■2017.2.18パンセ通信No.124『農耕牧畜の普遍闘争が培った自己意識と自我欲望の成長』
皆 様 へ
1.自己意識の欲望と社会統治のルール
人間の社会は、強弱のルール以外に覇権統治のルール、そして近代になって市民社会のルールを持つことによって、社会を高度化させ、発展させることを可能としてきました。ボスザルを頂点とする強弱の序列の原理しか持たないサルの社会が、いつまでも同じ生活状態、社会状態に留まり続けるのと大きな相違です。特に市民社会の原理は、あらゆる人々が自分の自己価値を自由に発揮できる可能性を解き放ち、市場経済や資本主義を含む様々なルールが生み出されて、持続的に経済成長の出来る原理を生み出し、人間の精神と社会を加速度的に飛躍させました。
この発展を牽引したのが、人間特有の意識形態である自己意識と自我の欲望(関係性の欲望)です。現在私たちの社会は、富と名声(成功)を求める苛烈な資本主義ゲームに自己価値の発揮を一元化されて、多数の人々が格差や貧困の不安や生き甲斐を奪われる状況に陥り、しばし方向性を見失った感があります。しかしこの停滞を一時的なものとして、新たな飛躍の可能性を見出していくために、もう1度私たちの内面的な求めと、それを生かすための社会ゲームのルールの在り方について、基本的なところから整理し直していってみたいと思います。
次回のパンセの集いにおける勉強会は、2月20日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。なお2月27日(月)の定例会は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の『エデンの東』です。
2.関係性の欲望と言語-サル、類人猿、人間
(1)強弱の原理から共感の原理へ
さてパンセ通信No.121においては、狩猟採取社会における人間の意識構造について考えてみました。今回はこの意識構造が、農耕牧畜社会に移行するにつれて、どのように変化するのかを原理的なところから推察してみたいと思います。
自分自身の身の安全を図り、生存のためのエサを確保する欲望は、すべの生物に共通したものです。人類の場合には、群れで生活することによって、この安全と生存の可能性を高めてきました。こうした群れを統率する原理が、サルの場合にはボスザルを頂点する強弱の序列です。しかし自己意識が分化し、関係性の欲望(自我の欲望)が芽生え、共感能力を育むようになった類人猿の場合には、互いに配慮しあい、親密さの心地良さを充たしあう求めも強まってきます。こうして類人猿の群れの場合には、強弱の原理を基底としつつも、その上に関係性の快を求める原理が、群れを統率する原理として生まれてきます。この原理の構造は、旧石器時代、狩猟採取を生業(なりわい)とした私たち人類の祖先の群れにおいても継承されました。
(2)類人猿と人間を分ける言語の使用
ただ人間と類人猿とでは、言語の発達において大きな差が生じてきます。言語は、事象を象徴的に捉え、それを概念で表すことを可能にします。ところで生物は、自分の欲望に従って世界を分節して(食べ物か食べ物でないか、危険か安全か、環境が快適か不快か等)認識することによって生きています。人間は言語を用いることにより、すでに先人たちが世界を分節してきた方法に従って、自我と対峙して世界を捉えることが出来るようになりました。例えば“りんご”という言葉によって、「赤くて丸くておいしい果物」というだけではなくて、「産地はどこで、価格は幾らぐらいで、どこに売っているのか」など様々な情報が括(くく)りだされて意識に浮かんできます。場合によっては「白雪姫と毒りんご」などのように、魅惑と破滅の象徴のようなイメージさえ浮かんでくるのです。
つまり言語を用いるということは、すでにその時点で私たちは、先人たちが長い年月をかけて培ってきた、有効に自分たちの必要を充たす分節の仕方でもって世界を捉えているのです。その意味で言語は、人類がこれまでに豊かに増し加えてきた知恵の集積の体系であり、またこれからもさらにその知恵を必要に応じて変様させ、また積み増していくことの出来る枠組みなのです。
(3)言語の果たす役割
言語の役割はそれだけではありません。もし私たちが、ゴリラのように家族をベースとした小さな群れだけで生活を続けるのなら、恐らく言語は必要なかったでしょう。お互い同士を思いやる共感能力と、様々な鳴き声や身振り手振りだけでも、十分に意思は伝わったはずだからです。しかし同じねぐらで四六時中生活を共にしていない人間との間では、以心伝心という訳にもいかなくなります。ましてや顔見知り程度の間柄や、少し離れた所に住んでいる人間との間でコミュニケーションを取ろうとすると、どうしても言葉のような象徴的な記号の使用が必要となってくるのです。
