■2016.8.6パンセ通信No.96『障碍者は社会に不要?-なぜ人を殺してはいけないのか』
皆 様 へ
(1)日本で起こった弱者に対するテロ行為
①相模原障碍者施設で起こった障碍者殺傷事件
7月26日に相模原の障碍者施設で起こった障碍者の殺戮事件は、世界中に嫌悪感を催させました。障碍者の生きる価値を否定する若者が、障碍者施設に侵入し、19人の障碍者を殺害し26人を負傷させたのです。現在世界中でテロが頻発していますが、このテロは他国で発生しているテロとは異なり、現在の日本の状況を暗示して特徴的です。最近世界で頻発しているテロには、だいたい次の3つの傾向が見られます。①現状の虐げられた環境や将来の展望の無さから自暴自棄になった若者等が、憤りを込めて社会に衝撃を与えることで、自己の存在意義をアピールしようとする。②この身勝手な殺戮行為を正当化するために、反先進国(IS支持)、反白人、反(抑圧的な)社会等の大義を掲げている。③要人や重要施設の警備が厳しくなっているので、最近のテロ活動は一般人に向けられることも多くなっているが、あくまでもその対象は、先進国や現体制といった強者に対してである(弱者の強者に対する一撃の手段としてのテロ)
②弱者攻撃を抑制する社会の力の弱まり
今回日本で起こった事件も、追い込まれた若者が、障碍者は本人にとっても社会にとってもその存在は不幸であるという“大義”を掲げている点で、他のテロと共通します。しかし異なっているのは、その対象が強者ではなくて弱者に対して向けられているという点です。それが私たちに言いようの無い嫌悪を感じさせてしまうのです。なぜこんなおぞましいことが今の日本で起こってしまうのでしょうか。もちろん人間には、いろんな素因を持った者がいます。生来のテロリストも居れば人殺しに快感を覚える者、そして今回の犯人のように弱者を抹殺することに大義を感じる者まで様々です。従って今回の事件も、そんな特殊な素因を持った人間が引き起こした、特殊な事件と考えることは間違いではないでしょう。しかし問題なのは、私たちがどれほどおぞましい素因を持っていたとしても、通常はそうした素因の発現は、社会的・文化的に抑制されるものなのです。なぜなら社会のマジョリティーの人々が、そんな行為が実行されることを許容しないからです。しかしもし私たちの社会の方に、そうした素因の発現を抑える力が弱まっているとしたら。いやそれどころか、気づかぬ間に容認したり助長したりさえもする機運があったとしたらどうでしょうか。はじめは異常な特殊な事件として片づけられていたものが、誰もがおぞましさに眉をひそめている間に次第にそうした事件の発生の頻度が増し始め、ついにはT4作戦(ナチスドイツによる優生学思想に基づく障害者の絶滅計画)や戦前の日本における障害者の人権剥奪と切り捨て政策にまでも至ってしまう歴史を、私たちはすでに経験しています。前々回のパンセ通信で、すでに世界に先駆けてマイルド・ファシズムが進展する日本の状況について見てきましたが、弱者に対するテロが日本だけで生じたことは、その事実を証するものかもしれません。実際すでにこの国では、一部の者たちが組織的に執拗に在日韓国・朝鮮人の“特権”を許さないと称して、マイノリティーであり本来は弱者である者に対するヘイト攻撃を繰り返し、次第にそうした異様な状況が、私たちの意識の中で常態化しつつあるのです。
③危機を軽やかに切り抜けていくために
このように考えてくると、この事件が垣間見せる日本の社会の現状はなかなかに深刻です。ましてや本当に私たちの国でマイルド・ファシズムが進展していて、人々が深刻な現状から目を背けてアベノミクスという甘い幻想にしがみつこうとしているなら、危機の深刻さを論理的に告発してみても、人々は聞く耳を持たないでしょう。しかし幸いなことに戦前と状況が異なるのは、確かに危機は進展しているのですが、その深層ではこの国本来のいのちの慈しみに溢れた伸びやかな文化が機を熟して、次の時代を主導する原理として、今にも殻を破って現れ出ようと待ち受けているのです。もしそうだとするなら、表層の危機を軽やかにかわして切りぬけて、深層でうねるいのちの力を発現させて、誰もがのびやかに自分のいのちを発揮して生きられるようになる道が、少し視点を変えれば誰にでも見えてくるはずです。その道筋を皆さんとご一緒に考えて見えるようにし、その実現のためのプロセスを実践していってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月8日の月曜日18時からで、場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
• なぜ弱者の存在を否定してはいけないのか。なぜ人を殺してはいけないのか。
①ファシズムと弱者の存在否定
ところでファシズムというのは、個人としての自分自身の存在の基盤が崩れて空無化する一方で、国家や民族などの大きな集合体と自分を一体化させ、それによって自分自身を絶大なものとしてアイデンティティを取り戻そうとする現象です。そしてまたその大きな集合体をさらに強化して力あるものにし、自分もまたその栄光に預かるために、集合体を強化する力に主体的に参与して走り続ける運動でもあります。この強大な1つまとまりの力となる運動の前では、個々人の存在などは価値を持ちません。また庶民の生活の実態とはかけ離れた次元で無用な政争に明け暮れる民主主義的政体も、堕落した遺物として見られるようになってくるのです。こうした状況下においては、あるいはすでにこうした心性を持つに至った人間においては、その全体の力の発揮にとって障害となるものは取り除かれるべきものであり、自分自身がその除去行為に参与することは、今回の障害者施設殺傷事件の犯人のように、大義あることと意識されるようになってくるのです。
それではこうした“大義”を振りかざして、障碍者を始めとした弱者の存在意義を認めず、それを全体の力の妨げになるからといって抹殺しようとする者に対して、私たちはどう反駁すれば良いのでしょうか。これはパンセ通信No.46でも触れましたが、私たちがなぜ人を殺してはいけないかという問題とも関わってくるものと思われます。またこうした弱者や他者の存在を否定する心性の背景となる、自分自身の存在の空無化とはいったいどういうことで、それはなぜ生じてくるのでしょうか。そして私たちが、もはや他者の存在の否定など思いもよらなくなるほどに自分自身のいのちが意味と価値に満たされて、おおらかに伸びやかに自分らしさを発揮して、思いっきりいのちの力に満たされて生きていけるようになるためには、どうしていけば良いのでしょうか。そのプロセスについて、順を追って考えていってみたいと思います。
②本当に障碍者は社会にとって無益か?
