ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.123『何故人間だけが、精神と社会の発展を可能としたのか』

Feb 11 - 2017

■2017.2.11パンセ通信No.123『何故人間だけが、精神と社会の発展を可能としたのか』

皆 様 へ

1.サルの社会と人間との相違
(1)ルール崩壊がもたらす弱肉強食
政治も経済も文化も(そして言語)も、人間の社会というのは見えない(暗黙の)合意で出来ていることを、私たちはけっして忘れてはいけません。その合意(ルール)が崩れた時、私たちの社会は、力の論理が支配する状態へと後戻りするしかありません。ルールが無いのですから、戦って身を守るしか無いからです(普遍闘争)。そこに現れるのは強弱のルールのみで、結局強い者が弱い者を支配する状態になっていきます。

自然界では身体能力がこの強弱を決めます。生態系の頂点をなす動物のうちで、熊のような個体で生息する動物に対しては、弱い動物は食べられて終わりです。同じ(雄)熊同士の場合には、エサの豊富な縄張りや雌を巡って死闘を繰り広げ、弱い者、敗れた者は去っていきます。またサルのような群れをなして生息する動物の場合でも、やはり身体が大きく喧嘩に強い雄が、戦いに勝ち抜いてボスとなり、ボスを頂点として強い者から弱い者へと序列が定まることによって、群れ社会が安定していくのです。

人間の場合も、群れをなして生息する動物ですから、原理はサルと同じです。国家によって社会を統治する力が弱まれば、例えば「殺してはいけない」「傷つけてはいけない」「盗んではいけない」というルールも崩れて、私たちは自分で自分を守らなければならず、弱肉強食の状態が出現します。無法者が跋扈(ばっこ)する開拓時代のアメリカや、国家が四分五裂して各勢力が内戦状態を繰り広げるシリアのような状況です。ただ人間の場合は動物と違って、強弱を決めるのは必ずしも身体能力だけではありません。知恵や勇猛さやリーダシップや財力などが勝敗を左右し、身体に代わる強者の能力となるという相違はありますが、原理は猿の群れと変わりません。

(2)人間だけが持つ発展の原理
それでも、人間とサルとでは大きく異なるところがあります。サルの社会は、強弱の序列で秩序の保たれた群れによって、集団で外敵から身を守り、また集団のメリットを発揮して、自然物をエサとして採取します。それは良いのですが、その状態を何世代も繰り返すのみで、発展の原理がありません。しかし人間は異なります。人間の精神は次第に豊かさを増し、知恵は深まり知識は増大し、また社会の構造は時の経過と共に高度化して発展していきます。つまり発展の原理があり歴史があるのです。このサルには無い発展の原理とはいったいどういうものなのでしょうか。

とりあえず今3つぐらいの基礎要件を取り出すことが出来るかと思われます。1つは人間が、身体の欲望では無い自己意識(自我)の欲望を持つということです。他の動物のような、食欲や性欲などの身体性の欲望であるならば、それを満たせば欲望は終息していきます。しかし人間の欲望は自我の欲望です。自我は自己価値の承認と確認を求めて、どこまでも自由に可能性を求めて飛翔していきます。その意味で自我の欲望は、留まるところを知らない無限に展開する性質を持っているのです。この自我の欲望が、人間を一つ状態に留まらせることなく、どこまでも先へと牽引していくのです。

2つ目はそもそも私たち人間が、個人の意識の面において自己意識(自我)を持っているということです。この自己意識があることによって私たちは、自分との相関で他者や外界を捉え、この比較によって私たちは自己理解・他者理解と外界の認識を深め、自己意識を豊富に高度化させていきます。この自己意識の高度化につれて、人間の自我の欲望の地平も一層拡大していくことになるのです。そして3つ目は、人間の社会はサルの社会と異なり、強弱のルールによる序列構造以外の別のルールを持ち、それによって別の社会統治の構造を持つことが出来るということです。その別のルールと統治の構造が、人間の社会を停滞させることなく発展させていくことを可能としたのです。

