■2016.8.13パンセ通信No.97『先人から学ぶ、暮らしと働き方再生の5つのポイント』
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(1)美しさの秘訣
『美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。美しい唇である為には、美しい(優しい)言葉を使いなさい。』 オードリー・ヘップバーン
自分の中にも他人の中にも、醜い面と美しい面とが混在しているのが人間です。その醜い面、許しがたい面を十二分に見据えた上で、なおそれでも美しい面に目を留め、慈しみの眼差しで見ようとする時、私たちの内面のいのちの力は養われ、オードリー・ヘップバーンのように、自分と世界を美しく変えていくことが出来ます。
前回までのパンセ通信では、現在の日本と世界において、息苦しさと危機が増す状況を見てきました。あるいは異質な者に対するヘイトな気分をも煽られて、不安に耐えかねて思考停止してしまう私たちの現状とその原因についても見てきました。今回からはその原因を踏まえつつ、しかしこの国の深層ではしっかりと息づいている滔々たる慈しみのいのちの流れに立ち返って、私たちが軽やかにおおらかに、そして奔放にいのちを発揮していくことの出来る“もう1つの選択”について考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月15日の月曜日が丁度お盆の時期に当たるためにお休みとし、8月22日の月曜日18時から行うことと致します。祖霊の皆さん方と相見え、いのちの力をこの上なく養われて、この世界に生きることの素晴らしさに目が開かれる盂蘭盆会を過ごせればと思っております。
(2)危機は新しい時代の始まり
今私たちの国では、基本的人権や国民主権が無視される方向へと憲法を改変する準備が整い、天皇陛下御自身の願いとは別に、“天皇制”という国体の護持を復古しようとする勢力が政権を握り、経済は破綻してハイパーインフレを引き起こす方向へと進んでいます。しかし私たちは、他に選択肢を描くことが出来ないものですから、思考を停止させて、ただ現状の流れに身を委ねるままにしています。中にはいくら努力しても報われない自分自身の不幸を、他国や他者のせいにして、排外主義や国内の弱者に対するヘイト攻撃で自分の自我(存在価値)を何とか保たせようとする者も現れてきています。また「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えられずに躊躇したり、相模原での障碍者殺傷事件の犯人のように、「無益な障碍者(あるいは高齢者)は税金の無駄遣いなので抹殺した方が良い」とする意見に一理あると思えてしまうような感覚が、私たちの中でも芽生え始めてきています。
今まで書物や映像記録などを通じてしか、戦前の日本やドイツのような滅びへと向かう暗い社会状況について学ぶ機会が無かったのですが、それを今こうして、自分自身の人生体験として同時代的に生きていける機会に遭遇しています。実際に破綻へと向かう世界において、全体主義的にその危機を乗り越えようと抑圧を強める日本社会に生きて観察してみると、結構いろいろな兆候に気づけて面白いものです。そもそも“危機”という言葉の中には、“機会”の“機”という文字が含まれていることからも分かるように、それは新しい可能性のチャンスでもあります。その新しいチャンスの芽をしっかりと読み取ることが出来た時、私たちの前には、想像もしなかったようなのびやかな原理で動く社会が、新たにその姿を現してくるのかもしれません。
(3)個人と社会を結びつける暮らしと仕事
さて世の中が生きづらくなってきた原因には、私たちの生き方や社会の仕組みに問題があることは間違い無いのですが、一方で私たちの暮らし方や働き方も、生きづらさの大きな要因となっています。暮らしや仕事というのは、個人と社会を結びつける活動領域ですから、この暮らしや仕事が楽しくやりがいあるものであれば、私たちの個人的な意識も、楽しく希望に満ちたものになります。またこの楽しい暮らしや大切な仕事を守るために、戦争などには反対し、社会をもっと効率的で役に立つ仕組みにしていこうとする努力も生まれてくるのです。
それではそもそも暮らしや仕事というのはどういうものなのでしょうか。例えば今私が、小さな農地を耕す自給自足の農民であったとします。「暮らし」というのは、古語辞典を調べてみると、日暮れになるまでの時を過ごすこととありますが、もちろん何もしないで1日ボ~っとしているわけではありません。自分のいのちをつなぎ、少しでも豊かになれるようにと、日々様々な工夫を凝らして生活を営み、結果として自分の知恵と技能を少しずつ高めていくことにもなります。また村の古老や年寄(おとな)たちから、様々な教えを乞うて手ほどきを受け、そのお返しに何かを贈ったり自分の出来る労力を提供したりすることもあるでしょう。ひょっとするとそんな教えを受ける時には、たき火や囲炉裏を囲んで、みんなで一緒に一杯やりながらわいわいがやがや語り合うかもしれません。