■2016.9.10パンセ通信No.101『映画「シェーン」-はるかなるヒーローの呼び声2/2』
皆 様 へ
今回のパンセ通信は、前回に引き続き映画『シェーン』の解説です。各場面を順を追って見ていきながら、アメリカが体現してきた自由や独立や民主主義の原点、そしてフロンティア・スピリッツの本質、さらには人間としての暮らしづくりのモデルを学んでいければと思います。次回のパンセの集いは9月12日の月曜日、18時からです。場所は初台、幡ヶ谷の地域で行います。
1.映画『シェーン』の冒頭シーン
(1)自然の慈しみにいだ抱かれて
多くの映画がそうであるように、冒頭シーンというのは、映画のテーマを暗示するか、監督がこれから物語ろうとする作品に対する自身のまなざ眼差し、あるいは鑑賞者にもこういう風な心持ちで見てもらいたいと期待する視座を指し示しているものです。映画『シェーン』の冒頭は、雄大なワイオミングの草原を見渡す山の上から、流れ者のシェーンが、あのビクター・ヤングの郷愁豊かな名曲『遥かなる山の呼び声(The Call of the Faraway Hills)』が流れる中、馬に乗って下って行くシーンから始まります。そして大平原をたった一人ゆっくりと横切っていく姿を、超ロングショットで捉えるのです。まるで大自然の懐から遣わされてきた何者かが、人間界に向けて進みゆくかのようです。そしてそのよそ者が、大草原を開拓する1軒の開拓農家を通りすがろうとするのです。その時に、この異質な来訪者に最初に関心を留めるのは、豊かな水辺で喉を潤す大鹿とその鹿を追う農家の子供です。そして小鳥のさえず囀りと牛の鳴き声、切り株を切る斧の音と主婦の歌声という、どこまでものどか長閑な情景が流れ者を出迎えるのです。この冒頭シーンが、これからどんなまなざ眼差しでこの映画が物語られようとしているのか、そのすべてを指し示しているように感じられます。ドラマはこの開拓地を舞台に展開していくのですが、その間も常に背景には、雄大なグランド・ティートンとそれに連なる山々が、人々の繰り広げる葛藤を見下ろします。この荒々しくも美しい大自然が、利害に明け暮れ、感情にさいな苛まれる人間の営みをもしっかりと包み込んで、慈しみのうちに優しく見守って導いていくのです。
(2)シェーンを目にするジョーイ
この冒頭シーンでは、見知らぬよそ者を目にする農家の子供ジョーイの、好奇にあふ溢れた表情がしゅういつ秀逸です。古来より流れ者は、災いをもたらすか、新たな変化をもたらすヒーロー(まれびと)となるかのどちらかです。馬に乗って近づいてくる人物に目を凝らすジョーイは、その男がウエスタンウエアに身を包み、見事なガンベルトとホルダーに入った拳銃を腰に帯びているのに気づいたことでしょう。典型的なガンマンの装いですが、尋常ではない風格を漂わせています。この一瞬にして、すでにジョーイは予期せぬ来訪者シェーンの虜になったことが、その表情からよく伝わります。無法地帯の西部にあって、拳銃一丁で渡り歩くガンマンは、ヒーローでした。恐らくジョーイが本物のガンマンを目にするのは、これが始めてのことだったかもしれません。子供心に、あこがれのヒーローへの期待が高まります。それはこの映画を観る私たちも同じです。“まことのヒーロー”について語ることは、この映画のテーマでもあるのです。そのまことのヒーローを、これから私たちは無垢な子供のジョーイの視線と共に追っていくのです。冒頭のシェーンの来訪のシーンで、一挙に私たちの視線を転換してこのドラマに没入させていくジョージ・スティーブンス監督の手腕は、本当に見事です。そして子供ながらにジョーイを演じる、ブランドン・デ・ワイルドの演技にも引き込まれます。彼はこの作品の演技で、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。
2.スターレット家に根を下ろすシェーン
(1)シェーンに魅了されるジョーイとマリアン
ジョーイは農場の中に駆け戻って、すぐに誰かが来ることを父親に知らせます。父親のジョー・スターレットは、庭先にどっかりと根を下ろす大きな切り株を取り除こうと斧を振るっています。そして「本当だ、構わんさ」と応じます。その後カメラは、窓辺に花が飾られ、唄を口ずさみながら食事の準備をしている妻マリアンと片付いた室内を、窓越しに映し出します。ここに描かれているのは、しっかりとこの地に根を下ろし、貧しいながらも小奇麗に工夫を凝らして、確かな暮らしの基盤を築いた開拓農民一家の姿です。父親のジョーが野良仕事に追われている様子ではなく、最後に残った邪魔な切り株に挑む姿を見せるのは、ここでの開拓が完成の域に至っていることを示します。さらに「(誰が来ようと)構わんさ」というジョーの口振りには、生活の自信のほどが見てとれます。
そこに馬に乗ったシェーンが、ゆっくりと近づいてきます。流れ者であった彼が、この家の発する確かな暮らしと温かい雰囲気に引き寄せられたのかもしれません。ジョーイが農場の冊によじ登ってシェーンを迎えようとし、目と目が合います。その時にシェーンの微笑む姿がアップで映されるのですが、これでもかと言うほどの美男子です。ガンマンには似つかわしくないやさおとこ優男ですが、瞳にはどこか憂いを帯び、邪悪さは微塵も感じられません。小柄できゃしゃ華奢ですが顔だちの良いアラン・ラッドが、シェーン役に抜擢された理由が分かります。そのシェーンの男ぶりに目を惹かれたのは、ジョーイだけではありませんでした。農家の妻マリアンも窓越しに見つめます。この一瞬にしてジョーイもマリアンも、そして観客である私たちも、シェーンに魅了されてしまうのです。
(2)シェーンの素性
主人のジョーと挨拶を交わしたシェーンは、ジョーイに優しく語り掛けます。ジョーイはまぶ眩しくて目を上げられません。「おじさんをずっと見ていたね。ものを良く観察するのはいいことだ。将来有望だな。」何が本当に大切なことかを、よく見極めろということでしょう。こう語り掛けられてジョーイは嬉しそうに眼を上げるのですが、こうしたところに、大自然から人間界へのメッセンジャーとしての役割も担う、シェーンの片鱗が見てとれるようです。シェーンはまた、飼われているジャージー牛(乳牛)の親子に目を留め、懐かしがります。そして映画を見ていくと気づくのですが、左手の薬指に大きな指輪をはめて外しません。こうしたことから、今はガンマン稼業でさすらう身の上であっても、かつては愛する妻と家庭を持ち、つつましく乳牛を育てる生活をしていたのではないかということが伺い知れます。こうした細かい所にも丹念に物語をふく膨らませるヒントが施され、観るたび新しい気づきをうなが促すのが、名作映画と認められるゆえん所以でしょう。
ジョーに水を勧められて、シェーンが馬を降りて飲もうとします。その時ジョーイが、弾を抜いておもちゃにしているライフル銃のレバーを引いてしまいます。シェーンに自分の銃を見てもらいたかったのです。しかしその一瞬にしてシェーンは、ガンベルトの銃に手を置き身構えます。シェーンがただ者ではないことが証明されると同時に、ガンマン稼業として生きて来た者の身に染みついた、悲しいさが性のようなものが見てとれます。
(3)ライカーの来訪
その時、この地に最初に移り住み、放牧業を営む業者たちのボス、ライカーが手下の一隊を引き連れてジョー・スターレットの農場にやってきます。水しぶきを上げて荒々しく川の浅瀬を渡り、畑を踏み荒らして侵入してくる様子から、ジョーにとってライカーは敵対者であることが分かります。てっきり先に来たシェーンを、ライカーの回し者だと思ったジョーは、シェーンを追い払おうとします。このあたり一帯を支配するライカーにとっては、移住してくる農民は放牧の邪魔で、スターレット一家に対して冬までに出ていけと警告しにやってきたのです。それに対してジョーは、ホームステッド法に基づく土地の権利のある開拓者であることを主張します。その時、家の陰からシェーンが姿を現します。そしてスターレットの友人だと名乗ります。突然の助っ人の登場に、ライカーたちは再び畑を踏み荒らしながら、一旦は引き上げていきます。そしてこの物語が、ジョーとライカー、新しい開拓自作農と古い放牧業者との対立で展開していくことを印象づけます。
ひとまず状況が収まったので立ち去ろうとするシェーンを見て、マリアンが夫のジョーに、夕食の支度がすぐに出来ることを伝えます。そのきづか気遣いからマリアンの良妻ぶりと、ここでも家庭の営みの堅実さが見て取れます。その声に促されてジョーがシェーンに、ライカーの一味と誤解したことを謝り、夕食に招きます。そして何もないが女房の料理は絶品だと言って、シェーンと握手します。そしてシェーンはまたジョーイとも握手し、3人の心が通い始めたことを示します。
(4)足を洗うことを決意したシェーン
