ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.117『強弱、優劣関係から真善美へ-人間的欲望の内実』

Dec 31 - 2016

■2016.12.31パンセ通信No.117『強弱、優劣関係から真善美へ-人間的欲望の内実』

皆 様 へ

1.解体現象の始まった2016年
2016年もいよいよ年の瀬を迎えることになりました。皆様の今年1年はいかがだったでしょうか。今年1年の世界を振り返ると、シリアの内戦に端を発する難民問題やテロ事件が欧州を揺るがし、6月にはイギリスが国民投票でEU離脱を決め、また11月にはアメリカでトランプ氏が次期大統領に選ばれました。これまで当たり前のように進められてきた、EUによる欧州統合とアメリカ主導によるグローバル経済は、一方で激しい格差の拡大を生み、このゲームでは報われない人たちの数と反発があまりにも増大してきて、ゲームのルールにきし軋みが生じ-始めたような感もいな否めません。新興国においても、資源大国のブラジルで、世界の親善と協調の象徴であるオリンピックがリオ・デ・ジャネイロで開催されたのですが、直前にルセフ大統領が罷免され、経済も失速する中で綱渡りのような運営で開催されました。オリンピックが国威発揚の舞台から、重荷に転換する兆しがかいまみ垣間見られたような気がして、果たして4年後の東京オリンピックは大丈夫かと不安がよぎります。

日本の国内に目を転じると、5月にオバマ大統領が広島を訪問し、伊勢志摩サミットが開かれ、7月に参院選で与党が勝利し、政権基盤をさらに磐石なものとしました。そして憲法改正も、視野に入るようになってきました。12月には安部首相が真珠湾を訪問し、内閣支持率は64%(29日日経調査)に達しています。世界でこれまでの体制の解体現象が進む中で、日本だけは安部首相の強力なリーダーシップと強固な日米同盟に依存して、なんとか大丈夫であって欲しいという切なる願いが人々の間にあるのかもしれません。しかし来年2月以降トランプ政権が始動して以降は、日米関係も新たに見直さねばならない事態が生じてくることでしょう。経済の面でも、2月に日銀がマイナス金利を導入するという必殺技に打って出たのですが、その効果は現れていません。むしろ築地市場の豊洲移転問題やオリンピックの会場建設費で見られたような、政治や行政機構の無責任な管理体制や利権構造、またシャープの鴻海への身売りに見られるような日本企業の劣化など、この国の繁栄の構造にも、確実にほころ綻びが見え始めています。そして今年もまた熊本で地震が起こり、また東北・北海道を中心に台風の被害も甚大で、相変わらず自然災害が続き、復興においても取り残されている人々が生じています。

そんな状況の中での私たちのこの1年。良かった人も悪かった人もいるでしょう。そんな一人一人が手を携えて、新年の生活をつくっていく道を探っていければと思います。なお次回のパンセの集いは、1月2日と9日の月曜日が祝日であるため、1月16日(月)から新年の集いをスタート致します。場所は渋谷区本町のホームシアターで、18時からの開催の予定です。

2.幻想的な関係性の欲望
(1)動物の欲望と人間の欲望の相違
さて前回から引き続いての、人間の欲望の本質についての検討です。生物というのは、必要なものや心地良い(快な)ものを求め、危険や不快なものを避ける存在であって、その欲望に従って、自由な生存活動を行ってます。特に動物の場合には、自分が快と感じて心ひ惹かれるものが、自分の身体の生理的な機能から求めとしてやってきて、周囲の環境世界の中にその具体的な対象を見出します。従って動物の欲望と、その欲望の対象は、ほぼ1体1の対応となっています。つまり自分は本当のところ何がしたいんだろうとか、何になりたいんだろうなどと迷う必要など無いわけです。