毎回同じ自慢話を聞かされて飽きてくると、歌や踊りも出てきて楽しいひと時となるでしょう。そう、“暮らす”ということは何よりも楽しいことが基本で、家族を始めとして周囲の人たちと支え合いながら、屈託の無い楽しさを生み出していくことが、暮らしにとってはとても大切な知恵と工夫なのです。なにせ変化の激しい自然環境と向き合って、また領主や隣村や隣人との敵対しがちな人間関係に生きていく現実は、実際には辛いことの方が多いでしょうから。そして明日も活力に満ちて楽しく生きられるように、よく眠り、おいしいものを食べ、健康に留意し、家族が仲良く過ごせるようにと配慮していくことも、暮らしにとっては大事なことです。加えてもう1つ、忘れてはならない大切なことが暮らしにはあります。それは自然の偉大な力に対して畏怖の念を抱き、これを祀って災いを避け、豊かな実りを求めて祈るという営みです。そして自然の恵みに感謝し、そこかしこに働くいのちの力を感じてそれを自分の中に取り入れ、自分の中のいのちの力・生きる力を高めて、苦境に屈すること無くたくましく生きたり、自分と仲間を生かして豊かに満たされて生きることも、暮らしにとっては大切な要素でした。
(4)現在と過去の暮らしの比較から見出せること。
以上中世において、農地を保有(占有)して自給自足する農民を想像して、暮らしについてのイメージを行ってみました。この暮らしのイメージは、豊かな森の恵みと巧みに共生して採取や狩猟でのびやかに生きてきた、縄文の人々の暮らしぶりとも相通じるものがあるでしょう。こうした昔の人たちの暮らしのイメージから、私たちが“暮らす”ということについて現代と比較してみる時、様々に気づかされる点が出てきます。
①本来暮らしと仕事は一体であった
まず第1に、本来暮らしと仕事は一体であったということです。しかし(3)の冒頭では、現代の生きづらさを打開していくために、個人と社会をつなぐ境界領域としての“暮らしと働き方”に焦点を当てて考えるという申し上げ方をしました。つまり現在においては、暮らしと仕事は別の活動として実感されてしまうことが多いのです。その理由は、戦後の日本においては国民の多くが“会社員”となり、1つの職場で勤務するために朝早く家を出て出勤し、日中の貴重な時間のほぼ全てを会社で過ごし、夜家に帰って残された時間がやっと自分の“暮らし”と意識されるライフスタイルを送ってきたからかもしれません。以前パンセ通信No.49で、人間は『生きるために食べるのか、食べるために生きるのか』という議論を考えたことがあるのですが、現代はまさに『生きるために働くのか、働くために生きるのか』という議論が成り立って、私たちはまさに働くために、生きることも暮らすこともすっかり飲み込まれてしまっているという状況に置かれているようです。しかし自給自足の農民や、縄文の時代の人々にとっては、暮らしの中に仕事があって、仕事は自分を生かして良く生きていくための様々な活動の1つでしかありませんでした。
②暮らしは創意と工夫の連続
そして2つ目に気づくことは、暮らしは仕事から解放されて、やっと一息入れることの出来る安らぎの時間や、仕事で溜まったストレスを発散させる時などではなく、創意と工夫の連続する、わくわくする楽しみと満足の連なりだったということです。自然を相手の自給自足の生活や、森や海の恵みを採取し狩猟して生きていくためには、鋭い自然の観察眼や生きる工夫が必要になってきます。さらに自然の恵みが枯渇しないように、年寄(おとな)や古老から世代を超えて自然と共生する知恵も授けられ、さらにそこに自分の発見も付け加えて伝承していったことでしょう。もちろん女性の方はお分かりでしょうけど、掃除や炊事や洗濯などの家事も、毎日が小さな工夫の連続です。このように暮らすということは、ただ毎日が代わり映えせずに過ぎていくことなどではなく、本来は自分が少しでも快適に生きていけるように、創意と工夫に満ちた楽しい時の連なりなのです。そしてこの創意工夫の連続から、自分のいのちを潤したり生きる意欲を高めるためにちょっとした芸術作品を生み出したり、また農具をより良く手入れしたり、弓矢などの狩猟道具の改良を進めていったりもしたのです。つまり、先ほど暮らしの中に仕事があったという言い方をしましたが、まさにこの創意工夫を通じて、暮らしと仕事は全くに1つに融合していたのです。
聖書の中では創世記の3章で、自分の利益を求めてしか生きられなくなったアダムに、神様が次のように罰を下される場面があります。『お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』創世記3:17b~19 つまり仕事は労働(Labor、労苦)となり、パンを得るために我慢して働き、その我慢の連続で人生は塵のごとく空しく終わっていくものとなったのです。しかし本来はそうではありませんでした。暮らしは創意工夫の連続で営まれ、その創意工夫の一環として仕事があって、私たちの祖先は自分の身体もいのちの力も、共に毎日の創意工夫の楽しみのうちに養っていったのです。そして暮らしの一環としての仕事は、単に労働力の切り売りなどではなく、創意工夫によって必ず仕事が終わった後には、私たちの能力と知恵を高めるものとなっていたのです。
