■2017.2.25パンセ通信No.125『創造性と発展を生む自己価値の求めの成長と社会ルール』
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1.金正男氏の殺害(暗殺)と覇権統治ゲーム
北朝鮮の最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄金正男氏が、マレーシアの首都クアラルンプールの空港で殺害されました。北朝鮮の機関による暗殺なのか、それとも北朝鮮に罪を着せようとする何らかの勢力の企(たくら)みによるものなのか。確たる証拠はありませんが、一つ考慮に入れておかなければならないことは、北朝鮮のような国家における統治のルールにおいては、権力への脅威になる人物の暗殺や排除は、ゲームのルールとして組み込まれているということです。
前回までに、農耕牧畜社会に移行した時期までの人間の意識と社会構造の説明を行い、人間は社会ゲームとそのルールを生み出す能力を手にし、また国家を統治する原理として、覇権(はけん)統治のルールのあることをお話し致しました。覇権統治というのは、誰か一人の人物に権力を集中させることにより、国家の統合と安定を図る統治のシステムのことです。こうした国家においては、権力の中枢において、苛烈な権力ゲームが必然的に展開されます。現在NHKのEテレで、数奇な運命を辿(たど)った16世紀のスコットランド女王メアリ-・スチューアトの物語が放映(「クィーン・メアリー、愛と欲望の王宮」原題Reign)されていて、当時のフランス宮廷での権力に翻弄される人々の内情が赤裸々に描かれていますが、近代直前までの各国の王宮においては、こうした権謀術数渦巻く権力ゲームが行使され、暗殺はそのゲームの重要なルールの1つでした。
現在でもこうした覇権統治システムを採る国は、北朝鮮を筆頭にロシアや中国など少なくありません。こうした国々おいては、特に権力の移行期などには、容赦のない権力闘争と粛清が行われます。それはそうしたルールに基づくゲームであるから、必然的に生じる事態なのです。一方私たちは日本において、金正男氏の殺害(暗殺)を、興味を煽(あお)るマスコミ報道に、まるでサスペンスドラマでも見るかのように好奇心を刺激されて、固唾(かたず)を飲んで事態の推移を眺めています。これはいったい、どういうルールのゲームなのでしょうか。
いずれにせよこのパンセ通信では、私たちがこれまでどういうルールで生活し、どんなゲームを展開してきたのか。今はどうなのか。そしてこれからどんなルールのもとに、どんなゲームを選択していけば良いのかについて考えていってみたいと思います。
次回のパンセの集いは、2月27日の月曜日18時からです。月末ですので、ホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は1955年のアメリカ映画『エデンの東』、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の作品です。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.自己意識の成長と欲望の高度化
(1)普遍闘争による自己意識の成長
前回は農耕牧畜社会に移行して、備蓄食料(富)や農地など生産手段の保有(占有)を巡って普遍闘争状態が生じるに伴い、人間の自己意識がどのように変様していったのかについて見ていきました。人間の意識は、主に3つの面において高度化、複雑化して成長していくものと思われます。1つは戦いを通じて、接したり意識したりする部族の数が拡大し、また支配被支配の関係も生まれてくることから生じてくる変化です。この関係性の拡大によって、人間の自己意識の領野は拡大し、また直接的には交渉を持たない人間や部族との、抽象的な関係性をも意識出来るようになってきます。
2つ目の意識の変化は、自我の欲望の高度化です。一握りの勝者を除いて、多くの者が敗者となる中で、人々は挫折と悲嘆を味わうことになります。この挫折と悲嘆の悔しさから、「本当はこうありたかった」という、明確には言語化は出来ないけれども、心を強く惹かれる憧(あこが)れやロマンが立ち現れてきます。この憧(あこが)れやロマンが、人間の自己価値を求める欲望を強め、どこまでも広がるものとしていくのです。