ところが人間の場合はそうはいきません。もちろん人間にも、身体の機能に基づいた欲望は、人間の欲望の構造の基底をなすものとして存在しますが、もはやその割合は極めて小さく限定的です。人間の場合の欲望の本質は、前回も申し上げたとおり、身体性の欲望よりも関係性への欲望となって現れてくるものなのです。関係性というのは、もちろん人間関係のことです。誰かから愛されたり、認められたり、感謝されることで自分の存在意義が感じられる時に、あるいは自分も相手を認めて、互いに生かしあう関係となった時、私たちは安らぎや満足を覚え、また生きる意欲と力も沸いてきて、その心地良さこそを身体性の欲望などよりも、もっと強く求めるようになるのです。同じように不快や苦痛も、さげす蔑まれたり、憎しみ合ったりといった人間関係の不快さや苦痛へと、身体性の不快や苦痛から転移していきます。そしてこの快・不快を感じる首座(源泉)となるのが、身体ではなく、“自我”ということになってくるのです。

(2)関係性の欲望の特質
それではこの自我を源泉とする(自我の満足を目的とする)関係性の欲望というのは、いったいどういうもので、どのような性質を持つものなのでしょうか。身体性の欲望の場合には、食欲や性欲など身体の生理的機能に由来(源泉と)する欲望の対象は、身体の本能的な求めとほぼ1対1の対応で決まってきます。その種固有のエサや、生殖対象となる異性などがその具体的な対象となってくるのです。ところが人間的欲望が由来する関係性というのは、固定的なものではなく多様で、どんどん変様していくものです。心地よい友情関係も恋愛関係も、壊れていがみ合うということも起こってきます。逆に敵対しあっていた者と仲良くなったりもします。関係というものが固定的なものでは無い以上、心地良い関係も変化していきますし、自分自身(自我)も変化して、心地よく感じる関係の基準(感受性)も変様してくる可能性があるからです。このように関係性の欲望の第一の特徴は、欲望主体である自我と、他者との関係世界の相互的な変様を基盤とするような、多義的で相関的な関係であるということです。こうした一義的に定まらない多様な相関性のもとで、もはや身体という実態からは離れて構成される関係世界のことを、哲学者の竹田青嗣先生は、“幻想的”と称しておられます。

3.関係性の欲望の対象としての“真・善・美”
(1)きれいーきたいない、よいーわるいの価値形成
それでは、その“幻想的”とも言える関係性の欲望は、どのように形成されてきて、どのような性質を持つものなのでしょうか。まず動物にとっての基本的な個体間の関係は、強い-弱いや優-劣です。サル山のサルの群れを見ても分かるとおり、最も強くリーダーシップにも優れたボス猿を頂点に、整然と序列が出来ていて、その秩序によって群れが運営されていきます(ゴリラやオラウータン等の類人猿になると、関係原理は異なってきますが)。それでは人間の関係原理はどのようなものなのでしょうか。

その最初の原理は、母親との関係から生まれてきます。赤ちゃんは、最初は自分の身体性の欲望に従って、“泣く”という能力を用いて、母親に自分の空腹やおしめが濡れている不快さを伝えます。そして空腹や不快を解消して、満足を得るのです。しかし成長するにつれて、次第に母親はただ子供の身体的な求めを満たすだけでなく、“きれい-きたない”や、“よい-わるい”といったことを子供に教え、しつけを行っていきます。例えばごはんを食べ散らかすと、子供は“きたない”と言って叱られ、残さず食べると“きれい”と言ってほ褒められたりします。また危険なことやいたずらを行えば、“わるい”と言って叱られ、母親の言う事を聞くと“よい”と言ってほ褒められたりするのです。

こうして子供は、母親から次第に何が汚く悪いことで、何がきれいで良いことなのかを学んでいくのです。汚く悪いことは、母親から禁止され、また叱られることなので、不安や恐れ、嫌悪の感情と共に子供に覚えこまれ、身体に刻み込まれて(自我として形成)いきます。そして不快な感情が起こり、きひ忌避すべきものとして意識に上るにようになってくるのです。逆にきれいなことや良いことは、母親に褒められるので、心地よいこと、求めたくなるものとして自我に刻み込まれていくのです。