③様々な仕事を組み合わせた、リスクに強い暮らし方
このように労働のために生きるのではなく、暮らしのための毎日の創意工夫の中で仕事を行い、いのちの全般を養っていくことの一環として生計を賄っていくような働き方を“なりわい(生業)”と言います。このなりわいについては、私たちの祖先の働きぶりを見ていると、さらに興味深いことが分かってきます。それが現代と比較して、暮らしについて気づくことの出来る3つ目のポイントです。現代の私たちの感覚からすれば、正社員となって1つの会社に勤め、また何かプロフェッショナルな専門性を身に着ければ、それで一生食っていけて安心という観念があります。しかし暮らしとなりわいに生きた私たちの先人たちは、異なりました。例えば縄文の人々は、主食であるどんぐりの実をひたすら効率よく集めることをなりわいとしていたわけではありません。山の自然の恵みにあわせて、栗や様々な果実も採取し、狩猟も鹿やうさぎやイノシシや鳥など多様な獲物を捕えて、そうしたものをすべて組み合わせてなりわいとしていたのです。自給自足の農民も同じです。米だけはなく麦などの雑穀や野菜、そして食用に鶏なども飼っていたかもしれません。さらに歴史上で明らかなことは、農業だけの専従者などおらず、そのほとんどが大工や鍛冶や左官、また髪結いや商人や医者から神官に至るまでのあらゆる職業を兼業していたのです。だから彼らはけっして農民などではなく、百姓(百の姓=職業を持つ者)と呼ばれてきました。これは暮らしやなりわいが、創意工夫の連続であったことを思えば容易に想像のつくことで、自分自身の生活にとって必要とされること、世の中の中にとって必要とされることに臨機応変に対応していって、次々と自分のなりわいとしていた結果、気がつけば百(無数)の仕事がこなせるオールラウンドプライヤーとなっていたのです。
現代の私たちの働き方は、1つの会社にしがみついて働くというもので、生活リスクを避けるために出来るだけ安定した就職先に勤めることを本業とし、保険や資産運用で補足して安心を見出すというものです。でも会社が倒産したり解雇されたりすることもあります。またせっかく身に着けたプロフェッショナルな技術も、かつての印刷業界における写植技術のように、技術進歩と共に消え去る技術も出てきます。そう考えると、現在の私たちの働き方が、けっしてリスクに強いものではないことが分かってきます。ところでこんな仕事の仕方・生活の仕方は、日本では戦後になって始めて一般化したものにすぎず、せいぜい70年程度の歴史しか持ちません。そんな働き方よりは私たちの先人が生きた百姓の方が、いろいろななりわいを身につけて自給自足が出来て、しかも世の中のニーズに応じて様々な得意な仕事を行って複数の収入を得るのですから、こんなにリスクに強い暮らし方はありません。因みに“仕事”というのは、様々ななりわいの中から、他の人の求めに役立ち、しかも自分の得意とするものが分離して成立していったものです。ですからお百姓さんたちは、なりわいで創意工夫のうちに自分の暮らしを賄い、複数の得意な仕事をうまく組み合わせて気分転換を図りながら、生活をうまく成り立たせていったのです。1つの仕事がダメになっても他の仕事の収入がありますし、そもそも創意工夫で暮らしを成り立たせるなりわいの力があるのですから、必要があれば何か世の中のニーズを見つけて、それを仕事にしていけば良いのです。だから専業などよりはるかにリスクに強かったのです。現代に引き直したイメージで言えば、ちょっと働いて月に2~3万円ぐらいの収入になる仕事を、10個ほど組み合わせて持っているといったところでしょうか。現代の感覚からすれば定職がなくて不安定な感じもするのですが、こんな働き方の方が当たり前だった時代が、日本でも戦前までは続いていたのです。そしてこうした働き方によって、世の中に翻弄されることのない生活の安心と余裕、また生きる強さが生まれていったのです。(もちろん歴史の中で戦乱はつきものですが、それは武士階級同士の戦いであって、百姓から見れば、ただ領主が変わるだけのことにしか過ぎませんでした。自分たちの日常の暮らしにまで領主が首をつっこんで、生活をかき乱すことはほとんど無かったのです。)
④暮らしのコツは楽しい関係づくり
なりわいと仕事の仕方以外にも、先人たちの暮らしぶりから教えられることがあります。それが4つ目の気づきです。暮らしというのは、先ほどから申し上げているように、創意と工夫の連続です。それは少しでも暮らしを便利にして、私たちが生き易くなるための対応です。近代になって科学と市場経済を発展させる術を見出してからは、私たちはこの暮らしの便利さを、テクノロジーと経済を発展させることによって個人的に賄う道を選択しました。しかしテクノロジーも経済も発展していない過去の時代に生きた私たちの先人たちは、その代わりに人と人との支え合いと協力によって、暮らしを便利にそして豊かにする道を選択しました。人手のかかる田植えや屋根の葺き替えなどの作業は、みんなで協力して手掛けましたし、子育ても集団で行いました。時には用水路の整備や大掛かりな海辺での追い込み漁などの場合には、1つの集落だけでは人手が足りず、複数の集落が協力して作業を行うこともありました。