そして3つ目は、強弱以外にお互いの関係性を律する、ルールの観念の誕生と自己意識への内在化です。普遍闘争によって、いつ命が奪われるかも分からず、資産も自分だけで守らなければならない不安と不信の渦巻く状況にあって、共存のためのルールを設定して、それを守ることで不安を和(やわ)らげることを求める意識の発達です。
(2)自己価値を求める欲望の重要性
この3つの意識の中で特に重要なのは、憧(あこが)れやロマン、夢や望みを抱く思いの強まりです。これまでのパンセ通信で、人間の欲望は身体の欲望ではなく、関係性の快を求める欲望、自己意識(自我)の欲望であることを説明してきました。空腹や性欲などのような身体由来の欲望は、それを充たせば充足します。しかしそのような欲望に留まること無く、関係性の快を求める欲望は、他者に受け入れられ、自分の価値を認められ、互いに心を通わせることに心地良さを感じてそれを求める、人間ならではの欲望のことです。
もちろん空腹を充たす(生計を賄う)生存や、危害を加えられない安全などの身体由来の欲望が、人間の欲望の基底をなしていることには変わりがありません。しかしマズローが欲求五段階説で指摘するように、人間の欲望が階層構造をなしていることは間違いの無いことでしょう。自己意識における関係性の欲望に生きる人間にとって、生活の安全や生計の不安が無く暮らせること、またその上で家族や仲間や職場などで(自分の存在が)受け入れられて生きることは、私たちが充たされて幸せを感じて生きるための必要条件となります。しかし人間は、そうした欲望の上に更に、嗜好や享楽の欲望、ストレスを解消して憩いの内にリフレッシュを求める欲望等が生じてきます。そして最も高次の欲望として、自己価値を充たす欲望が育まれてくるのです。享楽や自己価値を求める欲望は、人間が幸せを感じて生きるための十分条件と言えるでしょう。
3.憧れとロマンを育む社会システム
(1)自己価値は他者貢献を内包
自己価値を求める欲望というのは、自分らしい生き方や自分にとって本当に大切なものを、自由に求めて実現したいと思う欲望です。関係性の心地良さを求める人間の自我(自己意識)の欲望は、当初は他の人に受け入れられたり愛されたり、認められて称賛されることに充足感を覚えます。しかし他者に受け入れられて承認されることばかりを求めて生きていたのでは、自分が無くなってしまいます。関係性の欲望は、物理的な身体では無い自己意識が求める欲望であって、自己意識は、他者との比較のもとで他者とは異なる自分というものを区別して捉える自己了解の意識です。従って自己意識は、他者との関係性の快を求めると同時に、他の人には無い自分ならでは価値をも必然的に求めるようになってくるのです。
自己価値といっても、それは単なる身勝手や独善ではありません。あくまでも他者から承認される欲望をベースとして、その上に育まれる欲望です。だから自己価値というのは、自分の感受性が惹きつけられて止まないもの、そして自分にしか出来ない自分らしさの凝縮した生き方や仕事や作品や表現として結実するものなのですけど、やはりその卓越性や独自性・独創性が、同時に他者の生活や求め(ニーズ)に役立ち、他者からの共感や賛同や称賛を得るもので無ければ意味が無いという要素を含んでいるのです。
もちろん自己価値の追求には、世間の人々から評価されず、場合によっては非難されても一人貫くといった場合もあります。しかしその場合にも、自己意識において私たちは、自分が求め実現しようと思っているものは、(今は認められなくても)実は人間にとって本当に大切なことで、必ず社会にとって役に立つ、あるいは次の世代の人々のためになるという、普遍的人類や将来世代の人々の承認を得ることが出来るという思いに、無意識の内にも支えられているのです。もし他者の評価を意識しない、全くの独り善(よ)がりに基づく自己価値の追求ということがあったとすれば、それは自分を評価しない世間を恨むルサンチマンに基づく独善か、他者と自分という関係性の意識の領野が希薄になった、統合失調症的症状を示す人ということになり、決して人間として健常でスタンダードな状況では無いのです。
(2)憧れとロマンが培う自己価値への求め