(2)身体性の欲望の我慢から転じる人間的欲望
ところでこのように、身体性の快ー不快から、関係性の快―不快へと移行するにあたっては、実は子供の意識の中では、革命的な大転換が起こっているのです。例えば身体性の欲望に基づいて、単に母親にあやして欲しくて赤ちゃんが泣いたとします。しかし母親がどうしても忙しくて、手が離せないような時には、かえ却って叱られたりもします。逆に泣き止むと、“良い子だね”と言ってほ褒められるのです。つまりここで赤ちゃんが褒められて、母親との関係性の心地良さを得ていくためには、あやして欲しいという身体性の欲望を一旦“我慢”しなければならないのです。言わば本能を抑えることによって始めて、赤ちゃんは人間らしい文化と文明の基礎となる、関係性の欲望へと踏み出していくことが出来るのです。これは私たちが人間らしく、そして互いに生きやすい暮らしの仕組みをつくっていく時に、けっして忘れてはならない原理です。

またここから、人間にとって“善悪”の本質も考えてみることが出来ます。私たちの人生や社会において、「何が善で何が悪」なのかをきちんと定義して説明することは、案外難しいものです。道徳に合致していれば、いつも善かと言うと、必ずしもそうではありません。人を救う“ウソ”というものもあるからです。また神様が定めるような、絶対的な善悪の基準があるわけでもありません。もちろん誰でも、何となくは“何が善で何が悪か”ということは分かるのですが、逆に誰かが絶対的な善悪の基準を決めて、その基準にあわせて“悪”と判断される人や行為を裁き始めたら、それは危険極まりないことで、私たちは自由を失って生きにく難くてたまらなくなってしまいます。

さて善悪の起源は、このようにh母親との関係性の心地良さがもたらす、“よい-わるい”の区分に由来します。つまり、お互いの関係性が心地よくなるあり方は“よく”、関係性を損ない不快となるあり方は“わるい”と感じられるのです。つまり善悪には、絶対的な基準があるわけでは無く、お互いの関係性が、互いに生かしあって、安心できて心地よいものであるかどうかによって決まってくるものなのです。だからそれは、関係性のあり方によってその都度流動的に変化するものであり、“なんとなく分かる”というような分かり方しか出来ないものでもあるのです。

(3)象徴能力と関係性の快の結びつき
もちろん人間も動物である以上、関係性の原理としては、強い-弱い、優-劣をその下敷きとしています。しかし今述べたように、母親との関係性の快-不快から、自我の中に“きれい-きたない”、“よい-わるい”といった価値序列を形成し、次第に強弱・優劣よりも、きれいなものや良いものに快を見出して求めるようになり、汚いものや悪いものに不快や嫌悪を感じて避けるようになっていくのです。

人間にはさらに、象徴能力というものを発達させています。これはどういうものかというと、人間には意識があるので、まず何かを思い浮かべることが出来ます。その思い浮かべた内容のうち、自分にとって必要なもの(意味あるもの)や役立つもの(価値あるもの)を、何か別のイメージで置き換えて、象徴的にその意味や価値を表すことが出来るのです。この能力のことを象徴能力と言います。言語はその典型的なもので、逆に言語を使うことによって、人間はこの象徴能力を高めてきたと言えるでしょう。ここで関係感情の心地良さから自我に感受化された“きれいーきたない”の区分が、象徴能力と結びついて、あるイメージや形象に具体化することで、「きれい-きたない」ははっきりとした形をとって、また価値の序列としても意識されてくることになるのです。たとえば秩序正しく整っていればいるものほどきれいに見え、乱雑なものほど汚く感じられてくるのです。

こうして人間の欲望の対象は、エサや異性といった身体性の欲望の対象を離れて、“よい”や“きれい”という価値の序列になって現れてくるようになります。この“よい”と“きれい”の相違は、どちらも自我に心地よさを与える関係性の欲望に由来するのですが、“よい”は、言語的に表現される意味的な対象性となって現れるのに対して、“きれい”は、何かのイメージや形象に象徴された、感性的な対象となって現れてくると言えるでしょう。

