■2014年12月21日 パンセ通信No.11 - 『言霊と見えないものとの絆』
皆 様 へ
12月23日の火曜日は、天皇誕生日で休日ですが、集まれる人だけで、細々とパンセの集いを行いたいと存じます。年内最後の集いになります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
前回は少々オカルトっぽいお話を致しましたが、パンセの集い、そしてゴンの物語でテ-マとしていることは、どうすればいのちを励まされて、また人のいのちをも励まして、前向きに生きる道を拓いていけるかということです。そのための自分の心と、外界の現象の捉え方という視点から見れば、『お出ましになられた如来様』(前回お地蔵様と紹介しておりましたが、じつはお顔を良く見ると、なんと如来様でした。)という話も、腑に落ちる方がいらっしゃったのではないでしょうか。
さて、いよいよ歳の瀬が押し迫ってきました。今年も国際情勢や異常気象をはじめ、“想定外”のことが多く起こりました。『先の見えない時代』という言葉は、もう言い古されてマヒした感がありますが、確実に“想定外”の振幅の度合いが、拡大してきているように思われます。来年も思いもよらね事態が、私たちと世界に襲い掛かってくることでしょう。
「そうした事態にも対処できる、ピンチをチャンスに変える心の持ち方はないの?そしてけっして損することのない、賢い知恵とノウハウは?」
思わずそうしたノウハウを求めたくなるのですが、それを考える前に、忘れてはいけないことがあります。それは、1人ではけっして思いを越えた大きな事態に、対処することはできないということです。(1人抜け駆けして逃げることはできるかもしれませんが、抜本的な解決にはなりません。また、抜け駆けした後ろめたさの十字架を、一生背負って生きていくことにもなります。)
そこで3.11東北大震災以降、“絆(きずな)”という言葉が、私たちの国で注目を集めました。とても大事な、とても素晴らしい言葉です。でも、その大切な言葉が、一過性の流行語のように今では色褪せ、手垢がついて安っぽくなってしまったのは何故でしょうか。言葉に内実が伴わず、お題目のように“絆”が叫ばれても、実際に人と人とが支え合い、いのちを励まし合う取り組みが、進展した気配は見受けられません。
もちろんつい最近も、将来の国政を託する、突然の衆議院解散総選挙などは行われているのですが。
その原因の1つには、“言葉”に対する感覚があるのではないでしょうか。現代の私たちは、言葉は人間がつくるものであると思っており、勝手にコマ-シャル的な意味を付与して流通させ、薄っぺらく、嘘っぽくしていきます。例えば、政治家の言葉に代表されるように。
しかし、私たちの先人たちは違いました。“言霊(ことだま)”という言葉があります。言(ことば)は、人間がつくるものではなく“神″から与えられるものと捉えたのです。それはきっと、多くの先人たちが自然との関わりや、人間関係・社会関係の中から、長い年月をかけて見出してきた本質的に大切な要素を、“言(ことば)”にしたということかもしれません。だから、言(ことば)そのものが叡知であり、その意味をおいそれと変えてはいけないのです。そしてそれが叡智である故に、“言(ことば)”を用いた時には、その意味(叡智)が実現されねばならないのです。だからこそ“言(ことば)”に対する畏怖の念が生まれ、“言(ことば)”に霊力が宿ると考えたのです。“言(ことば)”に向かうことは、“神”に向かうこと。神である“言(ことば)”と真剣に応答し、その意味を深め、更なる智慧を加える時にだけ、“言(ことば)”の意味を変えることが許されたのです。だから“言(ことば)”に意味を加えるということは、とても神聖なことであり、その意味を実現するということは、自分の存在を賭けた、大事だったのです。
そういえば平安期以前には、女性が名を告げるということは、それはもう自分という存在を相手に与えること、つまりそのまま婚姻することをも意味したのですね。
ところが現代の私たちは、言(ことば)の意味を深めるのではなく、どんどん軽く無意味にしていきます。そのようにしてまた、自分たちの存在の意味も、軽くしていくのです。
だからいつからか、言(ことば)に薄っぺらい“葉”の字がついて、“言葉”と表記するようになってしまいました。“言(ことば)”そのものが、私たちの軽さを嘲笑っているのですね。しかしそれにさえ私たちは気がつかず、相変わらず薄っぺらな言葉の戯れを続けている。