この自己価値を求める欲望というのは、狩猟採取の時代においては、人間の意識の中ではまだ萌芽的なものにしか過ぎませんでした。限られた小さな部族の中での親密な人間関係の中では、複雑多様な人間関係に乏しく、他者との比較のもとでの自己了解が深まる素地が限られていたからです。また関係性の快さを求める欲望も、一人でも欠けたら困る小さな共同体の中では、自分の存在は必要不可欠で、その存在価値を疑う必要もありませんでした。その意味で狩猟採取社会での人々の暮らしは、それなりに受け入れあって充たされたもので、小さな欲望充足でも十分に満足を覚えることが出来たものであったと思われます。
ところが農業牧畜社会に移行して始まった普遍闘争によって、挫折と悲嘆の中から人々の他者了解、世界了解の領野と抽象的関係性の理解が広がり、それに呼応して自己理解の内容も深まってくることになります。そして(戦いに敗れて)屈辱を味わう惨(みじ)めさと悔しさから、「本当はこうしたかったのに」という憧れとロマンの素地となる思いが生まれてきます。この憧れとロマンへの果て無い求めが、自己価値を求める思いを、それまでの萌芽的なものから一気に強め、高度化させていくのです。
(3)“真・美”への求めへと高まる自己価値の欲望
自己価値を求める思いは、最初は関係性の心地良さを求める欲望と、同時に培ってきたルールを形成する意識から、お互い同士の関係性の不安を抑え、共に配慮しあって生かし合う条件を満たすような相互関係のあり方(規範)に、“正しい”という観念を抱くようになります。また互いに利益ある関係は、“善”だと意識されるようなってくるのです。こうしてまず、人間の自己意識に“正・不正、善・悪”の観念が芽生えてきます。そして観念化(意味化)・言語化されずに、形象的なイメージのままでお互いに心地良さを感じとれる環境に対しては“きれい”、不快なものに対しては“汚い”という意識が分化されてくるのです。
この“善・悪”、“きれい・汚い”の意識に憧れとロマンの求める思いが働いて、“善・悪”の観念の延長に、自分なりの“ほんとう、真実”を求める思いと“これは違う、偽りだ”という意識が沸きあがってきます。そして“きれい・汚い”の形象的(イメージ的)な感性の延長には、“美・醜”の意識が生まれてくるのです。次いでこの“ほんとうに大切なもの、正しいもの”や、“ほんとうに美しい”ものを追求して実現する思いこそが、やがて自己価値の表明であると意識されるようになってくるのです。この自分なりの“真・美”をめがけて自己価値を求める人間の心性には、際限がありません。こうして“真・美”を求める人間の欲望の力が、小さな欲望充足で満足していた狩猟採取の社会の人間の自我の欲望を無限なものへと解き放ち、人間の絶えざる発展の原動力となっていくのです。そしてまたこの無限に広がる人間の意識の領野は、現実界の生死の領野をも超えて、“聖・穢れ”の観念をも生み出していくことになるのです。
(4)人間の尊厳・自由と社会の目的
こうして自分と外界を分けて世界を映し出す自己意識は、憧れとロマンに牽引されて、延長としてはその意識を全宇宙をもカバーする(あるいはそれをも超えて)無限の領野へと広がっていきます。また自己意識は自分自身の内面をも対象化し、そこに“善・悪”“キレイ・汚い”また“真・偽”“美・醜”の自己価値の基準の網の目があることも見出していきます。この自己価値の特徴は、それぞれの人間が生い育ってきた環境によって、一人一人異なる感受性によって育まれることから、何をもって自分の“ほんとう”や“美”とするかという感性も、個人によって微妙に異なり、個性のある多様なものとなってくることです。この自己価値を追い求める各人の欲望が、人間にイノベーションをもたらし新しい価値を生み出していくことになるのです。
さらに人間は普遍闘争の過程で、自己意識の次元をも高め、抽象的な関係性を認識出来るようになります。そして社会における分業関係も把握できるようになっていくのです。こうして一人一人が異なる感受性によって求める“ほんとうに大切なこと”や“ほんとうに美しいもの”も、分業的に関係づけられて組み合わされて意識されるようになり、一人一人の自由な自己価値を求める挑戦の営みが、合わさって大きな社会的な価値と生産力を生み出すことになっていくのです。そしてそのことがまた、一人一人の人間にも大きな達成感と幸福感を与える源ともなってくるのです。
こうした真や美を無限に求める人間の個性的な営みの能力は、障碍者であれ貧困者であれ敵対する国の人々であれ、どんな人間にも備わっています。その力と可能性こそが人間の尊厳であってまた社会の強さ・豊かさであり、この尊厳と能力を互いに認めて配慮しあって、自由に組み合わせて生かして発現させていくこと、そして社会を無駄なく強く効率よく発展させていくことが、社会の仕組みの目標となってくるのです。
