ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.112『映画「独裁者」-笑いの本質とチャップリンの批判精神2/3』

Nov 26 - 2016

■2016.11.26パンセ通信No.112『映画「独裁者」-笑いの本質とチャップリンの批判精神2/3』

皆 様 へ

今回は前回に引き続き、チャップリンの映画『独裁者』を取り上げ、その具体的なストーリーの展開を追いながら、笑いの構造とチャップリンのファシズムを始めとする現代社会批判を見ていきます。そしてチャップリンが、いったい人間性のどういう部分に立脚して、私たちに何を訴えかけようとしたのかを明らかにしていければと思います。

なお次回のパンセの集いは、渋谷区本町の本町ホームシアターで、幡ヶ谷ホームシアターサークルの活動を予定しております。テーマとして取り上げるのは台湾のホウ・シャオシエン監督の映画『非情城市(A City of Sadness)です。時間は18時からです。

1.映画『独裁者』の時代背景と基本構造
(1)時代背景とチャップリンの課題
1939年9月1日ヒットラー率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻により、第二次世界大戦が始まりました。そして翌1940年6月初めには、ベルギーに越境してマジノ線を突破したドイツ軍に、追い詰められた英仏連合軍はフランス最北端の町ダンケルクから英国本土へと撤退を余儀なくされ、6月22日にはパリが陥落してフランスが降伏します。こうしてソ連を除くヨーロッパの大部分が、武力によってドイツ・イタリアの枢軸国側の支配下に入ってしまったのが、1940年当時のヨーロッパの状況でした。しかし大西洋を隔て、伝統の孤立主義を貫くアメリカでは、映画『独裁者』が公開されたこの1940年に至っても、いま未だヨーロッパでの戦争は遠くの出来事で人々の関心は薄く、むしろヒットラーのはなばな華々しい政策の成功と戦果を目にして、ファシズムの信奉者も少なくない状況にありました。

つまりアメリカ合衆国を含めて、ナチスの侵略や人権侵害の脅威に直接さら晒されていない地域においては、この時期においてもファシズムが、人間のいのちと暮らしをいかに抑圧し、社会を破滅に導く危険なものであるかということについての共通了解が得られていなかったのです。従ってチャップリンは、まず人々の常識を覆すことから始めて、ファシズムの本質を見せていかなければなりませんでした。しかも、単にナチスのおうぼう横暴を映し出して人々の怒りをあお煽る方法では、その反感は一時的なもので終わってしまう可能性があります。感情や気分は長続きせず、ひんぱん頻繁に変化していくからです。またファシズムが、いかに個人のいのちと生活を破壊する悲惨な結末をもたらすものであるかを、論理的に説明して理性でわ解からせようとしも、庶民にとってはこむずか小難しいばかりで退屈で、そんな映画に足が向くものではありません。むしろ面倒な国民主権と民主主義を捨て去って、国家に全権力と権利を集中させるファシズムは、システムとしては効率良く見えて、またその大規模な大衆示威行動によって、人々を魅了するものでさえあったのです。

そのためにチャップリンは、お得意のコメディの表現手法を用いて、笑いと面白さの娯楽の一貫として人々をひ惹きつ付け、ファシズムの本質が、実はいかに愚かでこっけい滑稽なものであるかを、本来の人間の生きる姿との比較で“ズレ”としてと見せる必要があったのです。そして笑いと娯楽のうちに、人々が人間存在の最も深いところで、何が本当に大切なことなのかに気づき、実感としてファシズムの愚かさを、自分自身に刻み込ませるようにしていったのです。

(2)ファシズムのおかしさに気づかせる3つの手法
そのためにチャップリンは、映画『独裁者』において3つの手法を用いて、人間本来の姿とファシズムの“ズレ”によって生じるこっけい滑稽さを見事に描き出しました。その第1は、どことなくヒットラーとふうぼう風貌の似たチャップリンが、ヒットラーにぎ擬したアデノイド・ヒンケルの役を演じたことです。チャップリンもヒットラーも、どちらも小柄で黒髪で、ちょび髭をトレードマークにしています。またヒットラーの誕生日が1989年4月20日で、チャップリンは4月16日と近接しており、若い頃に貧困で苦労した経験も共有しています。このようにチャップリンは、自分自身をも用いてあえて外見的に似通っている二人を重ねることによって、逆にその両者の間にある“ズレ”を際立たせようとしたのです。

