■2016.10.22パンセ通信No.107『“いのちの価値”を求める新しい人生・社会ゲーム』
皆 様 へ
1.いのちを育む“老いと死”
前回まで3回にわた亘って、今村昌平の監督による映画『ならやまぶしこう楢山節考』から、現代とは異なる老いと死の迎え方について見てきました。個別の肉体としては、老いは衰えであり、死は滅びでしかありません。身体の生理作用として生じる生命の営みは、死によってもたらされる身体の新陳代謝の停止に伴い、その機能を停止し、いのちは無に帰していきます。しかしおばすて姨捨の世界に生きる人々の意識は、ただそれだけの理解ではありませんでした。ならやま楢山参りに行く(山に棄てられに行く)ことは、受け身的に強いられるだけのものではなく、むしろ主体的な求めでもありました。それは自分の死期を意識することであり、お山に行くその時を目指して、残された人生を生き尽くして全うすることでもあったのです。主人公のおりん婆さんは、お山に行くことを決意してから、身近な者たち一人一人のいのちを配慮し、そのいのちを支えるために出来ることをしてやりました。そして生きるための力となることを、身をもって教えさと諭していったのです。おりん婆さんにとっては、老いは肉体的な衰えに反して、最も自分のいのちが輝く時でもあったのです。そして死も、恐れや空しさだけをもたらすいのちの終焉ではありませんでした。むしろ自分のいのちが、その生涯において支え続けられた祖先の霊に帰って行くことであり、今度は自分が祖霊となって、生ける者のいのちを助ける“神”となっていくことでもあったのです。こうしておりん婆さんにとっては、自分の死は他を生かすことであり、死によって自分のいのちが純化されて、あらゆるものを生かすことを願う“永遠のいのち”に回帰していくことであったのです。
このようにおばすて姨捨の世界の人々にとっては、老いは最も自分のいのちの価値が育まれる時であり、また死は、その自分のいのちが生死を越えて、すべてを生かす大きないのちの源に戻って行くことの出来る、限りない平安と新たな望みの時でもあったのです。こうした意識の持ち方が、科学的に証明できるかどうかは別のこととして、それが私たちの生き方に及ぼす影響について、考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは10月24日月曜日の18時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
2.“いのち”の働き
(1)“良く生きる”ということ
さてパンセ通信では、いのちの価値について考え続けて参りました。いのちの価値とは、“いのち”が私たちの生きるために持つ有用性のことであり、それ故に私たちの心底からの求めとなるものであり、さらにその求めを充たすために、確かな効果のあるもののことです。それでは“いのち”とはいったい何でしょうか。それは私たち生きる者を、確かに生かす力のことでしょう。第1には、物理的に生物を生かし続ける力のことです。代謝や、エントロピーの増大(乱雑に解体していく力)に反して生命体という秩序ある統一体を形成する力のことなどが考えられます。しかしそれだけではありません。生きる以上生命は、少しでも良く生きていこうと意欲するものです。この単に生きるのではなく、良く生きようとする力、あるいは生けるものを良く生かしていこうとする力も、“いのち”の内実ということが出来るのです。
それでは“良く生きる”とはどういうことでしょうか。まず何よりもそれは、自分を生き易くしていこうとすることでしょう。そのために生き易い環境に移ったり、生き易い環境を生み出したり、さらには生き易い環境が生み出せるように、能力を高めていったりすることでもあると考えられます。しかし“良く生きる”ということは、一つの個体だけが良く生きることを意味するものではありません。自然の生態系を見ても、1つの種が群生している光景をよく見かけます。1個体よりも、その方が生きる確率が高まるからでしょう。さらに、1つの種だけがあまりに増えすぎても、かえ却って生態系のバランスが崩れて自滅することにもなりかねません。