マリアンの心尽くしの料理を味わいながら、ジョーはシェーンにライカーたちの放牧が時代遅れで、生産効率の悪いことを指摘します。そして一か所に定住して落ち着いて暮らし、垣根を設けて自分の土地を耕作しながら、併せて手間暇かけて家畜も飼育する、独立自営農としての自分たちのやり方のメリットを訴えます。そこには開拓農民としてここに入植し、ようやく自立出来てきた自信のほどが見て取れます。この後のジョーの会話からも伺い知れるのですが、ここに至るまでは、不公正や服従を強いられてきた人生があったようです。自由と独立、どんなに大きな代償と労苦を伴っても、工夫を凝らして自立した生活を切り開いていく。それこそがアメリカン・スピリットであり、貧困と圧政を逃れてヨーロッパからアメリカに移住してきた人々の願いでありました。そして今ここで、ジョー・スターレットが体現している精神でもあるのです。その自由と自立をさらに確かなものとしていくためには、ジョーにとっては人手が必要でした。ジョーはシェーンの中にある本来の誠実さと、さすらいの生活から足を洗いたがっている思いを直感します。そしてジョーは遠回しにシェーンに、一緒にここで働き、暮らしを営もうと誘いをかけるのです。
一方シェーンの心の変化を現す描写も巧みです。シェーンはまず食事の席では、ガンマンの命であるガンベルトと拳銃を外して、椅子の背にかけます。それでも子牛が立てた物音に反応して、瞬時にピストルに手が行ってしまったりするのですが、温かい家庭のだんらん団欒が次第にシェーンの心をほぐしていきます。そして食後には・銃・を・・・残した・・ままで席を立ちます。渡世人のさが性として、食事の恩義に報いようとしたのでしょう。表に出て、ジョーが格闘していた大きな切り株に斧を振るいます。それを見たジョーも加わります。二人の共同作業が始まります。ジョーはこの切り株を人力だけで取り除こうと、2年間も苦闘してきたのです。それは開拓の完成の証だったのでしょう。そしてどっぶりと日の暮れた夜遅くになって、遂に二人は切り株を根こそぎ引き倒すことに成功するのです。それはジョーにとっては、開拓から本格的な農場経営の段階に入ったことを意味し、シェーンにとっては、その切り株に代わって自分がここに根づくことを意味しました。そしてそれは、二人が深い男の友情と信頼で結ばれたことをも現しているのです。
3.新しい生活に立ち塞がる困難
(1)屈辱に耐えるシェーン
ジョーを手伝うことに決めたシェーンは、納屋に住み込み、ジョーに頼まれて町の雑貨屋グラフトンの店に入荷した・・針金と、自分の作業着を買いに出かけます。この針金というのは有刺鉄線のことで、これもこの映画の時代背景をよく表しています。草原地帯であるグレート・プレーンズでは、木材の入手が困難で、このことも農業入植者の開拓を妨げる要因となっていました。それが1870年代に様々な形状の有刺鉄線が商用化され、農場や家畜を囲う木材に替わる材料として用いられるようになり、開拓を加速したのです。さてこの時シェーンは、銃を置いたまま丸腰で町に向かいます。以降彼は、最後にライカーに雇われた2丁拳銃使いの殺し屋ウィルソンと決闘する時まで、銃を手にすることはありません。なおこの時ジョーイは、町に向かうシェーンの馬車を追って駆け出すのですが、マリアンに留められすぐに引き返します。しかしこれもまた、細かい演出ですが、ラストの決闘シーンへとシェーンが赴く場面の伏線になっているのです。
グラフトンの店に着いたシェーンは、針金と新しい作業着を購入し、早速着替えます。しかしこの時、シェーンは不当に高い金額を支払わせられます。きゃしゃ華奢な体形の新参者なので、足元を見られたのでしょう。またガンマン稼業であったシェーンは、生活実感の無いことから相場が分からず、高いと思いながらも交渉が出来ません。このあたりにも、根無し草であった人間がかたぎ堅気の生活に戻ろうとする時のハードルが垣間見えます。そのハードルはさらに高まり、シェーンを試みます。シェーンがスターレットの新しい使用人だと耳にしたライカーの手下のクリスが、なんくせ難癖をつけ、けんか喧嘩を売ろうとしたのです。クリスはシェーンの再出発を象徴する新しいシャツに酒をかけて汚し、散々に侮辱しました。しかしシェーンは何とか屈辱に耐え、その場を後にします。
ここで注意を惹くのは、グラフトンの雑貨店には酒場が併設されていて、そこにライカーの一味がたむろしていることです。この物語の中で彼らの居場所は、決まって酒場です。それは“生活”が無いことを意味します。家と家庭を持って堅実な生活を営む農民たちと、暮らしぶりの面でも鋭い対比がなされているのです。もう1つ付け加えるならば、店に来ていた農民ルイスの娘スーザンが、鏡に向かって帽子を試着している場面です。クリスが微笑ましい笑顔で後ろから覗き込むのですが、無視されてしまいます。それは一瞬の挿入場面なのですが、実はクリスも家庭に落ち着くことを求める、シェーンと同じ心持ちのある人間であることをかいまみ垣間見せます。
(2)シェーンに惹かれていくマリアン
その夜天候が激変して気温が下がり、激しく降りしきる雨の中で、スターレットの家で開拓農民たちの会合が持たれます。この地の気候の厳しさを示すと共に、自営農たちがこうして頻繁に集まって、対等に議論を戦わせて物事を決していたことを伺わせます。議題はライカーの差し金で、小麦畑を牛の群れに踏み荒らされたアーニーが、耐えかねて入植地を出て行こうと言い出したことに対して、アーニーを押し留め、この地に残るために皆で結束を固めようということでした。シェーンも加わります。しかしその席で、昼間のシェーンの行動が話題になり、“腰抜けのおくびょうもの臆病者”呼ばわりされてしまいます。隣室ではその話が、マリアンとシェーンに憧れるジョーイにも聞こえます。
耐えかねたシェーンは、家を出て豪雨の中にずぶ濡れになって立ちすくみます。定住者としての生活を願う心と、ガンマンとしての誇りが葛藤する心情を、象徴しているようです。シェーンの心情が分かるマリアンは、優しくシェーンに自分の小屋に戻るように促します。
そしてマリアンは、自分に言い聞かせるようにジョーイに語り掛けます。「彼をあまりに好きにならないで」「いつか去って行く人よ。あまり好きになると、別れがつらくなるから。」ここに流れ者のシェーンに、どうしようもなく惹かれていくマリアンの気持ちが、抑制されて、しかし情感豊かに描かれています。すべてがダイレクトなアメリカ人にも、こんな細やかな心情表現が出来るのかと驚かされます。この婉曲的で細やかなマリアンとジョーとシェーンの三角関係の描き方が、この映画が日本人の心情にもかな適って受け入れられる理由の1つかもしれません。
4.エスカレートする対立
(1)大乱闘
シェーンがから絡まれた一件があってから、ジョーたちはトラブルを避けるために、この地の開拓農民全員でグラフトンの店に買い出しに行くことを決めます。そこでシェーンは、以前屈辱を受け、売られた喧嘩の借りを返すために、店の酒場でライカーの手下クリスを侮辱し、喧嘩をしかけます。そしてクリスを打ちのめした後に、今度はたった一人でライカーの手下全員を敵に回し、殴り合いを演じます。そこにジョーも助っ人に入り、結局二人でライカーの一味に勝利してしまうのです。おおよそ10分にも及ぶ大乱闘シーンで、最後のシェーンの決闘シーンと併せて、西部劇の醍醐味を堪能させてくれるエンターテイメント性の盛り込まれているところが、この映画の魅力です。そしてこの乱闘を一緒に戦ったことにより、ジョーとシェーンの男の絆は、さらに深い所で結ばれることになるのです。
この時シェーンは、始めからクリスに仕返しすることを決めていたようです。荒くれ者の世界を渡り歩いたガンマンとしての誇りと、自分を英雄視するジョーイの期待の手前、シェーンは屈辱に耐えたままで済ませることはが出来なかったのです。誰もが胸がスカッとする勝利なのですが、反面力ある者が、結局はその力を誇示せざるを得なくなる限界も感じられ、その後のシェーンの運命を暗示します。またジョーとその使用人であるシェーンが勝利したということは、開拓農民たちが、力で支配しようとする牧畜業者たちに、力で勝利したことを意味します。しかし力による勝利は、より強い力を呼び込み、より大きな悲劇をもたらすことになっていくのです。
(2)マリアンを抱き留めるジョー
敗北したライカーは怒りに燃え、弟のモーガンに命じて、名うてのガンマンを呼びに遣ります。もはや脅しではなく、入植者たちを“自分の土地”から、容赦なく力づくで追い出すことを決意したのです。
一方家に帰ったジョーとシェーンは、二人の活躍を思い出して大興奮するジョーイを尻目に、マリアンから傷の手当てを受けます。まだシェーンの手当てが終わらぬ内に、早く寝るように命じられたジョーイが、ベッドルームからマリアンに話があると呼び掛けます。「シェーンが好きになった。お父さんと同じぐらい。いいよね。」と打ち明けるのです。それはそのまま、マリアンの心の内を語っているようです。マリアンは寝室から居間に出てきたジョーに、「何も言わずにただ抱きしめて」と頼みます。ジョーにしっかり抱き留めてもらわなければ、自分の心が漂ってしまうと思ったのでしょう。そのマリアンの心の揺れは、ジョーにも分かったはずです。ジョーもマリアンの複雑な心の内を感じ、強く抱きしめます。心憎いまでに細やかな、ジョージ・スティーブンス監督の演出です。
(3)殺し屋ウィルソンの登場
