ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.121『農耕社会に始まる悲惨な闘争状態と国家の役割』

Jan 28 - 2017

■2017.1.28パンセ通信No.121『農耕社会に始まる悲惨な闘争状態と国家の役割』

皆 様 へ

1.白人マジョリティーの反乱から本質的な深化へ
(1)トランプ大統領の就任演説
前回のパンセ通信は、トランプ大統領が正式にアメリカ合衆国第45代大統領に就任したのを受けて、トランプ氏の大統領就任演説を中心に、選挙戦で彼が述べてきたことと、大統領就任後の政策方針に変化があったかどうかを中心に検証してみました。結論としては、変化が無かったということでしょう。通常の大統領就任演説では、過去の偉大な大統領の偉業を称え、また先代(オバマ大統領)の業績への配慮も示して、底流として流れるアメリカ合衆国の建国の精神を受け継ぐという決意が述べられるものです。しかしそれがありませんでした。またいかに選挙戦で相手を罵倒したとしても、大統領として1国を統治していくのですから、意見や立場の異なる人々に対しても、共に同じ国をつくっていく者として、全国民の協力と統合を訴えていくものなのですが、それもありませんでした。

トランプ政治の本質は、前回も申し上げたとおり、これまで積み上げてきた政治と経済の仕組みの(幼稚な)破壊です。それは選挙戦での口約の時だけでなく、世界の繁栄の秩序をつくってきたアメリカの大統領に就任してからも、変わりが無かったということでしょう。当たり前の話ですが、近代の市民社会の成立と市場経済・資本主義は、その全てが悪いというのではなく、人類に繁栄と多くの恩恵をもたらしてきた現実があります。つまりにそこには、繁栄と恩恵をもたらす原理(ルール)があったということです。今グローバル化と新自由主義の矛盾が拡大し、様々な困難な問題を生じていますが、当然のことながら、原理とその運用上で生じた問題個所を分離し、問題点を修正しながら、人類を繁栄させる原理(ルール)をさらに生かす努力を行っていくのが、本来の政治というものでしょう。

その点では、今年1月17日に開催されたダボス会議のオープニグ・セレモニーでなされた中国の習近平主席のスピーチは、一国が国際政治や国際経済と向き合う姿勢としては実に見事なものでした。一度以下のサイトで、トランプ大統領の就任演説と習近平主席のスピーチとを見比べて見られると良いでしょう。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170124-00050791-gendaibiz-int&p=1

