ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.103『生かしあい支え合う共生のいのちのイメージ』

Sep 24 - 2016

■2016.9.24パンセ通信No.103『生かしあい支え合う共生のいのちのイメージ』

皆 様 へ

1.生き方・暮らし方の行き詰まりと新たな求め
(1)価値一元化の社会の生き苦しさ
ここ数十年ほどの間の私たちの暮らしと人生の目的は、より自由に消費出来るようにお金を稼ぎ、資産を形成し、その資産を守り増やせるような社会的な力(自己実現力)を得ることばかりに向けられてきました。そしてそのために勤勉に、人より努力して働くことが価値あることとして評価されてきました。もちろん心豊かに生きるとか、人間として尊敬されるような生き方も、大事なことであるとは分かっているのですが、まずは財貨の資産基盤が無いと始まらないと、後回しにされてきたのです。またお金だけでは人は動かず、本当に事業や取り組みを成功させたいのであれば、信頼や人間味が必要なことも分かっているのですが、お金や地位のような明確な評価基準が無く、結局はあいまい曖昧なままにその価値が事業成果以上に重視されることはありませんでした。(つまり人柄が良くても、業績を上げない人間は評価されないということ)

こうして私たちは、結局財貨の富とそれを獲得する力だけが価値あることとして評価される、一元的な社会を生み出して、そこに生きるようになってきました。しかし今その社会が揺れ動いています。物質的な財貨への欲望を原動力としてきたのですから、ある程度物質的な必要が満たされてくると、そうした欲望が低下してくるのは無理のないことです。つまり欲しいものが無いという状況です。もちろんぜいたく贅沢はいくらでも出来るのですが、ニーズの飽和した社会では、さらに成功して資産を得ようとすると従来以上の労力と資金を投入することが求められ、リスクも高まり、費用対効果の面から考えても割が合いません。このように財貨の富の拡大だけでは限度に達しつつある社会なのに、政府はさらに金融緩和やマイナス金利、財政支出で物質的・経済的な欲望を刺激しようとし、職場でもさらに売り上げを伸ばそうと無理な成果が要求されるものですから、私たちは自分を見失い、社会全体がへとへとにくたびれ果てて生き辛くなるという状況に陥っています。

(2)新たな欲望のグリーンフィールド
しかしだからと言って、人間の欲望が消え去ってしまうわけではありません。経済的なフィールドでの無理や重荷を強いられて生き苦しく、私たちの欲望は萎えているように見えますが、その分、人間らしさや自分のいのちが満たされるような生き方への求めは高まっています。そしてまた、生活の必要を十分に賄いながら、あわせていのちの豊かさを高めていけるような力を身につけていく欲求は、確実に強まっているのではないでしょうか。そしてこうした“いのちが喜ぶ”暮らし方への欲望を、私たちが価値として認め、その評価の基準を確立していけるなら、少なくとも私たちの生き辛さは和らいでくるものと思われます。なぜなら、ますます達成が困難になる消費・財貨(お金)・権力という価値基準とは別に、私たちは“いのちの豊かさ”という、もう1つの価値基準を持つことが出来るようになるからです。しかもそれだけではありません。いのちが喜び、自分のいのちの力が高まるという欲望の新たなグリーンフィールドが拓けてくれば、私たちのニーズは再び活気づき、いのちが喜びあえるようになるための商品やサービスや仕組みの開発ために、新たなイノベーションが誘発されてくる可能性も出てきます。そしていのちの成長に付随した、経済循環の調和的で無理のない持続的な成長も、達成することが出来るようになってくることでしょう。

それでは“いのちの豊かさ”とはいったいどのようなものなのでしょうか。またどのような暮らし方・生き方をすれば私たちの“いのちは喜びを感じる”のかについて、具体的に考えていってみたいと思います。なおこのテーマについては10月3日(月)のパンセの集いで取り扱うこととし、次回のパンセ集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動行うことを予定しております。テーマとして取り上げる映画作品は、今村昌平監督の日本映画『楢山節孝』です。9月26日の月曜日18時から行います。場所は幡ヶ谷の本町六丁目ホームシアターです。