最初に、私たちはなぜ弱者の生存を否定してはいけないのかということから、考えていってみたいと思います。確かに障碍者施設殺傷事件の植松容疑者が語るとおり、社会にとって障碍者は無益であり、実際にそのように無益な存在であるとしたならば、障碍者自身にとっても自分の存在は不幸なものとなることでしょう。しかしもし障碍者が無益な存在では無いとしたら、この理論はあっさりと崩れ去ってしまいます。それどころか、障碍者が人間の集団の中で有用で、私たちに力を与える存在でさえあるとしたなら、障碍者を抹殺しようなどという発想は、もはや誰もが惑わされること無く、とんでもない考えだと分かるようになってくるのです。(元来とんでも無い考えなのですが、それがふとそう思えなくなってしまうところに現代の病理があります。)
③いのちの力を高める障碍者の役割
例えば障碍児を抱えた親御さんが、様々な葛藤を抱えながらもそれを乗り越え、その子が親御さんやその周囲の方々にとって、どれほど大きな生きる力の支えとなっているかという事例は、よく見聞きするところです。また星野富弘さんのような障碍を持つ方の詩と絵画が私たちを励まし、パラリンピックに挑む選手の姿が、私たちに生きる勇気と力を与えるのも私たちの経験するところです。つまり障碍のある人たちは、人間に生きる勇気と力を与えその人生を励ますという、極めて重要な役割を果たすことの出来る存在なのです。もちろん人間の社会にとって、生産活動に従事できるかどうかということは非常に重要な要素です。しかし一人の人間の生産能力が優れていたところで、社会全体としての生産能力が優れているとは限りません。あるいは社会全体としての危機や変化への対応能力、また新しいイノベーションを生み出す力が優れているとも限りません。それは例えば戦争において、一人ひとりの兵士の体力や武力がどんなに優れていたところで、戦いには勝てないのと同じです。勝つためには全体としての部隊の連携がとれていないといけませんし、物資の補給も必要です。またそもそも戦争が継続できる経済力も重要です。このように一人の人間の生産能力というのは、全体としての社会が豊かに繁栄し、今後も生き残っていくために必要な、一つの要素でしかないのです。さらにまたその一人の人間の生産能力でさえ、自分一人だけではその健康や意欲の維持は難しく、様々な人々の支えや互いに認めて励まし合う人間関係が必要なのです。
④モノの生産の価値しか評価せず、いのち価値を見落とす現代社会
人間に必要な能力は生産能力で、人の価値は、競争に勝ってお金を稼ぐ能力によって測られるというような、個人の利己的努力に特化した極めて狭いものの見方で人間を評価するようになったのは、人類史上で言えば、せいぜいここ2~300年のことにしか過ぎません。人間にはモノを生産する能力、利己的に努力する能力と合わせて、少なくとも生きる意欲と力を励まし高めあう能力、つまりいのちの価値を生み出して育みあい、社会全体としての柔軟な共存と発展性を高める能力も必要であることは、このパンセ通信を通じて一貫して申し上げてきたテーマであります。そのいのちの価値というのは、言い換えれば一人一人のいのちの力を発揮させてのびやかに調和させ、全体としての生産性を高めると同時に、変化や危機にもおおらかに対応し、遊び心をもって楽しく軽やかにイノベーションを起こしていく力でもあるのです。
⑤他者への眼差しによって変わる自分の運命
障碍者というのは、じつはこのいのちの価値の発揮においてきわめて優れた働きを担っているのです。しかも健常者には無い能力を発達させているのですが、その能力は未だ顧みておられず、健常者には未知のままに残されています。障碍者は、健常者には聞き取れない音を聞き分け、感じ取れない触角を感じ、気づかないものを見分け、思いつかない方法でコミュニケーションを取る方法を身につけているのです。しかも健常者よりも心身の条件において制約された状況の中で、私たちよりももっとうまい方法で、いのちを豊かに発揮させる方法を工夫しているのです。こうした障碍者の方々が体得されているノウハウは、私たちが理解しようとさえすれば、この社会をもっと豊かにするために十二分に用いることが出来るのです。大切なことはこのように、自分たちとは異なる特質を有する障碍者に対して、邪魔者として見るのではなく、自分たちのいのちをもっと豊かに育む可能性のある対象として眼差しを向けことです。それは障碍者に関わらず、老人に対しても認知症の人たちに対しても、さらには一般的なすべての他者に対しても言えることでしょう。このような眼差しの向け方をする時、私たちのいのちの可能性は拡大し、いのちの力が育まれるのです。しかしもし邪魔者と見るなら、私たちは視野を狭めて窮屈になり、いのちの可能性を閉ざして息苦しい生き様に自分と社会を追い込むことになっていくのです。ましてや不必要な存在として抹殺しようとするなら、それは自分の手で自分の生きる可能性を奪い去り、自分の持ついのちの力を限りなく委縮させ、誰も信用出来ずにただ自分の力をだけを頼って生きていくという、日々不安におののく暮らしに堕していくことになってしまうのです。
⑥弱者の価値を否定したり、人を殺してはいけない3つの理由
