■2016.10.29パンセ通信No.108『目標としての“いのちの価値”の指標化の試み』
皆 様 へ
1.自分を立ち返らせる大地のいのち
今回は最初に、アメリカ・ニューメキシコ州一帯に古来より居住するプエブロ・インディアンの言葉からご紹介致します。
「大地だけが生き続ける。
自分の人生がわからなくなったり、自分がなぜ人に聞き入れられないのか、わからなくなったとき、私が話しかけるのはいつも大地だ。
すると大地は答えてくれる。かつてわたしの先祖たちが、悲しみの涙で太陽が見えなくなったとき、彼らに歌ってやったのと同じ歌で。
大地は歌う、歓喜の歌を。大地は歌う、称賛の歌を。
大地は身を起こして、わたしをわら嗤う。春が冬に始まり、死が誕生によって始まることを。私がすっかり忘れるたびに。」
- ナンシ・ウッド著『今日は死ぬのにもってこいの日』より
パンセ通信No.104~No.106にかけて映画『ならやまぶしこう楢山節考』から、おばすて姨捨の世界に生きる人々の老いと死に対する感覚と、個人の身体や生死を越えて、すべてのものを生かす“いのちの価値”に対する捉え方を見てきました。遠く太平洋の大海原を越えたアメリカ大陸においても、その大地に根づいてネイティブとして生きた人々は、おばすて姨捨の文化に生きた人々と、同じような死生観といのちへの感覚を持っていたようです。そしてまた、すぐに個人の小さな考えに捉われて苦しみ悩む自分自身から、大地の大きないのちの力に目を転じて、自分を刷新して生き返らせていくすべ術も知っていたようです。
今回も引き続いて“いのちの価値”と“財貨の価値”を対比しながら、“いのちの価値”を育む新しい人生・社会ゲームについて考えていってみたいと思います。なお次回のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。テーマとして取り上げる映画作品は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』(イタリアネオリアリズモの記念碑的作品)か、チャップリンの『独裁者』のどちらかから、当日お越しになった方々のご要望で選びたいと思います。日時は10月31日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町六丁目シアターで行います。(最寄駅は京王新線初台駅、もしくは幡ヶ谷駅です。)
2.因果論と目的論
(1)因果の決定論は生物を支配しない
近代合理主義のものの考え方の中で生きてきた私たちは、すべての物事には原因があり結果があるという信念のもとに日々を暮らしています。この信念のもとに人間は、自然界の事物間に働く力を解明し、そこに法則を見出し、科学とテクノジーを発展させてきました。今や現時点で見出せている法則を当てはめて、人間は、100億年先の宇宙のモデルまでをも描き出せるレベルにまで至っています。
しかしかつてパンセ通信No.67『人工知能と生物の違いから考える老いと退職期』でも考えたことなのですが、意識と自由な意思を持つ人間の人生は、物質間に働く法則のように、原因と結果ですべてが決まって説明できるようなものではありません。例えば幼い頃に親に虐待を受けたという経験がトラウマ(原因)となって、その人は必ず人間が信じられない人格になるかというと、そうとは限らないのが人間です。過去の経験が原因となって結果として生じてくる運命に、私たち人間を始めとした生き物は、その生き方のすべてが支配されるようなものではないからです。
(2)生物は未来を目がけて生きる
もちろん過去の様々なトラウマが、その人の人格とその後の人生の歩みに、深刻な影響を及ぼすことは間違いの無いことでしょう。しかし人間の人生が、物質間の法則のように、過去の原因とその結果の法則だけですべてが決まるものでは無いことも、私たちは自分たちの経験から、十分に良く承知している事実です。
生物は物質と異なり、自分のいのちを維持し、さらに良く生きようとする欲望を持っています。そのために外界の世界と自分を捉えるために意識を発達させ、その意識の中で欲望を満たすための何らかの目標を抱き、その目標を実現するように自由に意思を働かせるようになってきました。こうして意識、とりわけ自己意識を発達させた人間の場合には、むしろ将来に何を望み、何を意欲するかによって現在の行動が変わり、人生も運命も大きく変化していくことになるのです。つまり人間は、「原因」-「結果」の決定論の世界に生きるというよりは、むしろ「目標」-「意思」の目的論の世界に生きて、絶えず現在と未来を新たに刷新しつつ生活しているという側面の方が、はるかに強い存在だと言うことができるのです。そしてこの将来への意思の持ち方によって、実は過去の事実は変えられなくても、過去の経験の意味さえ変えていくことが出来るようになるのです。例えば事業を志す人間にとっては、過去の貧しい苦労の体験の事実は、現在に悲惨をもたらす原因になるのでは無く、これからの事業を荷うための貴重な自分の経営手腕の糧となるものとして、捉えられるようになってくるのです。
この「目標」-「意思」の連環をもっと原初的な欲望から説明すると、「欲望」-「意味・価値」連関と言い換えることも出来るでしょう。私たちが本当に自分のいのちを生かして良く生きていくために、求める対象となるものは“意味”のあるものとして意識され、その“意味”のあるものを充足するために効果のあるものは、“価値”のあるものとして捉えられるようになります。つまりモノと違って生き物、とりわけ人間は、欲望との相関で言えば、常に意味と価値を生成して生きていく存在と言うことが出来るのです。従って私たちは、この自分が生きていくにあたって意味あるものを“目標”とし、価値あるものを“意思”する存在だと言うことも出来るのです。