(3)発展とはどういう状態か
それではその別の社会ルールと統治の構造というのは、いったいどういうものなのでしょうか。またそもそも発展とはどういう状態への移行のことを言うのでしょうか。先に要点だけ述べれば、人間の自己意識がさらに豊かで配慮に満ちたものになり、自我の欲望がさらに深く自己価値を確認するものとなり、また自己価値の追求が他者を配慮し社会に貢献するものともなって、社会の総体として生産性や生産力が向上して、すべての人の自己価値の追及を後押しする方向に移行するということでしょう。

パンセ通信では、この自己意識と自我の欲望と社会のルールが、相互に絡み合ってドラマチックに進展する人間と人間社会の発展の原理を引き続き解明しながら、現状から私たちが進みゆく道を明らかにしていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、2月13日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。

2.強弱のルールからの脱皮
(1)分業とルールの制定
さて前回までのパンセ通信で、人類が狩猟採取時代から農耕牧畜時代へと移行した時に、農地や家畜(生産手段)の保有、および備蓄食料(富)の争奪を巡って、普遍闘争状態(自然状態)に陥った状況を見てきました。この不信と不安の渦巻く悲惨な闘争状態を生き残るために、素朴な原始共同体は戦争共同体へと変質していきます。そしてさらに戦闘能力を強化するために、共同体内部での分業が進んで“クニ”が成立し、その“クニ”同士が争って、ついにはその地域でただ一つの国家が他の国々を平定する、覇権国家が成立していくに至ります。この覇権が確立するまで、闘争状態は終焉できずに継続していくことも見てきました。

このように述べると、ボスザルを頂点に強弱のルールのみで序列を定めるサルの社会と、人間の社会も大差の無いように見えますが、やはり重要な相違があります。まず人間は“クニ”をつくるにあたって、リーダー(王)、戦士、神官、武具等を製作する技能集団、商人、農民などの分業体制を築くということです。そしてもう1つは、覇者である王(支配者)に対して、自分の自然権(武力でもって自分の身を守る権利)を譲り渡し、実力(武力)を王に集中し、強力な統治権力によって秩序を回復するということです。この統治権力によって人々は、生命の安全と生存の保障(生産手段や家財など最低限生命維持に必要な所有権の保障)を得ることが出来、安心して生産活動に従事することが出来るようになるのです。また身分階層も保障され、社会は大きく安定度増すことになりました。さらに何よりも重要なことは、人々がこの王を頂点とする階層統治の体制を、正当な(正しい、場合によっては神聖にして犯すべからず)統治の体制として承認し、権威が確立するということです。

(2)覇権のルールにより安定度を増す人間社会
ここに強弱のルールを下敷きにしながらも、もう1つ別の覇権のルールが加わってくることになります。強弱のルールを定めるのは力の強さのみです。力関係が変われば、序列はすぐに変化します。しかし覇権のルールの場合には、支配者に権力を譲渡する代わりに、その権力秩序に従う限り、生命の安全と最低限の生存の保障されることが、暗黙の裡(うち)に取り決め(契約)られルールとなります。またこの取り決めが権力に正当性(権威)を与え、権力が国民に対して取り決め(安全と生存)を違えない限り、人々の間に王様(支配者)に従うことは正しく、反抗することは不義であるという観念を植え付け、それもまたルールとなっていくのです。

この強弱のルールに加えた覇権のルールの確立によって、人間の社会はサルの社会に比べてはるかに安定度を増します。また身分階層に分かれた分業を行うことによって、生産に従事する者は生産に専念し、技術や商いに従事する者はそれに専念し、また祭司を含む支配階層の中には、学問や芸術に才を発揮する者も現れてきます。こうしてサルや他の動物が、生存するにあたって強弱のルールしか持たないのに対して、人間は、覇権のルールを始めとして他のルールを加えて社会を形成していくことが出来るようになるのです。これが人間社会に発展の契機を与える、重要な要因となっていくのです。