そしてもう1つ、“絆”が進展しない理由があります。私たちは、“絆”は人間同志が努力してつくるものと思っております。でも、それがなかなかうまく行かない。少し人と人との心が通ったと思っても、長続きしない。
そこで宗教学者の山折哲雄さんは、そもそも人間同士の絆だけでは、不十分なのだおっしゃっています。じつは人間を越えたものとの絆が、私たちの心の中にはある。目に見えないものとのつながり - すなわち死者との絆、先祖との絆、神や仏との絆、そして大地自然との絆を、私たちは持っている。その絆を抜きにしては、ほんとうのところ絆は、その確かな花を開かない。
そういえば、東北の被災地にたくさんのボランティアの方々が引き寄せられるのは、そこに被災した人たちがいるからだけではなく、たくさんの犠牲者の呼び声が、こだましているからでしょう。広島が、世界中から多数の観光客を引き寄せるのも、原爆で犠牲になった人々の、平和への願いが響いているからでしょう。その絆に支えられないと、ほんとうのところ復興は進展しない。
里山や有機農業体験に都会から人々が出かけるのも、そこで慈しみに満ちた自然のいのちが、私たちと絆を結ぼうと招いているからでしょう。
絆という“言葉”が、私たちの軽薄さのせいでどれほど安っぽくなったとしても、その“言霊”は変わるものではありません。そしてまた私たちは、もう1度自分の目に見えているものだけではなく、目に見えないものからの呼び声の“確かさ”の上にも、私たちの生活と絆を再生していく試みを、行う必要があるのではないでしょうか。そして、自分たちの確かな生きる実感と意味の再生も。
12月23日は、そんな私たちの絆づくりについて、少し考えていければと思っております。年末の慌ただしい休日ですが、お時間許す方はご参加ください。
P.S. 前回紹介した、うちの町に現れ鎮座されたお地蔵様ならぬ如来様。なかなかのパワ-で、 10日以上前にお供えした切り花が、未だ枯れずにどんどん新しい芽が出てきています。
こんな話をすると、バカバカしいとお思いになれるでしょうが、同時にちょっと心が動かされるのも、人間ではないでしょうか。この心惹かれる思いは何なのか? 悪用すると危険な面もありますが、より深い心理から絆を紡ぎ直していくために、考えてみなければならない要素も、そこには含まれているのではないでしょうか。?
皆 様 へ
12月23日の火曜日は、天皇誕生日で休日ですが、集まれる人だけで、細々とパンセの集いを行いたいと存じます。年内最後の集いになります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
前回は少々オカルトっぽいお話を致しましたが、パンセの集い、そしてゴンの物語でテ-マとしていることは、どうすればいのちを励まされて、また人のいのちをも励まして、前向きに生きる道を拓いていけるかということです。そのための自分の心と、外界の現象の捉え方という視点から見れば、『お出ましになられた如来様』(前回お地蔵様と紹介しておりましたが、じつはお顔を良く見ると、なんと如来様でした。)という話も、腑に落ちる方がいらっしゃったのではないでしょうか。
さて、いよいよ歳の瀬が押し迫ってきました。今年も国際情勢や異常気象をはじめ、“想定外”のことが多く起こりました。『先の見えない時代』という言葉は、もう言い古されてマヒした感がありますが、確実に“想定外”の振幅の度合いが、拡大してきているように思われます。来年も思いもよらね事態が、私たちと世界に襲い掛かってくることでしょう。
「そうした事態にも対処できる、ピンチをチャンスに変える心の持ち方はないの?そしてけっして損することのない、賢い知恵とノウハウは?」
思わずそうしたノウハウを求めたくなるのですが、それを考える前に、忘れてはいけないことがあります。それは、1人ではけっして思いを越えた大きな事態に、対処することはできないということです。(1人抜け駆けして逃げることはできるかもしれませんが、抜本的な解決にはなりません。また、抜け駆けした後ろめたさの十字架を、一生背負って生きていくことにもなります。)
そこで3.11東北大震災以降、“絆(きずな)”という言葉が、私たちの国で注目を集めました。とても大事な、とても素晴らしい言葉です。でも、その大切な言葉が、一過性の流行語のように今では色褪せ、手垢がついて安っぽくなってしまったのは何故でしょうか。言葉に内実が伴わず、お題目のように“絆”が叫ばれても、実際に人と人とが支え合い、いのちを励まし合う取り組みが、進展した気配は見受けられません。
