■2016.9.17パンセ通信No.102メモ『辛い時代に暮らしを楽しむ-変化する求めと人生の目的』
皆 様 へ
1.暮らしは消費?、人生は資産形成?
生活のためにはまず働かなくてはなりません。働くといえば、会社に勤めるか、専門技術を身に着けてプロフェッショナルとなるか、自分で起業して商売や事業を起こすことを考えます。そして生活の中身はと言うと、企業から提供されて市場に溢れる膨大な商品やサービスの中から、自分のニーズと支払い能力に応じたものを選び、消費することで営まれていきます。最近では企業のマーケティングや告知戦略が巧みになってきていることから、その欲望刺激から巧みに身をかわし、インターネットの比較サイトを利用して、少しでも安くて良質なものを選択することが生活の知恵になってきています。
そしてこうした日々の生活の積み重ねとして人生がつくられていくのですが、その人生の目標と言えば、人よりも多くの収入を得て、必要なものを何でも手に入れて消費出来るようになる資産を形成することでした。それが現代の私たちが味わう“自由”の感覚です。そして社会的に高い地位に上り、名声を博することが人生の成功でした。社会的に成功すれば力や影響力が得られて、より自己実現(自分の願いを思いどおりに満たす)がしやすくなるからです。
ただし最近では、経済が行き詰まり将来の展望が持てなくなってきているので、せめて自分の家族や親しい知人だけは、今の生活水準をさほど落とすことなく、無事に生涯を終えられることが、人生の目標になってきているようです。
しかしお金を得て、自由に消費が出来て、社会的な影響力(権力)を行使出来たとしても、私たちの暮らしと人生が豊かになるとは限りません。ましてや現代のように不安の高まる時代においては、不安を減らせる目途がついたからといって、それが豊かな暮らしということにはならないでしょう。それでは暮らしの豊かさとはいったい何でしょうか。その内容と条件について、引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、9月19日の月曜日が敬老の日の祝日にあたるためにお休みとし、9月26日の月曜日18時から行うことと致します。場所は初台・幡ヶ谷の地域です。
2.私たちに芽生える暮らし方、生き方の理想
(1)豊かな暮らしの必要条件と十分条件
このように私たちが、これまでに価値あるものとして暮らしと人生に求めてきたものは、お金であり、そのお金で買える商品の消費であり、お金と商品が自由になるための社会的な力(影響力)でした。働くことの目的は、そのお金と商品を得るためです。またお金と商品がある程度自由になるほどの資産を形成することと、資産を守り増やすことの出来る社会的な影響力を身に着けることが、人生の成功の目安でした。
しかしお金も資産も社会的な成功も、私たちが幸せに暮らし、人生を豊かにするための、必要条件ではあっても十分条件ではないことは、すでにパンセ通信No.36『幸せの内実と条件』で見てきたところです。それでは豊かな暮らしと人生の十分条件とは何か? それを考えるために、パンセ通信No.97~No.99にわた亘って、過去にさかのぼ遡って私たちの先人たちが、どのような暮らしと人生を送ってきたのかを振り返ってみました。また前回、前々回のパンセ通信では、アメリカ西部劇の名作『シェーン』から、開拓時代のアメリカの人々の暮らしぶりをかえり顧みて、当時の人々の暮らしの理想を探ってみました。
私たちはお金を稼ぐために働き、そのお金で出来るだけ自由に商品を消費することを望み、一方それが出来るほどの資産の貯えが不足すると不安になるという暮らし方が、すっかりと身にし染みてしまっています。そしてそれが暮らしのすべてだと思って生きています。しかしそんな暮らし方が一般的になったのは、人類史でいえばごく最近のことであり、日本で言えば、せいぜい第二次大戦後の70年ほどのことにしか過ぎないことは、よくわきま弁えておく必要のあることでしょう。
(2)“いのちが喜ぶ”暮らし方
もちろん暮らしにとってお金や商品(生活物資)は必要です。しかし過去を振り返って気がつくことは、先人たちは、少なくとももう1つ別の価値を、暮らしと人生に欠かせぬものとして求めて生きていたということです。それがパンセ通信No.99で考えた“いのちが喜ぶ”という生き方です。
それでは“いのちが喜ぶ”というのはいったいどういうことでしょうか。それは日本人が連綿として育み、すでに平安時代の王朝文学においてテーマとして描き出された、「もののあはれ」を感じる心と言っても良いかもしれません。自然のいのちの移ろいや人情の機微に触れて、しみじみとした情趣を感じ取り、それを深く味わって自分のいのちの糧としていく心のあり方です。あるいは伊藤若冲の絵画に見られるように、生きとし生けるものすべてが関わり合い、いのちの営みを謳歌する世界のありよう様を感じ取り、自分もその世界に生きていることを悟って、共にいのちを育み合う喜びに生きる心、ということも出来るでしょう。
そうだとすると私たちの暮らしと人生の目的には、お金や資産によって生活を賄うことと併せて、いのちがしんそこ心底喜ぶような様々な機微に気がついて、感性豊かで味わい深い日々を送れるようになることも加わってくることになります。あるいは気分が安らいで心地よく、心満たされて楽しい状況に過ごせるようになることと言って良いかもしれません。そしてまたいのちがいつも喜べるようになるような、能力と環境を生み出していく“いのちの力”を育んでいくことも目的となってくるでしょう。