3.サルとゴリラの大きな相違
(1)ゴリラの持つ共感能力
さて先ほど人間をサルと隔てて、その人格と社会に成長と発展をもたらす契機は、自我の欲望と自己意識の高度化、そして強弱以外の社会ルールが存在することだと説明しました。それでは自我の欲望と自己意識については、どのようにサルや他の動物と異なり、いかに人間の成長と発展に寄与することになったのでしょうか。このことを考えるために、サルと人間との間に存在するゴリラなどの類人猿の特徴について、少し見ておきたいと思います。

京大の総長でゴリラ研究の世界的な第一者である山極壽一さんは、サルと異なるゴリラの特徴について、様々に示唆に富むことを述べておられます。まずゴリラにはサルと違って、他者を思いやる力、つまり共感能力があるということです。これは意識の中に、自己意識が芽生えてきているからでしょう。普通の動物にも意識はありますが、それはあくまでも身体の欲望を感知して、適切な行動を媒介するものでしかありません。例えば空腹を感じる⇒樫の木がある⇒樫の木をゆすってどんぐりの実を落とすといった動作を行う場合、意識は樫の木にエサであるどんぐりの実が生り、ゆすれば実が落ちてきて食べることが出来るという記憶(知恵)を想起させて、熊の生存行動に役立つことがその役割となります。意識はあくまでも身体の欲望に従属し、それに奉仕するのみなのです。

(2)関係性の心地良さを求める欲望
しかし意識の中に、他と区別して存在する自分という意識(自己意識、自我)が芽生えてくると、自分を中心にして他者や世界を認識し、また自分と他者を比べる意識も発達してきます。そして単なる身体由来の欲望だけではなく、この自己意識が心地良さや充たされた思いを抱くことを求める欲望が生起してくるのです。こうしてゴリラの場合には、自分の痛みとのアナロジー(類推)で、他者の痛みや苦しみも分かるという共感能力が芽生えてきます。そして他者と心を通わせたり、悲しみを癒したり、他者が喜ぶことを行うことで、自分も嬉しくなって自我の欲望が充たされるという状況が生じてくるのです。

その自我による関係性の心地良さを求める欲望が芽生える時、強弱の力の原理とは違うモチベーションが生まれてきます。例えばゴリラの家族の場合には、サルと異なり、強い者が当然のごとく弱い者のエサを奪うのではなく、むしろ強い雄は弱い雌や子供たちのためにエサを分け与えます。そして弱い者が喜んだ時、自分も嬉しくなって、そんな嬉しい自己存在をアピールするために、胸を叩いてドラミングを行うのです。ドラミングはけっして自分の強さを主張するための、威嚇行動などでは無いのです。

またサルの場合には、目と目とが合えば必ず闘いになります。そこには強弱の論理しかなく、互いの存在を認識しあうということは、そこで強弱の序列を決することでしかないからです。しかしチンパンジーやゴリラのなどの類人猿の場合は異なります。むしろ相手の目を見て感情を読み取り、共感を高めようとするからです。だから逆に相手が目を見つめてくる時に目を逸(そ)らすと、不機嫌になったりがっかりしてしまったりするのです。

4.自己意識の成長
(1)プライドと自己価値
もちろん人間は類人猿から進化してきた訳ですから、自己意識をさらに発展させ、関係性の快を求める欲望を高めて、他者に共感し、互いに配慮しあう喜びを深めてきました。そしてさらに、他者とは異なる自分ならではの存在価値を求める欲望も、育んできたものと思われます。ゴリラなどにも、自分のプライドを誇示し保つという自己価値の萌芽は見られます。だから何かの原因で雄と雄とが争った場合、必ず雌や子供や弱い者が間に入ってきて、仲裁を行います。弱い者が間に入るのだから、ここは仕方が無いと互いに引き下がり、勝ち負けによる優劣を決するのでは無く、お互いの面子(めんつ)(プライド)を保とうとするのです。