こうした協力が行えるようになるためには、人と人とが知り合い、信頼関係を築いておくことが必要です。そしてそのためには、人と人とが出会って結び合うようになっていくための、様々な工夫とノウハウが重要になってきます。この人と人との結び合いのために、祭りを行ったり、慶弔事を行ったり、遊びを交えた共同の作業を行ったりと、様々な工夫を凝らしてきました。そしてそのノウハウの基盤となるものが、何よりも“楽しさ”です。楽しさの中で、人々は心置きなく打ち解けることが出来るようになり、また打ち解けた共同作業の中で、信頼も生まれてくるのです。こうした楽しい共同作業の中から、男女の出会いも生まれ、やがて家族を持つようにもなっていくのです。(自由恋愛が許されず、家と家との婚姻に縛り付けられていたのは、資産を持つ武士階級か大地主だけです。)
⑤多様な価値観での暮らしぶり
最後に5つ目に気づくことは、先人たちが現代に比べて、はるかに多様な価値観で暮らしていたということです。現代の価値観と言えば、“生産”と“効率性”を求めることに尽きると言っても過言ではありません。こうして効率よく働いて生産の成果を上げた者だけが、お金を儲けて成功者となれるのです。子供は、この生産が担えるように教育され、また高齢者や障碍者は、人道的には大切に扱われるのですが、本音では生産に寄与しないために、価値あるものとはみなされません。しかし先人たちの暮らしは、そんな一元的でせせこましいものではありませんでした。京都の町屋に見られるように、何よりも暮らしを快適で味わい深いものとするために、季節の移ろいを微妙に取り込んで、快適さと彩を添えることを暮らしの価値としました。わびやさびの文化も発展させ、また単に金儲けに走ることは野暮なことと揶揄され、粋やいなせといったそれに対抗する価値観も生み出されました。そして何よりも、物資的な生産ばかりでなく、人間に働く意思を生み出させる元となるいのちの力にも敬意が払われました。こうしたいのちの力を与えて人を励ますものとして、自然が尊ばれ、老人や祖霊が敬われました。また自分自身を見つめなおし、いのちの力を頂けるものとして、神仏を拝むことも大切にされました。そして睡眠や健康を整えることにも注意が払われました。こうして実際に良く暮らしていくことばかりでなく、良く暮らせるようになるための内的な力を整えていくことにも、価値観が置かれて配慮されていったのです。
こうした多様な価値観のために、お金持ちになる者ばかりでなく、工夫を凝らして快適に暮らす者や粋に暮らそうとする者、また人に良く暮らせるようになる力を与えようと、ひたすら修行に励む者など、様々な暮らし方がそれぞれに評価されて、世間に捉われることなく今よりもはるかに自由で伸びやかに生きていったのです。じつはこの多様な価値観を許容する暮らし方が、様々なイノベーションを起こす原動力ともなるのです。実際に江戸時代においては、考えられる限りの多様な職業が生み出され、大正時代においてさえも、当時の国勢調査で申告された職業の数は3万5,000種にものぼったと言われます。それが現在の日本標準職業分類では、わずか2,176職種にまで激減してしまっているのです(伊藤洋志著「ナリワイをつくる、人生を盗まれない働き方」より)。
(5)暮らしの再生と地域循環経済を目指して
さて今回は、暮らしとなりわいについて考え、特に先人たちの暮らしぶりを参考に、現代の私たちの暮らしと働き方を再考する手掛かりとなるポイントを5点ばかり挙げて整理してみました。実際にこうした暮らしとなりわいの在り方を、現代の暮らしと働き方にどう当てはめてそれを望ましいものに変えていくかは、これからの課題です。すでに一部の農村部では、実際にこうした取り組みが行われ、暮らしの自立から始まって地域での循環経済を再生し、そのうえでグローバル経済とリンクしていくという試みが着手されています。しかし果たして都市部においても、また企業の中で仕事を行う立場の者においても、なりわい的な暮らしづくりは可能なものなのでしょうか。あるいは百姓的な、多様ななりわいを組み合わせた暮らしは成り立つのでしょうか。さらにそこから踏み込んで、都市部においても地域循環的な経済を目指す“里まちづくり”は実現性のあるものなのでしょうか。今後実際の実験的な試みもあわせて、新たな暮らしづくり&なりわいづくりについて考え、チャレンジしていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月22日の月曜日、18時からです。なお8月15日(月)はお盆のためお休みと致します。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