2.ティク・ナット・ハンが教えるいのちのありよう様
(1)自分を愛することの意味と広がり
南仏ボルドーのブラムヴィレッジで、仏教瞑想(マインドフルネス)センターを開設して世界中の人々に心の癒しを与え、またかつてアメリカの公民権運動の指導者キング牧師にも大きな影響を与えた禅僧のティク・ナット・ハンが、「どうしたら自分を愛し、大切に出来るようになるのでしょうか」という問いに、次のように答えています。
 愛を拒否する必要はありません。私たちはけっして一人で生きているのではないからです。あなたの先祖は、皆あなたの中にいます。あなたの細胞の1つ1つの中に生きています。そしてあなたが自分を大切に生きられるようにと祈り、力を与えているのです。中には生きている間には、十分な愛を受け取ることが出来なかった人もいたでしょう。しかし今あなたが自分を愛することで、あなたの先祖に、またすべての先人に愛を与えることができます。あなたは独立した存在ではなく、親・先祖の継続です。自分を愛し大切にすると、あなたの中の親と先祖をいたわることが出来ます。それが彼らへの優しさです。その実践は、同時にあなたのまわ周りの人への優しさでもあります。あなたが自分を優しくいたわる姿を見ると、周りの人々もそうしたくなります。自分を愛することで、他の人も自分を大切にするようになる良い見本となることが出来るのです。そして私も、他の人も自分を愛することで、将来の世代も自分を大切にすることが出来るようになるのです。そしてその将来の世代が自分をいたわるようになることで、私たちのいのちはいつもまでも優しく愛を受けて生き続けることが出来るようになるのです。

私たちは本来自分を愛して大切にするように先人たちから支えられ、また自分を愛することで、私たちは先人たちとも、隣人たちとも、子孫たちともいたわりあい、いのちを育み合う関係に生きることが出来るようになっていくと説くのです。

(2)自分のいのちは自分だけのものではない
宗教者の言葉なので、少々まっこう抹香臭く聞こえるかもしれませんが、もう少しティク・ナット・ハンの言葉を聞き続けたいと思います。
 海の波は、自分に立ち返る十分な時間があれば、自分が海だと知ることが出来ます。波は波だが、同時に海でもあるからです。波は1つの波であるだけでなく、他の波でもあります。そして他の波ともつながっていて、相互に共存していることが分かると、もう自分と他者を区別することは無くなります。自分のいのちが自分だけのものではなく、互いに支えあって生きている。そう気づくことで、目先のことに惑わされずに、ありのままの姿を見つめることが出来るようになるのです。

私たちはこの世界を、自分自身の善悪・好き嫌いの価値基準をもとに判断し、自分を中心に他のものとの関わりにおいて、都度怒ったり、落ち込んだり、喜んだりして生きています。しかし自分のいのちのありよう様を静かにかえり省みる時、いのちは1つの大きな海のようなものとしてあることに気づき、私たちの個々のいのちはその表面に起こる波のようなものとして現れ、その形は様々に違っていても、すべてはつながって支え合って存在していると言うのです。

3.いのちの求めと新しい価値
(1)曼荼羅に通じる共生のいのちのイメージ
宗教家の語ることなので、論理的でも実証的でもありません。しかし合理性に生きる現代の私たちにも、ティク・ナット・ハンのあらわ現すいのちの共生のイメージには、どこか心惹かれるものがあるのでは無いでしょうか。実はここでティク・ナット・ハンが語るのは、仏教(特に真言密教)がいのちのありよう様の理想として求める、“曼荼羅”の世界の言い表しであるということに気づきます。曼荼羅は、すべてのいのちの根源に大日如来というものを想定し、このいのちの根源を中心に、あらゆる存在を象徴する多くの諸仏や神々がそのいのちを分かち合い、支え合い、生かし合って、喜びが響き合って生きるいのちの世界をイメージします。その曼荼羅は、空間的ないのちのつながりと広がりを示す胎蔵界曼荼羅と、時間的ないのちの受け渡しとつながりを示す金剛界曼荼羅によって現されます。つまりいのちは時間と空間を超えて1つの大きな源から発して満ち溢れ、個々のいのちはつながり、支えあい生かしあって調和して生きているというのです。この大きないのちの営みの中で、私たちはけっして個人として切り離されているのではなく、大きな慈しみと育みを受けて生きているのです。それが私たちの先人たちの心を捉え、あこがれとして描き続けてこられたいのちのイメージなのです。