第2はこの映画の中で、チャップリンがアデノイド・ヒンケルと床屋のチャーリーの二役を演じたことです。そのことによって、独裁者とユダヤ人ではあるがごく普通の庶民チャーリーを、瓜二つのすがたかたち姿形とし、同じく両者の間にある“ズレ”をあからさまにしようとしました。それはまた、迫害する側と迫害される側のズレを際立たせることでもありました。そして第3は床屋のチャーリーを、第一次世界大戦の負傷により20年もの間記憶喪失で病院に暮らし、突然ファシズムの支配する世界に戻って暮らし始めるという役柄に設定したことです。これによって私たちは、チャップリンふん扮する主人公であるチャーリーの目を通して、ファシズムが支配する以前の普通の庶民の感覚をもって、ファシズムの支配する世界のおかしさ、奇妙さを、リアルな実感をもって捉えられるようになるのです。こうしてチャップリンは、ファシズム体制と普通の人間の暮らしとの間に、明確な “ズレ”を生じさせていきます。そしてすでにファシズムの支配を見慣れた人々、それに共感をさえ覚え始めた人々に、これ以上分かり易くは無いというほどに、ファシズムの異常さ、滑稽さを改めて実感させ、鈍った人々の感覚を、普通の庶民の良識へと呼び戻そうとしていったのです。

(3)物語の基本構造
チャップリンは、以上の3つの手法を用いることによって、またヒットラーやムッソリーニ、そしてナチスドイツの台頭という同時代の現実を徹底的にパロディ化することによって、映画『独裁者』の基本構造を組み立てていきました。この基本構造によって、ファシズムと普通の人間の日常生活との間に生じる“ズレ”を、笑いによって私たちの感性の奥深くに刻み込ませ、また最後の床屋のチャーリーの演説によって、私たちが論理によって頭でも納得出来るようにしていったのです。

それではファシズムというのはどういうもので、具体的にそれは通常の人間の日常生活とどう“ズレ”るものなのでしょうか。また人間本来の良心のありよう様というのは、いかに素晴らしいもので、それがどのようにファシズムによって押しつぶされてしまうものなのでしょうか。そのことについてチャップリンの語るメッセージを、彼が具体的に描いて見せてくれる笑いの構図と共に、この映画のシーンを追いながら見ていきたいと思います。

2.笑いの技法を総動員してあば暴く戦場のこっけい滑稽さ
(1)こっけい滑稽さを増幅する演出
映画『独裁者』は、冒頭にクレジットが流れ、その最後に次のようなテロップが表示されることから始まっていきます。「2つの世界大戦の中間の時代-狂気が世界を支配し、人類の自由が失われていた頃の物語である。」つまりチャップリンは、ファシズムとはまず狂気であり、自由を抑圧する脅威だとたんてき端的に紹介するのです。そして映像は、1918年の第一次世界大戦末期、ドイツに擬した架空の国、トメニア国の前線でのリアルな戦闘シーンから始まります。砲弾がさくれつ炸裂し、ざんごう塹壕を兵士が行き来します。そしてカメラがゆっくりとパン(振れて)して、巨大な長距離砲が映し出されます。前線から直接パリのノートルダム寺院を狙う最新兵器です。そこに大人の身長ほどもある砲弾がそうてん装填されます。