さてこのように考えてくると、「なぜ私たちは障碍者や弱者を攻撃してならないのか、また他者を殺してはならないのか」という疑問に、自ずから答えが出てくるように思われます。まず第1にそんな観念は、結局は自分自身の生きる可能性を狭め、自分自身の伸びやかないのちの力を圧殺してしまうからです。例えて言うならば、失業の恐怖と不安から、ブラック企業であってもそこにしがみついて働き、お金を得るために時間も健康もいのちも奪いとられて生きていくような人生と同じでしょう。視野が狭まり、1つの価値観しか持てなくなって、やがて脅迫的な観念に自分を追い込んでいってしまうのです。しかもそうして人生と引き換えに得た大切なお金も、結局は溜まりに溜まったストレスの解消で散在し、また医者通いで消えていってしまうことになるのです。これと同じように、障碍者や他者は社会のためにも自分のためにもならないという一面的な思い込みは、結局は自分自身と社会を損なう結果をもたすことになってしまうのです。
障碍者や他者を殺してはいけない2つ目の理由は、第1の理由と裏腹の関係になりますが、他者との関わりあいの中で楽しくお互いの可能性を発揮させあい、思う存分に創造性に飛んだチャレンジを行って、いのちの力をどこまでも伸ばしていく機会を、他者を殺すことで自ら摘み取ってしまうことになるのです。そして第3の理由は、これは至極当然な結果なのですけど、もし障碍者などの弱者を殺しても良い、邪魔な他者を殺しても良いということになれば、自分自身が弱者や邪魔な存在になった時に、不必要な者と見なされて、殺されてしまう可能性があるからです。そうなれば人と人との関係は、殺すか殺されるかの関係になって、やがて社会は滅んでいってしまいます。このように弱者や邪魔な他者を取り除くことは、一見不効率を取り除いて全体社会を強化するようでいて、実はその結果は、社会の力を弱め、自分のいのちの力を損ない、滅びヘの階梯を早めることになってしまうのです。
もう1度言い換えて整理すると、次のようにまとめられるでしょう。なぜ弱者を不要としてはいけないのか。なぜ他者を殺してはいけないのか。その答えは第1に、自分自身のいのちの力を弱め、自分自身を殺すことにつながっていってしまうからです。第2には、他者と共に生き社会全体の繁栄の中で、自分の可能性を発揮する機会を奪ってしまうからです。そして第3には、殺すか殺されるかの疑心暗鬼の中で、自分も社会全体も滅んでいってしまうからです。
• なぜ弱者は不要と思う心が生まれるのか
①時代の終焉とこれまでの価値観
それではいったい何故私たちの心の中に、不効率な弱者は不要という思いが生じてきてしまうのでしょうか。さらには「人を殺して何が悪い」といったような開き直りとも思える問いに、論理的に反駁しようとすると、一瞬たじろぐ思いが生じてきてしまうのでしょうか。これについてはまずその背景となる時代状況の変化を見ていきながら、3つほどの理由について考えていってみたいと思います。
まず第1に、1つの時代が終焉しようとしているのに、未だにその時代の価値観にしがみつくことから生じる矛盾が挙げられます。近代以降これまでの時代というのは、個人の物質的な富に対する欲望が解放され、これによって私たちが、豊かになるための自由な競争を繰り広げてきた時代でした。この時代の価値観というのは、早い者勝ちの個人の成功であり、いかに競争に勝ち抜く能力を身に着けるかということでした。こうした社会原理と価値観によって、人間社会は稀に見る繁栄を遂げてきたのです。しかし今その社会が行き詰っています。1つには資源と環境の制約によって、これ以上身勝手な利己的利益拡大の経済活動が困難となってきているからです。2つ目には、この資源・環境制約と、格差拡大に伴う市場の不公正によって、経済成長が困難となってきているからです。このことは深刻で、誰もが頑張れば成功できる、今より生活は良くなっていくという私たちの価値観が打ち砕かれ、将来への希望を消失させる要因となってきているのです。
②自分自身の存在価値と自我を保たせるための弱者攻撃
こうした時代の行き詰り状況の中で、私たちの心の持ち方として、3つほどのタイプが現れてきています。1つは時代状況は変わっても、新しい価値観が見いだせず、そのためにより一層これまでの価値観にしがみつこうとするタイプです。しかし実際に競争に勝ち抜けるほどに能力をアップして、成功を収めることは、ますます困難となってきています。そこで自分を責めてニート化してしまうか、あるいはうまく行かない理由の一切合切を他者のせいにする心情が現れてくるのです。その際に、その原因を他国に押し付けたり、自国内の弱者のせいにすることは、権力そのものに歯向かうことに比べればはるかに容易です。そのために、たやすくこうしたヘイト心情を煽る扇動に乗ってしまう者が現れてくるのです。さらにこうした攻撃しやすい弱者が、何らかの不当な特権や利得を得ているという理屈をこじつけ、大義をもって心置きなく攻撃することで、何とか自分自身の存在価値と自我を保たせようとするのです。この時、自分自身の心の内実は(2)①で述べたように空無です。この空無さを埋めるために、弱者の存在を否定し、それを攻撃することで大義を得ることが必要となってくるのです。これが時代の終焉にあたって、弱者や他者を攻撃する心情が生まれてくる理由です。