(4)あこが憧れと結びついて生まれる“美”と“ほんとう”
ここでもう1つ加えなければならないのは、人間には、あこが憧れる力やロマンを感じてそれを求める力もあるということです。これもまた、子供が成長するにつれて次第に身に着けてくる自我の能力の1つです。私たちは、誰もが最初は世界の主人公として生まれてきます。赤ちゃんの頃は、両親や周囲の人たちの愛情の中心にあって、泣けば何でも求めがかな叶えられます。しかし人と人との関係の中で育っていくうちに、私たちの個人的な願いや求めは、何度も他の人の願いや求めとぶつかって、次第に叶えられないことも多くなってきます。つまり挫折することも多くなってくるのです。この挫折の積み重ねで私たちの人生は出来てくると言っても過言では無いでしょう。挫折をすれば必ず誰でも、現実と自分の願いとのギャップから、もっとこうなっていれば良いのに、本当はこうだったら良かったのにと感じます。これが憧れやロマンの起源です。

こうして人間の憧れる力と象徴能力とが結びついて、“きれいーきたない”の形象的な対象のさらにその向こうに、“美-醜(うつくしい-みにくい)”というロマン的な価値序列が生まれてくるのです。そしてまた“善-悪(よい-わるい)”の意味的な欲望の対象と、憧れる力が結びついて、“真-偽(ほんとう-ほんとうでない)”という価値序列も生まれてくるのです。

4.編み変えられる“真・善・美”の価値序列
(1)人間的欲望の対象としての“真・善・美”
このように整理してくると明らかになってくるように、人間の求めは、身体性の欲望から離れて関係性の欲望に移り、その関係性の欲望が生じてくる源泉となる自我が求める対象となるのは、人間がより心地良く生きられるようになるための意味と価値ある人間関係ということになるのです。そしてその人間関係の内実というのが、強弱や優劣よりもむしろ、“真・善・美”ということになってくるのです。正しいこと、義なること、善なる関係にこそ心地よさを覚えて心が惹かれ、美しいものにあこが憧れてロマンを感じ、どこまでも“ほんとう”を求めて生きる時に、私たちは生きる意味と価値を覚え、人生の充実を感じ、人間らしさを実感するのです。そしてこの時、私たちの意欲は高まり、創造性も大きく発揮されることになるのです。逆に不正や不義や悪には怒りや危険を感じ、汚いものや醜いものには嫌悪を覚え、まこと真実の無いことには意欲がな萎えてしまうのです。

(2)人間存在は意味とルールの網の目
この人間の求めの本質的な対象である“真・善・美”というのは、始めは母親、次いで他者との関係性の中で、自己了解と関係了解を繰り返すうちに、次第に自我として形成されてくる感受性です。従ってそれは、おおもと大元のところでは他者との関係性の心地良さに由来しますが、個人によってその感度はそれぞれに異なってきます。また世の中一般において承認される“真・善・美”も、複雑な各人の間での関係性が織りなされる中で、いわば明示的な、あるいは暗黙の便宜的なルールとして定まってくるものです。この各人の自我の感受性と、移ろいやすい世の中のルールとの間で、都度生成されてくるものが“真・善・美”なのであって、それは折々に編みかえられて、一義的に定まるようなものではありません。しかしそうであっても、表面に現れる個々の事象を超えて、そのかなたにおいて私たちによって求められものなのです。それ故に、“幻想的”と称する事が妥当なのです。

さてそれでは、私たち人間の欲望の構造として、ほんとうのこと、正しいこと、美しいものを求めざるを得ない本質のあることを念頭において、その都度の状況において、いったい何が正しく、何が美しく、ほんとうのことであるのかを判断できる根拠はどういうものなのでしょうか。次にそれを探っていってみたいと思います。そしてまた私たちが、どのような自分自身(自我)との関わり方をすれば、より素直に“真・善・美”の欲望を満たして、人間らしく充実して生きていけるかを考えてみたいと思います。その上で、どのようなゲームのルールに基づく社会をつくっていけば、私たちの欲望はより人間らしく育まれて、心地よく、充実して生きていけるのかについて、引き続きパンセ通信で検討していってみたいと思います。

なお次回のパンセ集いは、1月2日と9日の月曜日が休日であるためにをお休みとし、1月16日(月)の18時から行います。場所は渋谷区の本町ホームシアターです。お時間の許す方はご参加下さい。