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(1)美しさの秘訣
『美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。美しい唇である為には、美しい(優しい)言葉を使いなさい。』 オードリー・ヘップバーン
自分の中にも他人の中にも、醜い面と美しい面とが混在しているのが人間です。その醜い面、許しがたい面を十二分に見据えた上で、なおそれでも美しい面に目を留め、慈しみの眼差しで見ようとする時、私たちの内面のいのちの力は養われ、オードリー・ヘップバーンのように、自分と世界を美しく変えていくことが出来ます。
前回までのパンセ通信では、現在の日本と世界において、息苦しさと危機が増す状況を見てきました。あるいは異質な者に対するヘイトな気分をも煽られて、不安に耐えかねて思考停止してしまう私たちの現状とその原因についても見てきました。今回からはその原因を踏まえつつ、しかしこの国の深層ではしっかりと息づいている滔々たる慈しみのいのちの流れに立ち返って、私たちが軽やかにおおらかに、そして奔放にいのちを発揮していくことの出来る“もう1つの選択”について考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月15日の月曜日が丁度お盆の時期に当たるためにお休みとし、8月22日の月曜日18時から行うことと致します。祖霊の皆さん方と相見え、いのちの力をこの上なく養われて、この世界に生きることの素晴らしさに目が開かれる盂蘭盆会を過ごせればと思っております。
(2)危機は新しい時代の始まり
今私たちの国では、基本的人権や国民主権が無視される方向へと憲法を改変する準備が整い、天皇陛下御自身の願いとは別に、“天皇制”という国体の護持を復古しようとする勢力が政権を握り、経済は破綻してハイパーインフレを引き起こす方向へと進んでいます。しかし私たちは、他に選択肢を描くことが出来ないものですから、思考を停止させて、ただ現状の流れに身を委ねるままにしています。中にはいくら努力しても報われない自分自身の不幸を、他国や他者のせいにして、排外主義や国内の弱者に対するヘイト攻撃で自分の自我(存在価値)を何とか保たせようとする者も現れてきています。また「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えられずに躊躇したり、相模原での障碍者殺傷事件の犯人のように、「無益な障碍者(あるいは高齢者)は税金の無駄遣いなので抹殺した方が良い」とする意見に一理あると思えてしまうような感覚が、私たちの中でも芽生え始めてきています。
今まで書物や映像記録などを通じてしか、戦前の日本やドイツのような滅びへと向かう暗い社会状況について学ぶ機会が無かったのですが、それを今こうして、自分自身の人生体験として同時代的に生きていける機会に遭遇しています。実際に破綻へと向かう世界において、全体主義的にその危機を乗り越えようと抑圧を強める日本社会に生きて観察してみると、結構いろいろな兆候に気づけて面白いものです。そもそも“危機”という言葉の中には、“機会”の“機”という文字が含まれていることからも分かるように、それは新しい可能性のチャンスでもあります。その新しいチャンスの芽をしっかりと読み取ることが出来た時、私たちの前には、想像もしなかったようなのびやかな原理で動く社会が、新たにその姿を現してくるのかもしれません。
(3)個人と社会を結びつける暮らしと仕事
さて世の中が生きづらくなってきた原因には、私たちの生き方や社会の仕組みに問題があることは間違い無いのですが、一方で私たちの暮らし方や働き方も、生きづらさの大きな要因となっています。暮らしや仕事というのは、個人と社会を結びつける活動領域ですから、この暮らしや仕事が楽しくやりがいあるものであれば、私たちの個人的な意識も、楽しく希望に満ちたものになります。またこの楽しい暮らしや大切な仕事を守るために、戦争などには反対し、社会をもっと効率的で役に立つ仕組みにしていこうとする努力も生まれてくるのです。
それではそもそも暮らしや仕事というのはどういうものなのでしょうか。例えば今私が、小さな農地を耕す自給自足の農民であったとします。「暮らし」というのは、古語辞典を調べてみると、日暮れになるまでの時を過ごすこととありますが、もちろん何もしないで1日ボ~っとしているわけではありません。自分のいのちをつなぎ、少しでも豊かになれるようにと、日々様々な工夫を凝らして生活を営み、結果として自分の知恵と技能を少しずつ高めていくことにもなります。また村の古老や年寄(おとな)たちから、様々な教えを乞うて手ほどきを受け、そのお返しに何かを贈ったり自分の出来る労力を提供したりすることもあるでしょう。ひょっとするとそんな教えを受ける時には、たき火や囲炉裏を囲んで、みんなで一緒に一杯やりながらわいわいがやがや語り合うかもしれません。