4.自己価値の自由な追求と社会ルール
さてここまで、関係性の快を求める人間の自我の欲望が、普遍闘争の苦悩を経て生まれてきたあこがれやロマンを求める思いに後押しされて、真や美を無限に求める自己価値の欲望へと昇華していくプロセスを見てきました。この自己価値を自由に追求して、自分のほんとうを求め、それが他者の暮らしの励ましや社会の発展や進歩にも役立って、自分の存在意義を認められる時に、私たちは生き甲斐を感じ、自分の存在価値を確認して幸福な充足感を得ることが出来るのです。
人間はこうした自己価値を、無限に展開する自己意識の広がりの中で、どこまでも追い求めて社会的価値を生み出し、しかも他の人々も同じように自己価値を求める思いを持っていることを了解して、他者をも尊重する力があるからこそ、私たちは人間には尊厳があると意識されるようになってくるのです。そしてこの尊厳を守り育んで、各人が自由に自己価値の可能性を発揮出来るようにし、更にそれを組み合わせて、人々の暮らしの向上と社会の生産と発展を促進させていくことが、社会のルールづくりの目標であると理解されるようになってくるのです。
それでは普遍闘争を経て成立してきた覇権統治原理の国家においては、この人間の暮らしの向上と社会発展をもたらす自己価値を求める欲望の自由は、どのように展開していったのでしょうか。それを次回に見ていきたいと思います。
なお2月25日月曜日のパンセの集いの勉強会は、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は1955年のアメリカ映画『エデンの東』、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の作品です。場所は渋谷区本町のホームシアターで、18時から行います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.122まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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1.金正男氏の殺害(暗殺)と覇権統治ゲーム
北朝鮮の最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄金正男氏が、マレーシアの首都クアラルンプールの空港で殺害されました。北朝鮮の機関による暗殺なのか、それとも北朝鮮に罪を着せようとする何らかの勢力の企(たくら)みによるものなのか。確たる証拠はありませんが、一つ考慮に入れておかなければならないことは、北朝鮮のような国家における統治のルールにおいては、権力への脅威になる人物の暗殺や排除は、ゲームのルールとして組み込まれているということです。
前回までに、農耕牧畜社会に移行した時期までの人間の意識と社会構造の説明を行い、人間は社会ゲームとそのルールを生み出す能力を手にし、また国家を統治する原理として、覇権(はけん)統治のルールのあることをお話し致しました。覇権統治というのは、誰か一人の人物に権力を集中させることにより、国家の統合と安定を図る統治のシステムのことです。こうした国家においては、権力の中枢において、苛烈な権力ゲームが必然的に展開されます。現在NHKのEテレで、数奇な運命を辿(たど)った16世紀のスコットランド女王メアリ-・スチューアトの物語が放映(「クィーン・メアリー、愛と欲望の王宮」原題Reign)されていて、当時のフランス宮廷での権力に翻弄される人々の内情が赤裸々に描かれていますが、近代直前までの各国の王宮においては、こうした権謀術数渦巻く権力ゲームが行使され、暗殺はそのゲームの重要なルールの1つでした。
現在でもこうした覇権統治システムを採る国は、北朝鮮を筆頭にロシアや中国など少なくありません。こうした国々おいては、特に権力の移行期などには、容赦のない権力闘争と粛清が行われます。それはそうしたルールに基づくゲームであるから、必然的に生じる事態なのです。一方私たちは日本において、金正男氏の殺害(暗殺)を、興味を煽(あお)るマスコミ報道に、まるでサスペンスドラマでも見るかのように好奇心を刺激されて、固唾(かたず)を飲んで事態の推移を眺めています。これはいったい、どういうルールのゲームなのでしょうか。