こうして人間は言語を用いることにより、先人の知恵の集積である言葉という枠組みを通じて世界を捉えられるようになり、またより広範な人々とコミュニケーションが取れるようになったのです。逆に言えば、世界を自分たちの必要に応じてもっと効率よく分節して認識し、また自分たちの集団をより拡大して安全と生存の可能性を高めていくために、人間は言語を発達させたのです。この言語の使用との相関関係において、人間は類人猿と道を分かち、社会構造を発展させて家族を超えて部族単位で生活が出来るようになり、また意識の構造も発展させて、自己意識(自我)をさらに明確なものへと成長させていったのです。
3.温和で未成熟な狩猟採取の人々の意識構造
(1)安全、生存、承認の欲望の充足
こうして複数の家族がまとまって、共同して生活出来るようになった狩猟採取社会の人々の意識構造は、どのようなものだったのでしょうか。まず意識の基底には、安全と生存の欲望が、本能的な部分として存在することは間違いの無いことでしょう。人間の生存状況が悪化したり、大きな不安や不信に襲われた時などは、この本能的な欲望の作動が強くなり、人間は自分の身の安全と生存を確保するために、弱肉強食の闘争を繰り広げる可能性が高まります。
しかし集団生活によって安全の確保を図り、自然の生態系の循環を活用した狩猟採取によって、ある程度安定的な食糧や生活資材の確保がなされるようになると、生存の不安も軽減されて、関係性の心地良さを求める欲望が強まってきます。家族や顔見知りの人間関係の中で、親密に心を通わせ、支えあう関係を喜ぶのです。また自己意識(自我)が発達してくることから、自己価値を求める欲望も芽生えてきます。自己価値(自己の存在価値)を確認する求めの最初の段階は、他者からの承認です。他の人に自分の存在の価値を認めてもらうということです。この欲望は、小さな部族単位で生活する狩猟採取社会の人々においては、自ずと充たされることになったでしょう。一人でも欠けたら困るような、互いが互いを必要とする規模の人間関係だったからです。こうして狩猟採取の原始共同体に生きた人々は、人間が幸福感や充足感を覚えて生きていけるための必要条件である、安全、生存、承認の欲望をそれなりに充たして暮らしていくことが出来たのです。
(2)自己価値と悦楽の欲望の充足
さらに自己価値を求める自我の欲望は、自分の存在価値が他者から認められることに満足して留まるものではなく、自分ならではの創造性を発揮することへとも向かいます。優れた装身具や狩猟道具を作ったり、宗教儀礼や踊りや音楽など自分の心の燃えるものに打ち込んで、自分の魂を込めた芸術的な創造価値を表現、体現することにも、大きな満足と喜びを感じていたことでしょう。更に狩りを終えて今日1日に十分な食料を確保した後は、煙草や酒に類するものや、覚醒作用のある植物などで嗜好に耽(ふけ)り、また性的な欲望も比較的自由に充たしあったことでしょう。
このように狩猟採取の小さな部族社会に生きる人々は、人間が幸福や充足感を覚えて生きていけるための十分条件である、創造的な自己価値の体現や悦楽や享楽の欲望も未成熟なままに充たして、それなりに大きなストレスを感じることなく、温和に幸せに生きていたものと推察されます。しかしパンセ通信No.121で述べたとおり、この時代の社会は、自然の気候や環境変化に対してきわめて脆弱(ぜいじゃく)なもので、生存の危機に見舞われることも少なく無かったことと思われます。また人間関係も限られた範囲で親密なものですから、他者との相関関係で形成されてくる自己意識(自我)も、シンプルで未成熟なものだったでしょう。それ故に人々の自己価値を求める欲望も単純で、比較的小さな欲望充足で充たされた思いに至ったものと思われます。このために狩猟採取の原始共同体では、どうにか安全と生存が安定的に確保できるレベルでも、人々はストレス無く充たされた思いを得ることが出来、大きく社会が発展していく要素は乏しかったのです。
4.農耕牧畜社会における自己意識の3つの変様
(1)不安と不信の渦巻く普遍闘争状態
さて以上のような比較的未成熟な構造を持った狩猟採取の原始共同体に生きた人々の自己意識が、農耕牧畜社会に移行するにあたって、どのように変質していったのかについて、次に見ていきたいと思います。農耕牧畜社会が始まった後の社会構造の変化については、パンセ通信No.122で説明致しました。まず穀物栽培を中心に食料の生産が飛躍的に高まったことにより、食料を備蓄して保有(富)することが可能となります。そしてまた一定の土地に定住して農耕に勤(いそ)しむのですから、生産手段である土地や家畜の保有という事態も生じてくることになります。
