■2016.12.24パンセ通信No.116『身体性の欲望から関係性の欲望へー人間の欲望の本質』
皆 様 へ
1.冬至とクリスマス
早いもので今年も押し詰まり、12月25日はクリスマスです。クリスマスというのは、“人生ってこんなに素敵だったんだ”と思い起こして、それまでの生き方の中で溜まってきたおり澱を洗い落す時です。そして新たに自分をリセットして、すがすが清々しさのうちに人生の再出発を行う季節でもあります。もともとは世界共通で行われていた、冬至の祭りに由来します。日本ではこよみ暦が発達して以降は、この冬至の持つ意味合いが、新年と重なり合うようになりました。
冬至は、1年で最も日が短い日です。日中というのは太陽の輝く時間帯で、陽はいのちの象徴です。従って冬至は、いのちの力が最も弱まり、死の力が強まり、私たちを滅びへといざな誘う悪霊たちもやって来る時期となります。そうした悪霊たちに、精一杯のご馳走を提供して供養し、よみ陰府の国に帰って頂く祭りが、世界中で執り行われてきたのです。秋田の「なまはげ」などもそうした祭りですね。しかしその時悪霊たちは、ただ私たちに害を及ぼさずに帰るばかりではありません。私たちの惰性化した暮らしの中で溜まりに溜まった“おり澱”、つまり滅びの種となる老廃物も、取り去って一緒によみ陰府に持ち帰ってくれるのです。いわば滅びを持ち去って滅ぼしてくれるとでも言いましょうか。それ故に私たちは、過去の様々な過ちや煩い(罪)を捨て去って、きれいになって、全く新しくなることが出来るのです。
冬至はまた、この日を境に陽が再び長くなり、いのちの力が増していく時でもあります。そもそも“冬”という言葉の語源は、“増(ふ)ゆ”に由来するという説もあるほどです。つまり冬至は、再生して新しく飛躍し始めることを象徴する日でもあるのです。死とよみがえ甦り - 人間が人生を送っていくにあたって、周期的に欠かすことの出来ない“死と再生”のイベントは、いのちにとって本質的に重要であるが故に、古来より世界中で執り行われてきました。
この“死と再生(飛躍)”の日に、勝手にイエス・キリストの誕生日を重ねて、さも自分たちの記念日のようにしてしまったのがキリスト教です。しかしこの厚かましさとしたたかさは、現代の私たちも学ばねばならない面があります。仏教も、日本人の祖霊崇拝の深層意識を取り込むことによって、死のけが穢れを生者(子孫)を生かすいのち力に変えることに成功し、日本の文化に深く根づきました。
今私たちの国も世界も、多くのおり澱が溜まって、再生と飛躍の祭りが求められているようです。現在実施されている様々な政策は、どれもこれまでの枠組みの延長で、実行すればするほどますますおり澱を増やして積み重ねていくように思われます。それ故に、現在における生き方と社会の仕組みについての“死と再生”の原理を、人間的な求めの原理から考え、またそれを実現する筋道を、キリスト教の厚かましさに見習って、したたかに考えていければと思います。
なお次回のパンセの集いは、12月26日月曜日18時から、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画はイギリスの作家ジェームズ・ヒルトン原作、ピーター・オトゥール主演の『チップス先生さようなら』です。クリスマスにちな因み、“実は人生ってこんなに素敵だったんだ”という思いが味わえればと思います。なお年始のパンセの集いは、1月1日、1月9日の月曜日が祝日にあたっておりますので、1月16日(月)からのスタートとさせて頂きます。
2.人間の欲望の本質
(1)動物の欲望の構造
生物というのは物質とは異なり、必要なものや心地よいもの(快)を求め、危険や不快なものを避ける、目的相関的に活動する存在であることは、前回説明したところです。それでは、人間と他の生物、特に動物とは、その欲望の構造がどのように異なるのでしょうか。まず動物について考えていってみたいと思います。