いずれにせよこのパンセ通信では、私たちがこれまでどういうルールで生活し、どんなゲームを展開してきたのか。今はどうなのか。そしてこれからどんなルールのもとに、どんなゲームを選択していけば良いのかについて考えていってみたいと思います。
次回のパンセの集いは、2月27日の月曜日18時からです。月末ですので、ホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は1955年のアメリカ映画『エデンの東』、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の作品です。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.自己意識の成長と欲望の高度化
(1)普遍闘争による自己意識の成長
前回は農耕牧畜社会に移行して、備蓄食料(富)や農地など生産手段の保有(占有)を巡って普遍闘争状態が生じるに伴い、人間の自己意識がどのように変様していったのかについて見ていきました。人間の意識は、主に3つの面において高度化、複雑化して成長していくものと思われます。1つは戦いを通じて、接したり意識したりする部族の数が拡大し、また支配被支配の関係も生まれてくることから生じてくる変化です。この関係性の拡大によって、人間の自己意識の領野は拡大し、また直接的には交渉を持たない人間や部族との、抽象的な関係性をも意識出来るようになってきます。
2つ目の意識の変化は、自我の欲望の高度化です。一握りの勝者を除いて、多くの者が敗者となる中で、人々は挫折と悲嘆を味わうことになります。この挫折と悲嘆の悔しさから、「本当はこうありたかった」という、明確には言語化は出来ないけれども、心を強く惹かれる憧(あこが)れやロマンが立ち現れてきます。この憧(あこが)れやロマンが、人間の自己価値を求める欲望を強め、どこまでも広がるものとしていくのです。
そして3つ目は、強弱以外にお互いの関係性を律する、ルールの観念の誕生と自己意識への内在化です。普遍闘争によって、いつ命が奪われるかも分からず、資産も自分だけで守らなければならない不安と不信の渦巻く状況にあって、共存のためのルールを設定して、それを守ることで不安を和(やわ)らげることを求める意識の発達です。
(2)自己価値を求める欲望の重要性
この3つの意識の中で特に重要なのは、憧(あこが)れやロマン、夢や望みを抱く思いの強まりです。これまでのパンセ通信で、人間の欲望は身体の欲望ではなく、関係性の快を求める欲望、自己意識(自我)の欲望であることを説明してきました。空腹や性欲などのような身体由来の欲望は、それを充たせば充足します。しかしそのような欲望に留まること無く、関係性の快を求める欲望は、他者に受け入れられ、自分の価値を認められ、互いに心を通わせることに心地良さを感じてそれを求める、人間ならではの欲望のことです。
もちろん空腹を充たす(生計を賄う)生存や、危害を加えられない安全などの身体由来の欲望が、人間の欲望の基底をなしていることには変わりがありません。しかしマズローが欲求五段階説で指摘するように、人間の欲望が階層構造をなしていることは間違いの無いことでしょう。自己意識における関係性の欲望に生きる人間にとって、生活の安全や生計の不安が無く暮らせること、またその上で家族や仲間や職場などで(自分の存在が)受け入れられて生きることは、私たちが充たされて幸せを感じて生きるための必要条件となります。しかし人間は、そうした欲望の上に更に、嗜好や享楽の欲望、ストレスを解消して憩いの内にリフレッシュを求める欲望等が生じてきます。そして最も高次の欲望として、自己価値を充たす欲望が育まれてくるのです。享楽や自己価値を求める欲望は、人間が幸せを感じて生きるための十分条件と言えるでしょう。
3.憧れとロマンを育む社会システム
(1)自己価値は他者貢献を内包
