ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.119『人間の自我の欲望における自己価値の自由の重要性』

Jan 14 - 2017

■2017.1.14パンセ通信No.119『人間の自我の欲望における自己価値の自由の重要性』

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1.人間存在の本質
(1)自己価値を求める欲望
私たち人間は、常に何か自分にとっての可能性へと向かって、欲望する存在です。そしてその欲望の内容が、動物のような身体性の欲望では無く、“自我”に由来する求めとなっているのが、人間存在の本質です。“自我”とは、「自己への欲望」と言い換えても良いでしょう。身体では無い、精神的な存在としての自分自身が充たされたいという欲望です。ですからそれは、結局のところ他の人に愛されたい、認められたい、称賛(褒(ほ)め)されたいといった、他者を求める欲望とも重なってくることになります。人に役立ったり認められたりした時に初めて、自分自身の存在意義が確認できて、充たされた思いになるからです。つまり自己を求める欲望が、他者を求める欲望と、分かちがたく1つに結び合わさってくるのが自我の特質です。それ故に“自我”は、自己と他者とが複雑に絡(から)み合った関係性の網の目、そしてその関係性を律するためのルールの束として形成されてくることになるのです。こうして自我の欲望は、言い換えれば関係性の欲望として育まれてくることになります。

ところでこの自己を求める欲望は、単に他者を求める欲望に甘んじている訳ではありません。他の人に気に入られたいと、他者の目ばかりを気にしていたのでは、自分が無くなってしまうからです。例えば親の期待に沿うように良い子を演じるのはいいのですが、すべてその期待に沿えるものではありません。だいたい学校の成績で、上位を維持できるなんて子供は一握りにしか過ぎません。親がカリスマ経営者であっても、親の言うとおりにやっているのであれば、それは自分の人生では無くなってしまいます。

そこで自己を求める欲望は、ほんとうの自分や、自分にしか出来ない“ほんものの”価値を生み出したいという、自己価値を求める欲望へと昇華していきます。もともと産業文化のあらゆる分野において、巧(たくみ)の技(わざ)を生み出すことを得意とする“ものづくり(あるいは技(わざ)づくり)大国”日本においては、特にこの“ほんもの”を生み出す自己価値への欲望に対して、根強いあこがれがあるのです。

ところが今、この“ほんものの”価値を生み出したい、納得のいく仕事を行って、お客様や世間の人たちに喜んでもらうことを誇りとしたいと思う欲望が、すっかり萎えてしまい、私たちは目先の生活と将来の不安のために汲々(きゅうきゅう)とする状況に陥ってしまっています。これでは私たちの人生にも、国の未来にも希望が抱けず、鬱(うつ)病や不安神経症が蔓延(まんえん)しても不思議ではありません。いったい何故こんなことになってしまったのでしょうか。どうすれば私たちは、もう1度自己価値を求める欲望を取り戻して、人間らしく生き生きと、創造性豊かに暮らしを謳歌していくことが出来るのでしょうか。その原因と対応策を、パンセ通信では考えていってみたいと思います。なお次回のパンセの集いは、1月16日の月曜日18時から、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。

(2)自我の欲望の多様性
さて前回のパンセ通信で申し上げたとおり、私たちが人間的な思いを充たして生きていくためには、その必要条件として、生活保障の欲求と安全確保の欲求が充たされていかなければなりません。その上で他の人から必要とされたり、存在意義を認められたりする欲望を充たして、自分の尊厳を確保する必要に迫られてきます。この他者の承認を勝ち得て自分の尊厳を充たしたいという欲望は、市場経済と資本主義の発達した近現代社会においては、“成功ゲーム”に勝利する欲望に取って代わられることが多くなります。そしてその“成功の基準”は、財貨の富(お金)を増やすことと社会的地位を上昇(権力を得る)させることで量られるようになるのです。なぜならこの2つの欲望が、誰もが求める欲望として認知され、現代社会ではそれが共通了解となっているからです。

しかし先ほども申し上げたように、人の期待に沿う(他者の欲望を欲望する)ことばかりに気を取られていたのでは、自分が無くなって、人のためばかりに生きているような思いになって、疲れ果ててしまいます。あるいはお金持ちになっても出世しても、人の称賛を得るばかりでなくむしろやっかみを生むことの方が多くなり、それが自動的に人間としての幸せに結びつかないことは、誰もが承知しているところです。こうして人間存在の本質である“自我の欲望”は、必然的に“ほんとうの自分”、自己価値を求める欲望へと行きつくことになります。この自分にしか出来ない“ほんもの”の価値を生み出していく欲望は、空しい貪欲(どんよく)とは異なり、どこまでも自分と社会の糧(かて)となる価値を求め、これを創造的に生み出していこうとする欲望です。この欲望を追い求めることが出来る時に、初めて私たちは、ほんとうの自由を味わうことが出来るのです。抑圧からの自由が自由の必要条件とするなら、自己価値を求めることの出来る自由は、自由の十分条件と言うことが出来るでしょう。そしてまたこの自己価値を求めて生きることの出来ることが、人間らしく充たされて(充実して、幸せを感じて)生きるための十分条件でもあるのです。