動物も生物である限り、快なものを求め、不快なものを避けます。必要なものや危険を察知するために、感覚器官が発達し、自分の周囲の環境を捉える意識も存在します。そしてもちろん、意識上で意図したことを試みるための運動器官も備わっています。その上で、食欲とか性欲といった自分の欲望に基づいて行動するのですが、その欲望は、自分の身体から来る生理的な欲望に規定されています。本能と言っても良いかもしれません。そしてその身体の生理的な求めから意識が機能し、対象を捉えたり、判断したりという作用を行っていくのです。そのために動物の欲望というのは、それほど複雑なものではありません。例えばパンダにとってエサは、笹や竹です。従ってパンダにとっての自分のいのちを賄うための欲望は、ストレートに笹や竹に向かいます。また時期が来て雌や雄を見れば、条件反射のように発情します。このように動物の場合には、自分の身体から来る生理的な求めを、周囲の環境世界との間で見出し、その自然環境(世界)の中にある求めの対象と身体欲望は、一対一の相関関係を持ってくるようになります。こうして動物の場合には、“身体”が主人となって、食欲とか性欲といった直接的な欲望が意識を動かすことになります。いわば意識が身体に奉仕し、身体に従属していると言えば良いでしょう。
(2)身体から関係性の欲望へ
これに対して私たち人間の場合はどうでしょうか。もちろん食欲や性欲を始めとした身体的な“快”を求めますが、それによって自分の欲望のすべてが規定されるかというと、そんなことはけっしてありません。それは誰にでもすぐにわ解かることでしょう。むしろ人間にとっては、身体の生理から来る欲望が人間の様々な求めや願いの中で占める領域は、成長するに従って小さくなり、かなり狭く限定的なものとなっていくのです。
人間も赤ちゃんの時は、欲望は、身体の生理機能に由来します。身体があって意識が生まれてくるという基本構造は、人間も動物である以上同じだからです。しかし人間は生育を始めると、このような動物原理からは次第に逸脱していきます。例えば赤ちゃんの場合には、お腹がす空くという身体の生理的な求めから、泣いてミルクをもらいます。つまり身体を快くするために、環境世界から欲望を満たす対象を得るといった、動物と同じような欲望-充足パタンを取ります。しかし成長するにつれて、このように単に身体の求めを満たして、心地良くなって満足するというレベルから離れていくのです。
例えば少し大きくなると、母親を困らせて泣くよりも、泣き止んで困らせない方が、母親が喜ぶことに気がつくようになります。そして母親がほ褒めてくれると、そのほ褒められる関係性・親密性の方が、単なる身体性の欲求を充たす以上にもっと嬉しく、心地よく感じられるようになってくるのです。人間の欲望の本質は、このように身体性の欲望ではなく、関係性の欲望です。誰かから愛されたり、認められたリ、あるいは誰かに役立って感謝されることで、自分の存在意義を感じられるようになることを求めるような、関係性の心地良さを求める欲望がその本質です。逆に言えば、関係性の不快さが何よりも苦しく、それを避けたくなるのです。
つまり動物がその意識の上で生きる世界が、自分の身体の求めと自然環境の対象に基づく“環境世界”であるのに対して、人間がその意識において生きるのは“関係世界”ということになります。こうして他者との関係性に生きるが上に人間は、他者と自分との比較の繰り返しから、意識において自我が発達してきます。そして動物が身体の生理的求めに基づいて欲望を持つのに対し、人間は身体よりも、“自我”の求めが欲望の源泉となってくるのです。自我は当然のことながら、意識の中にあります。それ故に人間は、意識の中にある自我の求めに応じて、身体がその求めを満たすために動くようになるのです。いわば、自我(意識)が欲望の主体で、身体が意識に従属することになるのです。意識が身体の求めに従属して機能する動物とは対照的です。
それではその関係性の欲望、自我の欲望というのは、いったいどういうものなのでしょうか。そのことを具体的に考えていくことから、人間的な生き易さ、人間らしい満足を得られる生き方や社会の仕組みについて、その原理と条件を検討していってみたいと思います。なおこの問題については、来春1月16日以降のパンセ集いで話題としていくことにし、次回の12月26日(月)パンセの集いは、冒頭でご紹介申し上げたとおり、ホームシアターサークルの活動を行います。場所は渋谷区本町ホームシアターで、時間は18時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