長い年月の間には、土の中の微生物から天を仰ぐ巨木まで、千差万別の無数のいのちが巧妙なバランスを保って、互いに生かし合いながら、すべてが最適な個体数と秩序を保って生きるようになっていくのです。このように“いのち”の持つ、多様性の中での調和をもたらす力は、1個体の生命を越えて、全体としての生命が、良く生きていけるような秩序をも形成していくものなのです。従って“良く生きる”とは、1個体が良く生きることを越えて、全体としていのちが生かし合いながら調和して、すべてが良く生きていけるようになっていくことであり、このレベルに至って始めて、本当に“良く生きる”ということが言えるようになってくるのです。
(2)人間にとっての“良く生きる”
以上一般的な生き物を対象に,“良く生きる”ということを考えてみましたが、それでは人間の場合はどうでしょうか。人間は一人一人、他の生き物以上に明確な意識を持っています。それも自己を他と区別して、自己を起点に世界を認識する自(己)意識を持っています。それ故に、“良く生きる”ということも、他の生物以上に強く意識されることになってきます。人間にとっては、単に生きるということは、時として苦痛でしか無くなることがあります。意味と価値が見いだせず、自分を生かせないと思ったとき、人間の生きる力は弱まり、物理的な生存にさえ悪い影響を及ぼしてしまうことがあるのです。自殺したり、精神が病んだり、自律神経のバランスや恒常性が乱れたりして、生存が危機に瀕することが生じてしまいます。
このように明確な意識を持つ人間は、他の生物以上に“良く生きる”ということが求められるようになってきます。それでは、人間にとって“良く生きる”とはどういうことでしょうか。それは自分を、本当に生かしていくことが出来るということでしょう。自分を生かすとは、自分が生きるために本当に必要なものを求め、それを充足していくことが出来ることでしょう。その時に満足が得られます。さらに能力を高め、今まで得られなかったものが得られるようになっていくことも含みます。こうして人間は、夢を抱き、その夢を希望に変え、さらにそれを実現できるといったサイクルを拡大発展させていけるようになり、その時に、生きているという実感を味わうことが出来るようになってくるのです。
しかし人間にとっての“良く生きる”とは、さらにそれだけではありません。人間は関係性に生きる動物ですので、それ故に社会を形成し、またその社会が変化していくが故に、歴史を刻んで生きていきます。このように時間と空間に広がる関係性に生きるが故に、その関係性の中で始めて他者と区別して自分が意識されるようになってきて、自意識が芽生えてくるのです。そして逆にこの自意識によって、自分を起点として他者や関係性の全体が捉えられるようになってくるのです。こうして人間の意識は、個でありながら全体を意識をし、個の利益を図りながら、他者や全体の利益をも意識せざるを得ないというパラドックスを抱え込むこととなるのです。逆に言えば、関係性の中で生きるが故に、本当に自分の利益を図ろうとするなら、他者や全体の利益との調和の中でしか、真の自分の利益を図ることは出来ない存在に生まれついていると言えるのです。
言語や貨幣は、人間が関係性に生きてきたことの産物でしょう。この言語の中には、過去の人々の経験や知恵が概念として組み込まれ、同時代の多くの人と意味を分かち合い、未来に向けても思いが伝わる機能が含まれています。従って言語を用いて考える人間の意識は、自ずから過去と現在の関係の総体(社会)、そして未来までもその範疇に入ってこ来ざるを得ないものなのです。それ故に人間にとって“良く生きる”とは、意識の上においては、自分一人が利益を得て他を省みないのではなく、過去の先人の思いを汲み、現在の他の人のいのちをも生かし、将来の世代のいのちにも配慮していくのでなければ、本当の意味での“良く生きる”という実感と充足感は得られてこないものなのです。
(3)“いのち”の働き、力、価値