自己価値を求める欲望というのは、自分らしい生き方や自分にとって本当に大切なものを、自由に求めて実現したいと思う欲望です。関係性の心地良さを求める人間の自我(自己意識)の欲望は、当初は他の人に受け入れられたり愛されたり、認められて称賛されることに充足感を覚えます。しかし他者に受け入れられて承認されることばかりを求めて生きていたのでは、自分が無くなってしまいます。関係性の欲望は、物理的な身体では無い自己意識が求める欲望であって、自己意識は、他者との比較のもとで他者とは異なる自分というものを区別して捉える自己了解の意識です。従って自己意識は、他者との関係性の快を求めると同時に、他の人には無い自分ならでは価値をも必然的に求めるようになってくるのです。
自己価値といっても、それは単なる身勝手や独善ではありません。あくまでも他者から承認される欲望をベースとして、その上に育まれる欲望です。だから自己価値というのは、自分の感受性が惹きつけられて止まないもの、そして自分にしか出来ない自分らしさの凝縮した生き方や仕事や作品や表現として結実するものなのですけど、やはりその卓越性や独自性・独創性が、同時に他者の生活や求め(ニーズ)に役立ち、他者からの共感や賛同や称賛を得るもので無ければ意味が無いという要素を含んでいるのです。
もちろん自己価値の追求には、世間の人々から評価されず、場合によっては非難されても一人貫くといった場合もあります。しかしその場合にも、自己意識において私たちは、自分が求め実現しようと思っているものは、(今は認められなくても)実は人間にとって本当に大切なことで、必ず社会にとって役に立つ、あるいは次の世代の人々のためになるという、普遍的人類や将来世代の人々の承認を得ることが出来るという思いに、無意識の内にも支えられているのです。もし他者の評価を意識しない、全くの独り善(よ)がりに基づく自己価値の追求ということがあったとすれば、それは自分を評価しない世間を恨むルサンチマンに基づく独善か、他者と自分という関係性の意識の領野が希薄になった、統合失調症的症状を示す人ということになり、決して人間として健常でスタンダードな状況では無いのです。
(2)憧れとロマンが培う自己価値への求め
この自己価値を求める欲望というのは、狩猟採取の時代においては、人間の意識の中ではまだ萌芽的なものにしか過ぎませんでした。限られた小さな部族の中での親密な人間関係の中では、複雑多様な人間関係に乏しく、他者との比較のもとでの自己了解が深まる素地が限られていたからです。また関係性の快さを求める欲望も、一人でも欠けたら困る小さな共同体の中では、自分の存在は必要不可欠で、その存在価値を疑う必要もありませんでした。その意味で狩猟採取社会での人々の暮らしは、それなりに受け入れあって充たされたもので、小さな欲望充足でも十分に満足を覚えることが出来たものであったと思われます。
ところが農業牧畜社会に移行して始まった普遍闘争によって、挫折と悲嘆の中から人々の他者了解、世界了解の領野と抽象的関係性の理解が広がり、それに呼応して自己理解の内容も深まってくることになります。そして(戦いに敗れて)屈辱を味わう惨(みじ)めさと悔しさから、「本当はこうしたかったのに」という憧れとロマンの素地となる思いが生まれてきます。この憧れとロマンへの果て無い求めが、自己価値を求める思いを、それまでの萌芽的なものから一気に強め、高度化させていくのです。
(3)“真・美”への求めへと高まる自己価値の欲望
自己価値を求める思いは、最初は関係性の心地良さを求める欲望と、同時に培ってきたルールを形成する意識から、お互い同士の関係性の不安を抑え、共に配慮しあって生かし合う条件を満たすような相互関係のあり方(規範)に、“正しい”という観念を抱くようになります。また互いに利益ある関係は、“善”だと意識されるようなってくるのです。こうしてまず、人間の自己意識に“正・不正、善・悪”の観念が芽生えてきます。そして観念化(意味化)・言語化されずに、形象的なイメージのままでお互いに心地良さを感じとれる環境に対しては“きれい”、不快なものに対しては“汚い”という意識が分化されてくるのです。
この“善・悪”、“きれい・汚い”の意識に憧れとロマンの求める思いが働いて、“善・悪”の観念の延長に、自分なりの“ほんとう、真実”を求める思いと“これは違う、偽りだ”という意識が沸きあがってきます。そして“きれい・汚い”の形象的(イメージ的)な感性の延長には、“美・醜”の意識が生まれてくるのです。次いでこの“ほんとうに大切なもの、正しいもの”や、“ほんとうに美しい”ものを追求して実現する思いこそが、やがて自己価値の表明であると意識されるようになってくるのです。この自分なりの“真・美”をめがけて自己価値を求める人間の心性には、際限がありません。こうして“真・美”を求める人間の欲望の力が、小さな欲望充足で満足していた狩猟採取の社会の人間の自我の欲望を無限なものへと解き放ち、人間の絶えざる発展の原動力となっていくのです。そしてまたこの無限に広がる人間の意識の領野は、現実界の生死の領野をも超えて、“聖・穢れ”の観念をも生み出していくことになるのです。
