ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.99『“いのちが喜ぶ”生き方と暮らし方』

Aug 27 - 2016

■2016.8.27パンセ通信No.99『“いのちが喜ぶ”生き方と暮らし方』

皆 様 へ

1.暮らしの目標、生き方の目標
(1)楽しく、人生を謳歌できるように
毎日の暮らしが自分のいのちの養いになって、心地よく快適で便利なものになっていく。しかも暮らしがそのままなりわいにもつながって収入を得られて、他の人にも役立ちながら自分の生きる力もアップしていける。そんな誰もが楽しく暮らせて、人生を謳歌できるような生き方づくり、社会づくりを目指して、パンセ通信では引き続き検討を進めていきたいと思います。なお、次回8月29日(月)のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動行う予定です。課題映画は1953年製作のアメリカ西部開拓劇の名作『シェーン』を予定しています。名作映画を通じて生きることについての気づきを深め、いのちの力を養っていければと思います。場所は(渋谷区)本町六丁目ホームシアターで18時から行います。因みに本町六丁目ホームシアターでは、毎月第1、第3日曜日の夕方にご近所さんと共に集い、映画や演芸を通じて無理なく暮らしを楽しむ集いをスタートさせています。今後少しずつこのスペースを、いのちの養いやなりわいづくりのために活用していければと思います。

(2)現代の生き方目標とその実現可能性
さて希望を語ることが空々しく聞こえてしまう昨今に、「誰もが楽しく暮らせて、人生を謳歌できることを目指す」などと能天気で現実離れした目標を掲げるのは、少々気の引けるところです。でもいったい今私たちは、何を人生の目標、社会や時代の目標として生きているのでしょうか。もちろん営業成績を上げる、ダイエットに成功するなど目先の目標はあるでしょう。しかし毎日の暮らしや仕事に追われるばかりで、なかなか暮らしや生き方の一生涯に亘る目標を考えるようには、意識が向かないものです。せいぜい思い浮かぶのは、家を持つこと、仕事を無事に勤め上げること、安定した老後を過ごせるような資金を準備すること等ぐらいで、お金やモノの豊かさに関わることばかりではないでしょうか。しかしお金やモノの豊かさを求めて必死で競争する社会は、今世界で行き詰まりを見せ、そろそろ終わりを迎えようとしていることは多くの人が実感しているところです。

ところでキリスト教徒にとっては、聖書は唯一の経典で、それが真実であることは重要なことです。しかしいくら聖書が真実を伝えるものであったとしても、自分自身のいのちが救われなかったら、宗教としては何の意味もありません。それと同様に、優れた経済政策が成功し、有効な政治施策が成果を収めたとしても、自分自身の暮らしと生き方が満たされたものにならないなら、私たちにとっては何の意味も無いのです。このように時代はすでに、全体としてどうであるかよりも、私たち一人一人が満たされて生きていけるかどうかが問われ、また生活に必要なお金や商品をいかに豊かにするかよりも、それらを使っていかに暮らしや生き方そのものを満足のいくものにしていくかという段階に入っています。そして私たちの誰もが、本当はもうこんな暮らしが出来ればいいな、こんな生き方をしたいなという秘かな願望を、心の奥底では抱き持っている状況にあるのです。

しかしその願望をイメージとして素直に描き出せないのは、現実を考えると実現性があまりに乏しく、絵空事に感じられてしまうからでしょう。それでは絵空事で終わらせ無いようにするためには、どうすれば良いのでしょうか。そのためには自分の抱く願望が、道理のあるものとして他の人にも受け入れられ(つまり単なる夢から理想になる)、しかも実現の可能性があり(希望になる)、さらに実現へ向けての道筋までもがある程度展望出来てこないと、確信の持てる生き方と暮らし方の目標にはなってこないでしょう。そこで人間の生き方や暮らし方の納得できるあり方から始めて、その実現可能性や、実現に向けてのプロセスに至るまでを順を追って考え、誰もが自分の生き方や暮らし方を心地よく、楽しく変えていこうと気軽に歩み出せるように、その条件と手順を明らかにしていってみたいと思います。