さてこのように考えた上で人間の意識に捉えられる“いのち(良く生きる)”というものの働きを整理してみると、次のようにまとめられるのではないでしょうか。まずは自分を生かそうとするものであること、また他者をも生かそうとするものであること。そして互いに生かしあう意義と喜びを知り、それを求めようとするものであること。さらに過去の先人たちの、いのちを生かそうとした思いと智慧に感謝し、未来の世代のいのちも良く生きられるようにと配慮するものであること。加えて、人間も多くのいのちのつながりの中に生きて存在している以上、人間以外のあらゆるいのちやそれを育む自然の環境のすべてに対して、互いに生かし合う調和をもたらそうとするものであること。それ故に“いのち”は、もちろん個別の個体があってのいのちではありますけれども、同時に人間の意識の上では、すべての個々のいのちを育んで調和させる、個を越えた大きないのちでもあること。
次いで、そのいのちの働きの持つ力(“いのちの力”)について考えてみるとするなら、まずそれは、こうしたいのちの働きを感じて気づく力であり、いのちが働くことを深く求める力であり、またいのちの働きに気づき、その調和の美しさを感じられた時に、この上のない心地よさと安らぎを覚えて喜ぶことの出来る力ということが出来るでしょう。自然の絶景や里山美しさに心癒され、いのちが再生されるような思いを、より深く味わうことの出来る力と言うことも出来るでしょう。
そしていのちの働きの持つ価値(“いのちの価値”)について考えてみるなら、それはこうしたいのちの働きを大切なものと認めて求め、その働きを促進するいのちの力を強めて積み増し、自分と社会の資産としていこうとする共通認識のことと言って良いでしょう。
こうした“いのち”の捉え方は、科学的に実証できる事実として論証することは出来ませんが、少なくとも現代の私たちの求めに合うものがあり、私たちの生きる意欲と力を高めるものとなるのではないでしょうか。
4.“いのちの価値”を育む戦略
(1)新たな人生・社会ゲームのスタート
市場経済と市民社会が発達し、近代市民社会が幕開けて以降の300年ほどの間(日本においては明治維新以降の150年ほどの間)、私たちが価値として求めてきたものは、財貨の富とその価値でした。より多くの商品を購入して消費し、そのために金銭を稼いで蓄財して資産とする。またその資産を守り増やすための社会的・政治的な影響力(権力)を手にする。こうしたことが出来ることが、人生の目標であり、それを達成することが成功と見做されて名声を博することが出来たのです。私たちはこれまで、そうした人生・社会ゲームを展開してきました。
確かに財貨の価値は重要で、このゲームが無くなることはないでしょう。しかしもとより財貨の富、あるいは物質面から私たちの生活支える価値は、人間が“良く生きて”いくための、あるいは幸せになっていくための、必要条件ではあっても十分条件ではありません。私たちが“良く生きて”いくためには、財貨の価値に加えて、先ほどまでに述べた“いのちの価値”をも高めていくのでなければ、その目的を達成することは出来ないのです。
とりわけ現代においては、先進国における商品欲望の充足と鈍化、資源・環境制約、経済格差の拡大等によって、財貨の富を拡大させる困難さが増しており、無理にでも金や権力を求める行為は、以前にもまして著しく自分のいのちの価値を毀損させる事態を招くに至っています。こうした事態に陥って始めて私たちは、財貨の価値とあわせて、“いのち価値”を求めてそれを財産とする、新たな人生・社会ゲームを開始する必要に迫られるようになってきたのです。
言い換えれば、いのちの働きやいのちの力、それを養う環境や仕組みを価値として認め、それを高めることが私たちの意識の中で、共通の欲望として高まり始めていると言えるのです。恐らくこの新しい人生・社会ゲームの中では、財貨の価値を求めるゲームも、いのちの価値を高めたり養ったりする効果のもとで、その価値が評価されるというように変質してくるものと思われます。そしてそのことが、経済格差の是正や競争・分配ルールの公正化にも、寄与してくるものと思われるのです。
(2)老いと死、そして里まちづくり
