■2014年12月14日パンセ通信No.10 - 『クリスマスとお出ましになられた如来様』
皆 様 へ
12月16日の火曜日も、パンセの集いを行います。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
今回は前回に引き続いて、もう1度クリスマスについてのお話から、このプロジェクトのテ-マでもある、いのちの復興について考えていければと思います。
私の通う教会があるビルの片隅に、2体の素朴なお地蔵様がいらっしゃいます。人づてに聞いたところでは、戦争の時に空襲で、すぐ下の隧道に逃げ込んで焼け死んだ人々を弔うために、祀られたものとのことです。
もう何年も私の知る限り、祠(ほこら)は朽ち果て、雑草に覆われ、その存在さえわからぬほどの状態に放置されていました。あまりにお気の毒なので、キリスト者の私が、たまにお水とお供えものを差し上げていました。
それが1か月半ほど前に、不意に宗教おたくである自分が、般若心経とお地蔵様のご真言を唱えられることを思い出し、お唱えを始めました。そうしたらどうしたことでしょう。それから1か月ほどすると、朽ち果てた御堂が取り払われ、お地蔵様が少し姿を現されています。そして丁度お経をお唱えしている時、、建物の前の下水道工事をしていた工事業者さんがやって来て、こう言われるのです。
「えらいすいませんでした。長い間お地蔵さんをほったらかしにしておいて。ビルの大家さんに言われてるんで、ちゃんとしますから」
それから工事の期間中、お地蔵様はあちこち移り動かれたのですが、10日ほど前のこと、ついに立派なコンクリ-トの台座の上に鎮座され、そのお姿を現されたのです。ものすごい存在感と、人を惹き付ける力です。でも人間は鈍いもので、その時はまだ私は、やっとお地蔵様に手をかけて下さる人が現れて、良かったですね、ぐらいにしか思っていませんでした。
それから数日して、一瞬そのお地蔵様のイメ-ジが私に浮かんで、気がついたのです。お地蔵様がこうおっしゃっているのです。
『私は現れたぞ、私はお前の願いを聞き届けるための準備を整えたぞ。後はお前たち次第だぞ』
丁度私は、知人の病やこのプロジェクトのため等、神様に特別の祈祷を行っていました。それで気になって知人の入院する病院に見舞いに行ってみると、丁度同じ頃に夢を見ていて、以来体の調子が少し楽になってきたとのことでした。
ここでへんな奇跡を吹聴する意図は毛頭ありませんが、人間には、目に見えない自然の力や、亡くなった親しい人たち、そして神仏との間での、感応力というものがあります。私たちが、畏敬の念をもってその目に見えないものと応答する時、その目に見えないものの力は高まるのです。そしてその力に支えられて、今度は私たちのいのちの力が高められるという、相乗作用がおこってきます。共に大きく高まりあっていくのですね。
これはとても大切なことで、当初は、私の拙い般若心経とご真言が、お地蔵様を呼び覚まし、また一方で私に、励ましを与えて下さったのかな、などと思っていました。しかしそれは大それたことで、そこでさらに
気づかされたのです。なぜ最近になって、私がお経をお唱えする気になったのか。なぜ大家さんが、長年月放置しておいたお地蔵様を、今になって表にお出しして、ちゃんとお供えしようという気にさせられたのか。
お地蔵様自らが、私たちに働きかけられ、動かれたのです。そして自ら姿を現され、鎮座されたのです。人と人の交流の断たれた、都会の砂漠のようなところで、もう1度人と人とのいのちを紡ぎ直すために、ついにお出ましになられたのです。そう考えて思い起こせば、パワ-のあるお地蔵様でした。誰も気づかぬ草むした祠にお供えものをすると、必ず翌日には無くなっていました。ねすみが食べるのか、野良猫かカラスが食べるのか、あるいはホ-ムレスの方が持って行かれるのか。いずれにせよ、何らかのいのちあるものを惹き付け、お供え物を通じて、そのいのちを支えていらっしゃったのです。
そして今姿を現されたお地蔵様は、ものすごい存在感で、今後道行く人々を惹き付け、思わず手を合わせる人々も増えてくるでしょう。そして改めて気づかされることは、長らく私たちが、お地蔵様を雑草の下に打ち捨ててきたと思っていましたが、しかしよくよく考えてみれば、打ち捨てられていたのはお地蔵様の方ではなく、私たちの方では無かったのかと。それが今、もう捨て置けぬとお地蔵様の方で決意されて、私たちのいのちの励ましのために、立ち現われてきて下さったのではないかと。
そしてこのことは、そのままクリスマスという出来事につながっていきます。クリスマスも、神様の方で決意されて、神様の方からこの世界に、そして私たち1人1人の人生に、現れてきて下さったのです。自分を傷つけ、人を傷つけ、不安と煩いの中に生きてしまう私たちのために、そのいのちを建て直そうと、神様の方から、現れてきて下さったのです。クリスマスというのは、まさにそうしたいのちの力から、自分自身を
もう1度しっかりと顧みる時なのですね。
高野山の案内犬ゴンのプロジェクトも、そうした私たちのいのちを励ますものとして、一歩ずつ進めていければと思っています。今度の火曜日は、そのためにも自分のいのちを見つめる方法について、ご一緒に考えていければと思っています・
お時間許す方は、ご参加ください。
※その後お顔をはっきりと拝見できるようになった仏様を良くみると、お地蔵様ではなく、なんと如来様でした。お地蔵様は菩薩様(地蔵菩薩)で、自らの修行の一環として私たちをお救い下さるお方ですが、如来様は、すでに悟りを得られたお方ですね。如来様を長きにわたり放置していてたとは、そしてそれにも関わらず、私たちの前にお出まし下さったとは、本当に畏れ多いことですね。