と、ここまでは緊迫感漂う映像なのですが、そこで砲手を務めるチャップリン(二等兵として従軍する床屋のチャーリー)が映し出されて、一挙に緊張感が緩みます。チャップリンが現れた瞬間に、リアルな戦場に“ズレ”が生じ、悲惨なことは絶対に起こらないという安心感が走り、何か滑稽なことが起こるのではないかという期待まで高まるのですから、そのシンボリックな効果は絶大です。案の定100Km先の目標まで飛ぶはずの砲弾が、目と鼻の先にしつら設えられた簡易トイレに命中して爆発します。2発目は不発弾で、今度は飛ぶこともなしに長距離砲の先端からこぼ零れ落ちて、そのまま地面に落下します。そこで一番下っ端のチャーリーが、信管を調べるように命じられて、おそ恐るおそ恐る砲弾に近づくのですが、なぜか砲弾がひとりでに回転し、弾頭をチャーリーの方に向けるのです。チャーリーはそれが不気味で、弾頭の向く方向から逃れようと砲弾の周囲を回り始めるのですが、それにつれて砲弾もくるくる回ります。そしてついに煙を上げて火を吹いて、爆発してしまうのです。

笑いは予想と現実のズレによって生じるこっけい滑稽さによってもたらされるのですが、その現実が、こんなことだけは起こって欲しくないという人の嫌がる事態であった場合、それに対処する人の行動は、より一層こっけい滑稽なものに感じられます。最新鋭の長距離砲と予想外に飛ばない砲弾というズレを軽いギャグとして最初に置き、そしてこう成って欲しくないという最悪のズレをその後に持ってきて、滑稽さをこれでもかというほどに際立たせる。しかもその情景を、鍛え抜いた身体性表現(パントマイム)のコミカルさで演技して見せる。さすがに喜劇王チャップリンという他はありません。

ここでひとこと一言補足しておくと、チャーリーはユダヤ人ですが、第1次世界大戦においては、ユダヤ人も対等にトメニア(ドイツ)の国民として戦いに参加していました。後にユダヤ人差別と迫害が生じ、それがこの映画のテーマの1つともなってくるのですが、この事実からも、差別が人為的に歴史の中でつくられてくるものであることがよく分かります。

(2)戦場をちゃか茶化す笑いのテクニック
そこに敵戦闘機が飛来してきたために、砲手チャーリーは高射砲での射撃を命じられます。高射砲というのは、自由に空中の戦闘機に狙いを定めるために、銃身と銃座が一体となって360°どこへでも動く構造になっています。上空の敵機に狙いを定めて迎撃、と思いきや、チャーリーは砲身をうまく操作出来ずに、銃座から振り落とされてしまいます。これは先ほどの砲弾のギャグとは対照的な滑稽さです。そもそも高射砲の場合、銃座が銃身と共にあちこち動きながら狙いを定めるのですから、よく考えるとうまく操れる方が不思議な気がします。振り落とされる方がむしろ自然。そんな誰もが抱く潜在的不安を現実に引き起こして、それを期待どおりの“落ち”として見せてくれるのです。さてその間に、前線が突破され敵が責め込んでくるとのしら報せがもたらされ、チャーリーはまたしても命じられるままに歩兵部隊に加えられます。そしてすでにご紹介した、手榴弾を投げようとして服の中に落とし込んでしまうギャグが登場するのです。現実が予想に反して、死の悲劇と隣合わせになるところにまでズレて、愚かさがきわだ際立つ時に見えるおか可笑しさです。

このようチャップリンは、映画の冒頭からあらゆる笑いのテクニックを駆使して、“戦場”を徹底的にちゃか茶化していきます。そのことによって観客を爆笑のうちにこの映画のストーリーの中に引き込み、同時に戦争のこっけい滑稽さを意識の奥深くに刻み込んでいくのです。

(3)間違った常識をくつがえ覆す視点
さて服の中をズボンにまで落ち込んだ手榴弾を、すんで既の所で取り出して投げ放ち、窮地を脱したチャーリーですが、戦場の兵士は哀れなものです。いのちをも顧みず、ひたすら命じられるままに行動しなければなりません。次はいよいよ突撃です。炸裂する砲弾による深い硝煙の立ち込める中を、敵陣目がけて進んでいくのですが、チャーリーはいつの間にか敵兵の真っただ中にいて、気がつくと敵兵と一緒に行軍しています。この場面では、敵兵も自分も呆気に取られる意外性が生じていて、そのズレがこっけい滑稽さとして笑いをさそ誘います。