さておばすて姨捨の世界は、財貨の富が乏しく、財貨の価値を高める人生・社会ゲームも未発達な状況の世界でした。しかしその分、現代のように“いのちの価値”が財貨の価値に埋没することなく意識されており、特に老いと死が、このいのちの価値を高め、その価値を相続財産として受け渡すために非常に重要な時期であったことを、私たちに教えてくれます。残念ながら財貨の価値だけが一元的な価値となってきた近・現代社会においては、老いと死とは、生産への寄与度か下がるために、身体機能的な衰えや滅びとしてだけ捉えられ、嫌悪や恐れの対象でしか無かったのとは対照的です。
そこで、いのちの価値を高める人生・社会ゲームを生み出していこうとする私たちのパンセのプロジェクトでは、まずは老いと死に焦点を当てていのちの価値を高める取り組みをスタートさせ、そこで高まったいのちの価値を、他の世代に波及させていく試みを行っていこうと思っております。
あわせて、7月末から活動を始めた渋谷本町六丁目ホームシアターを拠点に、まちの日々の暮らしの中で、いのちの価値を高める取り組みも進めていければと思っています。それはまちの商店の活性化や暮らしの利便性や魅力の向上、また都市部における地域循環経済の再生など、既存のまちづくりと重なる部分もありますが、なによりも“いのちの価値”を高めることを目的とする取り組みであることから、『里まちづくり』と呼称出来ればと考えております。さらにそれを、幡ヶ谷・初台という地域を越えた取り組みとして、1つの主義やムーブメントとして共通了解が得られるようになるならば、パンセの集いのメンバーである菅拓哉さんが提案されるように、『里まち資本主義』(藻谷浩介さんの里山資本主義をもじって)と呼んでも良いのかもしれません。
この“いのちの価値”にもとづく新しい人生・社会ゲームを検討し、それを展開するにあたってまず「老いと死」の年代に焦点を当て、また里まちづくり推進することを核として、パンセのプロジェクトの戦略を立案していければと思います。次回のパンセ集いは10月24日の月曜日18時より行います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
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1.いのちを育む“老いと死”
前回まで3回にわた亘って、今村昌平の監督による映画『ならやまぶしこう楢山節考』から、現代とは異なる老いと死の迎え方について見てきました。個別の肉体としては、老いは衰えであり、死は滅びでしかありません。身体の生理作用として生じる生命の営みは、死によってもたらされる身体の新陳代謝の停止に伴い、その機能を停止し、いのちは無に帰していきます。しかしおばすて姨捨の世界に生きる人々の意識は、ただそれだけの理解ではありませんでした。ならやま楢山参りに行く(山に棄てられに行く)ことは、受け身的に強いられるだけのものではなく、むしろ主体的な求めでもありました。それは自分の死期を意識することであり、お山に行くその時を目指して、残された人生を生き尽くして全うすることでもあったのです。主人公のおりん婆さんは、お山に行くことを決意してから、身近な者たち一人一人のいのちを配慮し、そのいのちを支えるために出来ることをしてやりました。そして生きるための力となることを、身をもって教えさと諭していったのです。おりん婆さんにとっては、老いは肉体的な衰えに反して、最も自分のいのちが輝く時でもあったのです。そして死も、恐れや空しさだけをもたらすいのちの終焉ではありませんでした。むしろ自分のいのちが、その生涯において支え続けられた祖先の霊に帰って行くことであり、今度は自分が祖霊となって、生ける者のいのちを助ける“神”となっていくことでもあったのです。こうしておりん婆さんにとっては、自分の死は他を生かすことであり、死によって自分のいのちが純化されて、あらゆるものを生かすことを願う“永遠のいのち”に回帰していくことであったのです。