7月4日の独立記念の祝祭の日に、いよいよライカーに雇われた殺し屋のガンマン、ウィルソンがやってきます。黒づくめの服装と、ウィルソンを演じるジャック・パランスの容貌が、圧倒的な存在感をかも醸し出します。彼が酒場に足を踏み入れた時に、そのあまりの不気味さに、床に寝そべっていた犬が尾っぽを下げてすごすごと立ち去っていきます。この後クライマックにかけて、この映画では犬を始めとして巧みに動物を用いて、演出効果を高めていきます。到着したウィルソンが、バーテンダーのウィルにコーヒーを注文します。ウィルソンは、早打ちの腕を損ないたくないからでしょうか。一切アルコールは口にしません。そこまで殺しに徹しているところも、ウィルソンを不気味に感じさせる要因です。一方ライカーの農民に対するいかく威嚇行動は、さらにその度合いが増していきます。家畜を殺され、畑を踏み荒らされ、冊が壊されていきます。
5.最後通牒
(1)銃の使い方を教えるシェーン
そんな緊迫した状況の中で、開拓農民たちも独立記念日の祝祭を迎えます。祝祭会場の広場に出かける前に、ジョーイがシェーンに拳銃の撃ち方を教えてとねだります。この頃の西部においては、拳銃の腕前は、一人前の男としてのあかし証だったのでしょう。そしてまたジョーイは、どうしても一流であると目されるシェーンの腕前を、ひとめ一目確認しておきたかったのです。それは映画を観る私たちも同じです。シェーンの解説に、彼自身が並々ならぬ努力と工夫を積み重ねて、拳銃の腕を磨いてきたことが見て取れます。そして、目にも留まらぬ早打ちとガン裁きで、標的の石ころを打ち抜くのです。ジョーイはあまりのすご凄さにあっけ呆気に取られて目を丸くします。なおこのシーンは、なんと119回も取り直しを行ったそうです。また主演のアラン・ラッドは、この映画のために拳銃の抜き打ちの特訓を行い、なんと0.6秒の早打ちを達成するまでの腕前になったそうです。
しかしその様子を見ていたマリアンが、息子に銃は必要無いと言います。シェーンは、「銃はただの道具で、斧やシャベルと同じ。使い手次第で良くも悪くもなる。」と反論します。しかしマリアンは、「すべての銃が無くなれば平和になれる。あなたの銃も含めて。」と主張します。現代の私たちも考えさせられる議論がここにあります。またその議論は、この映画が訴える核心的なメッセージでもあるのです。監督のジョージ・スティーブンスは、一貫して銃の廃絶論者でした。この映画の製作された1953年は、ソ連でフルシチョフがスターリンの後継となり、米ソ冷戦の緊張が雪解けを見せる時期でした。軍縮による平和の実現という、人間の理性が信じられた時代です。しかし現代に至るまで、武力の放棄による平和は実現していません。いま未だ主要国の力の均衡が、平和を維持しています。しかし科学技術と同様、一旦武力を手にすると、人間がその良き使い手であり続ける保証は、どこにも無いのです。
(2)独立記念日の祝い
独立記念日の祝い方は、ライカーたちと開拓農民たちとで対照的でした。町を牛耳るライカーたちは、酒場をねじろ根城に銃を打ち鳴らし、ロデオや馬の早駆けに興じるなど荒々しい祝い方で、女性や子供の姿は見当たりません。一方農民たちは、開拓地の広場に集まり、花火を上げ、老若男女がフォークダンスに興じます。またハーモニカやピアノなどの楽器の演奏が盛り上げます。音楽やダンス、そしてご馳走は、暮らしを楽しくするためのとっておきのツールです。そう、彼らは暮らしの楽しみ方を知っているのです。そしてさらに盛り上げるために、この日に結ばれたジョーとマリアンの結婚記念を祝います。マリアンはそのために、衣装箱からウェディングドレスを取り出して着込んで来たのです。
その後またダンスが始まるのですが、無骨なジョーはダンスが苦手です。そこでマリアンの相手をシェーンに譲ります。そこで二人が本当に息が合って見事な踊りを見せます。その楽しそうな二人の様子を見るジョーの表情は、複雑です。
(3)前哨戦
祭りが終わってジョーたちが家に帰ってくると、そこにライカー兄弟とウィルソンが待ち受けていました。ライカーは、入植者のリーダーであるジョーを何とかしない限り、農民たちの結束が揺るが無いことを知っています。そこでジョー・スターレットに、最後通牒を突き付けにきたのです。土地を手放してライカーの配下に入ることを求めます。ウィルソンを連れて来たのは、ことわ断ればどうなるか分からないぞということを示すためだったのでしょう。
この時のライカーの言葉が、2つのフロティア開拓の違いを如実に示します。ライカーは、自分たちが最初にこの地に来て、インディアンや盗賊と血を流して戦い、放牧を始めたことを話します。そして自分たちこがこの地域をつくったと主張します。そこに農民たちが我が物顔でやってきて、土地を囲い、水場を奪ったと怒ります。ライカーたちからすれば、開拓農民は土地泥棒の不法占拠者でしかなかったのです。それ故にこの地に命をかけた自分たちこそが、この土地の所有の権利があると語るのです。もっともな議論でしょう。
しかし合衆国政府は、こうした放牧による未開地の利用を、開拓とは認めませんでした。そこに生まれるのは、ライカーのようなボス支配だけで、人間の自由と独立は生まれてきません。それは南北戦争の元になった南部の綿花栽培も同じです。そこに生じるのは、大規模農園と奴隷労働だけでした。合衆国は、あくまでも自立した農民が、家族を養い、子供を産み育て、自由に物事を決めて暮らしをつくっていく状況が出来て始めて、フロティア開拓と認めたのです。そうした状況が揃わなければ、民主主義が生まれないからです。そして自由と独立と民主主義を育む環境条件をつくろうと挑んでいくことこそが、アメリカの理想とするフロンティア・スピリットを体現することであったのです。
もちろんジョーは脅しに屈せず、ライカーの申し出を断ります。一方ここで顔を合わせたシェーンとウィルソンは、互いに探り合いを続けます。まずシェーンが水を口にして、残りを地面に捨てます。それは“邪魔をさせないぞ”ということを意味しているそうです。それに対してウィルソンは、残った水を水槽に流し戻します。それは水場を汚す、つまり“皆殺しにしてやる”ということを意味するそうです。ラストの決闘に向けての、序章が始まります。
6.動揺から結束へ
(1)トーリーの死
そして遂に悲劇が起こります。向こう見ずでお調子者の農民のトーリーが、町でウィルソンに決闘に誘いだされ、撃ち殺されてしまったのです。とうとう犠牲者が出たのです。銃を抜いただけで撃つ気力を失ったトーリーに、ウィルソンは容赦なく弾を打ち込みました。その時普段の無表情とは変わって、ニヤニヤと笑みを浮かべるのです。そこからこの男の異様な存在感の理由が見えてきます。シェーンや、シェーンと殴り合ったクリスと異なり、一片の堅気ヘの郷愁も無く、裏稼業に徹して生きているのです。その異質さが、不気味な異様さを発しているのです。このほとんどせりふ無しで異質な存在感を生み出したジャック・パランスの演技も見事で、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。
トーリーの死を受けて、開拓農民たちに動揺が走ります。その一人ルイスが、入植地を出ていくと言うのを、ジョーがせめてトーりーの葬式を出してやってからにしろと引き留めます。そして平原の墓地で、トーリーの葬儀と埋葬が行われます。農民の一人シップステッドが牧師の代わりを務め、“主の祈り”を献げます。開拓民たちが、何でも自分たちでこなしていくのに感心させられます。それにしてもトーリーの残された家族が哀れです。これからどうやって生活していくのだろうと、不安になります。またトーリーの飼い犬が、主人の棺桶に取り付いて離れません。こうした動物を使った演出も効果的で、涙を誘います。
(2)シェーンの説得
葬儀が終わると、ルイスが家財道具をまとめて立ち去ろうとします。追随して逃げることを決める者も現れてきます。それをジョーが引き留めます。ここに残って教会と学校を建て、俺たちの町をつくろうと訴えます。それを受けてシェーンが、「何故残るべきか。それは愛する者のため。家族、女房、子供たちのためだ。彼らの将来のために、今大人たちが未来を切り開かなければならないんだ。」と語ります。自分自身に定住の意味と決意を言い聞かせているようです。それに重ねてジョーが、「誰もが自由に暮らせる開拓地をつくるんだ。そのためにここで、子供たちを強い人間に育てよう。」と加えます。
人間においても、人間がつくる社会においても、2つの生き方があります。1つは秩序をつくり、堅実な暮らしをし、豊かな生産を生み出す生き方です。もう1つは混沌の中で、己の力を頼りに奔放に生きる道です。自助努力が叫ばれ、競争によって成功がつか掴めるように見えて格差の広がる現代は、いったいどちらの生き方の下にあるのでしょうか。シェーンの言葉には、彼自身が今求める生き方への、強い願いが込められています。
(3)ジョーの責任
その時集まった農民たちは、草原の彼方に、空き家になったルイスの家から火の手が上がるのを目にします。ライカーたちが追い打ちをかけて放火したのです。ルイスは、自分の手で建てた家が燃えるの見て、ショックを受けます。その時仲間のみんなが、もう1度家を建て直そう、手伝うからとルイスを励まし、消火に向かいます。余談ですが本来人間は、家だって自分で建てることが出来ることに驚かされます。そして必要なものは何でも工夫して編み出す、開拓者たちの暮らしの力強さに感心させられます。さてトーリーを殺害し、ルイスの家に火を付けて脅し、開拓民たちを追い出そうとしたライカーの目論見は外れ、かえ却って農民たちの結束を固めてしまいます。