こうして敵兵のただなか只中からほ這うほ這うのてい体で逃げ出したチャーリーが出会ったのが、負傷したトメニア空軍将校でパイロットのシュルツ中佐でした。シュルツは戦争の勝敗を左右する重要な書類を携えて飛行機で飛び立ったものの、敵のま真っただなか只中に不時着してしまったようです。そこに味方とはぐれて敵中を逃げ惑うチャーリーが偶然やってきて、あに豈はか図らんやシュルツを救助して、重要書類を運ぶというヒーローの役割を演じることになるのです。

シュルツの指示に従って彼をかつ担いで飛行機の操縦席に乗せたチャーリーは、乞われるままに彼の操縦を助けるべく一緒に乗り込み、迫りくる敵を振り切って飛び立ちます。と、ここまではヒーローシーンなのですが、負傷したシュルツの意識がもうろう朦朧とし、飛行機は天地が逆になって飛び続けます。しかしその状態で飛び続けていると、人間は状況に慣れてしまい、自分がさか逆さまでいることが分からなくなってきます。この場面のこっけい滑稽さもたく卓ばつ抜しており、私たちの常識を根底からくつがえ覆します。太陽が下から照り、鎖付きの懐中時計が上に向かってぶら下がり、水筒の水が下から上に吹き出します。実はこの場面は、この映画の主要テーマであるファシズム批判の伏線になっています。さか逆さ飛行という異常な状況も、それが続くと私たちはだんだん慣れて、その状況に違和感を覚えなくなります。同じようにファシズムの異常な世界も、慣れてくるとその状況が常識になってきます。しかしチャップリンはそんな常識をくつがえ覆して、本来の人間の在り方との相違に気づく視線を、ここで観客に植えつけておこうとするのです。

残念ながらシュルツとチャーリーの乗った飛行機は、燃料切れで墜落してしまいます。それでも九死に一生を得た二人は、なおも重要書類を司令部に届けようとするのですが、救助に来た看護兵から、トメニアが敗戦したことを聞かされます。

3.ファシズム不条理とこっけい滑稽さ
(1)ヒンケル総統の演説
その後映画は、新聞見出しと映像を巧みに用い、瞬く間に1918年以降の世界の動きを示していきます。世界大恐慌が起こり、トメニア国で独裁者アデノイド・ヒンケルが政権を獲得し、独裁体制を確立していきます。もちろんヒットラーのナチス党が政権を確立するまでの実際の歴史を踏まえた描写です。この間チャーリーは、飛行機事故による後遺症で記憶を失い、ずっと病院の中で過ごしていて世の中の変化を知るよし由もありませんでした。

さてヒンケルの政権は、自由と民主主義を、トメニアを敗戦後の混乱に導き、世界を経済恐慌に陥れた元凶として弾圧します。またダブルクロス*の紋章を旗印に、言論を抑圧して、ただヒンケルの言葉だけに人々が従うように求める体制でした。
* ダブルクロスは裏切りを意味します。チャップリンは、人権や人間の尊厳に対する裏切りの意味を、この紋章に込めていると考えられます。
こうして映画では、チャップリンが二役で演じるヒンケル総統の、大群衆を前にした演説へとつながっていきます。この演説は実在のヒットラーのスタイルを忠実にまね真似たもので、そのオーバーな身振り手振りやせんじょうてき煽情的な語り口は、まるでヒットラー本人の演説を聞いているかのような臨場感を与え、そのあまりの迫力に、マイクがおび怯えてのけぞってしまうシーンなども出てきます。そしてこの演説のシーンは、えんえん延々5分間も続くのですが、じつはチャップリンはドイツ語をしゃべっているわけではありません。ただむちゃくちゃ無茶苦茶な言葉を、ヒットラーの話し方に似せて語っているだけなのです。いわば言葉のパントマイムと言っても良いでしょう。ただ断片的に理解できるのは、この演説が英語圏のどこかの国に中継されているようで、ところどころに入る英語への翻訳による解説だけです。それによるとヒンケル総統は、民主主義と自由および言論の自由は下らないもので、世界最強の軍事力を誇るトメニア国家のために、国民は個人の生活を犠牲にせよ、と訴えかけているようです。さらに体制の敵であるユダヤ人問題にも触れ、それにも関わらず自分たちの目的は世界平和であると、ごまかしの理念だけは掲げているようです。