時代の行き詰り状況にあっては、他にも2つほどの心の持ち方のタイプも現れてきます。1つは状況が刻々と悪化していくのは分かるのですが、有効な対応策が見出せず、まともに考えると絶望して辛いので問題を先送りし、なんとかなるだろうと思考停止してしまうタイプです。これが2つ目の心の持ち方のタイプです。恐らく現状では、このタイプの人が一番多いでしょう。しかしこのタイプも、心が空無化していることには間違いありません。そして3つ目のタイプは、何とかせねばと思ってはいるのですが、未だ新しい価値観も時代の展望も見出せずに、今まさにあがいている最中のタイプです。しかしこの2つ目と3つ目のタイプも共に、自分中心、効率性中心で物質的富の生産を拡大させるという現代の価値観を超えられていないので、非生産的な障碍者などの弱者に存在意味はあるのか、何故自己実現の妨げとなる場合に他者を殺してはいけないのか、という問いに適切に答えられないでいるのです。
③自己中心のものの見方と確かさの実感を見失わせる社会環境
次に私たちが、弱者の存在価値を十分に認められなくなる理由として、近現代の価値観の中で培われてきてしまった私たちの心性があります。市場経済と資本主義の発達の中で、とにかく私たちは自分が努力して成功すれば、自分も社会も豊かになって幸せになれるという心性を骨の髄まで染みつかせてきました。そのために私たちは、常に自分を起点として物事を見、自分にとっての有用性としてのみ他者や事物の価値を判断するようになってしまったのです。確かに市民社会の成立以降のここ3~400年間、実際にそれでうまくやってこられてきたものですから、私たちは出来るだけ競争原理と能力主義の社会の価値観に適合させて、金を儲けて成功できるように自分を鍛錬し、それに反する自然な人間的心性についてはこれをを押し殺す教育を、自分にも子供にも施してきたのです。
この結果私たちには、他者の視点から自分を相対的に見たり、全体の利益や調和の視点から物事を価値判断することが困難となってしまったのです。こうしたものの見方が自然に出来るようになれば、(2)⑥で述べたように、「弱者は邪魔者」とか「なぜ人を殺してはいけないか」という議論が、いかに自分にも全体にも不利益をもたらす愚かなものであるかということが、容易にわかるようになるのです。さらに私たちが、小さい頃から自分を押し殺して詰め込み教育を行うのではなく、何が本当に自分にとって心地よいことなのか、何が本当に大切なことなのかを、知識だけではなく実感をもって判断できるような育ち方をしてくれば、「弱者は邪魔者」とか「なぜ人を殺してはいけないか」という議論などは、生物の本能的な感性として、躊躇なくおかしいと気づけるようになるのです。こうしたものの見方が出来ず、実感が麻痺してしまっていることが、弱者は不要という気持ちが起こってきてしまう第2の理由でしょう。
④現実の暮らしの崩壊
そして私たちの心が空無化し、無益な障碍者など抹殺しても良いと思うほどに私たちの心が頑なになってしまう第3の理由は、ただ単に自己中心的な心性の問題ばかりでなく、現実の暮らしが崩れてきていることもあるのです。雑誌「暮らしの手帳」の創刊者であり編集長でもあった花森安治さんは、「守るべき大切な暮らしがあれば、人は戦争など起こさない」と言って、戦後の混乱の中で懸命に暮らしの再建に取り組んでいきました。しかし今、格差が拡大し中産階級が没落することによって、この暮らしが崩れ始めています。中産階級というのは、何よりも小さな家庭の幸せを守ろうとする人たちで、社会のマジョリティーである彼らの暮らしを守ろうという思いが、社会が極端な方向に動くことを防ぐ安全弁となっていました。ところがこの暮らしが崩れると、社会は漂流し始め、個人としての私たちの心は現実的ないのちの拠り所を失い、空無化して弱者攻撃などの虚妄にかろうじて自分の支えを見出していくようになってしまうのです。
それでは私たちは、いったいどのように暮らしを再建していけば良いのでしょうか、そしてまたどのように自己中心の価値観を脱していくことが出来るのでしょうか。そのことについてご一緒に考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月8日の月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
(1)日本で起こった弱者に対するテロ行為
①相模原障碍者施設で起こった障碍者殺傷事件
7月26日に相模原の障碍者施設で起こった障碍者の殺戮事件は、世界中に嫌悪感を催させました。障碍者の生きる価値を否定する若者が、障碍者施設に侵入し、19人の障碍者を殺害し26人を負傷させたのです。現在世界中でテロが頻発していますが、このテロは他国で発生しているテロとは異なり、現在の日本の状況を暗示して特徴的です。最近世界で頻発しているテロには、だいたい次の3つの傾向が見られます。①現状の虐げられた環境や将来の展望の無さから自暴自棄になった若者等が、憤りを込めて社会に衝撃を与えることで、自己の存在意義をアピールしようとする。②この身勝手な殺戮行為を正当化するために、反先進国(IS支持)、反白人、反(抑圧的な)社会等の大義を掲げている。③要人や重要施設の警備が厳しくなっているので、最近のテロ活動は一般人に向けられることも多くなっているが、あくまでもその対象は、先進国や現体制といった強者に対してである(弱者の強者に対する一撃の手段としてのテロ)
②弱者攻撃を抑制する社会の力の弱まり