しかしライカーの無法を訴えようにも、保安官がいるのは160Kmも先で、呼びに行くだけでも3日はかかります。その間何とかせねばなりません。その責任が、リーダーであるジョーの肩にのしかかります。一方ライカーは、元凶であるジョー・スターレットの殺害を決意します。
7.シェーンの決意
(1)罠を仕掛けるライカー
その夜ライカーは、弟のモーガンをジョーの家に使いにやります。事態の解決のために、1対1で話し合いを持とうと持ち掛け、ジョーをグラフトンの酒場におび誘き出して殺すつもりです。それと前後して、シェーンと殴り合ったライカーの手下クリス・キャロウェイがシェーンを訪ねてきます。スターレットが罠には嵌められて殺されようとしていること伝えに来たのです。クリスもまた、ならず者稼業から足を洗おうと決意したので、ライカーと手を切ったのです。シェーンはその知らせに感謝します。堅実な暮らしに戻ろうとする二人が、固い握手を交わします。なお原作では、このクリスがシェーンの去った後、スターレットの農場で働くことになったそうです。
さてジョーは罠を承知で、ライカーに会いに出かけようとします。銃に弾を込め、暴力での解決を覚悟しているようです。マリアンが必死で止めます。しかしジョーは、家族と仲間のために自分は行かざるを得ないのだと説明します。そして万が一自分が死んでも、マリアンを自分より幸せにできる人間がいるから、心置き無いと言います。シェーンのことを指しているのです。
(2)シェーンとジョーの格闘
そしていよいよ出かけようとするジョーの前に、再び銃を腰に帯びてガンマンスタイルに戻ったシェーンが立ちふさ塞がります。ライカーの下に早打ちのウィルソンがいる以上、ジョーでは歯が立ちません。シェーンは、自分がこの仕事引き受けることを決意したのです。そして再び銃を手にした以上、もう2度とかたぎ堅気の生活に戻れないことも分かっています。しかしジョーも譲りません。互いに譲らぬ二人の激しい殴り合いが始まります。開墾作業で鍛えたジョーは屈強です。修羅場を渡り歩いたシェーンとはいえ、元来華奢なたいく体躯故に、次第に劣勢に追い込まれます。しかしシェーンは、この役割が自分にあることを知っており、ジョーを行かせる訳にはいきません。卑怯は承知でシェーンは、銃の握り手部分でジョーを殴り倒します。それを見ていた息子のジョーイが非難します。
シェーンの役割を悟り、もう二度と会えないことを意識したマリアンは、万感の思いを込めてシェーンと握手し、「命を大切に」と言葉をかけて別れを告げます。マリアンを演じたジーン・アーサーは、戦前フランク・キャプラ監督作品で活躍した名女優で、この映画の撮影時にはなんと年齢が51歳、すでに映画からは引退していました。それをジョージ・スティーブンスの演出ならばと、最後の映画として出演したそうです。なるほどシェーンとジョーの間で揺れ動く女心を、抑えた演技で繊細に表現できるのは、この人しか無かったということでしょう。またジョー・スターレット役のヴァン・ヘフリンも、無骨で実直な開拓農民の役を好演しています。
ところでこの映画は、自然の大きな慈しみが人間のドラマを包み込んで見守る一方で、人間の争う心が生き物たちや自然界に影響を及ぼすことも伝えています。大人たちの憎しみと闘争の心が燃え上がるに連れて、子供のジョーイが、“バンバン”と口で音を出して銃を撃つ真似が激しくなり、つい終には狂ったようになります。またジョーとシェーンの殴り合いが激しくなるにつれて、馬は暴れ、牛はおび怯え、ついには冊を乗り越えようとするまでに興奮します。私たちの営みは、私たち人間だけのものではなく、自然界とつな繋がり、深く影響を与えるのです。
(3)決闘に向かうシェーン
ジョーを殴り倒し、マリアンと別れを告げたシェーンは、一人馬に乗ってライカーとウィルソンの待つ酒場に向かいます。心を落ち着けるためなのでしょう。ゆっくりとしたなみ常あし足で進んでいきます。その後をジョーイと、スターレットの家に引き取られていた、殺されたトーリーの飼い犬が追います。ジョーイは子供ながらにシェーンの覚悟が分かり、銃で父親殴ったのは卑怯だと非難したことを、どうしてもシェーンに謝りたかったのです。以前は町に出かけるシェーンに付いて行くことの出来なかったジョーイが、今度は町の酒場まで追いすがっていきます。ここにジョーイの成長の姿が見て取れます。またトーリーの犬は、飼い主の仇討ちを見届けたかったのでしょう。この子供と犬のコンビの存在が、血塗られた決闘のリアル感を和らげ、どこか全体を寓話的なものにします。
8.時代を切り替えるヒーローの役割
(1)酒場の決闘
途中でシェーンの、墓場を抜けていくシーンが現れます。シェーンの死を暗示しているのでしょうか。
シェーンが酒場に着くと、まず殺気を感じた客が立ち去っていきます。そしてシェーンがライカーと言葉を交わします。「あんたの時代はもう終わった」とシェーンが話します。「お前の時代もじゃないのか。ガンマン」とライカーが応じます。そしてシェーンが「俺は心得ている(悟っている)」と答えるのです。その頃、どうにかシェーンに追いついたジョーイと犬も、店の入口から成り行きを見つめます。
そしていよいよ、片隅のテーブルでいつものようにコーヒーを飲んでいたウィルソンが立ち上がります。それと同時にまたしても、床で寝そべっていたグラフトンの犬が、すごすごとしっぽ尻尾を下げて逃げ去っていきます。細かい演出です。そしてシェーンとウィルソンの決闘が始まります。二人の対決は一瞬で終わりました。ほんの僅かシェーンの銃の方が早く火を噴き、ウィルソンを撃ち倒し、またライカーにも弾を浴びせます。倒れた拍子に酒樽の下敷きになったウィルソンの死にざま様が哀れです。ライカーの死体も確認したシェーンは、巧みな拳銃さばきで銃をホルダーに収めます。しかしその時、2階からライカーの弟がライフルでシェーンを狙っていたのです。しばらくかたぎ堅気の生活を続け、ガンマンとしての感が鈍って油断したのでしょうか。それをジョーイが気づき、シェーンに危ないと声をかけます。シェーンは振り向き、ライカーの弟モーガンを撃ちます。撃たれたモーガンは、派手に2階から落下します。でもこの時モーガンの放った弾が、シェーンの体をも貫いていたのです。
(2)シェーン、カムバック
戦いが終わって酒場を出るシェーンを、ジョーイが迎えます。一緒に家へ帰ろうと言いますが、シェーンはそれは出来ないと告げます。努力したが、結局自分の生き方を変えられなかったと話すのです。また1度人を殺してしまったら、2度と元に戻れない。一生殺し屋の烙印がついて回るとも話します。そしてお母さんにもう心配ない、これでこの地から銃は消えたと伝えるように頼みます。その時ジョーイは、シェーンが血を流していることに気づきます。確かに戦いの終わった後、シェーンは右手を力なくだらっとさせていました。心配するジョーイの頭を撫でながら、シェーンは遺言のようにジョーイに語ります。「強くてたくましい男になれ、お父さんお母さんを大切にしろ。」シェーンは自分が果たせなかった暮らしの夢を、ジョーイに託します。そしてあの映画史に残るあまりにも有名なラストシーンを迎えるのです。険しくも美しいグランド・ティートンの山並みへと向かって、平原を馬に乗って去っていくシェーンの後ろ姿に、渾身の思いを込めてジョーイが「シェーン、カムバック」と叫ぶのです。
(3)この映画からの問いかけ
実は映画はこの後も続いて、右手をだらりとさせたシェーンが、再び墓地を通って去って行くシーンで終わりを迎えます。シェーンの死を、そしてシェーンの時代の終わりを暗示していることは間違いないでしょう。そしてこの作品からの複雑な問いが残ります。結局銃の時代を終わらせるためには、銃をもってしかなし得ないのでしょうか。またシェーンは、結局堅実な暮らしに人生を切り替えることに敗北したのでしょうか。いやむしろシェーンは、ヒーローとしての役割に生きたと言った方が正しいでしょう。混乱と力の支配の時代から、秩序と平和と暮らしの安定の時代へ。時代が切り替わる時には、誰かその転換を担うヒーローが必要になってきます。そしてヒーローは、古い時代の力をもって、新しい時代を開くような矛盾を一身に担うことになるのです。それ故に、ヒーローは悲劇性を帯び、新しい時代の立役者であるにも関わらず、次の時代からは去らなければならない運命にあるのです。しかしそのために、新しい時代を生きる人たちの心に強烈に焼き付き、生きる支えとなるのです。シェーンの思い出は、ジョーイの心にも、ジョーとマリアンや開拓民の人々の心の中にも、いつまでも生き続け、語り継がれていくことでしょう。そしてこの映画を観た私たちの心にも。そしてこのように大きな転換の役割を果たしたが故に、シェーンはまた大自然の懐から、この人間界に遣わされてきたみつか御使いの使命を帯びた者ともみな見做すことが出来るのです。その御使いが、今その使命を終え、自らの命も終えることによって、再び大自然の懐へと戻っていくのです。
映画『シェーン』は、多くの人々が1度は観た映画であり、あの有名なラストシーンだけは誰もが覚えている映画です。しかし丹念に観れば、名作映画と呼ばれる作品の条件を多くの点で備えて作り込まれた映画で、何度観ても新しい発見に気づかされる映画です。機会があれば何度でも鑑賞し、その都度にいのちの養われる経験を、積み重ねて頂ければと願います。