2.いのちが喜ぶ生き方と暮らし方
(1)生き方と暮らし方の第1の目的
さて前回のパンセ通信では、生き方と暮らし方の秘訣として7つの条件と必要な力について考えてみました。なぜなら今改めて暮らしや生き方に、私たちの意識が向かい始めており、その内容についてもう1度よく検討してみる必要があると思えたからです。今までのようにお金を稼いで経済を富ませ、より高価でたくさんの商品を消費することを価値だと考えられていた時代には、私たちの暮らしや生き方の目標は明確でした。人よりもっと努力して働いて、より多く儲けて家計を潤せば良かったのです。でも努力して働いても報われないことが多くなり、成功しても転落の不安からますます利益拡大に駆り立てられる時代になってくると、改めて私たちは、本来どのような生き方や暮らし方が無理なく幸せなのかを考えて、生き方と暮らし方そのものを工夫してみる必要に迫られてくるのです。

そこでまず第1に考えたのは、いのちが喜ぶような生き方暮らし方をするということでした。前回見たように暮らし方を心地よくしていくためには、自分の置かれた状況に応じて生活をあれこれ工夫したり、働き方を見直してなりわいとしたり、人間関係を楽しくする努力をしたり、人生区分に応じて生き方の目標と暮らし方変えたりしていくことが必要となってきます。しかしそうした暮らし方への配慮を行うのも、何よりも自分のいのちが喜ぶようにするということのためでした。こうしていのちを喜ばせる生き方を積み重ねていくことによって、私たちは、自分も人のいのちも生かしていくいのちの力が養われ、現実に自分の周囲と社会を生き易く変えていく生きる力も培われてくるのです。

(2)生き物の意識と欲求
それでは、いのちが喜ぶとはいったいどういう状況なのでしょうか。そしてそういう状況を生み出すためにはどんな条件が必要で、どんな力をつけていけば良いのでしょうか。そこでまず、私たちが普段生活している時の身体や意識の働き方と行動との結びつきについて考え、どのように意識が働いて行動できれば、私たちはストレスを感じることが少なく、自然に満たされて生きることが出来るようになるのかについて考えていったみたいと思います。

私たちの身体は、自分の感情や思考の流れ、また体の内部や外界からの変化に刺激されて何かを感受し、それに呼応してまず何らかの情動が起こり、気分が生じてきます。情動はめまぐるしく変化し、気分も鬱病等の病的な状態でない限り、そう長くは続きません。しかしこの何かを感受した時には、同時にまた何かに対する衝動や求めも自分の中に生起してきて、その解消を私たちに迫ってきます。例えば蚊が背中に止まって血を吸う時、背中が痒いという感覚がやってきて、同時に何とかしたいという衝動がやってきます。そしてその衝動を満たすために、背中を掻きたいという欲求や欲望が明確に立ち上がってくるという形で、私たちの意識は機能していくのです。

この身体感受と共に意識の中に現れてきた欲求や欲望を、満たして生きていくのが生き物です。例えば森に暮らす熊の場合には、身近に手頃な立木があれば、その幹に背中をこすりつけることで痒みを解消することを思い浮かべるでしょう。その立木まではすぐに行けて、熊の体重を支えるのに十分な太さと表面の平坦さがあるのでれば、背中をこすりつけるには適していますから、熊にとっては意味のあるものとなります。そして以降は、太い木の幹は、熊にとっては背中の痒みをとるために価値のあるものと意識されるようになってくるのです。

この欲求や欲望から、さらにそれを充たす対象や行為目標(熊の場合には立木という対象と、その幹に背中をこすりつけるという行為目標)が思い浮かび、それを行おうとする意思が現れてきます。ところがこの現れてくる対象や目標の内容と意思の働き方が、人間と他の生き物とでは大きく異なってくるのです。またそれ故に、意味と価値を感じるものの内容も違ってくるのです。