※ここでは事物の間の「原因」-「結果」の決定論との比較で、分かりやすいように「目標」-「意思」という目的論の説明をしました。しかし「目標」-「意思」連関では、本当には自分のための目標とはならないものを無理に「目標」とし、その目標を「意思」して自分を駆り立てて消耗してしまうという事態が生じる危険性も出てきます。例えばブラック企業で働く場合などで、一生懸命働けば働くほど自分のためにならないような、いわゆる疎外の問題を引き起こす可能性が生じてきます。それ故に、むやみ無暗に目標を意思するばかりでなく、常に自分の求め(欲望)と、自分にとっての意味と価値を“実感”出来るかどうかということで、「目標」-「意思」を検証していく必要が生じてきます。従って私たちが“ごまかされない生き方”をしていくためには、「欲望」-「意味・価値」連関での認識の方が、より本質的に自分のためになる捉え方が出来るということになってくるのです。
3.私たちが求めるもの - 財貨の富
(1)財貨獲得ゲームの目標
さてこのように、生き物である人間は、過去の出来事に決定されるというよりは、原理的には自分を良く生かそうと、自分のためになることを未来に求めて現在を生きていきます。それでは私たちは、いったい何を求めて今を生きているのでしょうか。言い換えれば、何に意味と価値を感じて生きているのでしょうか。そしてまた、何を求めて生きれば、私たちは本当に自分を良く生かしていくことができるのでしょうか。
1つ確かなことは、財貨の価値を求めて生きるということでしょう。個別的な身体をもって生まれてきた私たちにとって、何よりもその身体を養い、便利で快適な生活空間とライフスタイルを得ていくことは重要なことだからです。前回のパンセ通信でも申し上げたとおり、近代市民社会が幕開けて、科学とテクノロジ-が発達し、あわせて市場経済と資本主義が進展することによって、人間が財貨の富(価値が集約したもの)を飛躍的に拡大させる条件は整いました。この条件のもとで、私たちは財貨の富を拡大させる人生・社会ゲームをスタートさせたのです。そしてこのゲームのルールに沿って、私たちの欲望が流れる回路が形成され、私たちは以下のようなことを求めて自分の人生や人との関わり方を形づくるようになりました。
①物質的な豊かさを求めて、より多くの商品を購入し消費すること
②そのために金銭を稼いで、蓄財し、資産を形成すること
③その資産を守り増やすために、社会的・経済的・政治的な影響力(権力)を手に入れること
こうして財貨の資産と地位や権力を求めて繰り広げる競争ゲームが展開し、それに勝利した者が成功者とみな見做されて、名声と称賛を勝ち得るようになりました。そしてそれ故に私たちは、このゲームに勝利することを人生の目標として生きるようになってきたのです。
(2)財貨のゲームで生じる世界観
こうしたことを目標にゲームを展開してきた結果、私たちは次第に、次のような世界観を抱き、またその世界に生きるようになってきました。
①本来良く生きるための1要件(手段、必要条件)にしか過ぎない財貨と権力の獲得が、唯一の目標となってしまう。(お金だけでは幸せになれないと分かっていても、まずは生活の安定と豊かさを求めることにほんそう奔走する。どうしたら本当に幸せなれるかを考えるとことは、常に先延ばしになってしまう。)
②その結果例え成功したとしても、さらにお金と力を求め続け、その貪欲は留まることなく拡大する。
③財貨のゲームは、個人の間における量や地位などの客観基準で測ることの出来る富や力の獲得競争であるため、他者との優劣が明確になる。そのために関心の中心は常に自己の利益と他者との優劣関係に向かい、常に優劣関係でだけで自分と他者を評価しようとする圧力が高まる。
④また他者との競争環境に生きるため、自分の利益への関心が中心となり、他者との関係はギヴ&テイクな利害関係的なものともなる。このために、自分の利益目的のために他者を手段的にのみ利用しようとする傾向が強まる。
(3)財貨のゲームの限界
このゲームと世界観、そしてその世界での競争的な生き方によって、人間は飛躍的に財貨の生産量を拡大させ、その財貨(商品)を大量に流通させて消費することを実現してきました。しかしまたこのゲームによって、本来私たちは財貨の富を拡大させ、自分たちが良く生きられるようにしてきたはずなのに、逆にそれを妨げるような、以下の数々の問題を引き起こす結果となってきました。
①このゲームは、どこまでも個人中心の自己利益拡大ゲームなので、社会全体の生産量が上がったとしても、その富を公平に分配する仕組みと、環境・資源などの生態系との全体的なバランス調整がうまく機能しない。そのために経済格差の拡大や気候変動(環境)問題等が必然的に生じ、それがやがて経済成長のあしかせ足枷となってくる。
②このゲームの推進力となるのは、物質的な財貨の富への欲望だが、一定程度の生活水準を達成してくると、当然のことながらこの欲望は減退してくる。従ってそのことよっても、経済成長の鈍化がもたらされてくる。低成長の社会では、ビジネスのチャンスはより狭まってくるため、財貨の富と地位の獲得競争に勝利するためには、従来以上の労力が必要となってくる。