もちろんつい最近も、将来の国政を託する、突然の衆議院解散総選挙などは行われているのですが。
その原因の1つには、“言葉”に対する感覚があるのではないでしょうか。現代の私たちは、言葉は人間がつくるものであると思っており、勝手にコマ-シャル的な意味を付与して流通させ、薄っぺらく、嘘っぽくしていきます。例えば、政治家の言葉に代表されるように。
しかし、私たちの先人たちは違いました。“言霊(ことだま)”という言葉があります。言(ことば)は、人間がつくるものではなく“神″から与えられるものと捉えたのです。それはきっと、多くの先人たちが自然との関わりや、人間関係・社会関係の中から、長い年月をかけて見出してきた本質的に大切な要素を、“言(ことば)”にしたということかもしれません。だから、言(ことば)そのものが叡知であり、その意味をおいそれと変えてはいけないのです。そしてそれが叡智である故に、“言(ことば)”を用いた時には、その意味(叡智)が実現されねばならないのです。だからこそ“言(ことば)”に対する畏怖の念が生まれ、“言(ことば)”に霊力が宿ると考えたのです。“言(ことば)”に向かうことは、“神”に向かうこと。神である“言(ことば)”と真剣に応答し、その意味を深め、更なる智慧を加える時にだけ、“言(ことば)”の意味を変えることが許されたのです。だから“言(ことば)”に意味を加えるということは、とても神聖なことであり、その意味を実現するということは、自分の存在を賭けた、大事だったのです。
そういえば平安期以前には、女性が名を告げるということは、それはもう自分という存在を相手に与えること、つまりそのまま婚姻することをも意味したのですね。
ところが現代の私たちは、言(ことば)の意味を深めるのではなく、どんどん軽く無意味にしていきます。そのようにしてまた、自分たちの存在の意味も、軽くしていくのです。
だからいつからか、言(ことば)に薄っぺらい“葉”の字がついて、“言葉”と表記するようになってしまいました。“言(ことば)”そのものが、私たちの軽さを嘲笑っているのですね。しかしそれにさえ私たちは気がつかず、相変わらず薄っぺらな言葉の戯れを続けている。
そしてもう1つ、“絆”が進展しない理由があります。私たちは、“絆”は人間同志が努力してつくるものと思っております。でも、それがなかなかうまく行かない。少し人と人との心が通ったと思っても、長続きしない。
そこで宗教学者の山折哲雄さんは、そもそも人間同士の絆だけでは、不十分なのだおっしゃっています。じつは人間を越えたものとの絆が、私たちの心の中にはある。目に見えないものとのつながり - すなわち死者との絆、先祖との絆、神や仏との絆、そして大地自然との絆を、私たちは持っている。その絆を抜きにしては、ほんとうのところ絆は、その確かな花を開かない。
そういえば、東北の被災地にたくさんのボランティアの方々が引き寄せられるのは、そこに被災した人たちがいるからだけではなく、たくさんの犠牲者の呼び声が、こだましているからでしょう。広島が、世界中から多数の観光客を引き寄せるのも、原爆で犠牲になった人々の、平和への願いが響いているからでしょう。その絆に支えられないと、ほんとうのところ復興は進展しない。
里山や有機農業体験に都会から人々が出かけるのも、そこで慈しみに満ちた自然のいのちが、私たちと絆を結ぼうと招いているからでしょう。
絆という“言葉”が、私たちの軽薄さのせいでどれほど安っぽくなったとしても、その“言霊”は変わるものではありません。そしてまた私たちは、もう1度自分の目に見えているものだけではなく、目に見えないものからの呼び声の“確かさ”の上にも、私たちの生活と絆を再生していく試みを、行う必要があるのではないでしょうか。そして、自分たちの確かな生きる実感と意味の再生も。
12月23日は、そんな私たちの絆づくりについて、少し考えていければと思っております。年末の慌ただしい休日ですが、お時間許す方はご参加ください。
P.S. 前回紹介した、うちの町に現れ鎮座されたお地蔵様ならぬ如来様。なかなかのパワ-で、 10日以上前にお供えした切り花が、未だ枯れずにどんどん新しい芽が出てきています。
こんな話をすると、バカバカしいとお思いになれるでしょうが、同時にちょっと心が動かされるのも、人間ではないでしょうか。この心惹かれる思いは何なのか? 悪用すると危険な面もありますが、より深い心理から絆を紡ぎ直していくために、考えてみなければならない要素も、そこには含まれているのではないでしょうか。?