時空を超えて生かされあい、支えあって育みあういのちのイメージです。そうしたイメージの真偽のほどは別として、確かに貪欲な金儲けと出世競争に疲れ果てた現代の私たちの心をも、こうしたいのちのイメージは捉えて惹きつけるのでは無いでしょうか。

(2)私たちが求めるいのちのイメージと生き方
今私たちが明らかにしようとしているのは、実証的に検証できる事実でも、論理的に矛盾の無い理論でもありません。私たちの心が惹かれ、欲望として求めるようになり、新たな価値として実現しようとするようないのちの状態と生き方のイメージです。今までの私たちのいのちのイメージは、私たちが個別のいのちとして個々ばらばらに存在し、自分の利益をベースに生存競争を繰り広げ、利害関係で結び合ったり対立しあったりしながら、しかし時に寂しさに耐えかねて、個人の殻を破ってなんとかつながり合おうと模索するようなものでした。こうしたいのちのイメージのもとに、私たち人間は市場経済と資本主義を発展させ、効率と利便性と物質的な豊かさを生み出す社会を実現してきたのです。

しかし私たちの先人たちが、長い時間をかけて曼荼羅に凝縮させてきた普遍的ないのちのイメージは、これまでの個別のいのちが、元素が反応するように結び合うイメージとは異なります。すべてのいのちのおおもと大元になるような根源のいのちの流れがあって、個々のいのちは、その大きないのちの流れからのあらわ現れとして存在し、すべてはつながり、生かし合っているというイメージです。だから例え1つのいのちが役割を終えてこの世を去っても、そのいのちは消滅してしまうわけではありません。おおもと大元のいのちの流れに戻って、他のいのちやこれから生まれる個々のいのちを育む存在となっていくのです。こうしたいのちのイメージが、今またティク・ナット・ハンにおいて語り継がれ、現代の私たちの心をも捉えているのではないでしょうか。

それではこうしたいのちのありよう様のイメージのもとで、私たちの求める生き方はどのようになってくるのでしょうか。それはこれまでの生き方のように、私たちが自分勝手に生きて自己実現を図り、他者を傷つけたりその利益を踏みにじったりして、ガン細胞のように全体の調和を破壊するような生き方ではありません。生死を超えてすべてのいのちがつながり、支え合い、生かし合って全体の調和を高めていくような生き方です。もし本当にそんな生き方を、私たちの心が心底喜んで心置きなく求めるようになれば、それが次の時代の人間の欲望となり、新たな価値となっていくのでしょう。

そして私たちが、自分を大切に愛することで過去の人たちのいのちに報い、現在に生きる他のいのちを生かし、将来の世代のための支えとなっていくなら、それがいのちが喜ぶ生き方となり、そのように出来る力を身につけていくことがいのちの養いとなり、いのちを高める営みということになってくるのです。

(3)求めの確認から原理的な検証へ
さてここまでに描いたのは単なるイメージに過ぎず、そんな生き方を本当に私たちの心が喜んで求め、価値として受け入れられるかどうかということを、自分の心に問うて確認してみることにしか過ぎませんでした。そこで次に、パンセ通信No.99で考えた人間の意識の特性からも振り返ってみて、生かし合い調和を高める生き方が、原理的にも私たちのいのちを喜ばせるものとなるかどうかを検討していってみたいと思います。その上でさらに具体的に、いのちが喜び、いのちの力を高める新しい生き方・暮らし方のイメージを明らかにしていってみたいと思います。

次回のパンセの集いは冒頭でも申し上げたとおり、幡ヶ谷ホームシアターサークルの活動を行います。今村昌平監督の映画『楢山節孝』を通じて、いのちの養いを図ることが出来ればと思います。日時は9月26日の月曜日18時から、場所は本町六丁目ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。