③このためにゲームがうまく機能しなくなり、ゲームで勝てる見込みを失った人たちは、不満を募らせるか、ゲームそのものの魅了が失せて、財貨獲得以外の別のことに関心を向け始める。
このように、本来経済成長をもたらすはずであったゲームが、今やその目的が果たせなくなりつつあるとう矛盾が生じてきているのですが、個人の幸せをもたらすという側面においても、次のような内在的な問題をはら孕んできています。
④財貨の富とそれを守り増やす権力だけが価値として取り出されて、その価値だけを求める競争が展開されるので、人間は飽くことなくどこまでも財貨の価値を求める貪欲に走り、ついには人間はその貪欲の奴隷となってしまう。
⑤他者との関係は常に優劣関係で捉えられるため、私たちは常に劣等感と優越感にさいな苛まれることになる。このために対人関係は、癒しや励ましを与えて支え合うというよりは、常に緊張関係を生み出すものとなってしまう。
⑥また対人関係は、自己の利益を実現する手段的なものとして捉えられ、利害関係が中心となる。そのために私たちは、常に損得の不安の中にあり、心から他人を信頼することができなくなる。
⑦この結果私たちの意識は、根深い孤独感にさいな苛まれることになる。また他者と協力するよりも、自助努力だけで切り抜けようとする不安に駆り立てられる。
⑧人間が一人では生きられないこと、全体の利益を配慮しないと自分の利益の配分も望めないことが分かっていても、まずは自分の利益が優先されてしまう。自分が良くなってから他者のことも考えようとするのだが、結局他者や全体のことを配慮することは、先送りされてしまう。
⑨このように個人の意識の内側からも、全体利益を調整するモチベーションは機能せず、やがて経済成長は行き詰ることになる。これによって財貨の富を獲得する人生・社会ゲームはうまく私たちの欲望を集約することが出来なくなり、私たちは人生の目標を失った喪失感を覚えるとともに、社会全体としても解体現象が生じ始る。
4.いのちの価値の指標
(1)財貨の価値からいのち価値へ
さて、先に人間は「原因」-「結果」の決定論に生きるのではなく、将来より良く生きることを求めて現在を生きる、目的論に生きる存在だと申し上げました。それで近代以降の300年ほどの間は、まずは財貨の富を拡大させることを求めて、私たちは個人間の熾烈な競争ゲームを展開してきました。科学技術と市場経済・資本主義の発達によって、富を拡大し個人的にも成功できる可能性が開けて、人間の欲望がそこに向かって集中していったからです。そしてこの競争ゲームによって、先進国はかなりの程度の物質的な富を形成し、また一定程度の生活水準を達成することも出来るようになってきました。そして現在その成果によって、私たちにはさらに新たな可能性が開けてきて、その可能性へと向けて新たな欲望の流れが生じ始めてきているのです。その可能性とは、もはや(おばすて姨捨の里のような)物資的な欠乏に患わされることなく、自分自身を良く生かしていくための条件を明らかにし、幸せになることそのものを目指して生きていけるようになることです。
一方財貨の富を求めての人生・社会ゲームは、上記に述べたようにその本質的に抱える矛盾から、いよいよこれ以上の経済成長が困難となり、個人においても生き辛さを増すようになってきました。それでは私たちは、財貨の価値を求める以外に、何を具体的に求めて生きていけば良いのでしょうか。それがパンセの活動で求め続けてきた“いのち価値”なのです。
(2)個人レベルで自分を生かす指標
その“いのちの価値”、つまり私たちが自分について良く(幸せに)生きられていると実感できる条件(財貨の価値が幸せの必要条件とするなら、その十分条件)ついて考えてみると、以下のような指標を列挙することが出来るのではないかと思われます。
①本当に自分をよく生かしているという実感の持てること。そのためにはまず、自分が生きるために真に必要なことに気づき、それを求め、充足していくことの出来ること。その時に私たちは満足の感覚を覚えることができる。
②さらに自分の能力を高め、今まで得られなかったものが得られるようになってくる。その時私たちは、自分の可能性が広がっていくのを感じることが出来る。
③そして様々な状況において夢を抱くことが出来、それを希望へと育み、実現していくことが出来ること。その上でさらに大きな希望を描き、それを実現していくというサイクルを拡大していくことの出来ること。このように希望を育み実現していくことの出来る時に、私たちは、確かに自分が良く生きているという実感を持つことが出来る。
(3)他者と生かし合いの関係に生きる指標
しかしここですぐに気づくことなのですが、私たちは自分の可能性を広げ、少し大きな希望を実現しようとすると、決してそれを一人で実現することなど出来ないということです。必ず他の人との協力が必要になってきます。それは私たちが社会をつくり、他の人との関係性に生きるというあり方をしている以上、必然的なことなのです。それ故にこの他者との関係性においても、私たちは“よく生きる”ということが出来なければ、私たちは自分を本当に良く生かすことは出来ないのです。そのためには、
④他者も自分と同じように、良く生きたいと思っている存在であることを理解する。自分の求めをかな叶え、能力を高めて可能性を広げ、夢と希望を実現していくという、自分をよく生かしていく条件は、他の誰についても同じ。それ故に他者に自分の思いを押し付けたり、他者を自分の目的の手段とみな見做すのではなく、自分と同じように、自分を生かそうとしている存在として、他者に関心を払い、他者を尊重して見るようにしていく。