(4)人間の尊厳・自由と社会の目的
こうして自分と外界を分けて世界を映し出す自己意識は、憧れとロマンに牽引されて、延長としてはその意識を全宇宙をもカバーする(あるいはそれをも超えて)無限の領野へと広がっていきます。また自己意識は自分自身の内面をも対象化し、そこに“善・悪”“キレイ・汚い”また“真・偽”“美・醜”の自己価値の基準の網の目があることも見出していきます。この自己価値の特徴は、それぞれの人間が生い育ってきた環境によって、一人一人異なる感受性によって育まれることから、何をもって自分の“ほんとう”や“美”とするかという感性も、個人によって微妙に異なり、個性のある多様なものとなってくることです。この自己価値を追い求める各人の欲望が、人間にイノベーションをもたらし新しい価値を生み出していくことになるのです。
さらに人間は普遍闘争の過程で、自己意識の次元をも高め、抽象的な関係性を認識出来るようになります。そして社会における分業関係も把握できるようになっていくのです。こうして一人一人が異なる感受性によって求める“ほんとうに大切なこと”や“ほんとうに美しいもの”も、分業的に関係づけられて組み合わされて意識されるようになり、一人一人の自由な自己価値を求める挑戦の営みが、合わさって大きな社会的な価値と生産力を生み出すことになっていくのです。そしてそのことがまた、一人一人の人間にも大きな達成感と幸福感を与える源ともなってくるのです。
こうした真や美を無限に求める人間の個性的な営みの能力は、障碍者であれ貧困者であれ敵対する国の人々であれ、どんな人間にも備わっています。その力と可能性こそが人間の尊厳であってまた社会の強さ・豊かさであり、この尊厳と能力を互いに認めて配慮しあって、自由に組み合わせて生かして発現させていくこと、そして社会を無駄なく強く効率よく発展させていくことが、社会の仕組みの目標となってくるのです。
4.自己価値の自由な追求と社会ルール
さてここまで、関係性の快を求める人間の自我の欲望が、普遍闘争の苦悩を経て生まれてきたあこがれやロマンを求める思いに後押しされて、真や美を無限に求める自己価値の欲望へと昇華していくプロセスを見てきました。この自己価値を自由に追求して、自分のほんとうを求め、それが他者の暮らしの励ましや社会の発展や進歩にも役立って、自分の存在意義を認められる時に、私たちは生き甲斐を感じ、自分の存在価値を確認して幸福な充足感を得ることが出来るのです。
人間はこうした自己価値を、無限に展開する自己意識の広がりの中で、どこまでも追い求めて社会的価値を生み出し、しかも他の人々も同じように自己価値を求める思いを持っていることを了解して、他者をも尊重する力があるからこそ、私たちは人間には尊厳があると意識されるようになってくるのです。そしてこの尊厳を守り育んで、各人が自由に自己価値の可能性を発揮出来るようにし、更にそれを組み合わせて、人々の暮らしの向上と社会の生産と発展を促進させていくことが、社会のルールづくりの目標であると理解されるようになってくるのです。
それでは普遍闘争を経て成立してきた覇権統治原理の国家においては、この人間の暮らしの向上と社会発展をもたらす自己価値を求める欲望の自由は、どのように展開していったのでしょうか。それを次回に見ていきたいと思います。
なお2月25日月曜日のパンセの集いの勉強会は、ホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は1955年のアメリカ映画『エデンの東』、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の作品です。場所は渋谷区本町のホームシアターで、18時から行います。お時間許す方はご参加下さい。
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