このようにおばすて姨捨の世界の人々にとっては、老いは最も自分のいのちの価値が育まれる時であり、また死は、その自分のいのちが生死を越えて、すべてを生かす大きないのちの源に戻って行くことの出来る、限りない平安と新たな望みの時でもあったのです。こうした意識の持ち方が、科学的に証明できるかどうかは別のこととして、それが私たちの生き方に及ぼす影響について、考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは10月24日月曜日の18時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
2.“いのち”の働き
(1)“良く生きる”ということ
さてパンセ通信では、いのちの価値について考え続けて参りました。いのちの価値とは、“いのち”が私たちの生きるために持つ有用性のことであり、それ故に私たちの心底からの求めとなるものであり、さらにその求めを充たすために、確かな効果のあるもののことです。それでは“いのち”とはいったい何でしょうか。それは私たち生きる者を、確かに生かす力のことでしょう。第1には、物理的に生物を生かし続ける力のことです。代謝や、エントロピーの増大(乱雑に解体していく力)に反して生命体という秩序ある統一体を形成する力のことなどが考えられます。しかしそれだけではありません。生きる以上生命は、少しでも良く生きていこうと意欲するものです。この単に生きるのではなく、良く生きようとする力、あるいは生けるものを良く生かしていこうとする力も、“いのち”の内実ということが出来るのです。
それでは“良く生きる”とはどういうことでしょうか。まず何よりもそれは、自分を生き易くしていこうとすることでしょう。そのために生き易い環境に移ったり、生き易い環境を生み出したり、さらには生き易い環境が生み出せるように、能力を高めていったりすることでもあると考えられます。しかし“良く生きる”ということは、一つの個体だけが良く生きることを意味するものではありません。自然の生態系を見ても、1つの種が群生している光景をよく見かけます。1個体よりも、その方が生きる確率が高まるからでしょう。さらに、1つの種だけがあまりに増えすぎても、かえ却って生態系のバランスが崩れて自滅することにもなりかねません。長い年月の間には、土の中の微生物から天を仰ぐ巨木まで、千差万別の無数のいのちが巧妙なバランスを保って、互いに生かし合いながら、すべてが最適な個体数と秩序を保って生きるようになっていくのです。このように“いのち”の持つ、多様性の中での調和をもたらす力は、1個体の生命を越えて、全体としての生命が、良く生きていけるような秩序をも形成していくものなのです。従って“良く生きる”とは、1個体が良く生きることを越えて、全体としていのちが生かし合いながら調和して、すべてが良く生きていけるようになっていくことであり、このレベルに至って始めて、本当に“良く生きる”ということが言えるようになってくるのです。
(2)人間にとっての“良く生きる”
以上一般的な生き物を対象に,“良く生きる”ということを考えてみましたが、それでは人間の場合はどうでしょうか。人間は一人一人、他の生き物以上に明確な意識を持っています。それも自己を他と区別して、自己を起点に世界を認識する自(己)意識を持っています。それ故に、“良く生きる”ということも、他の生物以上に強く意識されることになってきます。人間にとっては、単に生きるということは、時として苦痛でしか無くなることがあります。意味と価値が見いだせず、自分を生かせないと思ったとき、人間の生きる力は弱まり、物理的な生存にさえ悪い影響を及ぼしてしまうことがあるのです。自殺したり、精神が病んだり、自律神経のバランスや恒常性が乱れたりして、生存が危機に瀕することが生じてしまいます。
このように明確な意識を持つ人間は、他の生物以上に“良く生きる”ということが求められるようになってきます。それでは、人間にとって“良く生きる”とはどういうことでしょうか。それは自分を、本当に生かしていくことが出来るということでしょう。自分を生かすとは、自分が生きるために本当に必要なものを求め、それを充足していくことが出来ることでしょう。その時に満足が得られます。さらに能力を高め、今まで得られなかったものが得られるようになっていくことも含みます。こうして人間は、夢を抱き、その夢を希望に変え、さらにそれを実現できるといったサイクルを拡大発展させていけるようになり、その時に、生きているという実感を味わうことが出来るようになってくるのです。