⑤こうして自分を生かそうとすることが、他者を生かすことと不可分に思えるようになってくること。そして本当に他の人を生かすために役立て時に、私たちは感謝を受けることになり、その時私たちは、自分の存在の意味と価値を確かに実感することが出来る。
⑥また互いに生かし合う協力の喜びに生きられた時、私たちは、自分の個人的な能力アップよりも、はるかに生きていて良かったという実感や生きがいを味わうことが出来る。
(4)時空を越えた普遍的な生かし合いの指標
ところで他者というのは、自分の周囲の身近な人ばかりに限るものではありません。私たちの希望が広がってくれば、関わる人々の範囲も広がり、やがては社会全体にまで及んでいくこともあります。それ故に、私たちのいのちの力が高まれば高まるほどに、私たちが共に生かし合う人々の範囲は広がり、私たちが出来ることも大きくなっていくのです。
⑦自分と自分の身近な人々ばかりでなく、社会全体が互いに生かし合い、幸せにならないと、自分も幸せになれないという感覚が持てるようになること。
⑧このように互いに生かし合おうとする力は、現在ばかりでなく太古の昔から先人たちがつちか培ってきたものであり、その求めとちえ智慧があったからこそ、人類は今日まで滅びることなく発展してくることができた。この先人たち(死者たち)のいのちの営みをうやま敬って感謝し、そのいのちの智慧を過去から学び取っていこうとすること
⑨さらに互いに生かし合い、すべてを調和させて生かそうとするいのちの力は、自然界の生態系の中にも働き、あらゆる生き物を育み、自分もその中の1つとして生かされているという実感の持てること。そして自然界に働くいのちの力を学び、自分のいのちもその力で養われようとすること
⑩そしてそのようにして身に着けたいのちの力によって、自分だけでなく他者や他のあらゆるいのち生かし、そうしたいのちの力を養おうとすることに喜びを感じるようになること。加えて後の世代のいのちの力にもなろうと望み、小さくとも自分に出来ることを行っていくこと
(5)自己受容と人格の刷新
さてこのように、自分だけではなくすべてのものを生かそうとするいのちの力が感じられるようになる時、また現在ばかりでなく、過去・現在・未来にわたってすべてのいのちの生かし、自然の環境をも調和させていこうとするいのちの力が感じられるようになる時、私たちには世界に対する深い信頼が生まれてきます。そしてその時はじめて私たちは、ありのままの自分を受け入れられる(自己受容)ようになってくるのです。
⑪現在の自分がいかに愚かでみじめな存在であっても、私たちが自分を良く生かしていきたいと思うなら、ひが僻んだり、すねたり、くじ挫けたりするのではなく、そのありのまま自分から出発していくしかない。すべてを生かすいのちの力への信頼は、ありのままの自分の中にも潜むいのちの可能性を見出させてくれる。そして私たちに、どんなに困難な状況にあったとしても、そこから一歩前に踏み出す、生きる意欲(勇気)と力を与えてくれる。
⑫私たちは生まれてから現在までの人生の歩みにおいて、それぞれに自分と人生と世界についての意味づけの枠組み(人格・認識構造)を形成している。時にその身に着いた認識の枠組みが、自分を傷つけ、人を傷つけるものの見方をさせてしまうことがある。また自分を生かそうと思って目指した目標が、結局は自分を害する結果に至ってしまうことも生じる。すべてを生かす大きないのちの働きの視点から自分を捉える時、自分の人格構造のゆが歪みと、目標の過ちに気づき、それを省みて常に改めていこうとする求めが生じ、また自分をより良く生きられるように新しくしていこうとする自助努力が始まる。(何か問題が起こった時に、相手が悪いと非難する前に、まず自分を変えてみようと努力する)
⑬常に自分と他者のいのちを生かそうとする思いが働き、憎しみを越えて相手を赦し、共に了解しあい、支え合っていく道がないか、可能性を探ろうとする。
5.いのちの価値の実現に向けて
以上ここまで、過去の因果に捉われるのではなく、未来の可能性に向けて生きるという特質を持つ私たちが、本当に自分を良く生かしていくために、何を求めて生きていけば良いのかということについて考えてきました。またそれを明らかにするために、“財貨の価値”とあわせて新たに“いのち価値”について考え、その価値の内容をとりあえず指標的に整理してみました。今後この価値の内容と指標についてさらに検討を加え、その求めをいか如何に実現して実際に良く生きられるようにしていくか、その筋道を明らかにしていければと思います。
とりあえず現時点で想定できることは、老年期においては、一般的にはすでに退職して、財貨の価値を求めて生活まかな賄う労苦から解放されている年代であるために、“いのち価値”を育む取り組みに専念しやすいということです。こうして高齢世代おいて洗練された“いのちの価値”を、次にどのように財貨の生産に追われる現役世代の、里まちづくりやなりわいづくりに当てはめていくことが出来るか。そして若い世代も含めたすべての世代において、自分のいのちを生かせるような人生・社会ゲームを展開していくことが出来るようになるか。順を追って検討を深めていってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、冒頭でも申し上げたとおり、幡ヶ谷ホームシアターサークルの活動を行います。開催日時は10月31日月曜日の18時から、場所は本町六丁目シアターです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