皆 様 へ
12月16日の火曜日も、パンセの集いを行います。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
今回は前回に引き続いて、もう1度クリスマスについてのお話から、このプロジェクトのテ-マでもある、いのちの復興について考えていければと思います。
私の通う教会があるビルの片隅に、2体の素朴なお地蔵様がいらっしゃいます。人づてに聞いたところでは、戦争の時に空襲で、すぐ下の隧道に逃げ込んで焼け死んだ人々を弔うために、祀られたものとのことです。
もう何年も私の知る限り、祠(ほこら)は朽ち果て、雑草に覆われ、その存在さえわからぬほどの状態に放置されていました。あまりにお気の毒なので、キリスト者の私が、たまにお水とお供えものを差し上げていました。
それが1か月半ほど前に、不意に宗教おたくである自分が、般若心経とお地蔵様のご真言を唱えられることを思い出し、お唱えを始めました。そうしたらどうしたことでしょう。それから1か月ほどすると、朽ち果てた御堂が取り払われ、お地蔵様が少し姿を現されています。そして丁度お経をお唱えしている時、、建物の前の下水道工事をしていた工事業者さんがやって来て、こう言われるのです。
「えらいすいませんでした。長い間お地蔵さんをほったらかしにしておいて。ビルの大家さんに言われてるんで、ちゃんとしますから」
それから工事の期間中、お地蔵様はあちこち移り動かれたのですが、10日ほど前のこと、ついに立派なコンクリ-トの台座の上に鎮座され、そのお姿を現されたのです。ものすごい存在感と、人を惹き付ける力です。でも人間は鈍いもので、その時はまだ私は、やっとお地蔵様に手をかけて下さる人が現れて、良かったですね、ぐらいにしか思っていませんでした。
それから数日して、一瞬そのお地蔵様のイメ-ジが私に浮かんで、気がついたのです。お地蔵様がこうおっしゃっているのです。
『私は現れたぞ、私はお前の願いを聞き届けるための準備を整えたぞ。後はお前たち次第だぞ』
丁度私は、知人の病やこのプロジェクトのため等、神様に特別の祈祷を行っていました。それで気になって知人の入院する病院に見舞いに行ってみると、丁度同じ頃に夢を見ていて、以来体の調子が少し楽になってきたとのことでした。
ここでへんな奇跡を吹聴する意図は毛頭ありませんが、人間には、目に見えない自然の力や、亡くなった親しい人たち、そして神仏との間での、感応力というものがあります。私たちが、畏敬の念をもってその目に見えないものと応答する時、その目に見えないものの力は高まるのです。そしてその力に支えられて、今度は私たちのいのちの力が高められるという、相乗作用がおこってきます。共に大きく高まりあっていくのですね。
これはとても大切なことで、当初は、私の拙い般若心経とご真言が、お地蔵様を呼び覚まし、また一方で私に、励ましを与えて下さったのかな、などと思っていました。しかしそれは大それたことで、そこでさらに
気づかされたのです。なぜ最近になって、私がお経をお唱えする気になったのか。なぜ大家さんが、長年月放置しておいたお地蔵様を、今になって表にお出しして、ちゃんとお供えしようという気にさせられたのか。
お地蔵様自らが、私たちに働きかけられ、動かれたのです。そして自ら姿を現され、鎮座されたのです。人と人の交流の断たれた、都会の砂漠のようなところで、もう1度人と人とのいのちを紡ぎ直すために、ついにお出ましになられたのです。そう考えて思い起こせば、パワ-のあるお地蔵様でした。誰も気づかぬ草むした祠にお供えものをすると、必ず翌日には無くなっていました。ねすみが食べるのか、野良猫かカラスが食べるのか、あるいはホ-ムレスの方が持って行かれるのか。いずれにせよ、何らかのいのちあるものを惹き付け、お供え物を通じて、そのいのちを支えていらっしゃったのです。
そして今姿を現されたお地蔵様は、ものすごい存在感で、今後道行く人々を惹き付け、思わず手を合わせる人々も増えてくるでしょう。そして改めて気づかされることは、長らく私たちが、お地蔵様を雑草の下に打ち捨ててきたと思っていましたが、しかしよくよく考えてみれば、打ち捨てられていたのはお地蔵様の方ではなく、私たちの方では無かったのかと。それが今、もう捨て置けぬとお地蔵様の方で決意されて、私たちのいのちの励ましのために、立ち現われてきて下さったのではないかと。
そしてこのことは、そのままクリスマスという出来事につながっていきます。クリスマスも、神様の方で決意されて、神様の方からこの世界に、そして私たち1人1人の人生に、現れてきて下さったのです。自分を傷つけ、人を傷つけ、不安と煩いの中に生きてしまう私たちのために、そのいのちを建て直そうと、神様の方から、現れてきて下さったのです。クリスマスというのは、まさにそうしたいのちの力から、自分自身を
もう1度しっかりと顧みる時なのですね。
高野山の案内犬ゴンのプロジェクトも、そうした私たちのいのちを励ますものとして、一歩ずつ進めていければと思っています。今度の火曜日は、そのためにも自分のいのちを見つめる方法について、ご一緒に考えていければと思っています・
お時間許す方は、ご参加ください。
※その後お顔をはっきりと拝見できるようになった仏様を良くみると、お地蔵様ではなく、なんと如来様でした。お地蔵様は菩薩様(地蔵菩薩)で、自らの修行の一環として私たちをお救い下さるお方ですが、如来様は、すでに悟りを得られたお方ですね。如来様を長きにわたり放置していてたとは、そしてそれにも関わらず、私たちの前にお出まし下さったとは、本当に畏れ多いことですね。