この備蓄食料(富)や富を生み出す農地や家畜の保有(占有)を巡って、やがて人々の間で苛烈な争いが生じてくることになるのです。初めは局地的な気候変動等により、飢饉(ききん)に見舞われた部族が、食料を備蓄する比較的弱い部族を襲うことから、この闘争は始まったものと思われます。何せ1回略奪を行えば、汗水たらして働かなくとも、例えば1年分の食糧が手に入るのですから、中にはそれに味を占めて、略奪をなりわいとする部族も生まれてきたことでしょう。そしてこの略奪は、備蓄食料に留まることなく、富を生み出す生産手段である農地や家畜や農具、そしてさらには人間そのものをも服属させて、自分たちの支配のもとに食料や道具などの生産に従事させるまでに及んだものと思われます。
このように一旦略奪が始まると、人々の心の中に不安と不信感が渦巻き、部族間で、あるいは部族の中でも人間同士が争いあう、弱肉強食の普遍闘争状態が生じてきます。こうして素朴で平和だった原始共同体は、戦争共同体へと変貌し、やがて一人の人物が勝ち残って支配権を確立して国家を生み出すか、さらには国家同士の争いに勝ち残った一国が、その地域で覇権を確立するまで、血で血を洗う闘争は継続していくのです。
(2)自己意識の拡大と高度化
ではこの農耕牧畜社会に入って、弱肉強食の普遍闘争状態に入った後での、人間の(自己)意識の構造はどのように変質していったのでしょうか。それについては3つの大きな変化のあったことが想定されます。まず1つ目は、戦いを通じた他の部族との接触です。狩猟採取の原始共同体社会では、複数の家族が集まった部族単位で、一定のエリアをテリトリーとして生活し、それほど他の部族と多く接触する機会はありませんでした。それが備蓄食料などの富を巡(めぐ)っての争奪戦が始まると、戦いを通じて他の部族と接触したり、その存在を意識する機会が頻繁に増えてきます。場合によっては、他の部族と連携を組むようなことも生じてきたことでしょう。さらには征服したりされたりで、支配被支配の関係も生じてくることになります。
先ほど(3(2))人間の自己意識は、他者との相関関係で自分を比較し、自分を意識する度合いに応じて形成されてくると述べました。もしそうなら、自分と関わる他の人間の数が増える分だけ、自己意識は複雑化していくことになります。また、まだ顔を見たことも無い敵や、征服が起こった後には、日常的には接することの少ない支配階層や、服属した部族も意識されるようになってきます。こうして意識の範囲は次第に拡大し、さらには親しく生活を共にする人間関係の範囲、直接的に見知る関係の範囲、直接的には見知らぬが自分たちの生活に影響を及ぼす範囲へと、重層的に構造化されていくことになります。
このように単純で素朴であった原始共同体の人々の意識は、その領野が拡大し、また重層的に高度化していくことが、普遍闘争状態に入った農耕牧畜社会の人々の自己意識の特徴であり成長です。この自己意識の領野の拡大と高度化が、次に社会分業と覇権統治社会の身分階層構造の成立を準備することになります。直接的・密接な関係性を持たない抽象的な人間関係を意識できるからこそ、目に見えない人々との分業による社会的共同生産が可能になり、また自分の日常生活を超えた所に王や支配者がいて、国家という幻想的まとまりの中に自分が生きているということを、意識できるようになるのです。こうして自己意識の構造の高度化は、一部族を超えた社会的分業生産と国家の成立を準備し、人間が社会と国家を形成し、分業による生産の拡大と生存の安全と安定を高める要因となっていくのです。
(3)憧(あこが)れとロマンの感情の誕生
普遍闘争が人間の自己意識にもたらした2つ目の変化は、自我(自己意識)の感情と欲望の分化が進み、一層複雑化、高度化していくということです。狩猟採取の原始共同体に生きた人々の欲望は、比較的単純で、小さな欲望充足でも充たされた思いを得ることが出来るものでした。そしてストレスも少なく温和なものだったと想定されるのですが、普遍闘争が始まるとそうはいきません。まずいつ敵に襲われるのかという不安と不信の念が高まるようになってきます。また実際に危害を加えられたなら、敵に対する怒りや恨みや報復の念が強まって心を占めるようになってきます。
ましてや闘争の勝敗が決した場合には、もちろん勝者は勝利の歓喜と陶酔に酔いしれるでしょうが、敗者は絶望と恐れと悲嘆に暮れることになります。現代の経済と出世の資本主義のゲームも同様ですが、いつの時代にあっても社会ゲームの勝者は一握りで、敗者が圧倒的大多数です。こうして普遍闘争状態において、まず大多数の人々は、悲しみや失意などのマイナスの感情を自己意識に形成することになるのです。