毎回同じ自慢話を聞かされて飽きてくると、歌や踊りも出てきて楽しいひと時となるでしょう。そう、“暮らす”ということは何よりも楽しいことが基本で、家族を始めとして周囲の人たちと支え合いながら、屈託の無い楽しさを生み出していくことが、暮らしにとってはとても大切な知恵と工夫なのです。なにせ変化の激しい自然環境と向き合って、また領主や隣村や隣人との敵対しがちな人間関係に生きていく現実は、実際には辛いことの方が多いでしょうから。そして明日も活力に満ちて楽しく生きられるように、よく眠り、おいしいものを食べ、健康に留意し、家族が仲良く過ごせるようにと配慮していくことも、暮らしにとっては大事なことです。加えてもう1つ、忘れてはならない大切なことが暮らしにはあります。それは自然の偉大な力に対して畏怖の念を抱き、これを祀って災いを避け、豊かな実りを求めて祈るという営みです。そして自然の恵みに感謝し、そこかしこに働くいのちの力を感じてそれを自分の中に取り入れ、自分の中のいのちの力・生きる力を高めて、苦境に屈すること無くたくましく生きたり、自分と仲間を生かして豊かに満たされて生きることも、暮らしにとっては大切な要素でした。
(4)現在と過去の暮らしの比較から見出せること。
以上中世において、農地を保有(占有)して自給自足する農民を想像して、暮らしについてのイメージを行ってみました。この暮らしのイメージは、豊かな森の恵みと巧みに共生して採取や狩猟でのびやかに生きてきた、縄文の人々の暮らしぶりとも相通じるものがあるでしょう。こうした昔の人たちの暮らしのイメージから、私たちが“暮らす”ということについて現代と比較してみる時、様々に気づかされる点が出てきます。
①本来暮らしと仕事は一体であった
まず第1に、本来暮らしと仕事は一体であったということです。しかし(3)の冒頭では、現代の生きづらさを打開していくために、個人と社会をつなぐ境界領域としての“暮らしと働き方”に焦点を当てて考えるという申し上げ方をしました。つまり現在においては、暮らしと仕事は別の活動として実感されてしまうことが多いのです。その理由は、戦後の日本においては国民の多くが“会社員”となり、1つの職場で勤務するために朝早く家を出て出勤し、日中の貴重な時間のほぼ全てを会社で過ごし、夜家に帰って残された時間がやっと自分の“暮らし”と意識されるライフスタイルを送ってきたからかもしれません。以前パンセ通信No.49で、人間は『生きるために食べるのか、食べるために生きるのか』という議論を考えたことがあるのですが、現代はまさに『生きるために働くのか、働くために生きるのか』という議論が成り立って、私たちはまさに働くために、生きることも暮らすこともすっかり飲み込まれてしまっているという状況に置かれているようです。しかし自給自足の農民や、縄文の時代の人々にとっては、暮らしの中に仕事があって、仕事は自分を生かして良く生きていくための様々な活動の1つでしかありませんでした。
②暮らしは創意と工夫の連続
そして2つ目に気づくことは、暮らしは仕事から解放されて、やっと一息入れることの出来る安らぎの時間や、仕事で溜まったストレスを発散させる時などではなく、創意と工夫の連続する、わくわくする楽しみと満足の連なりだったということです。自然を相手の自給自足の生活や、森や海の恵みを採取し狩猟して生きていくためには、鋭い自然の観察眼や生きる工夫が必要になってきます。さらに自然の恵みが枯渇しないように、年寄(おとな)や古老から世代を超えて自然と共生する知恵も授けられ、さらにそこに自分の発見も付け加えて伝承していったことでしょう。もちろん女性の方はお分かりでしょうけど、掃除や炊事や洗濯などの家事も、毎日が小さな工夫の連続です。このように暮らすということは、ただ毎日が代わり映えせずに過ぎていくことなどではなく、本来は自分が少しでも快適に生きていけるように、創意と工夫に満ちた楽しい時の連なりなのです。そしてこの創意工夫の連続から、自分のいのちを潤したり生きる意欲を高めるためにちょっとした芸術作品を生み出したり、また農具をより良く手入れしたり、弓矢などの狩猟道具の改良を進めていったりもしたのです。つまり、先ほど暮らしの中に仕事があったという言い方をしましたが、まさにこの創意工夫を通じて、暮らしと仕事は全くに1つに融合していたのです。
聖書の中では創世記の3章で、自分の利益を求めてしか生きられなくなったアダムに、神様が次のように罰を下される場面があります。『お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』創世記3:17b~19 つまり仕事は労働(Labor、労苦)となり、パンを得るために我慢して働き、その我慢の連続で人生は塵のごとく空しく終わっていくものとなったのです。しかし本来はそうではありませんでした。暮らしは創意工夫の連続で営まれ、その創意工夫の一環として仕事があって、私たちの祖先は自分の身体もいのちの力も、共に毎日の創意工夫の楽しみのうちに養っていったのです。そして暮らしの一環としての仕事は、単に労働力の切り売りなどではなく、創意工夫によって必ず仕事が終わった後には、私たちの能力と知恵を高めるものとなっていたのです。