しかし人間にとっての“良く生きる”とは、さらにそれだけではありません。人間は関係性に生きる動物ですので、それ故に社会を形成し、またその社会が変化していくが故に、歴史を刻んで生きていきます。このように時間と空間に広がる関係性に生きるが故に、その関係性の中で始めて他者と区別して自分が意識されるようになってきて、自意識が芽生えてくるのです。そして逆にこの自意識によって、自分を起点として他者や関係性の全体が捉えられるようになってくるのです。こうして人間の意識は、個でありながら全体を意識をし、個の利益を図りながら、他者や全体の利益をも意識せざるを得ないというパラドックスを抱え込むこととなるのです。逆に言えば、関係性の中で生きるが故に、本当に自分の利益を図ろうとするなら、他者や全体の利益との調和の中でしか、真の自分の利益を図ることは出来ない存在に生まれついていると言えるのです。
言語や貨幣は、人間が関係性に生きてきたことの産物でしょう。この言語の中には、過去の人々の経験や知恵が概念として組み込まれ、同時代の多くの人と意味を分かち合い、未来に向けても思いが伝わる機能が含まれています。従って言語を用いて考える人間の意識は、自ずから過去と現在の関係の総体(社会)、そして未来までもその範疇に入ってこ来ざるを得ないものなのです。それ故に人間にとって“良く生きる”とは、意識の上においては、自分一人が利益を得て他を省みないのではなく、過去の先人の思いを汲み、現在の他の人のいのちをも生かし、将来の世代のいのちにも配慮していくのでなければ、本当の意味での“良く生きる”という実感と充足感は得られてこないものなのです。
(3)“いのち”の働き、力、価値
さてこのように考えた上で人間の意識に捉えられる“いのち(良く生きる)”というものの働きを整理してみると、次のようにまとめられるのではないでしょうか。まずは自分を生かそうとするものであること、また他者をも生かそうとするものであること。そして互いに生かしあう意義と喜びを知り、それを求めようとするものであること。さらに過去の先人たちの、いのちを生かそうとした思いと智慧に感謝し、未来の世代のいのちも良く生きられるようにと配慮するものであること。加えて、人間も多くのいのちのつながりの中に生きて存在している以上、人間以外のあらゆるいのちやそれを育む自然の環境のすべてに対して、互いに生かし合う調和をもたらそうとするものであること。それ故に“いのち”は、もちろん個別の個体があってのいのちではありますけれども、同時に人間の意識の上では、すべての個々のいのちを育んで調和させる、個を越えた大きないのちでもあること。
次いで、そのいのちの働きの持つ力(“いのちの力”)について考えてみるとするなら、まずそれは、こうしたいのちの働きを感じて気づく力であり、いのちが働くことを深く求める力であり、またいのちの働きに気づき、その調和の美しさを感じられた時に、この上のない心地よさと安らぎを覚えて喜ぶことの出来る力ということが出来るでしょう。自然の絶景や里山美しさに心癒され、いのちが再生されるような思いを、より深く味わうことの出来る力と言うことも出来るでしょう。
そしていのちの働きの持つ価値(“いのちの価値”)について考えてみるなら、それはこうしたいのちの働きを大切なものと認めて求め、その働きを促進するいのちの力を強めて積み増し、自分と社会の資産としていこうとする共通認識のことと言って良いでしょう。
こうした“いのち”の捉え方は、科学的に実証できる事実として論証することは出来ませんが、少なくとも現代の私たちの求めに合うものがあり、私たちの生きる意欲と力を高めるものとなるのではないでしょうか。
4.“いのちの価値”を育む戦略
(1)新たな人生・社会ゲームのスタート