しかし挫折によるマイナスの感情は、その反動として、人間に憧(あこが)れの念を抱かせる揺籃(ようらん)ともなります。「もし負けなかったら、自分たちはこんな生活をせずに済んだのに。」「本当はもっと平和に暮らしたかったのに。」「人間は戦いあうのではなく、共に力を合わせて暮らしていくことは出来ないのか。」などといった思いです。すでに自己価値の萌芽を形づくっていた人間は、苦難の状況におかれることによって、「本当はこうありたかった、こうであれば良かったのに」という自分を生かすための憧(あこが)れの念を抱くようになります。そしてこの憧(あこが)れから、本当はこうあるべきでは無いのかという正しさの観念が生まれ、本当に大切なものは何かという真実を求める思いが生まれ、また自分なりの尊さを求めるロマンが生まれ、そして希望が生まれてくるのです。
憧(あこが)れとロマンを求める自我の欲望は、どこまでも果てしがなく、人間がただ存在するのではなく、自分として生きて自己価値を求めて生きていくための原動力となります。そしてこの果てない思いが、人間に創造性の発揮と工夫の喜びを与え、イノベーションを引き起こして、人間と社会を発展させていく原動力となっていくのです。
(4)不安の相互了解によるルールの設定
さて普遍闘争が人間の自己意識にもたらす3つ目の影響は、弱肉強食における強弱のルール以外のルールを設定し、そのルールや取り決めを順守しようとする意識の誕生です。先ほど述べたように、普遍闘争状態に陥るに至って、人間の意識は不安や不信を強く覚えるようになりました。人間は関係性の世界で生きる内に自己意識を形成し、この自己意識によって他者の状況を自分の経験に投影することで、共感しその気持ちや考えを了解する能力を発展させてきました。こうして敵対したり警戒しあったりする部族間でも、お互いに抱きあう不安感や不信の念を了解しあう素地が生まれてくるのです。
この“不安”を相互了解することにより、強弱以外の別の関係性の秩序をつくる可能性が生じてきます。もちろん2つの部族の間で圧倒的な力の差がある場合には、強弱以外のルールは成立しないでしょう。しかし力が均衡して、互いが不安を持ち合うところでは、お互いが生き残るための“ルール”の成立が可能になります。なぜなら強弱の雌雄を決するために死力を尽くして戦うことになれば、お互いの損害は計り知れないものとなるからです。そのために私たちの祖先は、お互いの不安と不信を抑え、弱肉強食の原則を少しでも緩和するために、様々な取り決め(約束、契約)や工夫を行うようになりました。
その最初の取り決めは、恐らく“縄張り”の設定です。お互いに相手の領域に入らないという暗黙の約束です。次に工夫したのが“贈与”です。お互いに贈り物をすることで、敵意の無いことを示し合います。そして交易、さらに婚姻関係(女性の交換)の締結により、親族としての絆を結ぶということです。日本の戦国時代においても、戦国大名間で政略的に婚姻関係が取り結ばれ、合従連衡が繰り広げられました。現在においても、貿易の進展による経済の一体化と、人々の往来の自由による人間関係の交流の深まりは、国家間の決定的な対立を困難にしています。
こうしてやっとつくり上げた共存のための約束・取り決めを、守ることは“良く”、破ることは“悪い”という、強弱とは別の、人間にしかない“善悪”のルールを形成していくことになるのです。前回のパンセ通信で、人間は共感性の原理から、“遊び”を通じても楽しさをベースとしたルールをつくりだす素養のあることを指摘しましたが、不安を相互了解することによって生み出される約束とそれを守るルールは、もっと切実で本質的なものなのです。
5.新しい社会ゲームを生み出す能力の醸成
以上のように普遍闘争状態に陥った人間の自己意識は、接する人間の範囲が拡大することにより、意識の領野と階層次元を高度化させることになります。また自己意識の欲望も、挫折と悲嘆を通じてあこがれやロマンが生まれて複雑化し、小さな欲望の充足では充たされない果てしない希望を求める素地が生まれてきます。そして不安の相互了解から、原始的な強弱の関係ではない、善悪のルールを持つに至ります。こうして人間の自己意識は、やがて自分たちの生存といのち(自己価値)を活かす求めを実現するために、次々と新しい社会ゲームとそのルールを生み出す能力を手にすることになるのです。
こうして農耕牧畜社会に移行後の普遍闘争状況において、飛躍・高度化した人間の自己意識は、闘争を終焉させた覇権統治体制のもとでいったいどのようになるのか。その自己意識と社会体制の相関関係を解析し、如何に次の市民社会のルールを準備していったのかを次に見ていきたいと思います。
次回のパンセの集いは、2月20日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。なお2月27日(月)の定例会は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の『エデンの東』です。
P.S. 現在パンセ通信は、No.122まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