3.人間の意識の特異性
(1)今ここに制約されない人間の意識
それでは私たち人間が背中の痒みを感じた時にはどうするのでしょうか。もちろん熊と同じように柱に背中をこすりつけて痒みを解消する人もいるでしょう。しかしプラスチック製の直定規を使って背中の手の届かない部分を掻くことを思い浮かべて、まず直定規を捜す人もいます。中には“孫の手”というとっておきの道具を対象として思い浮かべて、それで背中を掻こうとする人もいるでしょう。さらには、痒いのは蚊に刺されたからだと判断して、これ以上自分や家人が蚊に刺されないように、蚊取り線香を使用する人もいるでしょう。

このように人間の場合の欲望の対象や目標は、他の生き物の場合と少々異なります。熊や他の生き物の場合には、欲求から立ち上がってくる対象や目標は直接的で、しかも今ここでその欲求を解消しようと意思します。つまり彼らの意識が捉える空間・時間は、自分の周囲と今に集中しているのです。これは道理のあることで、エサを取ったり、捕食者から逃げて自分のいのちを生き長らえさせようとするためには、自分の意識を、自分の周囲と今に集中している必要があるからです。そして欲求の充足された満足や心地良さ、危険から逃げ延びた安堵感も、その都度充足されて終わっていくのです。

ところが人間の場合には、このような生き物にとっては当然な意識の働き方が行われません。背中が痒ければさっさと背中を掻けば良いのですが、私たちは何か道具になるものを探します。また“孫の手”という背中を掻く専用の道具までも、私たちの先人たちは開発して現代に伝えているのです。さらにはこの後自分が蚊に刺されないように、また他の人も刺されないようにと、蚊取り線香(これも道具です)を用いたりもするのです。つまり人間の意識は、自分の身近な(身体機能が関知する範囲)空間と今という時間に限定されているのではなく、今自分の目には見えない範囲も意識し、過去や未来にまでも及んでいるのです。そして自分だけではなく、他者をも意識しているのです。そうなった一つの大きな理由は、人間が言語を用いて意識を働かせるからでしょう。言葉は様々な事象や対象物を、概念として捉えます。この概念によって私たちは、ある考えを過去から受け継ぎ、他の人と分かちあい、将来に伝え、さらには他の人の反応や将来に起こることを予測して考えるようにもなるのです。言語を用いる以上は必然的に、過去のことや他の人や社会や自然環境、そして未来のことが意識に入ってきて、その上で人間は今ここに起きる事象に反応して情動が生じ、欲求や欲望が起こってくるのです。

従ってその欲求や欲望は、身体反応的な直接的なものに限られなくなります。例えばお腹がすいた場合、「何か買ってきて、おいしい料理でもつくって食べよう」ということになるのです。何でも良いからエサになるものを口に入れて、空腹を満たすのではなく、「おいしい料理」という目標が立ち上がって、そこに行きつく過程で様々な道具を使ったり、調理という技術を駆使したり、社会が提供する流通網を通じて食材を購入したりすることで欲望を満たしていこうとするのです。また意味と価値の内容も異なってきます。背中の痒い熊にとっては、“孫の手”は何の意味も持ちませんが(熊には“孫の手”は使えません)、私たちには重要な道具としてその意味を持ちます。また便利で心地よい“孫の手”を売る店や、それをつくる職人さんの能力も、私たちにとっては大きな価値があるものとして意識されるようになるのです。

(2)人間の欲望の対象と目標
このように人間の意識は、今の自分が見知出来る範囲の空間・時間を超えて広がり、また様々な道具や他の人間との連携の仕組みをつくって、順を追って自分の欲望を叶えていこうとします。従って身体が感じた欲求を充たすために意識に立ち上がってくる対象や目標も、人間と他の生き物とでは大きく異なってくるのです。他の生き物に意識される対象や目標は、自分の身体能力によってその内容が規定されます。例えば腹ペコのきつねは、小動物は自分のエサとして意識しますが、自分よりも何倍も大きな熊や大鹿は自分のエサとしては対象に入ってきません。しかし人間は異なります。例えば自分の身体の能力を大きく超えて、機械や人の協力や様々な仕組みを利用して、しかもタイムスケジュールをつくって作業することによって、一人で10反の田んぼを耕し、100人分の米を収穫することも出来るようになるのです。そしてこの目標達成のプロセスを工夫して変えていく努力を積み重ねていくことによって、人間は自分の能力や技術や仕組みを進歩させ、その進歩によって人間はさらに大きな欲望を望めるようにもなってくるのです。