市場経済と市民社会が発達し、近代市民社会が幕開けて以降の300年ほどの間(日本においては明治維新以降の150年ほどの間)、私たちが価値として求めてきたものは、財貨の富とその価値でした。より多くの商品を購入して消費し、そのために金銭を稼いで蓄財して資産とする。またその資産を守り増やすための社会的・政治的な影響力(権力)を手にする。こうしたことが出来ることが、人生の目標であり、それを達成することが成功と見做されて名声を博することが出来たのです。私たちはこれまで、そうした人生・社会ゲームを展開してきました。
確かに財貨の価値は重要で、このゲームが無くなることはないでしょう。しかしもとより財貨の富、あるいは物質面から私たちの生活支える価値は、人間が“良く生きて”いくための、あるいは幸せになっていくための、必要条件ではあっても十分条件ではありません。私たちが“良く生きて”いくためには、財貨の価値に加えて、先ほどまでに述べた“いのちの価値”をも高めていくのでなければ、その目的を達成することは出来ないのです。
とりわけ現代においては、先進国における商品欲望の充足と鈍化、資源・環境制約、経済格差の拡大等によって、財貨の富を拡大させる困難さが増しており、無理にでも金や権力を求める行為は、以前にもまして著しく自分のいのちの価値を毀損させる事態を招くに至っています。こうした事態に陥って始めて私たちは、財貨の価値とあわせて、“いのち価値”を求めてそれを財産とする、新たな人生・社会ゲームを開始する必要に迫られるようになってきたのです。
言い換えれば、いのちの働きやいのちの力、それを養う環境や仕組みを価値として認め、それを高めることが私たちの意識の中で、共通の欲望として高まり始めていると言えるのです。恐らくこの新しい人生・社会ゲームの中では、財貨の価値を求めるゲームも、いのちの価値を高めたり養ったりする効果のもとで、その価値が評価されるというように変質してくるものと思われます。そしてそのことが、経済格差の是正や競争・分配ルールの公正化にも、寄与してくるものと思われるのです。
(2)老いと死、そして里まちづくり
さておばすて姨捨の世界は、財貨の富が乏しく、財貨の価値を高める人生・社会ゲームも未発達な状況の世界でした。しかしその分、現代のように“いのちの価値”が財貨の価値に埋没することなく意識されており、特に老いと死が、このいのちの価値を高め、その価値を相続財産として受け渡すために非常に重要な時期であったことを、私たちに教えてくれます。残念ながら財貨の価値だけが一元的な価値となってきた近・現代社会においては、老いと死とは、生産への寄与度か下がるために、身体機能的な衰えや滅びとしてだけ捉えられ、嫌悪や恐れの対象でしか無かったのとは対照的です。
そこで、いのちの価値を高める人生・社会ゲームを生み出していこうとする私たちのパンセのプロジェクトでは、まずは老いと死に焦点を当てていのちの価値を高める取り組みをスタートさせ、そこで高まったいのちの価値を、他の世代に波及させていく試みを行っていこうと思っております。
あわせて、7月末から活動を始めた渋谷本町六丁目ホームシアターを拠点に、まちの日々の暮らしの中で、いのちの価値を高める取り組みも進めていければと思っています。それはまちの商店の活性化や暮らしの利便性や魅力の向上、また都市部における地域循環経済の再生など、既存のまちづくりと重なる部分もありますが、なによりも“いのちの価値”を高めることを目的とする取り組みであることから、『里まちづくり』と呼称出来ればと考えております。さらにそれを、幡ヶ谷・初台という地域を越えた取り組みとして、1つの主義やムーブメントとして共通了解が得られるようになるならば、パンセの集いのメンバーである菅拓哉さんが提案されるように、『里まち資本主義』(藻谷浩介さんの里山資本主義をもじって)と呼んでも良いのかもしれません。
この“いのちの価値”にもとづく新しい人生・社会ゲームを検討し、それを展開するにあたってまず「老いと死」の年代に焦点を当て、また里まちづくり推進することを核として、パンセのプロジェクトの戦略を立案していければと思います。次回のパンセ集いは10月24日の月曜日18時より行います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)