次回のパンセの集いは9月12日月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
今回のパンセ通信は、前回に引き続き映画『シェーン』の解説です。各場面を順を追って見ていきながら、アメリカが体現してきた自由や独立や民主主義の原点、そしてフロンティア・スピリッツの本質、さらには人間としての暮らしづくりのモデルを学んでいければと思います。次回のパンセの集いは9月12日の月曜日、18時からです。場所は初台、幡ヶ谷の地域で行います。
1.映画『シェーン』の冒頭シーン
(1)自然の慈しみにいだ抱かれて
多くの映画がそうであるように、冒頭シーンというのは、映画のテーマを暗示するか、監督がこれから物語ろうとする作品に対する自身のまなざ眼差し、あるいは鑑賞者にもこういう風な心持ちで見てもらいたいと期待する視座を指し示しているものです。映画『シェーン』の冒頭は、雄大なワイオミングの草原を見渡す山の上から、流れ者のシェーンが、あのビクター・ヤングの郷愁豊かな名曲『遥かなる山の呼び声(The Call of the Faraway Hills)』が流れる中、馬に乗って下って行くシーンから始まります。そして大平原をたった一人ゆっくりと横切っていく姿を、超ロングショットで捉えるのです。まるで大自然の懐から遣わされてきた何者かが、人間界に向けて進みゆくかのようです。そしてそのよそ者が、大草原を開拓する1軒の開拓農家を通りすがろうとするのです。その時に、この異質な来訪者に最初に関心を留めるのは、豊かな水辺で喉を潤す大鹿とその鹿を追う農家の子供です。そして小鳥のさえず囀りと牛の鳴き声、切り株を切る斧の音と主婦の歌声という、どこまでものどか長閑な情景が流れ者を出迎えるのです。この冒頭シーンが、これからどんなまなざ眼差しでこの映画が物語られようとしているのか、そのすべてを指し示しているように感じられます。ドラマはこの開拓地を舞台に展開していくのですが、その間も常に背景には、雄大なグランド・ティートンとそれに連なる山々が、人々の繰り広げる葛藤を見下ろします。この荒々しくも美しい大自然が、利害に明け暮れ、感情にさいな苛まれる人間の営みをもしっかりと包み込んで、慈しみのうちに優しく見守って導いていくのです。
(2)シェーンを目にするジョーイ
この冒頭シーンでは、見知らぬよそ者を目にする農家の子供ジョーイの、好奇にあふ溢れた表情がしゅういつ秀逸です。古来より流れ者は、災いをもたらすか、新たな変化をもたらすヒーロー(まれびと)となるかのどちらかです。馬に乗って近づいてくる人物に目を凝らすジョーイは、その男がウエスタンウエアに身を包み、見事なガンベルトとホルダーに入った拳銃を腰に帯びているのに気づいたことでしょう。典型的なガンマンの装いですが、尋常ではない風格を漂わせています。この一瞬にして、すでにジョーイは予期せぬ来訪者シェーンの虜になったことが、その表情からよく伝わります。無法地帯の西部にあって、拳銃一丁で渡り歩くガンマンは、ヒーローでした。恐らくジョーイが本物のガンマンを目にするのは、これが始めてのことだったかもしれません。子供心に、あこがれのヒーローへの期待が高まります。それはこの映画を観る私たちも同じです。“まことのヒーロー”について語ることは、この映画のテーマでもあるのです。そのまことのヒーローを、これから私たちは無垢な子供のジョーイの視線と共に追っていくのです。冒頭のシェーンの来訪のシーンで、一挙に私たちの視線を転換してこのドラマに没入させていくジョージ・スティーブンス監督の手腕は、本当に見事です。そして子供ながらにジョーイを演じる、ブランドン・デ・ワイルドの演技にも引き込まれます。彼はこの作品の演技で、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。
2.スターレット家に根を下ろすシェーン
(1)シェーンに魅了されるジョーイとマリアン
ジョーイは農場の中に駆け戻って、すぐに誰かが来ることを父親に知らせます。父親のジョー・スターレットは、庭先にどっかりと根を下ろす大きな切り株を取り除こうと斧を振るっています。そして「本当だ、構わんさ」と応じます。その後カメラは、窓辺に花が飾られ、唄を口ずさみながら食事の準備をしている妻マリアンと片付いた室内を、窓越しに映し出します。ここに描かれているのは、しっかりとこの地に根を下ろし、貧しいながらも小奇麗に工夫を凝らして、確かな暮らしの基盤を築いた開拓農民一家の姿です。父親のジョーが野良仕事に追われている様子ではなく、最後に残った邪魔な切り株に挑む姿を見せるのは、ここでの開拓が完成の域に至っていることを示します。さらに「(誰が来ようと)構わんさ」というジョーの口振りには、生活の自信のほどが見てとれます。
そこに馬に乗ったシェーンが、ゆっくりと近づいてきます。流れ者であった彼が、この家の発する確かな暮らしと温かい雰囲気に引き寄せられたのかもしれません。ジョーイが農場の冊によじ登ってシェーンを迎えようとし、目と目が合います。その時にシェーンの微笑む姿がアップで映されるのですが、これでもかと言うほどの美男子です。ガンマンには似つかわしくないやさおとこ優男ですが、瞳にはどこか憂いを帯び、邪悪さは微塵も感じられません。小柄できゃしゃ華奢ですが顔だちの良いアラン・ラッドが、シェーン役に抜擢された理由が分かります。そのシェーンの男ぶりに目を惹かれたのは、ジョーイだけではありませんでした。農家の妻マリアンも窓越しに見つめます。この一瞬にしてジョーイもマリアンも、そして観客である私たちも、シェーンに魅了されてしまうのです。
(2)シェーンの素性
主人のジョーと挨拶を交わしたシェーンは、ジョーイに優しく語り掛けます。ジョーイはまぶ眩しくて目を上げられません。「おじさんをずっと見ていたね。ものを良く観察するのはいいことだ。将来有望だな。」何が本当に大切なことかを、よく見極めろということでしょう。こう語り掛けられてジョーイは嬉しそうに眼を上げるのですが、こうしたところに、大自然から人間界へのメッセンジャーとしての役割も担う、シェーンの片鱗が見てとれるようです。シェーンはまた、飼われているジャージー牛(乳牛)の親子に目を留め、懐かしがります。そして映画を見ていくと気づくのですが、左手の薬指に大きな指輪をはめて外しません。こうしたことから、今はガンマン稼業でさすらう身の上であっても、かつては愛する妻と家庭を持ち、つつましく乳牛を育てる生活をしていたのではないかということが伺い知れます。こうした細かい所にも丹念に物語をふく膨らませるヒントが施され、観るたび新しい気づきをうなが促すのが、名作映画と認められるゆえん所以でしょう。
ジョーに水を勧められて、シェーンが馬を降りて飲もうとします。その時ジョーイが、弾を抜いておもちゃにしているライフル銃のレバーを引いてしまいます。シェーンに自分の銃を見てもらいたかったのです。しかしその一瞬にしてシェーンは、ガンベルトの銃に手を置き身構えます。シェーンがただ者ではないことが証明されると同時に、ガンマン稼業として生きて来た者の身に染みついた、悲しいさが性のようなものが見てとれます。
(3)ライカーの来訪
その時、この地に最初に移り住み、放牧業を営む業者たちのボス、ライカーが手下の一隊を引き連れてジョー・スターレットの農場にやってきます。水しぶきを上げて荒々しく川の浅瀬を渡り、畑を踏み荒らして侵入してくる様子から、ジョーにとってライカーは敵対者であることが分かります。てっきり先に来たシェーンを、ライカーの回し者だと思ったジョーは、シェーンを追い払おうとします。このあたり一帯を支配するライカーにとっては、移住してくる農民は放牧の邪魔で、スターレット一家に対して冬までに出ていけと警告しにやってきたのです。それに対してジョーは、ホームステッド法に基づく土地の権利のある開拓者であることを主張します。その時、家の陰からシェーンが姿を現します。そしてスターレットの友人だと名乗ります。突然の助っ人の登場に、ライカーたちは再び畑を踏み荒らしながら、一旦は引き上げていきます。そしてこの物語が、ジョーとライカー、新しい開拓自作農と古い放牧業者との対立で展開していくことを印象づけます。
ひとまず状況が収まったので立ち去ろうとするシェーンを見て、マリアンが夫のジョーに、夕食の支度がすぐに出来ることを伝えます。そのきづか気遣いからマリアンの良妻ぶりと、ここでも家庭の営みの堅実さが見て取れます。その声に促されてジョーがシェーンに、ライカーの一味と誤解したことを謝り、夕食に招きます。そして何もないが女房の料理は絶品だと言って、シェーンと握手します。そしてシェーンはまたジョーイとも握手し、3人の心が通い始めたことを示します。
(4)足を洗うことを決意したシェーン