2.自己価値の自由の重要性
(1)誰にも可能な自己価値の自由
とは言っても自己価値を求め、ほんものの価値を生み出すなど、優れた芸術家や学者、巧みや名人と称されるような職人や芸人にしか出来ないことでは無いのかと言われれば、確かにそのとおりでしょう。誰もが歴史に名を残せるような、あるいは当代随一の仕事や技(わざ)をなせる訳ではありません。しかし農作業であっても、製造現場の作業工程であっても、あるいは日々の営業であっても、接客業であっても、誰もがそれなりに自分自身の魂(自己価値)を込めて、自分なりに納得がいって評価されるような、誇らしい仕事は出来るものです。すでに江戸時代には、日本の庶民はこうした働き方を行い、どんな職業であっても自分の仕事に誇りを持って、それを最近に至るまで続けてきたのです。こうして社会の隅々(すみずみ)において、庶民が自己価値を込めた働き方を行ってきたが故に、現場の品質やサービスの高さが生まれ、ものづくり大国日本を支えることになったのです。

以上述べてきたように、人間的な自我の欲望というのは、生活保障や安全確保の欲望から始まり、他者からの承認への欲望、成功への欲望、そしてほんとうを求める自己価値の欲望に至るまで、様々なものがあります。もちろんおしゃれやショッピングやテレビのバラエティ番組を楽しむなど、俗っぽい欲望もありますし、オバマ大統領のように、広島を訪問して核兵器の廃絶を提唱する一方で、アメリカによる核抑止力優位の政策を推し進めるように、欲望が引き裂かれて葛藤を起こしてしまうような場合さえもあるのです。

このように人間は自我において様々な欲望を抱くのですが、“ほんとう”や“ほんもの”を求める自己価値の欲望が充たされなければ、私たちは人間的に充たされたという思いを抱くことが出来ないことが大切な点です。そしてまた、自分と人類にとっての“ほんとう”をどこまでも無限に求めていこうとする精神の自由が解き放たれなければ、人間は創造的な価値を生み出し続け、経済成長の再起動を果たしていくことも出来なくなるのです。

(2)自己価値の自由に生きる条件
それでは、この自己価値を求める欲望が解き放たれ、誰もが自分にとっての(そして他者にも認められる)“ほんとう”を求めて、社会が安定の裡(うち)に活気づいて、みんなが生き易くまた生き甲斐のある世の中をつくっていくためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。そのためにはまず、私たちが共に自己価値の自由を充たして生きることの出来る社会の仕組みについて、その条件を明らかにしていかなければなりません。そしてまた私たちが自分自身の“自我”と向き合って、様々な自我の欲望を充たして、如何にうまく自分を生きていくことが出来るかについての条件も明らかにすることが必要となってきます。この2つの条件を検討した上で、現状の困難さの原因を整理し、そこから私たちが人間らしく充たされて、また創造性の自由に生きられるようになるプロセスについても考えていってみたいと思います。

それではまず私たちが、自己価値の自由に生きられるようになるための、社会の仕組みの条件から見ていきたいと思います。

3.狩猟採取生活の人々の欲望
(1)狩猟採取社会
人類の文明が始まる以前、まだ人々が農耕や牧畜を知らずに、自然の産物を狩猟採集していた時代の人間の欲望は、生存の欲望や安全の欲望が大きなウエイトを占めていたものと思われます。個体としての身体能力が、他の動物と比べてけっして優れている訳ではない人間は、捕食者というよりも、むしろ肉食獣に狙われて捕食される側の立場にありました。特に育児養育期間の長い人間の子供は、格好の餌食になったものと思われます。そのために人類は、集団で生活を行う知恵を編み出していったのです。いわゆる原始共同体です。仲間と協力して食物を得、危険から身を守っていたのです。

この頃の人類は、食料が不足すると部族同士で争うというよりは、新しい狩猟採集の場を求めて、大地に拡散していったものと思われます。こうして約20万年前にアフリカの大地溝帯のサバンナから移動し始めた私たちの祖先たちは、10万年前にはアフリカを出て中東地域に至り、さらにヨーロッパやアジアに向かって広がって行きました。そして東アジアや東南アジアに至ったのが数万年前、そしてオセアニアやベーリング海峡に当時張りつめていた氷河を渡ってアメリカ大陸へと渡り、およそ1万3千年前には、南アメリカの南端にまで行き着いたものと推測されています。

(2)原始共同体の人々の幸せ
それでは一定の地域をテリトリーとして狩猟採取で生活を営む、原始共同体の人々の欲望というのはどういうものだったのでしょうか。気象の変動や自然環境の変化になす術(すべ)の無い当時の人々は、もちろん先ほど申し上げたように生存と安全の欲望が、意識の中で大きなウエイトを占めていたのは間違いありません。しかし身を守り、いのちを繋(つな)ぐに足るだけの食料を、自然界から安定的に得る術(すべ)が確立してくると、当然のことながら、別の欲望も目覚めてきます。仲間に認められて自分の存在感を確認する求めは、人の数こそが集団の安定とパワーに結びつく原始共同体においては、直接的な関係性のもとで互いが互いを必要とすることが実感できるために、自明のこととして充たされていたことでしょう。