言葉に意味を持たせずに、5分間も演説を聞かせるのですから、チャップリンの演技にはうな唸らせられます。しかしここでのチャップリンの意図は明確です。ヒンケル(ヒットラー)の言葉には意味など無いと映画の観客に訴えているのです。彼の言葉は、理性に訴えて納得を求めるものでも、人間同士が少しでもお互いに良く生きていけるようにコミュニケーションを求めるものでもなく、ただ個を捨てて偉大な全体(国家)に一体化せよという決まり文句を、威圧的に繰り返しているにすぎません。実際に大群衆の喝采と一体となったヒットラーの演説の煽情的なパフォーマンスは、確かに見る者を魅了します。しかしそこから一切の意味性をは剝ぎ取って、ただその動きだけを追ったとしたなら、そこに残るのはこっけい滑稽さ以外の何ものでもありません。こうしてこのシーンを見、またその後のこの映画の展開で、ヒンケル総統のあまりに子供じみて愚かな人物像を知った観客は、その後現実のヒットラーの演説を聞いたとしても、もはや滑稽さが先に立って、かつてのようなとうすい陶酔を覚えることが出来なくなってしまいます。チャップリンはその効果を狙い、実際にそれをこの映画を通じてやってのけたのです。チャップリンの批判精神のめんもく面目やくじょ躍如たるところと言えます。
                             
(2)独裁制の進展
演説の終わったヒンケル総統は、車に乗って官邸に引き上げる前に、子供たちから花束を受け取り、赤ちゃんを抱っこし(赤ちゃんはヒンケルの手にお漏らしをしたようですが)、その様子をカメラで撮らせて民衆にアピールします。こうして独裁者は、女子供に慕われ、弱い者の味方であることを演出していきます。しかしその女子供たちが、ハイル・ヒンケルと叫んで、ハイル・ヒットラー(ヒットラー万歳)を模した直立姿勢で右手を振り上げるナチス式敬礼を行います。沿道では、銅像までが右手を振り上げ、総統に忠誠を誓います。その様子はヒンケルの独裁体制が徹底していることを印象付けると同時に、み観る者の心にこっけい滑稽さを一層募らせます。

車の中では同乗した内務大臣兼宣伝相のガービッチ(ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスを模しています)が、ヒンケルに、演説の中でユダヤ人の問題の取り扱い方が生ぬるいと忠告します。このことからすでに、トメニア国においてはユダヤ人問題が発生し、ユダヤ人を国内の仮想敵に仕立て上げて、ユダヤ人への憎しみを増大させることで国内求心力を高める政策が動き出していたことが分ります。

(3)ユダヤ人の迫害
そしてシーンは、トメニア国内のユダヤ人街に移ります。ユダヤ人街では、ヒンケル配下の突撃隊員たちが、ぼうじゃくぶじん傍若無人の振る舞いを行っています。軍歌を歌いながら行進し、店の窓ガラスを割り、商店から品物を奪い、その品物を運ぶために行きずりのトラックを止めて乗り込みます。ここには人権は無く、当たり前の法律や社会のルールは適用されず、ただ野蛮な力と恐怖だけが支配しています。人々はその暴力の支配におび怯え、されるがままになっていますが、ハンナ(ポーレット・ゴダード、当時のチャップリンの妻)だけはその不正をとが咎めます。突撃隊員たちは、そんなハンナに奪ったトマトを投げつけ、それを避けようとして頭を抱えてうずくまるハンナの姿を見て、大笑いして去っていきます。力の論理だけが支配する社会では、実際には女子供や弱い者がいじめられ、過酷な生活を強いられることが示されています。そしてこれが、ファシズムの実像なのです。