皆 様 へ
1.自己意識の欲望と社会統治のルール
人間の社会は、強弱のルール以外に覇権統治のルール、そして近代になって市民社会のルールを持つことによって、社会を高度化させ、発展させることを可能としてきました。ボスザルを頂点とする強弱の序列の原理しか持たないサルの社会が、いつまでも同じ生活状態、社会状態に留まり続けるのと大きな相違です。特に市民社会の原理は、あらゆる人々が自分の自己価値を自由に発揮できる可能性を解き放ち、市場経済や資本主義を含む様々なルールが生み出されて、持続的に経済成長の出来る原理を生み出し、人間の精神と社会を加速度的に飛躍させました。
この発展を牽引したのが、人間特有の意識形態である自己意識と自我の欲望(関係性の欲望)です。現在私たちの社会は、富と名声(成功)を求める苛烈な資本主義ゲームに自己価値の発揮を一元化されて、多数の人々が格差や貧困の不安や生き甲斐を奪われる状況に陥り、しばし方向性を見失った感があります。しかしこの停滞を一時的なものとして、新たな飛躍の可能性を見出していくために、もう1度私たちの内面的な求めと、それを生かすための社会ゲームのルールの在り方について、基本的なところから整理し直していってみたいと思います。
次回のパンセの集いにおける勉強会は、2月20日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。なお2月27日(月)の定例会は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の『エデンの東』です。
2.関係性の欲望と言語-サル、類人猿、人間
(1)強弱の原理から共感の原理へ
さてパンセ通信No.121においては、狩猟採取社会における人間の意識構造について考えてみました。今回はこの意識構造が、農耕牧畜社会に移行するにつれて、どのように変化するのかを原理的なところから推察してみたいと思います。
自分自身の身の安全を図り、生存のためのエサを確保する欲望は、すべの生物に共通したものです。人類の場合には、群れで生活することによって、この安全と生存の可能性を高めてきました。こうした群れを統率する原理が、サルの場合にはボスザルを頂点する強弱の序列です。しかし自己意識が分化し、関係性の欲望(自我の欲望)が芽生え、共感能力を育むようになった類人猿の場合には、互いに配慮しあい、親密さの心地良さを充たしあう求めも強まってきます。こうして類人猿の群れの場合には、強弱の原理を基底としつつも、その上に関係性の快を求める原理が、群れを統率する原理として生まれてきます。この原理の構造は、旧石器時代、狩猟採取を生業(なりわい)とした私たち人類の祖先の群れにおいても継承されました。
(2)類人猿と人間を分ける言語の使用
ただ人間と類人猿とでは、言語の発達において大きな差が生じてきます。言語は、事象を象徴的に捉え、それを概念で表すことを可能にします。ところで生物は、自分の欲望に従って世界を分節して(食べ物か食べ物でないか、危険か安全か、環境が快適か不快か等)認識することによって生きています。人間は言語を用いることにより、すでに先人たちが世界を分節してきた方法に従って、自我と対峙して世界を捉えることが出来るようになりました。例えば“りんご”という言葉によって、「赤くて丸くておいしい果物」というだけではなくて、「産地はどこで、価格は幾らぐらいで、どこに売っているのか」など様々な情報が括(くく)りだされて意識に浮かんできます。場合によっては「白雪姫と毒りんご」などのように、魅惑と破滅の象徴のようなイメージさえ浮かんでくるのです。
つまり言語を用いるということは、すでにその時点で私たちは、先人たちが長い年月をかけて培ってきた、有効に自分たちの必要を充たす分節の仕方でもって世界を捉えているのです。その意味で言語は、人類がこれまでに豊かに増し加えてきた知恵の集積の体系であり、またこれからもさらにその知恵を必要に応じて変様させ、また積み増していくことの出来る枠組みなのです。
(3)言語の果たす役割
言語の役割はそれだけではありません。もし私たちが、ゴリラのように家族をベースとした小さな群れだけで生活を続けるのなら、恐らく言語は必要なかったでしょう。お互い同士を思いやる共感能力と、様々な鳴き声や身振り手振りだけでも、十分に意思は伝わったはずだからです。しかし同じねぐらで四六時中生活を共にしていない人間との間では、以心伝心という訳にもいかなくなります。ましてや顔見知り程度の間柄や、少し離れた所に住んでいる人間との間でコミュニケーションを取ろうとすると、どうしても言葉のような象徴的な記号の使用が必要となってくるのです。