そうすると私たちの暮らしと人生の評価は、単にお金と資産と地位を得ることばかりでなく、如何にいのちを豊かに生きるか、自分と人のいのちを喜ばせて生きることが出来るかということも価値に加わってきて、成功の尺度となってくるのです。もちろん人によっては、これまでどおりお金と資産形成と、地位や名声の獲得に、暮らしと人生の軸足を置いて生きる人もいることでしょう。しかし同様に、人と自分のいのちを励まし、いのちの力を養い、いのちが喜ぶような生き方に軸足を置いて生きる人にも、高い価値が認められて評価されても良いのです。そして一般的な生き方の目標としては、働くことによって得られるお金と商品と資産とによって日々の暮らしを賄いながら、互いのいのちが満たされて喜びあえるような生き方を目指していくということに、重点が移っていくことになるのです。出来れば仕事そのものも、いのちの育みとなっていくような働き方が出来れば申し分の無いことでしょう。
しかしそんな暮らしのあり方は、果たして現代の私たちの心を捉える求めになるのでしょうか。仮に求めとしてあったとしても、そんな夢物語のような生き方を、実際に実現することが出来るのでしょうか。でも市民社会も資本主義も、始めは自由に富を増やしたいという人々の淡い願いが、やがて多くの人々の共通の欲望となっていった時に、社会を変え、新しい経済の仕組みを生み出し、私たちの人生理想とライフスタイルを大きく変化させるまでになっていったのです。
従ってもし私たちの“いのちを育む”生き方への求めが強くなっていった時には、私たちの暮らしと人生のあり方も、大きく変わっていくことになります。そしてその時には、私たちの暮らしと接する地域コミュニティーや社会や経済の仕組みも、自ずと変わってゆくことになるでしょう。今経済の成長が限界に近づき、今までの暮らし方や生き方では不安が募るばかりで満たされなくなってきている状況にあって、私たちの心の中に芽生えつつある、“いのちの豊かさ、いのちの喜び”を求めるというもう1つの価値について、さらに深めて考えてみることには意味があるでしょう。その具体的な生活像とそれを実現できる条件、そして無理なく自然にそのような暮らし方をしていけるようになる道筋について、検討を重ねていってみたいと思います。
次回のパンセ集いは、9月19日(月)が敬老の日の祝日のためにお休みとし、9月26日月曜日の18時から行います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
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1.暮らしは消費?、人生は資産形成?
生活のためにはまず働かなくてはなりません。働くといえば、会社に勤めるか、専門技術を身に着けてプロフェッショナルとなるか、自分で起業して商売や事業を起こすことを考えます。そして生活の中身はと言うと、企業から提供されて市場に溢れる膨大な商品やサービスの中から、自分のニーズと支払い能力に応じたものを選び、消費することで営まれていきます。最近では企業のマーケティングや告知戦略が巧みになってきていることから、その欲望刺激から巧みに身をかわし、インターネットの比較サイトを利用して、少しでも安くて良質なものを選択することが生活の知恵になってきています。
そしてこうした日々の生活の積み重ねとして人生がつくられていくのですが、その人生の目標と言えば、人よりも多くの収入を得て、必要なものを何でも手に入れて消費出来るようになる資産を形成することでした。それが現代の私たちが味わう“自由”の感覚です。そして社会的に高い地位に上り、名声を博することが人生の成功でした。社会的に成功すれば力や影響力が得られて、より自己実現(自分の願いを思いどおりに満たす)がしやすくなるからです。
ただし最近では、経済が行き詰まり将来の展望が持てなくなってきているので、せめて自分の家族や親しい知人だけは、今の生活水準をさほど落とすことなく、無事に生涯を終えられることが、人生の目標になってきているようです。
しかしお金を得て、自由に消費が出来て、社会的な影響力(権力)を行使出来たとしても、私たちの暮らしと人生が豊かになるとは限りません。ましてや現代のように不安の高まる時代においては、不安を減らせる目途がついたからといって、それが豊かな暮らしということにはならないでしょう。それでは暮らしの豊かさとはいったい何でしょうか。その内容と条件について、引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、9月19日の月曜日が敬老の日の祝日にあたるためにお休みとし、9月26日の月曜日18時から行うことと致します。場所は初台・幡ヶ谷の地域です。
2.私たちに芽生える暮らし方、生き方の理想
(1)豊かな暮らしの必要条件と十分条件
このように私たちが、これまでに価値あるものとして暮らしと人生に求めてきたものは、お金であり、そのお金で買える商品の消費であり、お金と商品が自由になるための社会的な力(影響力)でした。働くことの目的は、そのお金と商品を得るためです。またお金と商品がある程度自由になるほどの資産を形成することと、資産を守り増やすことの出来る社会的な影響力を身に着けることが、人生の成功の目安でした。