そして自己価値を求める欲望も、次第に開花してくることになります。技巧を凝らした装身具を作ったり、狩りの技(わざ)を磨いたり、宗教儀礼や踊りや音楽に、自分自身の心血を注いだものと思われます。また中には便利さを求めて道具を工夫したり、狩猟用具を改良したりすることに創意を発揮した者もいたはずです。特に日本の豊かな気候風土の中では、新石器時代に入って定住生活を営みながらも、縄文時代の人々は、農耕ではなく自然の生態系を巧みに活用した高度な採取経済を発展させました。こうして縄文時代の人々は、共同体の相互扶助の社会システムの上に、互いの自己価値の追求を展開させあうような、相当に豊かな文化を開花させていったものと考えられます。そしてこの縄文人の心性が、古神道を経て日本人の精神構造の基底をつくる上で、重要な役割を果たすことになっていったのです。

4.狩猟採取から農耕牧畜社会へ
(1)狩猟採取時代における自我の未成熟
こうして狩猟採取の原始共同体に暮らした人々にも芽生えた自己価値への欲望が、人間を自覚的な創造性の発揮へと向かわせ、やがて時代を新石器を道具として用いる農耕牧畜の社会へと押しやることになります。とは言えこの時代の人々の自己価値の欲望は、極めて限定的なものであったことも間違い無いでしょう。やっといのちを繋(つな)げるような生活水準ですし、共同体の規模も小さく、他の共同体と交流する頻度も限られたものであったからです。このように小さく閉ざされた生活世界から展開する意識の範囲では、自己価値の欲望がその可能性をどこまでも求めるものだとしても、その及びうる範囲に自(おの)ずと限りが生じてきてしまうのも仕方の無いことでしょう。

また“自我”そのものも、本来対人関係、社会関係と自分自身を対比して生じてくる自己意識から発達してくるものですから、対人関係が狭くて固定的で、しかも社会の仕組みがシンプルで軋轢(あつれき)の少ないほど、“自我”の発達は未成熟となってきます。またそこから生じる人間的欲望も、複雑に屈折したものでは無いことでしょう。つまり単純でより小さな欲望の充足でも、十分な人間的満足(幸せ)が得られることになってくるのです。実際長年一緒に暮らす家族や夫婦の間では、「あれ」「それ」だけの言葉で会話が成り立ってしまうことがあります。よく見知っていて欲望を共有する部分も多くなるのですから、厳密な論理的な言葉を駆使して、自分の意図を伝える必要が無くなってくるからです。

(2)農耕牧畜社会へ
さてこのように、現代人に比べると未成熟な自我と素朴で素直な欲望を持った狩猟採取社会の人々は、それなりにシンプルな状態で自己価値の欲望を満足させ、人間的な幸せを充たして生きていたものと推察されます。今はもうほとんどいなくなってしまったようですが、まだ文明と接触することの少ない未開社会の人々の暮らしぶりをイメージしてみれば良いでしょう。

ところが人類が高度な新石器を道具として用い初め、狩猟採取から農耕牧畜の定住生活へと移行するに従って、人間の自我も欲望も大きく変化することになります。それは丁度私たちの祖先が、南米の南端まで全地表に行き渡った1万3千年ほど前のことです。農耕牧畜と定住生活は、人間に余剰な作物(財)を蓄積させることを可能としました。それは人間を、飢餓から解放して生存を保障する大きな生活テクノロジー革命でした。ところがそれはまた、人類にとっての大きな不幸と悲惨の出発点でもあったのです。その余剰の作物・財の蓄積を巡(めぐ)って、容赦の無い争奪や侵略の闘争が始まったからです。そのために原始共同体は、より多くの部族や外敵と接触しまた交渉を持つことになり、自我はより多様な要素を組み込んでいくことになります。そしてまた恐怖や憎しみ、あるいは勝利の快感も生まれて、人間の欲望はより複雑化していくことになったのです。

この農耕牧畜経済から、古代文明(古代帝国)、そして封建制社会へと移っていく時代における社会構造の原理と、その社会における人間の自我とその欲望の内実を次に見ていきたいと思います。さらにその時代において抑圧された大多数の庶民の自己価値への欲望が、市場経済の発展と近代市民革命によって如何に解放への道筋がつけられたていったのかを追ってみたいと思います。その上で、そうして一般の人々にも広く解き放たれた自己価値の自由が、資本主義の発達によって、またしても脇に追いやられていく状況を整理していってみたいと思います。

次回のパンセの集いは、1月16日(月)に今年最初の集まりを持つことと致します。時間は18時からで渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。(初めて参加ご希望の方も歓迎です。白鳥までお問い合わせ下さい。)

P.S. パンセ通信は、3~4週間の遅れで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップ致します。必要な方は、バックナンバーと併せて、以下のサイトをご覧下さい。

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