こうして人間は言語を用いることにより、先人の知恵の集積である言葉という枠組みを通じて世界を捉えられるようになり、またより広範な人々とコミュニケーションが取れるようになったのです。逆に言えば、世界を自分たちの必要に応じてもっと効率よく分節して認識し、また自分たちの集団をより拡大して安全と生存の可能性を高めていくために、人間は言語を発達させたのです。この言語の使用との相関関係において、人間は類人猿と道を分かち、社会構造を発展させて家族を超えて部族単位で生活が出来るようになり、また意識の構造も発展させて、自己意識(自我)をさらに明確なものへと成長させていったのです。
3.温和で未成熟な狩猟採取の人々の意識構造
(1)安全、生存、承認の欲望の充足
こうして複数の家族がまとまって、共同して生活出来るようになった狩猟採取社会の人々の意識構造は、どのようなものだったのでしょうか。まず意識の基底には、安全と生存の欲望が、本能的な部分として存在することは間違いの無いことでしょう。人間の生存状況が悪化したり、大きな不安や不信に襲われた時などは、この本能的な欲望の作動が強くなり、人間は自分の身の安全と生存を確保するために、弱肉強食の闘争を繰り広げる可能性が高まります。
しかし集団生活によって安全の確保を図り、自然の生態系の循環を活用した狩猟採取によって、ある程度安定的な食糧や生活資材の確保がなされるようになると、生存の不安も軽減されて、関係性の心地良さを求める欲望が強まってきます。家族や顔見知りの人間関係の中で、親密に心を通わせ、支えあう関係を喜ぶのです。また自己意識(自我)が発達してくることから、自己価値を求める欲望も芽生えてきます。自己価値(自己の存在価値)を確認する求めの最初の段階は、他者からの承認です。他の人に自分の存在の価値を認めてもらうということです。この欲望は、小さな部族単位で生活する狩猟採取社会の人々においては、自ずと充たされることになったでしょう。一人でも欠けたら困るような、互いが互いを必要とする規模の人間関係だったからです。こうして狩猟採取の原始共同体に生きた人々は、人間が幸福感や充足感を覚えて生きていけるための必要条件である、安全、生存、承認の欲望をそれなりに充たして暮らしていくことが出来たのです。
(2)自己価値と悦楽の欲望の充足
さらに自己価値を求める自我の欲望は、自分の存在価値が他者から認められることに満足して留まるものではなく、自分ならではの創造性を発揮することへとも向かいます。優れた装身具や狩猟道具を作ったり、宗教儀礼や踊りや音楽など自分の心の燃えるものに打ち込んで、自分の魂を込めた芸術的な創造価値を表現、体現することにも、大きな満足と喜びを感じていたことでしょう。更に狩りを終えて今日1日に十分な食料を確保した後は、煙草や酒に類するものや、覚醒作用のある植物などで嗜好に耽(ふけ)り、また性的な欲望も比較的自由に充たしあったことでしょう。
このように狩猟採取の小さな部族社会に生きる人々は、人間が幸福や充足感を覚えて生きていけるための十分条件である、創造的な自己価値の体現や悦楽や享楽の欲望も未成熟なままに充たして、それなりに大きなストレスを感じることなく、温和に幸せに生きていたものと推察されます。しかしパンセ通信No.121で述べたとおり、この時代の社会は、自然の気候や環境変化に対してきわめて脆弱(ぜいじゃく)なもので、生存の危機に見舞われることも少なく無かったことと思われます。また人間関係も限られた範囲で親密なものですから、他者との相関関係で形成されてくる自己意識(自我)も、シンプルで未成熟なものだったでしょう。それ故に人々の自己価値を求める欲望も単純で、比較的小さな欲望充足で充たされた思いに至ったものと思われます。このために狩猟採取の原始共同体では、どうにか安全と生存が安定的に確保できるレベルでも、人々はストレス無く充たされた思いを得ることが出来、大きく社会が発展していく要素は乏しかったのです。
4.農耕牧畜社会における自己意識の3つの変様
(1)不安と不信の渦巻く普遍闘争状態
さて以上のような比較的未成熟な構造を持った狩猟採取の原始共同体に生きた人々の自己意識が、農耕牧畜社会に移行するにあたって、どのように変質していったのかについて、次に見ていきたいと思います。農耕牧畜社会が始まった後の社会構造の変化については、パンセ通信No.122で説明致しました。まず穀物栽培を中心に食料の生産が飛躍的に高まったことにより、食料を備蓄して保有(富)することが可能となります。そしてまた一定の土地に定住して農耕に勤(いそ)しむのですから、生産手段である土地や家畜の保有という事態も生じてくることになります。