しかしお金も資産も社会的な成功も、私たちが幸せに暮らし、人生を豊かにするための、必要条件ではあっても十分条件ではないことは、すでにパンセ通信No.36『幸せの内実と条件』で見てきたところです。それでは豊かな暮らしと人生の十分条件とは何か? それを考えるために、パンセ通信No.97~No.99にわた亘って、過去にさかのぼ遡って私たちの先人たちが、どのような暮らしと人生を送ってきたのかを振り返ってみました。また前回、前々回のパンセ通信では、アメリカ西部劇の名作『シェーン』から、開拓時代のアメリカの人々の暮らしぶりをかえり顧みて、当時の人々の暮らしの理想を探ってみました。
私たちはお金を稼ぐために働き、そのお金で出来るだけ自由に商品を消費することを望み、一方それが出来るほどの資産の貯えが不足すると不安になるという暮らし方が、すっかりと身にし染みてしまっています。そしてそれが暮らしのすべてだと思って生きています。しかしそんな暮らし方が一般的になったのは、人類史でいえばごく最近のことであり、日本で言えば、せいぜい第二次大戦後の70年ほどのことにしか過ぎないことは、よくわきま弁えておく必要のあることでしょう。
(2)“いのちが喜ぶ”暮らし方
もちろん暮らしにとってお金や商品(生活物資)は必要です。しかし過去を振り返って気がつくことは、先人たちは、少なくとももう1つ別の価値を、暮らしと人生に欠かせぬものとして求めて生きていたということです。それがパンセ通信No.99で考えた“いのちが喜ぶ”という生き方です。
それでは“いのちが喜ぶ”というのはいったいどういうことでしょうか。それは日本人が連綿として育み、すでに平安時代の王朝文学においてテーマとして描き出された、「もののあはれ」を感じる心と言っても良いかもしれません。自然のいのちの移ろいや人情の機微に触れて、しみじみとした情趣を感じ取り、それを深く味わって自分のいのちの糧としていく心のあり方です。あるいは伊藤若冲の絵画に見られるように、生きとし生けるものすべてが関わり合い、いのちの営みを謳歌する世界のありよう様を感じ取り、自分もその世界に生きていることを悟って、共にいのちを育み合う喜びに生きる心、ということも出来るでしょう。
そうだとすると私たちの暮らしと人生の目的には、お金や資産によって生活を賄うことと併せて、いのちがしんそこ心底喜ぶような様々な機微に気がついて、感性豊かで味わい深い日々を送れるようになることも加わってくることになります。あるいは気分が安らいで心地よく、心満たされて楽しい状況に過ごせるようになることと言って良いかもしれません。そしてまたいのちがいつも喜べるようになるような、能力と環境を生み出していく“いのちの力”を育んでいくことも目的となってくるでしょう。
そうすると私たちの暮らしと人生の評価は、単にお金と資産と地位を得ることばかりでなく、如何にいのちを豊かに生きるか、自分と人のいのちを喜ばせて生きることが出来るかということも価値に加わってきて、成功の尺度となってくるのです。もちろん人によっては、これまでどおりお金と資産形成と、地位や名声の獲得に、暮らしと人生の軸足を置いて生きる人もいることでしょう。しかし同様に、人と自分のいのちを励まし、いのちの力を養い、いのちが喜ぶような生き方に軸足を置いて生きる人にも、高い価値が認められて評価されても良いのです。そして一般的な生き方の目標としては、働くことによって得られるお金と商品と資産とによって日々の暮らしを賄いながら、互いのいのちが満たされて喜びあえるような生き方を目指していくということに、重点が移っていくことになるのです。出来れば仕事そのものも、いのちの育みとなっていくような働き方が出来れば申し分の無いことでしょう。
しかしそんな暮らしのあり方は、果たして現代の私たちの心を捉える求めになるのでしょうか。仮に求めとしてあったとしても、そんな夢物語のような生き方を、実際に実現することが出来るのでしょうか。でも市民社会も資本主義も、始めは自由に富を増やしたいという人々の淡い願いが、やがて多くの人々の共通の欲望となっていった時に、社会を変え、新しい経済の仕組みを生み出し、私たちの人生理想とライフスタイルを大きく変化させるまでになっていったのです。
従ってもし私たちの“いのちを育む”生き方への求めが強くなっていった時には、私たちの暮らしと人生のあり方も、大きく変わっていくことになります。そしてその時には、私たちの暮らしと接する地域コミュニティーや社会や経済の仕組みも、自ずと変わってゆくことになるでしょう。今経済の成長が限界に近づき、今までの暮らし方や生き方では不安が募るばかりで満たされなくなってきている状況にあって、私たちの心の中に芽生えつつある、“いのちの豊かさ、いのちの喜び”を求めるというもう1つの価値について、さらに深めて考えてみることには意味があるでしょう。その具体的な生活像とそれを実現できる条件、そして無理なく自然にそのような暮らし方をしていけるようになる道筋について、検討を重ねていってみたいと思います。
次回のパンセ集いは、9月19日(月)が敬老の日の祝日のためにお休みとし、9月26日月曜日の18時から行います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)