今回日本で起こった事件も、追い込まれた若者が、障碍者は本人にとっても社会にとってもその存在は不幸であるという“大義”を掲げている点で、他のテロと共通します。しかし異なっているのは、その対象が強者ではなくて弱者に対して向けられているという点です。それが私たちに言いようの無い嫌悪を感じさせてしまうのです。なぜこんなおぞましいことが今の日本で起こってしまうのでしょうか。もちろん人間には、いろんな素因を持った者がいます。生来のテロリストも居れば人殺しに快感を覚える者、そして今回の犯人のように弱者を抹殺することに大義を感じる者まで様々です。従って今回の事件も、そんな特殊な素因を持った人間が引き起こした、特殊な事件と考えることは間違いではないでしょう。しかし問題なのは、私たちがどれほどおぞましい素因を持っていたとしても、通常はそうした素因の発現は、社会的・文化的に抑制されるものなのです。なぜなら社会のマジョリティーの人々が、そんな行為が実行されることを許容しないからです。しかしもし私たちの社会の方に、そうした素因の発現を抑える力が弱まっているとしたら。いやそれどころか、気づかぬ間に容認したり助長したりさえもする機運があったとしたらどうでしょうか。はじめは異常な特殊な事件として片づけられていたものが、誰もがおぞましさに眉をひそめている間に次第にそうした事件の発生の頻度が増し始め、ついにはT4作戦(ナチスドイツによる優生学思想に基づく障害者の絶滅計画)や戦前の日本における障害者の人権剥奪と切り捨て政策にまでも至ってしまう歴史を、私たちはすでに経験しています。前々回のパンセ通信で、すでに世界に先駆けてマイルド・ファシズムが進展する日本の状況について見てきましたが、弱者に対するテロが日本だけで生じたことは、その事実を証するものかもしれません。実際すでにこの国では、一部の者たちが組織的に執拗に在日韓国・朝鮮人の“特権”を許さないと称して、マイノリティーであり本来は弱者である者に対するヘイト攻撃を繰り返し、次第にそうした異様な状況が、私たちの意識の中で常態化しつつあるのです。
③危機を軽やかに切り抜けていくために
このように考えてくると、この事件が垣間見せる日本の社会の現状はなかなかに深刻です。ましてや本当に私たちの国でマイルド・ファシズムが進展していて、人々が深刻な現状から目を背けてアベノミクスという甘い幻想にしがみつこうとしているなら、危機の深刻さを論理的に告発してみても、人々は聞く耳を持たないでしょう。しかし幸いなことに戦前と状況が異なるのは、確かに危機は進展しているのですが、その深層ではこの国本来のいのちの慈しみに溢れた伸びやかな文化が機を熟して、次の時代を主導する原理として、今にも殻を破って現れ出ようと待ち受けているのです。もしそうだとするなら、表層の危機を軽やかにかわして切りぬけて、深層でうねるいのちの力を発現させて、誰もがのびやかに自分のいのちを発揮して生きられるようになる道が、少し視点を変えれば誰にでも見えてくるはずです。その道筋を皆さんとご一緒に考えて見えるようにし、その実現のためのプロセスを実践していってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月8日の月曜日18時からで、場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
• なぜ弱者の存在を否定してはいけないのか。なぜ人を殺してはいけないのか。
①ファシズムと弱者の存在否定
ところでファシズムというのは、個人としての自分自身の存在の基盤が崩れて空無化する一方で、国家や民族などの大きな集合体と自分を一体化させ、それによって自分自身を絶大なものとしてアイデンティティを取り戻そうとする現象です。そしてまたその大きな集合体をさらに強化して力あるものにし、自分もまたその栄光に預かるために、集合体を強化する力に主体的に参与して走り続ける運動でもあります。この強大な1つまとまりの力となる運動の前では、個々人の存在などは価値を持ちません。また庶民の生活の実態とはかけ離れた次元で無用な政争に明け暮れる民主主義的政体も、堕落した遺物として見られるようになってくるのです。こうした状況下においては、あるいはすでにこうした心性を持つに至った人間においては、その全体の力の発揮にとって障害となるものは取り除かれるべきものであり、自分自身がその除去行為に参与することは、今回の障害者施設殺傷事件の犯人のように、大義あることと意識されるようになってくるのです。
それではこうした“大義”を振りかざして、障碍者を始めとした弱者の存在意義を認めず、それを全体の力の妨げになるからといって抹殺しようとする者に対して、私たちはどう反駁すれば良いのでしょうか。これはパンセ通信No.46でも触れましたが、私たちがなぜ人を殺してはいけないかという問題とも関わってくるものと思われます。またこうした弱者や他者の存在を否定する心性の背景となる、自分自身の存在の空無化とはいったいどういうことで、それはなぜ生じてくるのでしょうか。そして私たちが、もはや他者の存在の否定など思いもよらなくなるほどに自分自身のいのちが意味と価値に満たされて、おおらかに伸びやかに自分らしさを発揮して、思いっきりいのちの力に満たされて生きていけるようになるためには、どうしていけば良いのでしょうか。そのプロセスについて、順を追って考えていってみたいと思います。
②本当に障碍者は社会にとって無益か?