この備蓄食料(富)や富を生み出す農地や家畜の保有(占有)を巡って、やがて人々の間で苛烈な争いが生じてくることになるのです。初めは局地的な気候変動等により、飢饉(ききん)に見舞われた部族が、食料を備蓄する比較的弱い部族を襲うことから、この闘争は始まったものと思われます。何せ1回略奪を行えば、汗水たらして働かなくとも、例えば1年分の食糧が手に入るのですから、中にはそれに味を占めて、略奪をなりわいとする部族も生まれてきたことでしょう。そしてこの略奪は、備蓄食料に留まることなく、富を生み出す生産手段である農地や家畜や農具、そしてさらには人間そのものをも服属させて、自分たちの支配のもとに食料や道具などの生産に従事させるまでに及んだものと思われます。
このように一旦略奪が始まると、人々の心の中に不安と不信感が渦巻き、部族間で、あるいは部族の中でも人間同士が争いあう、弱肉強食の普遍闘争状態が生じてきます。こうして素朴で平和だった原始共同体は、戦争共同体へと変貌し、やがて一人の人物が勝ち残って支配権を確立して国家を生み出すか、さらには国家同士の争いに勝ち残った一国が、その地域で覇権を確立するまで、血で血を洗う闘争は継続していくのです。
(2)自己意識の拡大と高度化
ではこの農耕牧畜社会に入って、弱肉強食の普遍闘争状態に入った後での、人間の(自己)意識の構造はどのように変質していったのでしょうか。それについては3つの大きな変化のあったことが想定されます。まず1つ目は、戦いを通じた他の部族との接触です。狩猟採取の原始共同体社会では、複数の家族が集まった部族単位で、一定のエリアをテリトリーとして生活し、それほど他の部族と多く接触する機会はありませんでした。それが備蓄食料などの富を巡(めぐ)っての争奪戦が始まると、戦いを通じて他の部族と接触したり、その存在を意識する機会が頻繁に増えてきます。場合によっては、他の部族と連携を組むようなことも生じてきたことでしょう。さらには征服したりされたりで、支配被支配の関係も生じてくることになります。
先ほど(3(2))人間の自己意識は、他者との相関関係で自分を比較し、自分を意識する度合いに応じて形成されてくると述べました。もしそうなら、自分と関わる他の人間の数が増える分だけ、自己意識は複雑化していくことになります。また、まだ顔を見たことも無い敵や、征服が起こった後には、日常的には接することの少ない支配階層や、服属した部族も意識されるようになってきます。こうして意識の範囲は次第に拡大し、さらには親しく生活を共にする人間関係の範囲、直接的に見知る関係の範囲、直接的には見知らぬが自分たちの生活に影響を及ぼす範囲へと、重層的に構造化されていくことになります。
このように単純で素朴であった原始共同体の人々の意識は、その領野が拡大し、また重層的に高度化していくことが、普遍闘争状態に入った農耕牧畜社会の人々の自己意識の特徴であり成長です。この自己意識の領野の拡大と高度化が、次に社会分業と覇権統治社会の身分階層構造の成立を準備することになります。直接的・密接な関係性を持たない抽象的な人間関係を意識できるからこそ、目に見えない人々との分業による社会的共同生産が可能になり、また自分の日常生活を超えた所に王や支配者がいて、国家という幻想的まとまりの中に自分が生きているということを、意識できるようになるのです。こうして自己意識の構造の高度化は、一部族を超えた社会的分業生産と国家の成立を準備し、人間が社会と国家を形成し、分業による生産の拡大と生存の安全と安定を高める要因となっていくのです。
(3)憧(あこが)れとロマンの感情の誕生
普遍闘争が人間の自己意識にもたらした2つ目の変化は、自我(自己意識)の感情と欲望の分化が進み、一層複雑化、高度化していくということです。狩猟採取の原始共同体に生きた人々の欲望は、比較的単純で、小さな欲望充足でも充たされた思いを得ることが出来るものでした。そしてストレスも少なく温和なものだったと想定されるのですが、普遍闘争が始まるとそうはいきません。まずいつ敵に襲われるのかという不安と不信の念が高まるようになってきます。また実際に危害を加えられたなら、敵に対する怒りや恨みや報復の念が強まって心を占めるようになってきます。
ましてや闘争の勝敗が決した場合には、もちろん勝者は勝利の歓喜と陶酔に酔いしれるでしょうが、敗者は絶望と恐れと悲嘆に暮れることになります。現代の経済と出世の資本主義のゲームも同様ですが、いつの時代にあっても社会ゲームの勝者は一握りで、敗者が圧倒的大多数です。こうして普遍闘争状態において、まず大多数の人々は、悲しみや失意などのマイナスの感情を自己意識に形成することになるのです。
しかし挫折によるマイナスの感情は、その反動として、人間に憧(あこが)れの念を抱かせる揺籃(ようらん)ともなります。「もし負けなかったら、自分たちはこんな生活をせずに済んだのに。」「本当はもっと平和に暮らしたかったのに。」「人間は戦いあうのではなく、共に力を合わせて暮らしていくことは出来ないのか。」などといった思いです。すでに自己価値の萌芽を形づくっていた人間は、苦難の状況におかれることによって、「本当はこうありたかった、こうであれば良かったのに」という自分を生かすための憧(あこが)れの念を抱くようになります。そしてこの憧(あこが)れから、本当はこうあるべきでは無いのかという正しさの観念が生まれ、本当に大切なものは何かという真実を求める思いが生まれ、また自分なりの尊さを求めるロマンが生まれ、そして希望が生まれてくるのです。