(4)チャーリーの市民感覚とファシズムとのズレ
一方記憶喪失で病院に入院していたチャーリーは、実際には20年に及ぶ年月が経過しようとしていたにも関わらず、彼の中では時間が止まり、ほんの数週間しかた経っていないと思い込んでいました。もちろんヒンケルによる政変があったことも、ファシズム体制が確立していることも知りません。そのチャーリーが意を決して病院を抜け出し、自分の店に帰ってきます。店の鍵を開け、長年この空き家をすみか住処としてきた猫たちが飛び出してくるのをいぶか訝しく思いながら、店の開店の準備を始めます。しかし一面に分厚いほこり埃が積もり、くも蜘蛛の巣が張り巡らされている店内の情景を見て、ぼうぜん茫然としてしまいます。

その時一人の突撃隊員やってきて、チャーリーの店の窓ガラスに“ユダヤ人”とペンキで書き立てます。ヒンケルによるファシズム体制を知らず、その支配に慣らされてこなかったチャーリーは、いわば普通の市民社会から突如やってきたようなもので、当然のことながら、このようなぶじょく侮辱や市民の資産や所有権を害する行為に抗議します。別の突撃隊員を警官と思い、落書きした隊員を捕まえてくれと頼むくだり件は笑えますが、それは不気味な滑稽さです。逆に本来の市民社会のルールから当然の抗議をしようとしたチャーリーの方が、反逆罪で引っ立てられようとしてしまいます。

このようにチャップリンは、人権が蹂躙され、当たり前のことが通らなくなるファシズムの不条理を描いていくですが、それをコミカルなドタバタ喜劇の動きの演出によって後追いすることで、そこにはら孕む滑稽さを観客に植え込んでいきます。チャーリーが突撃隊に捕らえられるようとする様子を見ていたハンナは、窓から身を乗り出して突撃隊員の頭をフライパンで殴ります。間違えてチャーリーも殴ってしまいます。頭を打たれて意識がもうろう朦朧とするチャーリーが、軽快なワルツのリズムにあわせて千鳥足で歩く様が、絶妙なダンスステップとなって笑えます。しかしそうこうする内に騒ぎを聞きつけてやってきた大勢の突撃隊員たちが、抵抗するチャーリーを取り押え、首に縄をかけて、街頭から吊し首にしようとします。いわゆる私刑(リンチ)です。

1940年当時のアメリカでは、未だドイツにおけるユダヤ人迫害の詳細は知られていませんでした。またアメリカにおいても、ユダヤ人を対象にした題材を映画で取り上げることは、タブー視される傾向にありました。それをチャップリンが、初めてユダヤ人問題を正面からテーマとして映画で取り上げて見せたのです。チャップリンは、何よりもユダヤ人への差別と迫害の問題を、市民社会における人権と自由への脅威として、アメリカ人に告発して見せたのです。なお、チャップリン自身はユダヤ人ではありません。チャップリの父は、イギリスに帰化したフランス系ユダヤ人との説もありますが、ユダヤ教におけるユダヤ人の定義は、正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者か、あるいはユダヤ人の・・母親から生まれた者となっているので、仮に父親がユダヤ系であっても、チャップリン自身はユダヤ人にはならないことになります。

さて殺されたかけたチャーリーですが、そこに偶然に突撃隊の隊長に出世したシュルツが自動車で通りかかります。先の大戦でチャーリーが助けたシュルツです。シュルツはチャーリーの当時の勇敢な行動を称えて彼を解き放つように命じ、以降ユダヤ人であっても、チャーリーとその友人には決して手出しをしないように突撃隊の部下たちに命じます。

以上今回はここまでとし、この続きは次回のパンセ通信で紹介していきます。なお次回のパンセ集いは、11月28日月曜日18時から、渋谷区本町の本町シアターで、ホームシアターサークルの活動を行います。お時間許す方はご参加下さい。