最初に、私たちはなぜ弱者の生存を否定してはいけないのかということから、考えていってみたいと思います。確かに障碍者施設殺傷事件の植松容疑者が語るとおり、社会にとって障碍者は無益であり、実際にそのように無益な存在であるとしたならば、障碍者自身にとっても自分の存在は不幸なものとなることでしょう。しかしもし障碍者が無益な存在では無いとしたら、この理論はあっさりと崩れ去ってしまいます。それどころか、障碍者が人間の集団の中で有用で、私たちに力を与える存在でさえあるとしたなら、障碍者を抹殺しようなどという発想は、もはや誰もが惑わされること無く、とんでもない考えだと分かるようになってくるのです。(元来とんでも無い考えなのですが、それがふとそう思えなくなってしまうところに現代の病理があります。)
③いのちの力を高める障碍者の役割
例えば障碍児を抱えた親御さんが、様々な葛藤を抱えながらもそれを乗り越え、その子が親御さんやその周囲の方々にとって、どれほど大きな生きる力の支えとなっているかという事例は、よく見聞きするところです。また星野富弘さんのような障碍を持つ方の詩と絵画が私たちを励まし、パラリンピックに挑む選手の姿が、私たちに生きる勇気と力を与えるのも私たちの経験するところです。つまり障碍のある人たちは、人間に生きる勇気と力を与えその人生を励ますという、極めて重要な役割を果たすことの出来る存在なのです。もちろん人間の社会にとって、生産活動に従事できるかどうかということは非常に重要な要素です。しかし一人の人間の生産能力が優れていたところで、社会全体としての生産能力が優れているとは限りません。あるいは社会全体としての危機や変化への対応能力、また新しいイノベーションを生み出す力が優れているとも限りません。それは例えば戦争において、一人ひとりの兵士の体力や武力がどんなに優れていたところで、戦いには勝てないのと同じです。勝つためには全体としての部隊の連携がとれていないといけませんし、物資の補給も必要です。またそもそも戦争が継続できる経済力も重要です。このように一人の人間の生産能力というのは、全体としての社会が豊かに繁栄し、今後も生き残っていくために必要な、一つの要素でしかないのです。さらにまたその一人の人間の生産能力でさえ、自分一人だけではその健康や意欲の維持は難しく、様々な人々の支えや互いに認めて励まし合う人間関係が必要なのです。
④モノの生産の価値しか評価せず、いのち価値を見落とす現代社会
人間に必要な能力は生産能力で、人の価値は、競争に勝ってお金を稼ぐ能力によって測られるというような、個人の利己的努力に特化した極めて狭いものの見方で人間を評価するようになったのは、人類史上で言えば、せいぜいここ2~300年のことにしか過ぎません。人間にはモノを生産する能力、利己的に努力する能力と合わせて、少なくとも生きる意欲と力を励まし高めあう能力、つまりいのちの価値を生み出して育みあい、社会全体としての柔軟な共存と発展性を高める能力も必要であることは、このパンセ通信を通じて一貫して申し上げてきたテーマであります。そのいのちの価値というのは、言い換えれば一人一人のいのちの力を発揮させてのびやかに調和させ、全体としての生産性を高めると同時に、変化や危機にもおおらかに対応し、遊び心をもって楽しく軽やかにイノベーションを起こしていく力でもあるのです。
⑤他者への眼差しによって変わる自分の運命
障碍者というのは、じつはこのいのちの価値の発揮においてきわめて優れた働きを担っているのです。しかも健常者には無い能力を発達させているのですが、その能力は未だ顧みておられず、健常者には未知のままに残されています。障碍者は、健常者には聞き取れない音を聞き分け、感じ取れない触角を感じ、気づかないものを見分け、思いつかない方法でコミュニケーションを取る方法を身につけているのです。しかも健常者よりも心身の条件において制約された状況の中で、私たちよりももっとうまい方法で、いのちを豊かに発揮させる方法を工夫しているのです。こうした障碍者の方々が体得されているノウハウは、私たちが理解しようとさえすれば、この社会をもっと豊かにするために十二分に用いることが出来るのです。大切なことはこのように、自分たちとは異なる特質を有する障碍者に対して、邪魔者として見るのではなく、自分たちのいのちをもっと豊かに育む可能性のある対象として眼差しを向けことです。それは障碍者に関わらず、老人に対しても認知症の人たちに対しても、さらには一般的なすべての他者に対しても言えることでしょう。このような眼差しの向け方をする時、私たちのいのちの可能性は拡大し、いのちの力が育まれるのです。しかしもし邪魔者と見るなら、私たちは視野を狭めて窮屈になり、いのちの可能性を閉ざして息苦しい生き様に自分と社会を追い込むことになっていくのです。ましてや不必要な存在として抹殺しようとするなら、それは自分の手で自分の生きる可能性を奪い去り、自分の持ついのちの力を限りなく委縮させ、誰も信用出来ずにただ自分の力をだけを頼って生きていくという、日々不安におののく暮らしに堕していくことになってしまうのです。