もっとも習近平主席の場合には、国内政治において、近代市民社会の成功の原理とは異なるルールで国家の発展を模索しているものですから、国内の統治と経済社会の運営面においては、絶えず権力闘争と内部崩壊の危機を抱えることになります。そしてそれを強権で抑え込めるかどうかという、危ういゲームを展開することになるのです。現在周辺諸国に対する中国の覇権主義が問題になっているようですが、実はそんなことよりも、中国とEUの内部崩壊の恐れの方こそが、トランプ政権を誕生させた人々の現状へのいら立ちと併せて、世界にとってのもう1つの大きな危機なのです。
(2)いらだちにまかせた社会のルールの破壊
さて単に近代社会のルールを、小児病的に解体するものでしかないトランプ政権の論理的な行く末が、どのようなものになるかについては前回考察してみました。しかしここで注意しなくてはならないことは、トランプ現象はドナルド・トランプという個人が原因なのでは無く、生活水準も低下し、自分自身の人間的価値を実現する可能性も断たれた、アメリカのマジョリティーであるエリート層ではない白人に渦巻く不満の結果であるということです。イギリスにおけるブリグジット(EU離脱)と同様に、英米のエリート層が率先して推進してきた新自由主義とグローバリズムというルールに、不利益を被るばかりの庶民層が、その政策の本家本元でNoを突き付けたのです。
この状況は19世紀中ごろまでの欧州(特にフランス)であれば、無政府主義的な民衆の反乱や蜂起という事態を招いたことでしょう。当時出発したばかりの民主主義的な政体が、まだ安定していなかったからです。しかし政体が安定してきた現代においては、人々の臨界点を超えた不満が、トランプ大統領という異質なリーダーを選出することによって、まずあらゆるルールを一緒くたにして破壊しようといういらだちとなって現れてきたのです。しかしそのままいらだちにまかせていたのでは、現代社会と経済の基本原理に大きな打撃を与えることになりかねません。あるいはエリート層(特権層)の良識ぶった巻き返しにあって、格差は一層拡大して固定し、誰もが自由に自分の可能性を追求できるという民主主義の原理が損なわれて、社会は停滞し、大部分の人々にとってさらに生き辛いものとなっていくことになりかねないのです。
そこでパンセ通信では、まず私たちを経済的な繁栄と自己価値の可能性の追求の自由へと解き放った近代市民社会の原理について、前々回のパンセ通信No.119に引き続いて検討していってみたいと思います。その上で、現代においてその原理を阻害する要因を洗い出し、それを解消して近代市民社会の経済と政治の原理を、もっと本来的に機能させる道筋を考えていってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は、オーソン・ウェルズ主演・監督の『市民ケーン』です。1941年のアメリカ映画で、世界映画史上ベストワンとも評される映画です。トランプ大統領の誕生にあわせて、富と権力と、そして一人の人物の人間としての生き方について、じっくりと考えてみることが出来ればと思います。併せて食事等も共にしながら、楽しさのうちに一緒に考える人間関係づくりが行っていければと存じます。日時は1月30日の月曜日18時から、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.狩猟採取社会の幸福と限界
(1)狩猟採取生活と人間
さてパンセ通信No.119では、旧石器時代の狩猟採取生活の人間と社会の原理について見てきました。他の動物に比べて、特に個体としての身体能力に優れているわけではない人間は、集団をつくって肉食獣から身を守って安全を確保し、また共同で食料の確保を行ってきました。その集団の大きさというのは、親密に生活と行動を共に出来る規模ですから、だいたい30~40名から大きくても100~120名といったところでしょうか。学校のクラスの人数や、年賀状を送る人の数を思い浮かべれば良いでしょう。だいたい150名程度までが、安定的に関係を維持できる人間関係の数の上限(ダンバー数)だと言われています。
このように親密な人間関係のもとで、互いにいのちを維持しあう共同生活を営む人間の人格は、それなりに満たされたものとなっていきます。まず集団生活によって安全の確保を図り、自然の生態系の循環を活用した狩猟採取によって、ある程度安定的な食糧や生活資材の獲得がなされるようになると、生存の不安も軽減されるようになってきます。また人間特有の他者の承認による自己の存在価値を求める自我意識の欲望も、一人でも欠けたら困るような親密な人間関係の規模にあって、しかも互いに互いを必要としあう関係性のもとでは、先天的に充たされることになるでしょう。こうして自我の欲望に生きる人間が、幸福感や充足感を覚えて生きるための必要条件である、安全、生存、承認の欲望が一定程度充たされて生きることが出来るようになってくるのです。
こうして人間が充たされて生きるための必要条件が整った上で、狩猟採取の原始共同体に生きる人々は、時には酒や煙草に類するものや、覚醒作用のある植物などで嗜好に耽(ふけ)ったり、ブリコラージュ(ありあわせの素材での手作り)でこしらえた装身具でおしゃれを楽しんだりしたことでしょう。またこの当時は、一夫一婦制が社会制度となる根拠もありませんから、比較的自由に性的な欲望も充たしあったことでしょう。このように悦楽を享受する欲望も、あまり制約なく充たす仕組みも共同体には組み込まれていたものと思われます。