しかし人間の場合には、かつてのアメリカインディアンや未開と呼ばれて狩猟採取に生き続けた人々のように、さらに一層の誇りの高さを重んじるばかりでなく、芸術的な道具作りにまで踏み込んで、自分の魂を込め、他者の称賛を得て、自分の存在価値の満足をも充たそうとしていくのです。

(2)共感性の原理の育み
こうして人類は、類人猿以来何百万年にもわたる長い年月を経てサルから分化し、自己意識と関係性の欲望(自我の欲望)を進化させ、人間の人格の中に強弱のルールとは異なる、関係性の快を求める心性を育んできました。共感し、互いに配慮しあうことを喜ぶ心性です。そしてまた、まだ純朴な形態ながらも自己価値を求める心性をも持つようになってきたのが、農耕牧畜に移行する前の、狩猟採取社会の人々の状況でした。

なお歴史発生的にではなく、個体発生(個人の生育)的にみると、この関係性の快は、子供が母親からしつけ(社会ルールの植え付け)を受ける段階で、母親から褒(ほ)められることによって次第に形成されてくるようになります。強弱の力の論理は、さらに意識の下層にあるより動物的な本能に近いものと言えるでしょう。ところが今人間が、類人猿以来何百万年をかけて培って(進化)きた共感と配慮の心性を打ち捨てて、再び(ゴリラを飛び越えて)サル化する現象が顕著になってきていることを、京大の山極壽一先生は危惧されています。(その原因については、何回か後のパンセ通信で触れようと思います。)

もう1つだけ付け加えておくならば、この共感性の原理から、人間は“遊び”を発達させたということです。遊びはお互いの関係感情の心地良さ、楽しさを損なうことなく、勝ち負け(強弱)の要素を盛り込んでその本能をも満足させるゲームです。そのためにはルールが必要で、参加者全員がそのルールに従わなければ遊びになりません。こうして人間はまた、強弱とは異なるルールを生み出す心的素養を養っていくことになるのです。(もう1つのルール成立の要因は、不安と不信の解消です。これについては次回に触れることに致します。)

(3)人間における言語の役割
さて前段では、類人猿から受け継がれる人間の関係性の快を求める自己意識の変化、自己価値を求める自我の欲望の変化について見てきたのですが、人間は言語を持つことにより、類人猿の段階からさらに自己意識を飛躍的に高度化させていきます。言語は事象を象徴的に捉え、それを概念で表すことを可能とします。ゴリラの場合には、温和で親密な相互関係は、直接的な関係を築ける家族(大家族)関係の中だけに閉ざされます。しかし人間は、言語による象徴的概念思考とコミュケーションの可能性が開かれることによって、1家族を超えて他の家族との親和性・共感性を育む土壌が生まれることになってきます。そこにあまり親しく無い者に対しても、強弱の原理ではない、相互配慮のルールが広がっていく余地が芽生えてくるのです。こうして人間は、群れをつくり、集団をつくり、“クニ”をつくってその大きなまとまりを、強弱のルール以外のルールで統(す)べ治めていく手段を手にしていくことになるのです。

それでは人間が狩猟採取から農耕牧畜の移行するにあたって、その際の争乱とより大きな人間集団へと意識の地平が拡大することによって、人間の自己意識と自我の欲望にどのような変化が生じ、また高度化させていったのかについて、次回において見ていきたいと思います。そしてその関係性の自我欲望との相互関係で、社会のルールがどう変質していったのか、そのダイナミックな相関関係についても明らかにしていきたいと思います。その上で私たちが、現状からどう進んでいったら良いのかについても、考えていければと思います。

次回のパンセの集いは2月13日の月曜日18時からです。渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。

P.S. 現在パンセ通信は、No.122sまで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

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