1.自分を立ち返らせる大地のいのち
今回は最初に、アメリカ・ニューメキシコ州一帯に古来より居住するプエブロ・インディアンの言葉からご紹介致します。
「大地だけが生き続ける。
自分の人生がわからなくなったり、自分がなぜ人に聞き入れられないのか、わからなくなったとき、私が話しかけるのはいつも大地だ。
すると大地は答えてくれる。かつてわたしの先祖たちが、悲しみの涙で太陽が見えなくなったとき、彼らに歌ってやったのと同じ歌で。
大地は歌う、歓喜の歌を。大地は歌う、称賛の歌を。
大地は身を起こして、わたしをわら嗤う。春が冬に始まり、死が誕生によって始まることを。私がすっかり忘れるたびに。」
- ナンシ・ウッド著『今日は死ぬのにもってこいの日』より
パンセ通信No.104~No.106にかけて映画『ならやまぶしこう楢山節考』から、おばすて姨捨の世界に生きる人々の老いと死に対する感覚と、個人の身体や生死を越えて、すべてのものを生かす“いのちの価値”に対する捉え方を見てきました。遠く太平洋の大海原を越えたアメリカ大陸においても、その大地に根づいてネイティブとして生きた人々は、おばすて姨捨の文化に生きた人々と、同じような死生観といのちへの感覚を持っていたようです。そしてまた、すぐに個人の小さな考えに捉われて苦しみ悩む自分自身から、大地の大きないのちの力に目を転じて、自分を刷新して生き返らせていくすべ術も知っていたようです。
今回も引き続いて“いのちの価値”と“財貨の価値”を対比しながら、“いのちの価値”を育む新しい人生・社会ゲームについて考えていってみたいと思います。なお次回のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。テーマとして取り上げる映画作品は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』(イタリアネオリアリズモの記念碑的作品)か、チャップリンの『独裁者』のどちらかから、当日お越しになった方々のご要望で選びたいと思います。日時は10月31日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町六丁目シアターで行います。(最寄駅は京王新線初台駅、もしくは幡ヶ谷駅です。)
2.因果論と目的論
(1)因果の決定論は生物を支配しない
近代合理主義のものの考え方の中で生きてきた私たちは、すべての物事には原因があり結果があるという信念のもとに日々を暮らしています。この信念のもとに人間は、自然界の事物間に働く力を解明し、そこに法則を見出し、科学とテクノジーを発展させてきました。今や現時点で見出せている法則を当てはめて、人間は、100億年先の宇宙のモデルまでをも描き出せるレベルにまで至っています。
しかしかつてパンセ通信No.67『人工知能と生物の違いから考える老いと退職期』でも考えたことなのですが、意識と自由な意思を持つ人間の人生は、物質間に働く法則のように、原因と結果ですべてが決まって説明できるようなものではありません。例えば幼い頃に親に虐待を受けたという経験がトラウマ(原因)となって、その人は必ず人間が信じられない人格になるかというと、そうとは限らないのが人間です。過去の経験が原因となって結果として生じてくる運命に、私たち人間を始めとした生き物は、その生き方のすべてが支配されるようなものではないからです。
(2)生物は未来を目がけて生きる
もちろん過去の様々なトラウマが、その人の人格とその後の人生の歩みに、深刻な影響を及ぼすことは間違いの無いことでしょう。しかし人間の人生が、物質間の法則のように、過去の原因とその結果の法則だけですべてが決まるものでは無いことも、私たちは自分たちの経験から、十分に良く承知している事実です。
生物は物質と異なり、自分のいのちを維持し、さらに良く生きようとする欲望を持っています。そのために外界の世界と自分を捉えるために意識を発達させ、その意識の中で欲望を満たすための何らかの目標を抱き、その目標を実現するように自由に意思を働かせるようになってきました。こうして意識、とりわけ自己意識を発達させた人間の場合には、むしろ将来に何を望み、何を意欲するかによって現在の行動が変わり、人生も運命も大きく変化していくことになるのです。つまり人間は、「原因」-「結果」の決定論の世界に生きるというよりは、むしろ「目標」-「意思」の目的論の世界に生きて、絶えず現在と未来を新たに刷新しつつ生活しているという側面の方が、はるかに強い存在だと言うことができるのです。そしてこの将来への意思の持ち方によって、実は過去の事実は変えられなくても、過去の経験の意味さえ変えていくことが出来るようになるのです。例えば事業を志す人間にとっては、過去の貧しい苦労の体験の事実は、現在に悲惨をもたらす原因になるのでは無く、これからの事業を荷うための貴重な自分の経営手腕の糧となるものとして、捉えられるようになってくるのです。
この「目標」-「意思」の連環をもっと原初的な欲望から説明すると、「欲望」-「意味・価値」連関と言い換えることも出来るでしょう。私たちが本当に自分のいのちを生かして良く生きていくために、求める対象となるものは“意味”のあるものとして意識され、その“意味”のあるものを充足するために効果のあるものは、“価値”のあるものとして捉えられるようになります。つまりモノと違って生き物、とりわけ人間は、欲望との相関で言えば、常に意味と価値を生成して生きていく存在と言うことが出来るのです。従って私たちは、この自分が生きていくにあたって意味あるものを“目標”とし、価値あるものを“意思”する存在だと言うことも出来るのです。