4.いのちが喜ぶという状況
(1)過去・現在・未来が合わさる人間の欲望
ところで生き物が喜んだり満たされた思いになるのは、欲望を無事に満たすことが出来た時でしょう。それは人間も同じです。しかし今見てきたように、その欲望の内容とそれを充たすプロセスについて、意識の上で捉えられる状況が、人間と他の生き物とでは大きく異なってくるために、喜びの感じ方も単純では無くなってきます。人間の意識の中には現在の自分だけではなく、過去や未来、他者や社会が入り込んできます。そして過去の先人たちの知恵(道具、技術、思想など)や他の人たちとの協力や社会の仕組みを使って、今では無く時間を置いた将来に自分の欲望と目標を実現していこうとします。しかも1つ目標を達成するごとに、人間の能力は向上し、その能力の向上によって出来ることが増えてきますから、意識される現実の状況も、そこから立ち上がる欲望や目標も絶えず刷新されて高度なものとなっていくのです。

従って私たちが本当に喜べるのは、自分ひとりの欲望が満たされる場合ではありません。すでに私たちの欲望自体が、過去の先人たちの思いや、現在の社会に生きる人々の思いが、私たちの意識の中で合わさって出来てきます。さらにその望みが、未来に生きる人々の利益をも満たしていくものでなくては、私たちは欲望を、長続きさせていくことは出来ません。例えば現在の消費のために、環境汚染の問題を将来の世代に負わせていったのであれば、私たちには後ろめたさが残り、本当には安心して喜べません。またそんな欲望は将来が無いのですから、やがては行き詰まってしまうのです。

またもう1つ、私たちが嬉しさを感じる場合があります。それは自分の能力や技術、人間関係や社会関係の仕組みを向上させて、現実の状況をより好ましいものに編み変えていくことの出来た時です。現在の制約を超えていくことが出来た時にも、私たちは大きな喜びを感じることが出来るのです。

(2)集合としてのいのちの求めと喜び
さて今回は、“いのちが喜ぶ”という状況を考えてみるために、人間特有の意識の働きの中で、欲望が現れ、それが充たされるプロセスを追ってみました。そこに立ち現われてくる人間的な欲望とは、もはや今現在のここに生きる私の欲望ではなく、過去と現在と未来のすべての人間関係、社会関係を包み込んだ欲望であることが分かってきます。いや人間だけではないでしょう。さらにすべての生き物、すべての自然環境を包み込んだものであるが故に、それはもはや“大きないのち”、あるいはいのちの集合としか言いようのないものの“求め”であることが分かってくるのです。

そうだとするなら、1つのいのちでしかない私であっても、人間として心底喜べるためには、過去・現在・未来のすべてのいのちが生かされて喜んでいると意識されるのでなければ、自分も本当には喜んで生かされているとは感じることが出来ないのです。そしてまた今の現実から、自分も含めたすべてのいのちがさらに良く生きられるように、創意と工夫を重ね、能力と欲望(望み)と現実の諸関係を絶えず刷新して高度化させていくのでなければ、私たちは心底からの嬉しさを感じることは出来ないのです。

このように、私たちの生き方と暮らしの目標である“いのちが喜ぶ”ということの状態や内容について考えてみたのですが、それでは次に、“いのちが喜ぶ”ように生きられるためには、どんな条件や力が必要になってくるのでしょうか。人生と暮らしを楽しく変えていくための2つ目の条件としての、日々の暮らしを心地よく、便利に工夫していく力と併せて検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは8月29日の月曜日18時からで、ホームシアターサークルの活動を行います。場所は、本町六丁目ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。