さらに優れた装身具や狩猟道具をつくったり、宗教祭事や踊りや音楽に打ち込んで、自己価値の実現にも励むことも出来たものと思われます。このように“文明”社会に生きる私たちの価値観からすれば、“未開”“野蛮”と見える原始共同体の社会は、実はそれなりに構成員のすべてが平等に、人間的な自我の欲望を充たして幸せを感じて生きることの出来る必要条件も十分条件も、仕組みとしては備わった体制だったのです。
(2)発展の原理のない社会構造
しかし自然の生態系循環を活用するといっても、それは一時的に安定した状況においてだけのことで、絶えず変化する気候や環境変化に対してなす術(すべ)は多くありません。従って少し大きな環境変化や経験したことの無い変化に見舞われると、すぐに生存の危機に見舞われることになるのです。残念ながら環境変化への対応力を、持続的あるいは飛躍的に拡大していく原理は、この社会にはありませんでした。
また人間関係が限られた範囲でしかも親密なものですから、他者との相関関係で形成されてくる自我(自己意識)も、シンプルで未成熟なものとなってきます。そのために比較的単純で小さな欲望充足でも、充たされた思いを得ることが可能となりました。この故に、構成員のすべてが自己価値を追求して満足できる仕組みが共同体にあると言っても、この自己価値の発現が、共同体の安全や生存をさらに強固なものへ発展させるまでには至りませんでした。社会的にも個人の自我の面においても、小さく閉ざされて充足する世界ですから、発展の原理が無かったのです。こうして狩猟採取の原始共同体は、それなりに自我の欲望は充たされ、ストレスも感じずに生きていくことが出来る社会なのですが、やっと生存と安全が確保できる程度の生活レベルで、停滞して存続していくことになるのです。
3.発展と悲惨の農耕社会
(1)農耕社会の3つの変化
こうして不安定ながらもどうにか生存を維持し、未成熟ながらみんなが自我の欲望を充たして生きていくことの出来た狩猟採取の時代が何十万年と続いた後、ついに人類は、石器を改良して性能に優れた磨製石器を使用することにより、農耕牧畜という生活テクノロジー革命を開始するに至ります。それは今から1万3千年ほど前のことで、中近東のチグチリス・ユーフラテス川からシリア、パレスチナ、ナイル川のあるエジプトに至る、肥沃な三日月地帯でのことだったと考えられています。丁度私たち人類の直接の祖先であるホモ・サピエンスが、20万年前にアフリカの大地溝帯から移動を始めて、南米パタゴニアの南端にまでいき着いた頃です。もはやこれ以上人類が、地表に行き渡る場所が無くなったのと時を同じくして農耕が始まったのは、不思議な一致だと言えます。そしてこの時から人間の歴史の針が回り始め、私たちは変化の渦の中に投げ込まれるようになったのです。同時に、これまでに味わったことのない苦悩と悲惨が始まることにもなっていきました。
さてそれでは農耕や牧畜が始まると、いったいどういう変化が生じてくるのでしょうか。まず第一のポイントとして、食料の生産が飛躍的に高まり、人々が安定して生存できる可能性が増すことになります。特に穀物の生産については、食料の備蓄が可能となるようになってきます。こうして2つ目のポイントとして、共同体や個人で余剰の食糧資産(財)を蓄えるという状況が生まれてきます。さらに3つ目のポイントとして重要なことは、農耕を始めるには土地が必要であり、その土地に根付いて定住が始まり、それ故に土地の“保有”が始まるという点です。牧畜においても家畜の“保有”が始まり、その家畜を世話して繁殖させ、食料を始め様々な生活資材として活用していくようになっていくのです。
(2)保有から始まる争い
こうして人類は、生産財としての土地や、あるいは富(消費財)として備蓄された余剰農産物や家畜の“保有”という事態に直面するようになっていきます。“保有”は、人類に富と発展の原動力を与えると同時に、この“保有”を巡っての争いを生じさせることになります。例えば気候が安定的で、どの部族共同体も安定的に食料生産が行われている時には、人々の間に争う理由は無いでしょう。しかし災害等によって、ある部族共同体の食糧生産が壊滅的な打撃を受けて、飢餓の危機に瀕(ひん)したとしたなら、この部族は生死を賭けるリスクを犯して戦いを挑み、他の部族共同体の保有する余剰食糧を奪い取ろうとすることでしょう。そこに備蓄された食料があるのですから。
また同じ共同体の内部でも、各個人間での余剰財・備蓄財を巡っての争いが生じてきます。以前ホームシアターサークルで、今村昌平監督の『楢山節考』をテーマに取り上げましたが、あの映画の中で、盗みを働いた一家が根絶やし(皆殺し)にされる場面が出てきます。飢えが生じれば、保有財産(備蓄食料)を巡って、共同体の内部でも奪い合いが生じるのです。また狩猟採取の原始共同体以来の慣習で、部族全体で備蓄して保有する余剰作物があったとしても、その帰属を巡って、争いの種が生じることになるでしょう。
そして蓄財した富ばかりでなく、生産手段である土地の保有についても争いが生じてくることになります。土地は食料と蓄財を生み出す源となるものです。せっかく苦労して開墾した土地があったとしても、それを守る実力が自分に無ければ、他の武力に優れた者に奪われてしまうことになるのです。