マリアンの心尽くしの料理を味わいながら、ジョーはシェーンにライカーたちの放牧が時代遅れで、生産効率の悪いことを指摘します。そして一か所に定住して落ち着いて暮らし、垣根を設けて自分の土地を耕作しながら、併せて手間暇かけて家畜も飼育する、独立自営農としての自分たちのやり方のメリットを訴えます。そこには開拓農民としてここに入植し、ようやく自立出来てきた自信のほどが見て取れます。この後のジョーの会話からも伺い知れるのですが、ここに至るまでは、不公正や服従を強いられてきた人生があったようです。自由と独立、どんなに大きな代償と労苦を伴っても、工夫を凝らして自立した生活を切り開いていく。それこそがアメリカン・スピリットであり、貧困と圧政を逃れてヨーロッパからアメリカに移住してきた人々の願いでありました。そして今ここで、ジョー・スターレットが体現している精神でもあるのです。その自由と自立をさらに確かなものとしていくためには、ジョーにとっては人手が必要でした。ジョーはシェーンの中にある本来の誠実さと、さすらいの生活から足を洗いたがっている思いを直感します。そしてジョーは遠回しにシェーンに、一緒にここで働き、暮らしを営もうと誘いをかけるのです。
一方シェーンの心の変化を現す描写も巧みです。シェーンはまず食事の席では、ガンマンの命であるガンベルトと拳銃を外して、椅子の背にかけます。それでも子牛が立てた物音に反応して、瞬時にピストルに手が行ってしまったりするのですが、温かい家庭のだんらん団欒が次第にシェーンの心をほぐしていきます。そして食後には・銃・を・・・残した・・ままで席を立ちます。渡世人のさが性として、食事の恩義に報いようとしたのでしょう。表に出て、ジョーが格闘していた大きな切り株に斧を振るいます。それを見たジョーも加わります。二人の共同作業が始まります。ジョーはこの切り株を人力だけで取り除こうと、2年間も苦闘してきたのです。それは開拓の完成の証だったのでしょう。そしてどっぶりと日の暮れた夜遅くになって、遂に二人は切り株を根こそぎ引き倒すことに成功するのです。それはジョーにとっては、開拓から本格的な農場経営の段階に入ったことを意味し、シェーンにとっては、その切り株に代わって自分がここに根づくことを意味しました。そしてそれは、二人が深い男の友情と信頼で結ばれたことをも現しているのです。
3.新しい生活に立ち塞がる困難
(1)屈辱に耐えるシェーン
ジョーを手伝うことに決めたシェーンは、納屋に住み込み、ジョーに頼まれて町の雑貨屋グラフトンの店に入荷した・・針金と、自分の作業着を買いに出かけます。この針金というのは有刺鉄線のことで、これもこの映画の時代背景をよく表しています。草原地帯であるグレート・プレーンズでは、木材の入手が困難で、このことも農業入植者の開拓を妨げる要因となっていました。それが1870年代に様々な形状の有刺鉄線が商用化され、農場や家畜を囲う木材に替わる材料として用いられるようになり、開拓を加速したのです。さてこの時シェーンは、銃を置いたまま丸腰で町に向かいます。以降彼は、最後にライカーに雇われた2丁拳銃使いの殺し屋ウィルソンと決闘する時まで、銃を手にすることはありません。なおこの時ジョーイは、町に向かうシェーンの馬車を追って駆け出すのですが、マリアンに留められすぐに引き返します。しかしこれもまた、細かい演出ですが、ラストの決闘シーンへとシェーンが赴く場面の伏線になっているのです。
グラフトンの店に着いたシェーンは、針金と新しい作業着を購入し、早速着替えます。しかしこの時、シェーンは不当に高い金額を支払わせられます。きゃしゃ華奢な体形の新参者なので、足元を見られたのでしょう。またガンマン稼業であったシェーンは、生活実感の無いことから相場が分からず、高いと思いながらも交渉が出来ません。このあたりにも、根無し草であった人間がかたぎ堅気の生活に戻ろうとする時のハードルが垣間見えます。そのハードルはさらに高まり、シェーンを試みます。シェーンがスターレットの新しい使用人だと耳にしたライカーの手下のクリスが、なんくせ難癖をつけ、けんか喧嘩を売ろうとしたのです。クリスはシェーンの再出発を象徴する新しいシャツに酒をかけて汚し、散々に侮辱しました。しかしシェーンは何とか屈辱に耐え、その場を後にします。
ここで注意を惹くのは、グラフトンの雑貨店には酒場が併設されていて、そこにライカーの一味がたむろしていることです。この物語の中で彼らの居場所は、決まって酒場です。それは“生活”が無いことを意味します。家と家庭を持って堅実な生活を営む農民たちと、暮らしぶりの面でも鋭い対比がなされているのです。もう1つ付け加えるならば、店に来ていた農民ルイスの娘スーザンが、鏡に向かって帽子を試着している場面です。クリスが微笑ましい笑顔で後ろから覗き込むのですが、無視されてしまいます。それは一瞬の挿入場面なのですが、実はクリスも家庭に落ち着くことを求める、シェーンと同じ心持ちのある人間であることをかいまみ垣間見せます。
(2)シェーンに惹かれていくマリアン
その夜天候が激変して気温が下がり、激しく降りしきる雨の中で、スターレットの家で開拓農民たちの会合が持たれます。この地の気候の厳しさを示すと共に、自営農たちがこうして頻繁に集まって、対等に議論を戦わせて物事を決していたことを伺わせます。議題はライカーの差し金で、小麦畑を牛の群れに踏み荒らされたアーニーが、耐えかねて入植地を出て行こうと言い出したことに対して、アーニーを押し留め、この地に残るために皆で結束を固めようということでした。シェーンも加わります。しかしその席で、昼間のシェーンの行動が話題になり、“腰抜けのおくびょうもの臆病者”呼ばわりされてしまいます。隣室ではその話が、マリアンとシェーンに憧れるジョーイにも聞こえます。
耐えかねたシェーンは、家を出て豪雨の中にずぶ濡れになって立ちすくみます。定住者としての生活を願う心と、ガンマンとしての誇りが葛藤する心情を、象徴しているようです。シェーンの心情が分かるマリアンは、優しくシェーンに自分の小屋に戻るように促します。
そしてマリアンは、自分に言い聞かせるようにジョーイに語り掛けます。「彼をあまりに好きにならないで」「いつか去って行く人よ。あまり好きになると、別れがつらくなるから。」ここに流れ者のシェーンに、どうしようもなく惹かれていくマリアンの気持ちが、抑制されて、しかし情感豊かに描かれています。すべてがダイレクトなアメリカ人にも、こんな細やかな心情表現が出来るのかと驚かされます。この婉曲的で細やかなマリアンとジョーとシェーンの三角関係の描き方が、この映画が日本人の心情にもかな適って受け入れられる理由の1つかもしれません。
4.エスカレートする対立
(1)大乱闘
シェーンがから絡まれた一件があってから、ジョーたちはトラブルを避けるために、この地の開拓農民全員でグラフトンの店に買い出しに行くことを決めます。そこでシェーンは、以前屈辱を受け、売られた喧嘩の借りを返すために、店の酒場でライカーの手下クリスを侮辱し、喧嘩をしかけます。そしてクリスを打ちのめした後に、今度はたった一人でライカーの手下全員を敵に回し、殴り合いを演じます。そこにジョーも助っ人に入り、結局二人でライカーの一味に勝利してしまうのです。おおよそ10分にも及ぶ大乱闘シーンで、最後のシェーンの決闘シーンと併せて、西部劇の醍醐味を堪能させてくれるエンターテイメント性の盛り込まれているところが、この映画の魅力です。そしてこの乱闘を一緒に戦ったことにより、ジョーとシェーンの男の絆は、さらに深い所で結ばれることになるのです。
この時シェーンは、始めからクリスに仕返しすることを決めていたようです。荒くれ者の世界を渡り歩いたガンマンとしての誇りと、自分を英雄視するジョーイの期待の手前、シェーンは屈辱に耐えたままで済ませることはが出来なかったのです。誰もが胸がスカッとする勝利なのですが、反面力ある者が、結局はその力を誇示せざるを得なくなる限界も感じられ、その後のシェーンの運命を暗示します。またジョーとその使用人であるシェーンが勝利したということは、開拓農民たちが、力で支配しようとする牧畜業者たちに、力で勝利したことを意味します。しかし力による勝利は、より強い力を呼び込み、より大きな悲劇をもたらすことになっていくのです。
(2)マリアンを抱き留めるジョー
敗北したライカーは怒りに燃え、弟のモーガンに命じて、名うてのガンマンを呼びに遣ります。もはや脅しではなく、入植者たちを“自分の土地”から、容赦なく力づくで追い出すことを決意したのです。
一方家に帰ったジョーとシェーンは、二人の活躍を思い出して大興奮するジョーイを尻目に、マリアンから傷の手当てを受けます。まだシェーンの手当てが終わらぬ内に、早く寝るように命じられたジョーイが、ベッドルームからマリアンに話があると呼び掛けます。「シェーンが好きになった。お父さんと同じぐらい。いいよね。」と打ち明けるのです。それはそのまま、マリアンの心の内を語っているようです。マリアンは寝室から居間に出てきたジョーに、「何も言わずにただ抱きしめて」と頼みます。ジョーにしっかり抱き留めてもらわなければ、自分の心が漂ってしまうと思ったのでしょう。そのマリアンの心の揺れは、ジョーにも分かったはずです。ジョーもマリアンの複雑な心の内を感じ、強く抱きしめます。心憎いまでに細やかな、ジョージ・スティーブンス監督の演出です。
(3)殺し屋ウィルソンの登場
7月4日の独立記念の祝祭の日に、いよいよライカーに雇われた殺し屋のガンマン、ウィルソンがやってきます。黒づくめの服装と、ウィルソンを演じるジャック・パランスの容貌が、圧倒的な存在感をかも醸し出します。彼が酒場に足を踏み入れた時に、そのあまりの不気味さに、床に寝そべっていた犬が尾っぽを下げてすごすごと立ち去っていきます。この後クライマックにかけて、この映画では犬を始めとして巧みに動物を用いて、演出効果を高めていきます。到着したウィルソンが、バーテンダーのウィルにコーヒーを注文します。ウィルソンは、早打ちの腕を損ないたくないからでしょうか。一切アルコールは口にしません。そこまで殺しに徹しているところも、ウィルソンを不気味に感じさせる要因です。一方ライカーの農民に対するいかく威嚇行動は、さらにその度合いが増していきます。家畜を殺され、畑を踏み荒らされ、冊が壊されていきます。