⑥弱者の価値を否定したり、人を殺してはいけない3つの理由
さてこのように考えてくると、「なぜ私たちは障碍者や弱者を攻撃してならないのか、また他者を殺してはならないのか」という疑問に、自ずから答えが出てくるように思われます。まず第1にそんな観念は、結局は自分自身の生きる可能性を狭め、自分自身の伸びやかないのちの力を圧殺してしまうからです。例えて言うならば、失業の恐怖と不安から、ブラック企業であってもそこにしがみついて働き、お金を得るために時間も健康もいのちも奪いとられて生きていくような人生と同じでしょう。視野が狭まり、1つの価値観しか持てなくなって、やがて脅迫的な観念に自分を追い込んでいってしまうのです。しかもそうして人生と引き換えに得た大切なお金も、結局は溜まりに溜まったストレスの解消で散在し、また医者通いで消えていってしまうことになるのです。これと同じように、障碍者や他者は社会のためにも自分のためにもならないという一面的な思い込みは、結局は自分自身と社会を損なう結果をもたすことになってしまうのです。
障碍者や他者を殺してはいけない2つ目の理由は、第1の理由と裏腹の関係になりますが、他者との関わりあいの中で楽しくお互いの可能性を発揮させあい、思う存分に創造性に飛んだチャレンジを行って、いのちの力をどこまでも伸ばしていく機会を、他者を殺すことで自ら摘み取ってしまうことになるのです。そして第3の理由は、これは至極当然な結果なのですけど、もし障碍者などの弱者を殺しても良い、邪魔な他者を殺しても良いということになれば、自分自身が弱者や邪魔な存在になった時に、不必要な者と見なされて、殺されてしまう可能性があるからです。そうなれば人と人との関係は、殺すか殺されるかの関係になって、やがて社会は滅んでいってしまいます。このように弱者や邪魔な他者を取り除くことは、一見不効率を取り除いて全体社会を強化するようでいて、実はその結果は、社会の力を弱め、自分のいのちの力を損ない、滅びヘの階梯を早めることになってしまうのです。
もう1度言い換えて整理すると、次のようにまとめられるでしょう。なぜ弱者を不要としてはいけないのか。なぜ他者を殺してはいけないのか。その答えは第1に、自分自身のいのちの力を弱め、自分自身を殺すことにつながっていってしまうからです。第2には、他者と共に生き社会全体の繁栄の中で、自分の可能性を発揮する機会を奪ってしまうからです。そして第3には、殺すか殺されるかの疑心暗鬼の中で、自分も社会全体も滅んでいってしまうからです。
• なぜ弱者は不要と思う心が生まれるのか
①時代の終焉とこれまでの価値観
それではいったい何故私たちの心の中に、不効率な弱者は不要という思いが生じてきてしまうのでしょうか。さらには「人を殺して何が悪い」といったような開き直りとも思える問いに、論理的に反駁しようとすると、一瞬たじろぐ思いが生じてきてしまうのでしょうか。これについてはまずその背景となる時代状況の変化を見ていきながら、3つほどの理由について考えていってみたいと思います。
まず第1に、1つの時代が終焉しようとしているのに、未だにその時代の価値観にしがみつくことから生じる矛盾が挙げられます。近代以降これまでの時代というのは、個人の物質的な富に対する欲望が解放され、これによって私たちが、豊かになるための自由な競争を繰り広げてきた時代でした。この時代の価値観というのは、早い者勝ちの個人の成功であり、いかに競争に勝ち抜く能力を身に着けるかということでした。こうした社会原理と価値観によって、人間社会は稀に見る繁栄を遂げてきたのです。しかし今その社会が行き詰っています。1つには資源と環境の制約によって、これ以上身勝手な利己的利益拡大の経済活動が困難となってきているからです。2つ目には、この資源・環境制約と、格差拡大に伴う市場の不公正によって、経済成長が困難となってきているからです。このことは深刻で、誰もが頑張れば成功できる、今より生活は良くなっていくという私たちの価値観が打ち砕かれ、将来への希望を消失させる要因となってきているのです。
②自分自身の存在価値と自我を保たせるための弱者攻撃
こうした時代の行き詰り状況の中で、私たちの心の持ち方として、3つほどのタイプが現れてきています。1つは時代状況は変わっても、新しい価値観が見いだせず、そのためにより一層これまでの価値観にしがみつこうとするタイプです。しかし実際に競争に勝ち抜けるほどに能力をアップして、成功を収めることは、ますます困難となってきています。そこで自分を責めてニート化してしまうか、あるいはうまく行かない理由の一切合切を他者のせいにする心情が現れてくるのです。その際に、その原因を他国に押し付けたり、自国内の弱者のせいにすることは、権力そのものに歯向かうことに比べればはるかに容易です。そのために、たやすくこうしたヘイト心情を煽る扇動に乗ってしまう者が現れてくるのです。さらにこうした攻撃しやすい弱者が、何らかの不当な特権や利得を得ているという理屈をこじつけ、大義をもって心置きなく攻撃することで、何とか自分自身の存在価値と自我を保たせようとするのです。この時、自分自身の心の内実は(2)①で述べたように空無です。この空無さを埋めるために、弱者の存在を否定し、それを攻撃することで大義を得ることが必要となってくるのです。これが時代の終焉にあたって、弱者や他者を攻撃する心情が生まれてくる理由です。