4.国家の成立と基本原理
(1)万人の万人に対する闘争
こうして磨製石器という優れた道具を手にし、農耕牧畜という生活テクノロジー革命によって土地や家畜の保有と蓄財を可能とするようになった私たちの祖先は、ほどなくして土地や家畜、備蓄された食料財を巡って、共同体間で、あるいは共同体の内部で、互いに争いあう火種を抱えることになりました。そして一旦飢饉等を原因に略奪のような事態が生じると、人々の間に不信感や不安感は一挙に高まることになり、互いが互いを敵として、保有資産を実力(武力)で守り、また相手が弱かったり隙(すき)があれば、攻撃を加えて奪い取ろうとすることが始まるのです。17世紀のイギリスの政治哲学者トマス・ホッブスは、『リヴァイアサン』という書物の中で、こうした状況のことを「万人の万人に対する闘争」と呼んでいます。そして人間(共同体)は誰でも、自分の生命と財産を守るために、実力(暴力)をもって自分の身を保護しようと(保護する当然の権利・自然権を持っている)するので、私闘が始まることになります。そしてもしそうした私闘を調整する(警察のような)統治権力が無ければ、相互不信のために、不可避的に弱肉強食の普遍的な闘争状態(自然状態)に陥らざるを得なってくると説明したのです。
(2)戦争共同体から覇権国家へ
こうして平和で牧歌的だった狩猟採取時代の原始共同体は、自分たちの資産と生命を守り、時に弱い者と戦ってその資産を奪い取るために、潜在的な戦争共同体へとその性格を変貌させていくことになります。そして共同体の内部では、強力な戦闘集団となるために、優れたリーダーや戦士たちが選び出されるようになるのです。そしてまたこの武力を背景としたリーダー層の実力によって、共同体内部の争いも調整されるようになってくるのです。
やがてより強力な(戦争)共同体が弱小な共同体を制圧して服属させ、ある程度の規模の人口を抱える共同体が成立してくるようになります。この共同体の中では、戦闘共同体としての機能を強化するために、指導者、戦士、武器生産者、そして共同体を精神的に統合するための神官、そして人々の生活を養う農民層などが分離してきて分業を担うようになります。こうして“くに”が誕生してくることになるのです。
さらに小さな“くに”同士が争い、ついには一つの地域で、一つの国家がすべての国々を制覇して覇権を握る事態にまで至ります。この状況は、秦の始皇帝によって統一される以前の春秋戦国時代の中国や、織田信長が覇者となる日本の戦国時代の様子を思い描けば、イメージが分かるでしょう。こうして4,000年ほどの昔に、エジプトやメソポタミア南部のシュメール、そしてインドや中国で、最初の強大な古代国家が誕生することになるのです。そして1つの覇権国家に統一されて初めて、国家内部での争いが治められると共に、国家間での武力闘争も収束することになっていくのです。
(3)国家の本質は生命と安全の保障
このような経緯からも分かるように、国家が成立した本質、あるいは国家に求められる第1の機能は、暴力による普遍闘争を抑制し、一定のルールのもとに生命と生産財および生活財産の安全を保障し、治安と秩序を回復して、人々が安心して生産活動に従事できるようにすることです。それが無ければ誰も国家を必要とせず、国家を承認することも起こらないでしょう。しかしこの普遍闘争状態(自然状態)を終結させるために、国家の中に武力(軍事力)を背景として争いを制御する支配階層を生み、その階層による統治を受け入れることになっていくのです。また農民など生産に従事するする人々は、支配層に隷属する者となり、階層支配構造が成立してくることになるのです。
この覇権国家による階層支配構造の中で、人々の自我の欲望はどう展開し、人間の幸せはどのよう運命を辿ることになるのでしょうか。覇権国家の仕組みとの相互関係の中で、次回のパンセ通信で詳しく見ていきたいと思います。またこうした覇権国家とは別に、どのような理由で民主主義国家が生まれ、そこにはすべての人が隷属することなく、自由に自分の幸せや自己価値の可能性を追求していくことの出来る原理がどう組み込まれてきたのかについても、見ていきたいと思います。その上で私たちの生き方を再検討し、身近な地域社会からどう人と人との関わり方と分業のあり方を組み直して、地方自治を通じて、私たちの社会と経済の仕組みとルールを、もっと互いに生かせて能力を発揮できるものへと変えていけるようになるか、そのプロセスについても考えていってみたいと思います。
次回のパンセの集いは1月30日の月曜日18時からです。渋谷区本町のホームシアターで、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画はオーソン・ウェルズ主演・監督の『市民ケーン』です。楽しく会食しながら、集いの時を持てればと思います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.118まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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