1.冬至とクリスマス
早いもので今年も押し詰まり、12月25日はクリスマスです。クリスマスというのは、“人生ってこんなに素敵だったんだ”と思い起こして、それまでの生き方の中で溜まってきたおり澱を洗い落す時です。そして新たに自分をリセットして、すがすが清々しさのうちに人生の再出発を行う季節でもあります。もともとは世界共通で行われていた、冬至の祭りに由来します。日本ではこよみ暦が発達して以降は、この冬至の持つ意味合いが、新年と重なり合うようになりました。
冬至は、1年で最も日が短い日です。日中というのは太陽の輝く時間帯で、陽はいのちの象徴です。従って冬至は、いのちの力が最も弱まり、死の力が強まり、私たちを滅びへといざな誘う悪霊たちもやって来る時期となります。そうした悪霊たちに、精一杯のご馳走を提供して供養し、よみ陰府の国に帰って頂く祭りが、世界中で執り行われてきたのです。秋田の「なまはげ」などもそうした祭りですね。しかしその時悪霊たちは、ただ私たちに害を及ぼさずに帰るばかりではありません。私たちの惰性化した暮らしの中で溜まりに溜まった“おり澱”、つまり滅びの種となる老廃物も、取り去って一緒によみ陰府に持ち帰ってくれるのです。いわば滅びを持ち去って滅ぼしてくれるとでも言いましょうか。それ故に私たちは、過去の様々な過ちや煩い(罪)を捨て去って、きれいになって、全く新しくなることが出来るのです。
冬至はまた、この日を境に陽が再び長くなり、いのちの力が増していく時でもあります。そもそも“冬”という言葉の語源は、“増(ふ)ゆ”に由来するという説もあるほどです。つまり冬至は、再生して新しく飛躍し始めることを象徴する日でもあるのです。死とよみがえ甦り - 人間が人生を送っていくにあたって、周期的に欠かすことの出来ない“死と再生”のイベントは、いのちにとって本質的に重要であるが故に、古来より世界中で執り行われてきました。
この“死と再生(飛躍)”の日に、勝手にイエス・キリストの誕生日を重ねて、さも自分たちの記念日のようにしてしまったのがキリスト教です。しかしこの厚かましさとしたたかさは、現代の私たちも学ばねばならない面があります。仏教も、日本人の祖霊崇拝の深層意識を取り込むことによって、死のけが穢れを生者(子孫)を生かすいのち力に変えることに成功し、日本の文化に深く根づきました。
今私たちの国も世界も、多くのおり澱が溜まって、再生と飛躍の祭りが求められているようです。現在実施されている様々な政策は、どれもこれまでの枠組みの延長で、実行すればするほどますますおり澱を増やして積み重ねていくように思われます。それ故に、現在における生き方と社会の仕組みについての“死と再生”の原理を、人間的な求めの原理から考え、またそれを実現する筋道を、キリスト教の厚かましさに見習って、したたかに考えていければと思います。
なお次回のパンセの集いは、12月26日月曜日18時から、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画はイギリスの作家ジェームズ・ヒルトン原作、ピーター・オトゥール主演の『チップス先生さようなら』です。クリスマスにちな因み、“実は人生ってこんなに素敵だったんだ”という思いが味わえればと思います。なお年始のパンセの集いは、1月1日、1月9日の月曜日が祝日にあたっておりますので、1月16日(月)からのスタートとさせて頂きます。
2.人間の欲望の本質
(1)動物の欲望の構造
生物というのは物質とは異なり、必要なものや心地よいもの(快)を求め、危険や不快なものを避ける、目的相関的に活動する存在であることは、前回説明したところです。それでは、人間と他の生物、特に動物とは、その欲望の構造がどのように異なるのでしょうか。まず動物について考えていってみたいと思います。