憧(あこが)れとロマンを求める自我の欲望は、どこまでも果てしがなく、人間がただ存在するのではなく、自分として生きて自己価値を求めて生きていくための原動力となります。そしてこの果てない思いが、人間に創造性の発揮と工夫の喜びを与え、イノベーションを引き起こして、人間と社会を発展させていく原動力となっていくのです。
(4)不安の相互了解によるルールの設定
さて普遍闘争が人間の自己意識にもたらす3つ目の影響は、弱肉強食における強弱のルール以外のルールを設定し、そのルールや取り決めを順守しようとする意識の誕生です。先ほど述べたように、普遍闘争状態に陥るに至って、人間の意識は不安や不信を強く覚えるようになりました。人間は関係性の世界で生きる内に自己意識を形成し、この自己意識によって他者の状況を自分の経験に投影することで、共感しその気持ちや考えを了解する能力を発展させてきました。こうして敵対したり警戒しあったりする部族間でも、お互いに抱きあう不安感や不信の念を了解しあう素地が生まれてくるのです。
この“不安”を相互了解することにより、強弱以外の別の関係性の秩序をつくる可能性が生じてきます。もちろん2つの部族の間で圧倒的な力の差がある場合には、強弱以外のルールは成立しないでしょう。しかし力が均衡して、互いが不安を持ち合うところでは、お互いが生き残るための“ルール”の成立が可能になります。なぜなら強弱の雌雄を決するために死力を尽くして戦うことになれば、お互いの損害は計り知れないものとなるからです。そのために私たちの祖先は、お互いの不安と不信を抑え、弱肉強食の原則を少しでも緩和するために、様々な取り決め(約束、契約)や工夫を行うようになりました。
その最初の取り決めは、恐らく“縄張り”の設定です。お互いに相手の領域に入らないという暗黙の約束です。次に工夫したのが“贈与”です。お互いに贈り物をすることで、敵意の無いことを示し合います。そして交易、さらに婚姻関係(女性の交換)の締結により、親族としての絆を結ぶということです。日本の戦国時代においても、戦国大名間で政略的に婚姻関係が取り結ばれ、合従連衡が繰り広げられました。現在においても、貿易の進展による経済の一体化と、人々の往来の自由による人間関係の交流の深まりは、国家間の決定的な対立を困難にしています。
こうしてやっとつくり上げた共存のための約束・取り決めを、守ることは“良く”、破ることは“悪い”という、強弱とは別の、人間にしかない“善悪”のルールを形成していくことになるのです。前回のパンセ通信で、人間は共感性の原理から、“遊び”を通じても楽しさをベースとしたルールをつくりだす素養のあることを指摘しましたが、不安を相互了解することによって生み出される約束とそれを守るルールは、もっと切実で本質的なものなのです。
5.新しい社会ゲームを生み出す能力の醸成
以上のように普遍闘争状態に陥った人間の自己意識は、接する人間の範囲が拡大することにより、意識の領野と階層次元を高度化させることになります。また自己意識の欲望も、挫折と悲嘆を通じてあこがれやロマンが生まれて複雑化し、小さな欲望の充足では充たされない果てしない希望を求める素地が生まれてきます。そして不安の相互了解から、原始的な強弱の関係ではない、善悪のルールを持つに至ります。こうして人間の自己意識は、やがて自分たちの生存といのち(自己価値)を活かす求めを実現するために、次々と新しい社会ゲームとそのルールを生み出す能力を手にすることになるのです。
こうして農耕牧畜社会に移行後の普遍闘争状況において、飛躍・高度化した人間の自己意識は、闘争を終焉させた覇権統治体制のもとでいったいどのようになるのか。その自己意識と社会体制の相関関係を解析し、如何に次の市民社会のルールを準備していったのかを次に見ていきたいと思います。
次回のパンセの集いは、2月20日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。なお2月27日(月)の定例会は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の『エデンの東』です。
P.S. 現在パンセ通信は、No.122まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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