※ここでは事物の間の「原因」-「結果」の決定論との比較で、分かりやすいように「目標」-「意思」という目的論の説明をしました。しかし「目標」-「意思」連関では、本当には自分のための目標とはならないものを無理に「目標」とし、その目標を「意思」して自分を駆り立てて消耗してしまうという事態が生じる危険性も出てきます。例えばブラック企業で働く場合などで、一生懸命働けば働くほど自分のためにならないような、いわゆる疎外の問題を引き起こす可能性が生じてきます。それ故に、むやみ無暗に目標を意思するばかりでなく、常に自分の求め(欲望)と、自分にとっての意味と価値を“実感”出来るかどうかということで、「目標」-「意思」を検証していく必要が生じてきます。従って私たちが“ごまかされない生き方”をしていくためには、「欲望」-「意味・価値」連関での認識の方が、より本質的に自分のためになる捉え方が出来るということになってくるのです。
3.私たちが求めるもの - 財貨の富
(1)財貨獲得ゲームの目標
さてこのように、生き物である人間は、過去の出来事に決定されるというよりは、原理的には自分を良く生かそうと、自分のためになることを未来に求めて現在を生きていきます。それでは私たちは、いったい何を求めて今を生きているのでしょうか。言い換えれば、何に意味と価値を感じて生きているのでしょうか。そしてまた、何を求めて生きれば、私たちは本当に自分を良く生かしていくことができるのでしょうか。
1つ確かなことは、財貨の価値を求めて生きるということでしょう。個別的な身体をもって生まれてきた私たちにとって、何よりもその身体を養い、便利で快適な生活空間とライフスタイルを得ていくことは重要なことだからです。前回のパンセ通信でも申し上げたとおり、近代市民社会が幕開けて、科学とテクノロジ-が発達し、あわせて市場経済と資本主義が進展することによって、人間が財貨の富(価値が集約したもの)を飛躍的に拡大させる条件は整いました。この条件のもとで、私たちは財貨の富を拡大させる人生・社会ゲームをスタートさせたのです。そしてこのゲームのルールに沿って、私たちの欲望が流れる回路が形成され、私たちは以下のようなことを求めて自分の人生や人との関わり方を形づくるようになりました。
①物質的な豊かさを求めて、より多くの商品を購入し消費すること
②そのために金銭を稼いで、蓄財し、資産を形成すること
③その資産を守り増やすために、社会的・経済的・政治的な影響力(権力)を手に入れること
こうして財貨の資産と地位や権力を求めて繰り広げる競争ゲームが展開し、それに勝利した者が成功者とみな見做されて、名声と称賛を勝ち得るようになりました。そしてそれ故に私たちは、このゲームに勝利することを人生の目標として生きるようになってきたのです。
(2)財貨のゲームで生じる世界観
こうしたことを目標にゲームを展開してきた結果、私たちは次第に、次のような世界観を抱き、またその世界に生きるようになってきました。
①本来良く生きるための1要件(手段、必要条件)にしか過ぎない財貨と権力の獲得が、唯一の目標となってしまう。(お金だけでは幸せになれないと分かっていても、まずは生活の安定と豊かさを求めることにほんそう奔走する。どうしたら本当に幸せなれるかを考えるとことは、常に先延ばしになってしまう。)
②その結果例え成功したとしても、さらにお金と力を求め続け、その貪欲は留まることなく拡大する。
③財貨のゲームは、個人の間における量や地位などの客観基準で測ることの出来る富や力の獲得競争であるため、他者との優劣が明確になる。そのために関心の中心は常に自己の利益と他者との優劣関係に向かい、常に優劣関係でだけで自分と他者を評価しようとする圧力が高まる。
④また他者との競争環境に生きるため、自分の利益への関心が中心となり、他者との関係はギヴ&テイクな利害関係的なものともなる。このために、自分の利益目的のために他者を手段的にのみ利用しようとする傾向が強まる。
(3)財貨のゲームの限界
このゲームと世界観、そしてその世界での競争的な生き方によって、人間は飛躍的に財貨の生産量を拡大させ、その財貨(商品)を大量に流通させて消費することを実現してきました。しかしまたこのゲームによって、本来私たちは財貨の富を拡大させ、自分たちが良く生きられるようにしてきたはずなのに、逆にそれを妨げるような、以下の数々の問題を引き起こす結果となってきました。
①このゲームは、どこまでも個人中心の自己利益拡大ゲームなので、社会全体の生産量が上がったとしても、その富を公平に分配する仕組みと、環境・資源などの生態系との全体的なバランス調整がうまく機能しない。そのために経済格差の拡大や気候変動(環境)問題等が必然的に生じ、それがやがて経済成長のあしかせ足枷となってくる。
②このゲームの推進力となるのは、物質的な財貨の富への欲望だが、一定程度の生活水準を達成してくると、当然のことながらこの欲望は減退してくる。従ってそのことよっても、経済成長の鈍化がもたらされてくる。低成長の社会では、ビジネスのチャンスはより狭まってくるため、財貨の富と地位の獲得競争に勝利するためには、従来以上の労力が必要となってくる。