動物も生物である限り、快なものを求め、不快なものを避けます。必要なものや危険を察知するために、感覚器官が発達し、自分の周囲の環境を捉える意識も存在します。そしてもちろん、意識上で意図したことを試みるための運動器官も備わっています。その上で、食欲とか性欲といった自分の欲望に基づいて行動するのですが、その欲望は、自分の身体から来る生理的な欲望に規定されています。本能と言っても良いかもしれません。そしてその身体の生理的な求めから意識が機能し、対象を捉えたり、判断したりという作用を行っていくのです。そのために動物の欲望というのは、それほど複雑なものではありません。例えばパンダにとってエサは、笹や竹です。従ってパンダにとっての自分のいのちを賄うための欲望は、ストレートに笹や竹に向かいます。また時期が来て雌や雄を見れば、条件反射のように発情します。このように動物の場合には、自分の身体から来る生理的な求めを、周囲の環境世界との間で見出し、その自然環境(世界)の中にある求めの対象と身体欲望は、一対一の相関関係を持ってくるようになります。こうして動物の場合には、“身体”が主人となって、食欲とか性欲といった直接的な欲望が意識を動かすことになります。いわば意識が身体に奉仕し、身体に従属していると言えば良いでしょう。
(2)身体から関係性の欲望へ
これに対して私たち人間の場合はどうでしょうか。もちろん食欲や性欲を始めとした身体的な“快”を求めますが、それによって自分の欲望のすべてが規定されるかというと、そんなことはけっしてありません。それは誰にでもすぐにわ解かることでしょう。むしろ人間にとっては、身体の生理から来る欲望が人間の様々な求めや願いの中で占める領域は、成長するに従って小さくなり、かなり狭く限定的なものとなっていくのです。
人間も赤ちゃんの時は、欲望は、身体の生理機能に由来します。身体があって意識が生まれてくるという基本構造は、人間も動物である以上同じだからです。しかし人間は生育を始めると、このような動物原理からは次第に逸脱していきます。例えば赤ちゃんの場合には、お腹がす空くという身体の生理的な求めから、泣いてミルクをもらいます。つまり身体を快くするために、環境世界から欲望を満たす対象を得るといった、動物と同じような欲望-充足パタンを取ります。しかし成長するにつれて、このように単に身体の求めを満たして、心地良くなって満足するというレベルから離れていくのです。
例えば少し大きくなると、母親を困らせて泣くよりも、泣き止んで困らせない方が、母親が喜ぶことに気がつくようになります。そして母親がほ褒めてくれると、そのほ褒められる関係性・親密性の方が、単なる身体性の欲求を充たす以上にもっと嬉しく、心地よく感じられるようになってくるのです。人間の欲望の本質は、このように身体性の欲望ではなく、関係性の欲望です。誰かから愛されたり、認められたリ、あるいは誰かに役立って感謝されることで、自分の存在意義を感じられるようになることを求めるような、関係性の心地良さを求める欲望がその本質です。逆に言えば、関係性の不快さが何よりも苦しく、それを避けたくなるのです。
つまり動物がその意識の上で生きる世界が、自分の身体の求めと自然環境の対象に基づく“環境世界”であるのに対して、人間がその意識において生きるのは“関係世界”ということになります。こうして他者との関係性に生きるが上に人間は、他者と自分との比較の繰り返しから、意識において自我が発達してきます。そして動物が身体の生理的求めに基づいて欲望を持つのに対し、人間は身体よりも、“自我”の求めが欲望の源泉となってくるのです。自我は当然のことながら、意識の中にあります。それ故に人間は、意識の中にある自我の求めに応じて、身体がその求めを満たすために動くようになるのです。いわば、自我(意識)が欲望の主体で、身体が意識に従属することになるのです。意識が身体の求めに従属して機能する動物とは対照的です。
それではその関係性の欲望、自我の欲望というのは、いったいどういうものなのでしょうか。そのことを具体的に考えていくことから、人間的な生き易さ、人間らしい満足を得られる生き方や社会の仕組みについて、その原理と条件を検討していってみたいと思います。なおこの問題については、来春1月16日以降のパンセ集いで話題としていくことにし、次回の12月26日(月)パンセの集いは、冒頭でご紹介申し上げたとおり、ホームシアターサークルの活動を行います。場所は渋谷区本町ホームシアターで、時間は18時からです。お時間許す方はご参加下さい。