③様々な仕事を組み合わせた、リスクに強い暮らし方
このように労働のために生きるのではなく、暮らしのための毎日の創意工夫の中で仕事を行い、いのちの全般を養っていくことの一環として生計を賄っていくような働き方を“なりわい(生業)”と言います。このなりわいについては、私たちの祖先の働きぶりを見ていると、さらに興味深いことが分かってきます。それが現代と比較して、暮らしについて気づくことの出来る3つ目のポイントです。現代の私たちの感覚からすれば、正社員となって1つの会社に勤め、また何かプロフェッショナルな専門性を身に着ければ、それで一生食っていけて安心という観念があります。しかし暮らしとなりわいに生きた私たちの先人たちは、異なりました。例えば縄文の人々は、主食であるどんぐりの実をひたすら効率よく集めることをなりわいとしていたわけではありません。山の自然の恵みにあわせて、栗や様々な果実も採取し、狩猟も鹿やうさぎやイノシシや鳥など多様な獲物を捕えて、そうしたものをすべて組み合わせてなりわいとしていたのです。自給自足の農民も同じです。米だけはなく麦などの雑穀や野菜、そして食用に鶏なども飼っていたかもしれません。さらに歴史上で明らかなことは、農業だけの専従者などおらず、そのほとんどが大工や鍛冶や左官、また髪結いや商人や医者から神官に至るまでのあらゆる職業を兼業していたのです。だから彼らはけっして農民などではなく、百姓(百の姓=職業を持つ者)と呼ばれてきました。これは暮らしやなりわいが、創意工夫の連続であったことを思えば容易に想像のつくことで、自分自身の生活にとって必要とされること、世の中の中にとって必要とされることに臨機応変に対応していって、次々と自分のなりわいとしていた結果、気がつけば百(無数)の仕事がこなせるオールラウンドプライヤーとなっていたのです。
現代の私たちの働き方は、1つの会社にしがみついて働くというもので、生活リスクを避けるために出来るだけ安定した就職先に勤めることを本業とし、保険や資産運用で補足して安心を見出すというものです。でも会社が倒産したり解雇されたりすることもあります。またせっかく身に着けたプロフェッショナルな技術も、かつての印刷業界における写植技術のように、技術進歩と共に消え去る技術も出てきます。そう考えると、現在の私たちの働き方が、けっしてリスクに強いものではないことが分かってきます。ところでこんな仕事の仕方・生活の仕方は、日本では戦後になって始めて一般化したものにすぎず、せいぜい70年程度の歴史しか持ちません。そんな働き方よりは私たちの先人が生きた百姓の方が、いろいろななりわいを身につけて自給自足が出来て、しかも世の中のニーズに応じて様々な得意な仕事を行って複数の収入を得るのですから、こんなにリスクに強い暮らし方はありません。因みに“仕事”というのは、様々ななりわいの中から、他の人の求めに役立ち、しかも自分の得意とするものが分離して成立していったものです。ですからお百姓さんたちは、なりわいで創意工夫のうちに自分の暮らしを賄い、複数の得意な仕事をうまく組み合わせて気分転換を図りながら、生活をうまく成り立たせていったのです。1つの仕事がダメになっても他の仕事の収入がありますし、そもそも創意工夫で暮らしを成り立たせるなりわいの力があるのですから、必要があれば何か世の中のニーズを見つけて、それを仕事にしていけば良いのです。だから専業などよりはるかにリスクに強かったのです。現代に引き直したイメージで言えば、ちょっと働いて月に2~3万円ぐらいの収入になる仕事を、10個ほど組み合わせて持っているといったところでしょうか。現代の感覚からすれば定職がなくて不安定な感じもするのですが、こんな働き方の方が当たり前だった時代が、日本でも戦前までは続いていたのです。そしてこうした働き方によって、世の中に翻弄されることのない生活の安心と余裕、また生きる強さが生まれていったのです。(もちろん歴史の中で戦乱はつきものですが、それは武士階級同士の戦いであって、百姓から見れば、ただ領主が変わるだけのことにしか過ぎませんでした。自分たちの日常の暮らしにまで領主が首をつっこんで、生活をかき乱すことはほとんど無かったのです。)
④暮らしのコツは楽しい関係づくり
なりわいと仕事の仕方以外にも、先人たちの暮らしぶりから教えられることがあります。それが4つ目の気づきです。暮らしというのは、先ほどから申し上げているように、創意と工夫の連続です。それは少しでも暮らしを便利にして、私たちが生き易くなるための対応です。近代になって科学と市場経済を発展させる術を見出してからは、私たちはこの暮らしの便利さを、テクノロジーと経済を発展させることによって個人的に賄う道を選択しました。しかしテクノロジーも経済も発展していない過去の時代に生きた私たちの先人たちは、その代わりに人と人との支え合いと協力によって、暮らしを便利にそして豊かにする道を選択しました。人手のかかる田植えや屋根の葺き替えなどの作業は、みんなで協力して手掛けましたし、子育ても集団で行いました。時には用水路の整備や大掛かりな海辺での追い込み漁などの場合には、1つの集落だけでは人手が足りず、複数の集落が協力して作業を行うこともありました。