5.最後通牒
(1)銃の使い方を教えるシェーン
そんな緊迫した状況の中で、開拓農民たちも独立記念日の祝祭を迎えます。祝祭会場の広場に出かける前に、ジョーイがシェーンに拳銃の撃ち方を教えてとねだります。この頃の西部においては、拳銃の腕前は、一人前の男としてのあかし証だったのでしょう。そしてまたジョーイは、どうしても一流であると目されるシェーンの腕前を、ひとめ一目確認しておきたかったのです。それは映画を観る私たちも同じです。シェーンの解説に、彼自身が並々ならぬ努力と工夫を積み重ねて、拳銃の腕を磨いてきたことが見て取れます。そして、目にも留まらぬ早打ちとガン裁きで、標的の石ころを打ち抜くのです。ジョーイはあまりのすご凄さにあっけ呆気に取られて目を丸くします。なおこのシーンは、なんと119回も取り直しを行ったそうです。また主演のアラン・ラッドは、この映画のために拳銃の抜き打ちの特訓を行い、なんと0.6秒の早打ちを達成するまでの腕前になったそうです。
しかしその様子を見ていたマリアンが、息子に銃は必要無いと言います。シェーンは、「銃はただの道具で、斧やシャベルと同じ。使い手次第で良くも悪くもなる。」と反論します。しかしマリアンは、「すべての銃が無くなれば平和になれる。あなたの銃も含めて。」と主張します。現代の私たちも考えさせられる議論がここにあります。またその議論は、この映画が訴える核心的なメッセージでもあるのです。監督のジョージ・スティーブンスは、一貫して銃の廃絶論者でした。この映画の製作された1953年は、ソ連でフルシチョフがスターリンの後継となり、米ソ冷戦の緊張が雪解けを見せる時期でした。軍縮による平和の実現という、人間の理性が信じられた時代です。しかし現代に至るまで、武力の放棄による平和は実現していません。いま未だ主要国の力の均衡が、平和を維持しています。しかし科学技術と同様、一旦武力を手にすると、人間がその良き使い手であり続ける保証は、どこにも無いのです。
(2)独立記念日の祝い
独立記念日の祝い方は、ライカーたちと開拓農民たちとで対照的でした。町を牛耳るライカーたちは、酒場をねじろ根城に銃を打ち鳴らし、ロデオや馬の早駆けに興じるなど荒々しい祝い方で、女性や子供の姿は見当たりません。一方農民たちは、開拓地の広場に集まり、花火を上げ、老若男女がフォークダンスに興じます。またハーモニカやピアノなどの楽器の演奏が盛り上げます。音楽やダンス、そしてご馳走は、暮らしを楽しくするためのとっておきのツールです。そう、彼らは暮らしの楽しみ方を知っているのです。そしてさらに盛り上げるために、この日に結ばれたジョーとマリアンの結婚記念を祝います。マリアンはそのために、衣装箱からウェディングドレスを取り出して着込んで来たのです。
その後またダンスが始まるのですが、無骨なジョーはダンスが苦手です。そこでマリアンの相手をシェーンに譲ります。そこで二人が本当に息が合って見事な踊りを見せます。その楽しそうな二人の様子を見るジョーの表情は、複雑です。
(3)前哨戦
祭りが終わってジョーたちが家に帰ってくると、そこにライカー兄弟とウィルソンが待ち受けていました。ライカーは、入植者のリーダーであるジョーを何とかしない限り、農民たちの結束が揺るが無いことを知っています。そこでジョー・スターレットに、最後通牒を突き付けにきたのです。土地を手放してライカーの配下に入ることを求めます。ウィルソンを連れて来たのは、ことわ断ればどうなるか分からないぞということを示すためだったのでしょう。
この時のライカーの言葉が、2つのフロティア開拓の違いを如実に示します。ライカーは、自分たちが最初にこの地に来て、インディアンや盗賊と血を流して戦い、放牧を始めたことを話します。そして自分たちこがこの地域をつくったと主張します。そこに農民たちが我が物顔でやってきて、土地を囲い、水場を奪ったと怒ります。ライカーたちからすれば、開拓農民は土地泥棒の不法占拠者でしかなかったのです。それ故にこの地に命をかけた自分たちこそが、この土地の所有の権利があると語るのです。もっともな議論でしょう。
しかし合衆国政府は、こうした放牧による未開地の利用を、開拓とは認めませんでした。そこに生まれるのは、ライカーのようなボス支配だけで、人間の自由と独立は生まれてきません。それは南北戦争の元になった南部の綿花栽培も同じです。そこに生じるのは、大規模農園と奴隷労働だけでした。合衆国は、あくまでも自立した農民が、家族を養い、子供を産み育て、自由に物事を決めて暮らしをつくっていく状況が出来て始めて、フロティア開拓と認めたのです。そうした状況が揃わなければ、民主主義が生まれないからです。そして自由と独立と民主主義を育む環境条件をつくろうと挑んでいくことこそが、アメリカの理想とするフロンティア・スピリットを体現することであったのです。
もちろんジョーは脅しに屈せず、ライカーの申し出を断ります。一方ここで顔を合わせたシェーンとウィルソンは、互いに探り合いを続けます。まずシェーンが水を口にして、残りを地面に捨てます。それは“邪魔をさせないぞ”ということを意味しているそうです。それに対してウィルソンは、残った水を水槽に流し戻します。それは水場を汚す、つまり“皆殺しにしてやる”ということを意味するそうです。ラストの決闘に向けての、序章が始まります。
6.動揺から結束へ
(1)トーリーの死
そして遂に悲劇が起こります。向こう見ずでお調子者の農民のトーリーが、町でウィルソンに決闘に誘いだされ、撃ち殺されてしまったのです。とうとう犠牲者が出たのです。銃を抜いただけで撃つ気力を失ったトーリーに、ウィルソンは容赦なく弾を打ち込みました。その時普段の無表情とは変わって、ニヤニヤと笑みを浮かべるのです。そこからこの男の異様な存在感の理由が見えてきます。シェーンや、シェーンと殴り合ったクリスと異なり、一片の堅気ヘの郷愁も無く、裏稼業に徹して生きているのです。その異質さが、不気味な異様さを発しているのです。このほとんどせりふ無しで異質な存在感を生み出したジャック・パランスの演技も見事で、アカデミー助演男優賞にノミネートされました。
トーリーの死を受けて、開拓農民たちに動揺が走ります。その一人ルイスが、入植地を出ていくと言うのを、ジョーがせめてトーりーの葬式を出してやってからにしろと引き留めます。そして平原の墓地で、トーリーの葬儀と埋葬が行われます。農民の一人シップステッドが牧師の代わりを務め、“主の祈り”を献げます。開拓民たちが、何でも自分たちでこなしていくのに感心させられます。それにしてもトーリーの残された家族が哀れです。これからどうやって生活していくのだろうと、不安になります。またトーリーの飼い犬が、主人の棺桶に取り付いて離れません。こうした動物を使った演出も効果的で、涙を誘います。
(2)シェーンの説得
葬儀が終わると、ルイスが家財道具をまとめて立ち去ろうとします。追随して逃げることを決める者も現れてきます。それをジョーが引き留めます。ここに残って教会と学校を建て、俺たちの町をつくろうと訴えます。それを受けてシェーンが、「何故残るべきか。それは愛する者のため。家族、女房、子供たちのためだ。彼らの将来のために、今大人たちが未来を切り開かなければならないんだ。」と語ります。自分自身に定住の意味と決意を言い聞かせているようです。それに重ねてジョーが、「誰もが自由に暮らせる開拓地をつくるんだ。そのためにここで、子供たちを強い人間に育てよう。」と加えます。
人間においても、人間がつくる社会においても、2つの生き方があります。1つは秩序をつくり、堅実な暮らしをし、豊かな生産を生み出す生き方です。もう1つは混沌の中で、己の力を頼りに奔放に生きる道です。自助努力が叫ばれ、競争によって成功がつか掴めるように見えて格差の広がる現代は、いったいどちらの生き方の下にあるのでしょうか。シェーンの言葉には、彼自身が今求める生き方への、強い願いが込められています。
(3)ジョーの責任
その時集まった農民たちは、草原の彼方に、空き家になったルイスの家から火の手が上がるのを目にします。ライカーたちが追い打ちをかけて放火したのです。ルイスは、自分の手で建てた家が燃えるの見て、ショックを受けます。その時仲間のみんなが、もう1度家を建て直そう、手伝うからとルイスを励まし、消火に向かいます。余談ですが本来人間は、家だって自分で建てることが出来ることに驚かされます。そして必要なものは何でも工夫して編み出す、開拓者たちの暮らしの力強さに感心させられます。さてトーリーを殺害し、ルイスの家に火を付けて脅し、開拓民たちを追い出そうとしたライカーの目論見は外れ、かえ却って農民たちの結束を固めてしまいます。
しかしライカーの無法を訴えようにも、保安官がいるのは160Kmも先で、呼びに行くだけでも3日はかかります。その間何とかせねばなりません。その責任が、リーダーであるジョーの肩にのしかかります。一方ライカーは、元凶であるジョー・スターレットの殺害を決意します。