③このためにゲームがうまく機能しなくなり、ゲームで勝てる見込みを失った人たちは、不満を募らせるか、ゲームそのものの魅了が失せて、財貨獲得以外の別のことに関心を向け始める。
このように、本来経済成長をもたらすはずであったゲームが、今やその目的が果たせなくなりつつあるとう矛盾が生じてきているのですが、個人の幸せをもたらすという側面においても、次のような内在的な問題をはら孕んできています。
④財貨の富とそれを守り増やす権力だけが価値として取り出されて、その価値だけを求める競争が展開されるので、人間は飽くことなくどこまでも財貨の価値を求める貪欲に走り、ついには人間はその貪欲の奴隷となってしまう。
⑤他者との関係は常に優劣関係で捉えられるため、私たちは常に劣等感と優越感にさいな苛まれることになる。このために対人関係は、癒しや励ましを与えて支え合うというよりは、常に緊張関係を生み出すものとなってしまう。
⑥また対人関係は、自己の利益を実現する手段的なものとして捉えられ、利害関係が中心となる。そのために私たちは、常に損得の不安の中にあり、心から他人を信頼することができなくなる。
⑦この結果私たちの意識は、根深い孤独感にさいな苛まれることになる。また他者と協力するよりも、自助努力だけで切り抜けようとする不安に駆り立てられる。
⑧人間が一人では生きられないこと、全体の利益を配慮しないと自分の利益の配分も望めないことが分かっていても、まずは自分の利益が優先されてしまう。自分が良くなってから他者のことも考えようとするのだが、結局他者や全体のことを配慮することは、先送りされてしまう。
⑨このように個人の意識の内側からも、全体利益を調整するモチベーションは機能せず、やがて経済成長は行き詰ることになる。これによって財貨の富を獲得する人生・社会ゲームはうまく私たちの欲望を集約することが出来なくなり、私たちは人生の目標を失った喪失感を覚えるとともに、社会全体としても解体現象が生じ始る。
4.いのちの価値の指標
(1)財貨の価値からいのち価値へ
さて、先に人間は「原因」-「結果」の決定論に生きるのではなく、将来より良く生きることを求めて現在を生きる、目的論に生きる存在だと申し上げました。それで近代以降の300年ほどの間は、まずは財貨の富を拡大させることを求めて、私たちは個人間の熾烈な競争ゲームを展開してきました。科学技術と市場経済・資本主義の発達によって、富を拡大し個人的にも成功できる可能性が開けて、人間の欲望がそこに向かって集中していったからです。そしてこの競争ゲームによって、先進国はかなりの程度の物質的な富を形成し、また一定程度の生活水準を達成することも出来るようになってきました。そして現在その成果によって、私たちにはさらに新たな可能性が開けてきて、その可能性へと向けて新たな欲望の流れが生じ始めてきているのです。その可能性とは、もはや(おばすて姨捨の里のような)物資的な欠乏に患わされることなく、自分自身を良く生かしていくための条件を明らかにし、幸せになることそのものを目指して生きていけるようになることです。
一方財貨の富を求めての人生・社会ゲームは、上記に述べたようにその本質的に抱える矛盾から、いよいよこれ以上の経済成長が困難となり、個人においても生き辛さを増すようになってきました。それでは私たちは、財貨の価値を求める以外に、何を具体的に求めて生きていけば良いのでしょうか。それがパンセの活動で求め続けてきた“いのち価値”なのです。
(2)個人レベルで自分を生かす指標
その“いのちの価値”、つまり私たちが自分について良く(幸せに)生きられていると実感できる条件(財貨の価値が幸せの必要条件とするなら、その十分条件)ついて考えてみると、以下のような指標を列挙することが出来るのではないかと思われます。
①本当に自分をよく生かしているという実感の持てること。そのためにはまず、自分が生きるために真に必要なことに気づき、それを求め、充足していくことの出来ること。その時に私たちは満足の感覚を覚えることができる。
②さらに自分の能力を高め、今まで得られなかったものが得られるようになってくる。その時私たちは、自分の可能性が広がっていくのを感じることが出来る。
③そして様々な状況において夢を抱くことが出来、それを希望へと育み、実現していくことが出来ること。その上でさらに大きな希望を描き、それを実現していくというサイクルを拡大していくことの出来ること。このように希望を育み実現していくことの出来る時に、私たちは、確かに自分が良く生きているという実感を持つことが出来る。
(3)他者と生かし合いの関係に生きる指標
しかしここですぐに気づくことなのですが、私たちは自分の可能性を広げ、少し大きな希望を実現しようとすると、決してそれを一人で実現することなど出来ないということです。必ず他の人との協力が必要になってきます。それは私たちが社会をつくり、他の人との関係性に生きるというあり方をしている以上、必然的なことなのです。それ故にこの他者との関係性においても、私たちは“よく生きる”ということが出来なければ、私たちは自分を本当に良く生かすことは出来ないのです。そのためには、
④他者も自分と同じように、良く生きたいと思っている存在であることを理解する。自分の求めをかな叶え、能力を高めて可能性を広げ、夢と希望を実現していくという、自分をよく生かしていく条件は、他の誰についても同じ。それ故に他者に自分の思いを押し付けたり、他者を自分の目的の手段とみな見做すのではなく、自分と同じように、自分を生かそうとしている存在として、他者に関心を払い、他者を尊重して見るようにしていく。