こうした協力が行えるようになるためには、人と人とが知り合い、信頼関係を築いておくことが必要です。そしてそのためには、人と人とが出会って結び合うようになっていくための、様々な工夫とノウハウが重要になってきます。この人と人との結び合いのために、祭りを行ったり、慶弔事を行ったり、遊びを交えた共同の作業を行ったりと、様々な工夫を凝らしてきました。そしてそのノウハウの基盤となるものが、何よりも“楽しさ”です。楽しさの中で、人々は心置きなく打ち解けることが出来るようになり、また打ち解けた共同作業の中で、信頼も生まれてくるのです。こうした楽しい共同作業の中から、男女の出会いも生まれ、やがて家族を持つようにもなっていくのです。(自由恋愛が許されず、家と家との婚姻に縛り付けられていたのは、資産を持つ武士階級か大地主だけです。)
⑤多様な価値観での暮らしぶり
最後に5つ目に気づくことは、先人たちが現代に比べて、はるかに多様な価値観で暮らしていたということです。現代の価値観と言えば、“生産”と“効率性”を求めることに尽きると言っても過言ではありません。こうして効率よく働いて生産の成果を上げた者だけが、お金を儲けて成功者となれるのです。子供は、この生産が担えるように教育され、また高齢者や障碍者は、人道的には大切に扱われるのですが、本音では生産に寄与しないために、価値あるものとはみなされません。しかし先人たちの暮らしは、そんな一元的でせせこましいものではありませんでした。京都の町屋に見られるように、何よりも暮らしを快適で味わい深いものとするために、季節の移ろいを微妙に取り込んで、快適さと彩を添えることを暮らしの価値としました。わびやさびの文化も発展させ、また単に金儲けに走ることは野暮なことと揶揄され、粋やいなせといったそれに対抗する価値観も生み出されました。そして何よりも、物資的な生産ばかりでなく、人間に働く意思を生み出させる元となるいのちの力にも敬意が払われました。こうしたいのちの力を与えて人を励ますものとして、自然が尊ばれ、老人や祖霊が敬われました。また自分自身を見つめなおし、いのちの力を頂けるものとして、神仏を拝むことも大切にされました。そして睡眠や健康を整えることにも注意が払われました。こうして実際に良く暮らしていくことばかりでなく、良く暮らせるようになるための内的な力を整えていくことにも、価値観が置かれて配慮されていったのです。
こうした多様な価値観のために、お金持ちになる者ばかりでなく、工夫を凝らして快適に暮らす者や粋に暮らそうとする者、また人に良く暮らせるようになる力を与えようと、ひたすら修行に励む者など、様々な暮らし方がそれぞれに評価されて、世間に捉われることなく今よりもはるかに自由で伸びやかに生きていったのです。じつはこの多様な価値観を許容する暮らし方が、様々なイノベーションを起こす原動力ともなるのです。実際に江戸時代においては、考えられる限りの多様な職業が生み出され、大正時代においてさえも、当時の国勢調査で申告された職業の数は3万5,000種にものぼったと言われます。それが現在の日本標準職業分類では、わずか2,176職種にまで激減してしまっているのです(伊藤洋志著「ナリワイをつくる、人生を盗まれない働き方」より)。
(5)暮らしの再生と地域循環経済を目指して
さて今回は、暮らしとなりわいについて考え、特に先人たちの暮らしぶりを参考に、現代の私たちの暮らしと働き方を再考する手掛かりとなるポイントを5点ばかり挙げて整理してみました。実際にこうした暮らしとなりわいの在り方を、現代の暮らしと働き方にどう当てはめてそれを望ましいものに変えていくかは、これからの課題です。すでに一部の農村部では、実際にこうした取り組みが行われ、暮らしの自立から始まって地域での循環経済を再生し、そのうえでグローバル経済とリンクしていくという試みが着手されています。しかし果たして都市部においても、また企業の中で仕事を行う立場の者においても、なりわい的な暮らしづくりは可能なものなのでしょうか。あるいは百姓的な、多様ななりわいを組み合わせた暮らしは成り立つのでしょうか。さらにそこから踏み込んで、都市部においても地域循環的な経済を目指す“里まちづくり”は実現性のあるものなのでしょうか。今後実際の実験的な試みもあわせて、新たな暮らしづくり&なりわいづくりについて考え、チャレンジしていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月22日の月曜日、18時からです。なお8月15日(月)はお盆のためお休みと致します。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)