ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.9 - 『乳飲み子が救い主になるクリスマス』

Dec 07 - 2014

■2014年12月7日パンセ通信No.9 - 『乳飲み子が救い主になるクリスマス』

皆 様 へ

明日12月9日(火)も、パンセの集いを行います。16時から青山・表参道のフィルムクレッセントです。

先週12月4日には、巣鴨の真性寺で、芳賀妙純先生のご紹介により、立ち話ではありましたが何人かの真言宗豊山派の若いお坊さんと、『ゴン』の話を交わすことができました。やはり皆さん「高野山の案内犬ゴン」の物語には強い関心をお持ちのようで、今後そうした思いをつなげて、いっしょにゴンの物語の普及に努めていければと思っております。

また12月3日には、大徳院増田ご住職の法話対談『お葬式は晴れ舞台』の収録も、無時終えてきました。生きている私たちと将来の子孫を豊かに励ます死と葬儀の実存的意味ついて、お話を頂けたかと思っております。その席でご住職から、今イギリスで静かに浸透している「Death Cafe」の取組みについてお話しを伺いました。死をもう1度私たちの生活視野に取戻し、何を目的に生き、何を将来の世代のために残していくかを考えるカフェです。あわせて2020年東京オリンピックを1つの目標に、御府内(江戸市中)八十八箇所寺院が連携して、「おもてなし」の意味とあり方を深化させていく取り組みの構想も、進めております。
桂さんたちの「里まち」構想とも連携させて、ゴンの物語を1つのシンボルとしつつ、パンセのプロジェクトが目的とする、生きなおしとその仕組みづくりの取り組みを、静かに少しずつ、しかし確実に進めていければ良いですね。

さて、今回はクリスマスの話題です。そう、もうサンタさんがやってくる季節ですね。ところでクリスマスというのは、主イエス・キリストの誕生日です。キリストは、飼い葉桶に寝かされた、乳飲み子としてこの世にやってこられます。ではなぜ赤ちゃんが、主であり、王であり、救い主なのでしょうか。

生まれたままの赤ちゃんは、まだなんらの自我も身につけていません。私たちは成長するに従って、自我を形成していきますが、よく見ると、自我の“我”の字には、戈(ほこ)という文字が隠されています。“自我”という鎧(よろい)を身につけて生きる私たちは、じつは自分が思いのままに生きたいがために、人を攻撃する性分を隠し持っているのですね。それが“自我”に生きる人間の性(さが)です。
では、その“自我”をまだ身につけていない、本来のいのちそのままの赤ちゃんとは、いったいどういう存在なのでしょうか。

赤ちゃんというの不思議な存在です。赤ちゃんが笑えば、自ずと私たちの心にこの子を慈しみたい、大切にしたいという心が引き出されます。赤ちゃんが泣くと、自ずと心配してなんとかしてあげたいという配慮の心が引き出されます。そしてご両親を初めとして、この子が幸せになれるように良い家庭と将来をつくってあげたい、この子が傷ついた時にはいつでも戻ってきて立ち直れるよう、良い実家(ホ-ム)と故郷(ふるさと)をつくってあげたいと、誰しもが思うものです。

こうしたやさしい思いと愛のための強さが、赤ちゃんを通じて、人間は引き出されるものなのです。そうしてこうした愛とやさしさが、赤ちゃんを通じなくともお互い同士の間で、引き出されあっていけば、私たちの人生も世の中も、どんなに素敵になっていくことでしょうか。
実は神様というのは、こうした生き方と世の中の仕組みを望んでいらっしゃるのですね。だから神様は、クリスマスに“みどり子”といういのちのあり方で私たちの前に姿を現し、そうしたいのちを実現するものとして、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ書9:6)として、私たちの気づかぬ所で、太古の昔よりこの世界の存続のために、支えて下さっていることを明らかにされたのです。

私たちの心の底にあって、真実から安らいで喜びの感じられるのは、次のような問いに答えられる時ではないでしょうか。
「あなたは本当に、掛け替えのないものとして自分自身を大切にしていますか。その大切な自分のためにも、他の人や他のすべてのいのちを、心から慈しみ育む心が、引き出されていますか。またあなたという存在を生み出し、ここに生かすために、無限に遡れる過去から、後の世代の安寧のために身を削っていのちを受け渡してきた、過去の人々の思いと営みに感謝し、その叡智を受け継ごうとしていますか。そして今度はあなた自身が、将来の世代のために、互いに配慮し育みあう世界をつくろうと、ささやかであっても叡智を絞って、尽力していますか。その小さな取り組みに、自分の存在の確かな意味と価値を見出していますか?」
そして、こうして過去から未来へとに受け継がれるいのちに生きられた時に、私たちは、いつかは訪れる自分の死に対しても、死はけっして無ではないと、感じられるようになるのではないでしょうか。

クリスマスというのは、救い主イエス・キリストが“乳飲み子”のお姿で地上に来られたことによって、実はこうしたいのちのあり方を、私たち1人1人が思い起こさせる日なのですね。

私たちの取り組みも、そのように互いのいのちを育み、またそのための仕組みを生み出していくものとなれば良いと、考えております。

明日16時からです。お時間許す方は、パンセの集いにご参加下さい。