⑤こうして自分を生かそうとすることが、他者を生かすことと不可分に思えるようになってくること。そして本当に他の人を生かすために役立て時に、私たちは感謝を受けることになり、その時私たちは、自分の存在の意味と価値を確かに実感することが出来る。
⑥また互いに生かし合う協力の喜びに生きられた時、私たちは、自分の個人的な能力アップよりも、はるかに生きていて良かったという実感や生きがいを味わうことが出来る。
(4)時空を越えた普遍的な生かし合いの指標
ところで他者というのは、自分の周囲の身近な人ばかりに限るものではありません。私たちの希望が広がってくれば、関わる人々の範囲も広がり、やがては社会全体にまで及んでいくこともあります。それ故に、私たちのいのちの力が高まれば高まるほどに、私たちが共に生かし合う人々の範囲は広がり、私たちが出来ることも大きくなっていくのです。
⑦自分と自分の身近な人々ばかりでなく、社会全体が互いに生かし合い、幸せにならないと、自分も幸せになれないという感覚が持てるようになること。
⑧このように互いに生かし合おうとする力は、現在ばかりでなく太古の昔から先人たちがつちか培ってきたものであり、その求めとちえ智慧があったからこそ、人類は今日まで滅びることなく発展してくることができた。この先人たち(死者たち)のいのちの営みをうやま敬って感謝し、そのいのちの智慧を過去から学び取っていこうとすること
⑨さらに互いに生かし合い、すべてを調和させて生かそうとするいのちの力は、自然界の生態系の中にも働き、あらゆる生き物を育み、自分もその中の1つとして生かされているという実感の持てること。そして自然界に働くいのちの力を学び、自分のいのちもその力で養われようとすること
⑩そしてそのようにして身に着けたいのちの力によって、自分だけでなく他者や他のあらゆるいのち生かし、そうしたいのちの力を養おうとすることに喜びを感じるようになること。加えて後の世代のいのちの力にもなろうと望み、小さくとも自分に出来ることを行っていくこと
(5)自己受容と人格の刷新
さてこのように、自分だけではなくすべてのものを生かそうとするいのちの力が感じられるようになる時、また現在ばかりでなく、過去・現在・未来にわたってすべてのいのちの生かし、自然の環境をも調和させていこうとするいのちの力が感じられるようになる時、私たちには世界に対する深い信頼が生まれてきます。そしてその時はじめて私たちは、ありのままの自分を受け入れられる(自己受容)ようになってくるのです。
⑪現在の自分がいかに愚かでみじめな存在であっても、私たちが自分を良く生かしていきたいと思うなら、ひが僻んだり、すねたり、くじ挫けたりするのではなく、そのありのまま自分から出発していくしかない。すべてを生かすいのちの力への信頼は、ありのままの自分の中にも潜むいのちの可能性を見出させてくれる。そして私たちに、どんなに困難な状況にあったとしても、そこから一歩前に踏み出す、生きる意欲(勇気)と力を与えてくれる。
⑫私たちは生まれてから現在までの人生の歩みにおいて、それぞれに自分と人生と世界についての意味づけの枠組み(人格・認識構造)を形成している。時にその身に着いた認識の枠組みが、自分を傷つけ、人を傷つけるものの見方をさせてしまうことがある。また自分を生かそうと思って目指した目標が、結局は自分を害する結果に至ってしまうことも生じる。すべてを生かす大きないのちの働きの視点から自分を捉える時、自分の人格構造のゆが歪みと、目標の過ちに気づき、それを省みて常に改めていこうとする求めが生じ、また自分をより良く生きられるように新しくしていこうとする自助努力が始まる。(何か問題が起こった時に、相手が悪いと非難する前に、まず自分を変えてみようと努力する)
⑬常に自分と他者のいのちを生かそうとする思いが働き、憎しみを越えて相手を赦し、共に了解しあい、支え合っていく道がないか、可能性を探ろうとする。
5.いのちの価値の実現に向けて
以上ここまで、過去の因果に捉われるのではなく、未来の可能性に向けて生きるという特質を持つ私たちが、本当に自分を良く生かしていくために、何を求めて生きていけば良いのかということについて考えてきました。またそれを明らかにするために、“財貨の価値”とあわせて新たに“いのち価値”について考え、その価値の内容をとりあえず指標的に整理してみました。今後この価値の内容と指標についてさらに検討を加え、その求めをいか如何に実現して実際に良く生きられるようにしていくか、その筋道を明らかにしていければと思います。
とりあえず現時点で想定できることは、老年期においては、一般的にはすでに退職して、財貨の価値を求めて生活まかな賄う労苦から解放されている年代であるために、“いのち価値”を育む取り組みに専念しやすいということです。こうして高齢世代おいて洗練された“いのちの価値”を、次にどのように財貨の生産に追われる現役世代の、里まちづくりやなりわいづくりに当てはめていくことが出来るか。そして若い世代も含めたすべての世代において、自分のいのちを生かせるような人生・社会ゲームを展開していくことが出来るようになるか。順を追って検討を深めていってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、冒頭でも申し上げたとおり、幡ヶ谷ホームシアターサークルの活動を行います。開催日時は10月31日月曜日の18時から、場所は本町六丁目シアターです。お時間許す方はご参加下さい。