時代の行き詰り状況にあっては、他にも2つほどの心の持ち方のタイプも現れてきます。1つは状況が刻々と悪化していくのは分かるのですが、有効な対応策が見出せず、まともに考えると絶望して辛いので問題を先送りし、なんとかなるだろうと思考停止してしまうタイプです。これが2つ目の心の持ち方のタイプです。恐らく現状では、このタイプの人が一番多いでしょう。しかしこのタイプも、心が空無化していることには間違いありません。そして3つ目のタイプは、何とかせねばと思ってはいるのですが、未だ新しい価値観も時代の展望も見出せずに、今まさにあがいている最中のタイプです。しかしこの2つ目と3つ目のタイプも共に、自分中心、効率性中心で物質的富の生産を拡大させるという現代の価値観を超えられていないので、非生産的な障碍者などの弱者に存在意味はあるのか、何故自己実現の妨げとなる場合に他者を殺してはいけないのか、という問いに適切に答えられないでいるのです。
③自己中心のものの見方と確かさの実感を見失わせる社会環境
次に私たちが、弱者の存在価値を十分に認められなくなる理由として、近現代の価値観の中で培われてきてしまった私たちの心性があります。市場経済と資本主義の発達の中で、とにかく私たちは自分が努力して成功すれば、自分も社会も豊かになって幸せになれるという心性を骨の髄まで染みつかせてきました。そのために私たちは、常に自分を起点として物事を見、自分にとっての有用性としてのみ他者や事物の価値を判断するようになってしまったのです。確かに市民社会の成立以降のここ3~400年間、実際にそれでうまくやってこられてきたものですから、私たちは出来るだけ競争原理と能力主義の社会の価値観に適合させて、金を儲けて成功できるように自分を鍛錬し、それに反する自然な人間的心性についてはこれをを押し殺す教育を、自分にも子供にも施してきたのです。
この結果私たちには、他者の視点から自分を相対的に見たり、全体の利益や調和の視点から物事を価値判断することが困難となってしまったのです。こうしたものの見方が自然に出来るようになれば、(2)⑥で述べたように、「弱者は邪魔者」とか「なぜ人を殺してはいけないか」という議論が、いかに自分にも全体にも不利益をもたらす愚かなものであるかということが、容易にわかるようになるのです。さらに私たちが、小さい頃から自分を押し殺して詰め込み教育を行うのではなく、何が本当に自分にとって心地よいことなのか、何が本当に大切なことなのかを、知識だけではなく実感をもって判断できるような育ち方をしてくれば、「弱者は邪魔者」とか「なぜ人を殺してはいけないか」という議論などは、生物の本能的な感性として、躊躇なくおかしいと気づけるようになるのです。こうしたものの見方が出来ず、実感が麻痺してしまっていることが、弱者は不要という気持ちが起こってきてしまう第2の理由でしょう。
④現実の暮らしの崩壊
そして私たちの心が空無化し、無益な障碍者など抹殺しても良いと思うほどに私たちの心が頑なになってしまう第3の理由は、ただ単に自己中心的な心性の問題ばかりでなく、現実の暮らしが崩れてきていることもあるのです。雑誌「暮らしの手帳」の創刊者であり編集長でもあった花森安治さんは、「守るべき大切な暮らしがあれば、人は戦争など起こさない」と言って、戦後の混乱の中で懸命に暮らしの再建に取り組んでいきました。しかし今、格差が拡大し中産階級が没落することによって、この暮らしが崩れ始めています。中産階級というのは、何よりも小さな家庭の幸せを守ろうとする人たちで、社会のマジョリティーである彼らの暮らしを守ろうという思いが、社会が極端な方向に動くことを防ぐ安全弁となっていました。ところがこの暮らしが崩れると、社会は漂流し始め、個人としての私たちの心は現実的ないのちの拠り所を失い、空無化して弱者攻撃などの虚妄にかろうじて自分の支えを見出していくようになってしまうのです。
それでは私たちは、いったいどのように暮らしを再建していけば良いのでしょうか、そしてまたどのように自己中心の価値観を脱していくことが出来るのでしょうか。そのことについてご一緒に考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月8日の月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)