7.シェーンの決意
(1)罠を仕掛けるライカー
その夜ライカーは、弟のモーガンをジョーの家に使いにやります。事態の解決のために、1対1で話し合いを持とうと持ち掛け、ジョーをグラフトンの酒場におび誘き出して殺すつもりです。それと前後して、シェーンと殴り合ったライカーの手下クリス・キャロウェイがシェーンを訪ねてきます。スターレットが罠には嵌められて殺されようとしていること伝えに来たのです。クリスもまた、ならず者稼業から足を洗おうと決意したので、ライカーと手を切ったのです。シェーンはその知らせに感謝します。堅実な暮らしに戻ろうとする二人が、固い握手を交わします。なお原作では、このクリスがシェーンの去った後、スターレットの農場で働くことになったそうです。
さてジョーは罠を承知で、ライカーに会いに出かけようとします。銃に弾を込め、暴力での解決を覚悟しているようです。マリアンが必死で止めます。しかしジョーは、家族と仲間のために自分は行かざるを得ないのだと説明します。そして万が一自分が死んでも、マリアンを自分より幸せにできる人間がいるから、心置き無いと言います。シェーンのことを指しているのです。
(2)シェーンとジョーの格闘
そしていよいよ出かけようとするジョーの前に、再び銃を腰に帯びてガンマンスタイルに戻ったシェーンが立ちふさ塞がります。ライカーの下に早打ちのウィルソンがいる以上、ジョーでは歯が立ちません。シェーンは、自分がこの仕事引き受けることを決意したのです。そして再び銃を手にした以上、もう2度とかたぎ堅気の生活に戻れないことも分かっています。しかしジョーも譲りません。互いに譲らぬ二人の激しい殴り合いが始まります。開墾作業で鍛えたジョーは屈強です。修羅場を渡り歩いたシェーンとはいえ、元来華奢なたいく体躯故に、次第に劣勢に追い込まれます。しかしシェーンは、この役割が自分にあることを知っており、ジョーを行かせる訳にはいきません。卑怯は承知でシェーンは、銃の握り手部分でジョーを殴り倒します。それを見ていた息子のジョーイが非難します。
シェーンの役割を悟り、もう二度と会えないことを意識したマリアンは、万感の思いを込めてシェーンと握手し、「命を大切に」と言葉をかけて別れを告げます。マリアンを演じたジーン・アーサーは、戦前フランク・キャプラ監督作品で活躍した名女優で、この映画の撮影時にはなんと年齢が51歳、すでに映画からは引退していました。それをジョージ・スティーブンスの演出ならばと、最後の映画として出演したそうです。なるほどシェーンとジョーの間で揺れ動く女心を、抑えた演技で繊細に表現できるのは、この人しか無かったということでしょう。またジョー・スターレット役のヴァン・ヘフリンも、無骨で実直な開拓農民の役を好演しています。
ところでこの映画は、自然の大きな慈しみが人間のドラマを包み込んで見守る一方で、人間の争う心が生き物たちや自然界に影響を及ぼすことも伝えています。大人たちの憎しみと闘争の心が燃え上がるに連れて、子供のジョーイが、“バンバン”と口で音を出して銃を撃つ真似が激しくなり、つい終には狂ったようになります。またジョーとシェーンの殴り合いが激しくなるにつれて、馬は暴れ、牛はおび怯え、ついには冊を乗り越えようとするまでに興奮します。私たちの営みは、私たち人間だけのものではなく、自然界とつな繋がり、深く影響を与えるのです。
(3)決闘に向かうシェーン
ジョーを殴り倒し、マリアンと別れを告げたシェーンは、一人馬に乗ってライカーとウィルソンの待つ酒場に向かいます。心を落ち着けるためなのでしょう。ゆっくりとしたなみ常あし足で進んでいきます。その後をジョーイと、スターレットの家に引き取られていた、殺されたトーリーの飼い犬が追います。ジョーイは子供ながらにシェーンの覚悟が分かり、銃で父親殴ったのは卑怯だと非難したことを、どうしてもシェーンに謝りたかったのです。以前は町に出かけるシェーンに付いて行くことの出来なかったジョーイが、今度は町の酒場まで追いすがっていきます。ここにジョーイの成長の姿が見て取れます。またトーリーの犬は、飼い主の仇討ちを見届けたかったのでしょう。この子供と犬のコンビの存在が、血塗られた決闘のリアル感を和らげ、どこか全体を寓話的なものにします。
8.時代を切り替えるヒーローの役割
(1)酒場の決闘
途中でシェーンの、墓場を抜けていくシーンが現れます。シェーンの死を暗示しているのでしょうか。
シェーンが酒場に着くと、まず殺気を感じた客が立ち去っていきます。そしてシェーンがライカーと言葉を交わします。「あんたの時代はもう終わった」とシェーンが話します。「お前の時代もじゃないのか。ガンマン」とライカーが応じます。そしてシェーンが「俺は心得ている(悟っている)」と答えるのです。その頃、どうにかシェーンに追いついたジョーイと犬も、店の入口から成り行きを見つめます。
そしていよいよ、片隅のテーブルでいつものようにコーヒーを飲んでいたウィルソンが立ち上がります。それと同時にまたしても、床で寝そべっていたグラフトンの犬が、すごすごとしっぽ尻尾を下げて逃げ去っていきます。細かい演出です。そしてシェーンとウィルソンの決闘が始まります。二人の対決は一瞬で終わりました。ほんの僅かシェーンの銃の方が早く火を噴き、ウィルソンを撃ち倒し、またライカーにも弾を浴びせます。倒れた拍子に酒樽の下敷きになったウィルソンの死にざま様が哀れです。ライカーの死体も確認したシェーンは、巧みな拳銃さばきで銃をホルダーに収めます。しかしその時、2階からライカーの弟がライフルでシェーンを狙っていたのです。しばらくかたぎ堅気の生活を続け、ガンマンとしての感が鈍って油断したのでしょうか。それをジョーイが気づき、シェーンに危ないと声をかけます。シェーンは振り向き、ライカーの弟モーガンを撃ちます。撃たれたモーガンは、派手に2階から落下します。でもこの時モーガンの放った弾が、シェーンの体をも貫いていたのです。
(2)シェーン、カムバック
戦いが終わって酒場を出るシェーンを、ジョーイが迎えます。一緒に家へ帰ろうと言いますが、シェーンはそれは出来ないと告げます。努力したが、結局自分の生き方を変えられなかったと話すのです。また1度人を殺してしまったら、2度と元に戻れない。一生殺し屋の烙印がついて回るとも話します。そしてお母さんにもう心配ない、これでこの地から銃は消えたと伝えるように頼みます。その時ジョーイは、シェーンが血を流していることに気づきます。確かに戦いの終わった後、シェーンは右手を力なくだらっとさせていました。心配するジョーイの頭を撫でながら、シェーンは遺言のようにジョーイに語ります。「強くてたくましい男になれ、お父さんお母さんを大切にしろ。」シェーンは自分が果たせなかった暮らしの夢を、ジョーイに託します。そしてあの映画史に残るあまりにも有名なラストシーンを迎えるのです。険しくも美しいグランド・ティートンの山並みへと向かって、平原を馬に乗って去っていくシェーンの後ろ姿に、渾身の思いを込めてジョーイが「シェーン、カムバック」と叫ぶのです。
(3)この映画からの問いかけ
実は映画はこの後も続いて、右手をだらりとさせたシェーンが、再び墓地を通って去って行くシーンで終わりを迎えます。シェーンの死を、そしてシェーンの時代の終わりを暗示していることは間違いないでしょう。そしてこの作品からの複雑な問いが残ります。結局銃の時代を終わらせるためには、銃をもってしかなし得ないのでしょうか。またシェーンは、結局堅実な暮らしに人生を切り替えることに敗北したのでしょうか。いやむしろシェーンは、ヒーローとしての役割に生きたと言った方が正しいでしょう。混乱と力の支配の時代から、秩序と平和と暮らしの安定の時代へ。時代が切り替わる時には、誰かその転換を担うヒーローが必要になってきます。そしてヒーローは、古い時代の力をもって、新しい時代を開くような矛盾を一身に担うことになるのです。それ故に、ヒーローは悲劇性を帯び、新しい時代の立役者であるにも関わらず、次の時代からは去らなければならない運命にあるのです。しかしそのために、新しい時代を生きる人たちの心に強烈に焼き付き、生きる支えとなるのです。シェーンの思い出は、ジョーイの心にも、ジョーとマリアンや開拓民の人々の心の中にも、いつまでも生き続け、語り継がれていくことでしょう。そしてこの映画を観た私たちの心にも。そしてこのように大きな転換の役割を果たしたが故に、シェーンはまた大自然の懐から、この人間界に遣わされてきたみつか御使いの使命を帯びた者ともみな見做すことが出来るのです。その御使いが、今その使命を終え、自らの命も終えることによって、再び大自然の懐へと戻っていくのです。
映画『シェーン』は、多くの人々が1度は観た映画であり、あの有名なラストシーンだけは誰もが覚えている映画です。しかし丹念に観れば、名作映画と呼ばれる作品の条件を多くの点で備えて作り込まれた映画で、何度観ても新しい発見に気づかされる映画です。機会があれば何度でも鑑賞し、その都度にいのちの養われる経験を、積み重ねて頂ければと願います。
次回のパンセの集いは9月12日月曜日、18時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)