり、逆に自分の中に閉じこもって、1人自分の価値を守ろうとするのです。しかしそういうやり方では、人はほんとうに価値ある存在になることはできません。
   でもじつは私たちは、互いに傷つけるのではなく、“互いに生かしあう関係”をつくることで、価値を確認しあっていくことも出来るのです。その関係の中では、私たちは互いの価値を認め合い、その価値の実現のために励ましあって生きていくことができます。そして、他者に役立って生きることが同時に自分の価値となるという、ほんとうの意味での価値の喜びを見出していくことが出来るのです。
   私たちは、いじめの関係に対置して、“互いに生かしあう関係”の素晴らしさを子供たちに示していかねばなりません。それが出来る時はじめて、私たちは、いじめを克服する端緒を掴むことが出来るのでしょう。その関係がどんなに楽しく、喜びと感動に溢れ、どれほど生きる力を強めていくものなのか。子供たちに体験させていかなければなりません。そして子供たちの感性と感情が、自ずと“互いに生かし合う関係”を意欲するまでに、喜びと感動の体験を積み重ね、身体化させていく時、はじめていじめを憎み、自他を生かすことを価値とする人格を育んでいくことが出来るのです。このことは現代の教育の、大きな課題とも言えるでしょう。

6.宗教の課題、現代の課題 

   実は、この“自分をほんとうに大切にして、互いに生かし合う関係”に生きることは、私たちクリスチャンを始めとするあらゆる宗教の求めてきた課題でもあるのです。例えば主イエス・キリストは、私たちに次のように教えます。

『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あな
たがたも互いに愛し合いなさい。』   新約聖書ヨハネによる福音書13章34節

   そして互いに愛しあうことができるとき、すでにそこに神の国が実現すると言われます。

『ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、
見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国は
あなたがたの間にあるのだ。」』   新約聖書ルカによる福音書17章20節-21節

   しかし、その愛に至る道は容易ではありません。

     『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。』   新約聖書ルカによる福音書6章27節b-28
     『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。』
新約聖書マタイによる福音書7章12節a
     『悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り
      上げるのに役立つ言葉を語りなさい。互いに親切に、憐れみの心で接し、赦しあいなさい』
新約聖書エフェソの信徒への手紙4章29節

   聖書は、まことのいのちに生きるためには、私たちがわだかまりを持つ相手や、どうしても許せない相手に対して、自ら和解し、互いに愛しあう関係を築くことを求めます。しかしそれは、生身の人間にとっては本当に困難でつらいことです。それ故私たちクリスチャンは、神様に求めて悔い改め、聖霊の力によって変えられることを願うのです。

     『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストによって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していた
だきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』  新約聖書使徒言行録2章38節
     『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、
      あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。』  新約聖書コリント信徒への手紙1 6章19節
     『だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底
      から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を
      送るようにしなければなりません。』  新約聖書エフェソの信徒への手紙4章22節-24節
   
   ところで今子供たちに、“互いに生かし合う関係”のすばらしさ教えようとするとき、私たちは途方に暮れてしまうのではないでしょうか。私たちのいったい誰が、こうした喜びに満ちた人と人との結びつきを、築き上げることが出来ているのでしょうか。いやそればかりか、私たちの中に、ほんとうに人と人とが深いところで分かりあい、つながりあって生きていく感動を体験した者が、どれほどいるのでしょうか。
   じつは子供たちから突きつけられたいじめの問題は、私たち大人をも巻き込んだ、きわめて現代的な課題を提起しています。物質面での必要を、人より多く満たせば得られると思うような“幸せ”を越えて、真の意味での豊かさと幸せとは何かという問いを、本気で考えることを私たちに迫っています。いじめという、人が互いに損ない合う現実に直面し、人間性が剥奪される状況が生じているからこそ、人が生きることの意味と価値とは、本来いったいどういうことなのかという問いが、鋭く立ちあがってきます。互いに傷つけあって生きていくという悲惨な現実があるからこそ、逆に私たちが、本来どういう関係性に生きていていけば良いのかが、はっきりと映し出されてきます。
   我欲に翻弄される自分自身とどう折り合いをつけ、他者とどう相互の価値を認め合い、励まし合える関係をつくっていけるのか。こうして私たち信仰者が、何千年にも渡って問い続けてきた課題が、いじめの問題を通じて、今この時代の抱える課題とクロスオ-バ-してきます。宗教者が、なりわいと経済の陰に隠れて求めてきた、“永遠のいのち、生かし合いのいのち”への課題が、今いじめ問題を通じて、社会の表面に浮上し、はっきりと誰の目にも明らかな形で現れてきています。人は誰でも、互いに認め合い生かしあって生きていく方が、よほど嬉しく励まされて生きていけるものです。しかしそのための社会をあげた取り組みは、まだ端緒についたばかりです。その実現のための条件と、それを可能にする社会の仕組みを解き明かしていくことは、この時代を生きる私たち大人の、最重要の課題となっています。なぜなら、現在の行き詰った経済と社会の問題を解く鍵は、モノの生産といのちの育みの両輪を噛み合わせていくところにしかないからです。この取り組みが進み始める時、いじめがいかにいのちを傷つけ、生産を阻害するものであるか、その愚かさが、誰の眼にも明らかとなり、生かしあいに生きる欲求が、いじめへの衝動を上回って強くなっていくことが、現実的に期待されることとなるでしょう。

                             フィルムクレッセント
                           広報担当 トリ・コ-ジ