■2017.3.4パンセ通信No.126『人間の欲望の構造的整理と、自由・尊厳・人権の起源』
皆 様 へ
1.生物の基本原理と人間の欲望原理
生物の基本原理は、生きるために必要なものや快さの得られるものを求め、危険や苦痛や不安は回避しようとすることです。そのために生物特有の感覚器官を用いて、世界を自分にとって必要なものから、関係の無いもの、危険なものへと分節して認識します。この原理は人間においても変わりはありません。この快を欲望し、不快を忌避する基本原理は、人間以外の生き物の場合には、生命維持のために「身体」から沸き起こってくる欲望が、自分を取り巻く(自然)「環境世界」において、「具体的に惹き付けられる(物質的)対象」を見出すことで機能します。例えばパンダにとっての空腹を充たすエサが、笹の葉という具体物であるようにです。危険や苦痛も、自分の「身体」に危害の及ぶ恐れのある「具体的な対象(肉食動物など)」に対して、それを遠ざけようとする欲動が働きます。その意味で生物の欲望の対象は具体的で、特定の対象に限定され、対象と欲望とが概ね一義的な対応関係にあると言えます。だから人間以外の生き物にとっては、「自分はいったい何がしたいのだろう」などと悩む必要は無いのです。
ところが人間の場合はそうではありません。人間は他者との複雑な関係性のもとに生きる間に、意識の中に他と自分を区別して、自分を明確に意識する自己意識(自我)をつくり出しました。人間の欲望は、例え物理的な身体由来のものであっても、この自己意識において意識し直され、自己意識(自我)が求め、また避ける快・不快の欲望へと変質していくことになるのです。この自我の欲望というのは、端的に言って関係性の快・不快を求める欲望です。人間にとって生きていく上で、身体的な欠乏を充たすよりも、人から愛されたり嫌われたりすることの方が、はるかに大きな意味を持つのです。空腹のような身体由来の欲望であっても、「気の置けない馴染みの食堂で食べたほうが美味しく感じられる」などのように、関係性の要素が入ってくるのです。
今回はこの人間の自我の欲望をもう1度整理し直し、その自我の欲望との相関で、まず覇権統治社会の統治のルールの是非から始めて、人間が生み出す社会ゲーム・文化ゲームのあり方について考えていくための、人間の内面の側からの本来のあり様(よう)を確認しておいきたいと思います。なお次回のパンセの集いにおける勉強会は、3月6日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。
2.人間存在の本質構造
(1)関係世界の意味と価値に生きる人間
さて今申し上げたとおり、生物にとって欲望を充足させる主体は身体で、欲望の対象は自然界(環境世界)の事物です。しかし人間の場合には、欲望の主体は自我(自己意識)であり、対象は他者との関係性ということになります。その意味で私たち人間は、物質的な環境世界に生きるというよりも、人間が織りなす関係世界に生きるという意味合いの方が強くなります。ではいったい私たち人間にとっては、どのような関係性が快く、また不快と感じられるようになるのでしょうか。それが前回パンセ通信No.125で考えたテーマです。一言で言えば、お互い同士の存在を受け入れ合う関係が快く、また真善美の自己価値を自由に求める営みを支え合う関係が励みになり、その逆が不快や苦痛に感じられるということでしょう。
人間は自己意識の中で、人間関係について心地良さを覚えるもの、自分を生かせて励まされるものから、不快を感じるものまで、グレデーションをかけたように分節して認識します。そして快さを与える対象となるような関係性を意味あるもの、またその意味ある関係性の中で特に重要なもの、あるいはその関係性を実現するために効果のあるものを価値あるものと捉えて、自分の中に意味と価値の網の目を形成していきます。この自分なりの意味と価値の網の目によって出来上がってくる意識が“自我”です。
こうして人間において欲望は、まず身体性と環境世界の具体的な事物を対象として生じる快・不快から、人間相互の関係性の快・不快を求め、避けるものへと変容していきます。更にそれが、自己意識の中で意味と価値の網の目として膨大に累積していき、他の誰でもない自分(なりの意味と価値の体系が感受できる)という“自我”が形成されていくのです。この結果関係世界を生きる人間の欲望は、“自我”において、自分にとっての意味と価値を感受し、意味あるもの価値あるものを求める欲望へとさらにもう一段変容していくのです。
(2)自我の構造
この各人にとっての意味あるもの価値あるものを相互了解して生まれてくる価値序列のルールが、「きれい・きたない」「良い・駄目」「善・悪」の観念です。さらにこの価値観念に、人間誰しも経験する挫折感覚から生じてくる憧(あこが)れやロマンの念が相俟(あいま)って、「真・偽」「美・醜」の観念が生まれてくるのです。真・美というのは、ほんとうに大切なものや、ほんとうに美しいものを求める欲望で、もはやそれは具体的な対象性を超えて、さらにその向こうを幻想的に求める欲望として結実してくるのです。
こうして人間の欲望は、身体的な欲望から離れて、関係性の快を求め、意味と価値を求め、そして真善美を目指しての自己価値を求める欲望へと進展していくことになります。この真善美をめがける自己価値の欲望は、何が真で何が美で何が善なのかという一般概念においては、相互了解されてある程度共通のルール(枠組み・構造)として取り出せますが、その具体的な内容においては、個人がその生い立ちにおいて育んできた感性によって一人一人異なってきます。つまり自分が生きてくる間に無数の他者との関係を経験し、その間に自分が傷つかずに済むように、巧(たくみ)に自分を生かしていく自己ルールを蓄積させて、何がほんとうで、何が美しく、何が正しいと感じられるのかという、自分独自の感受性を培ってくるのです。その意味で自我というのは、自己価値を求めるにあたっての意味と価値ある関係性の記憶の網の目であると共に、自分にとっての真善美の価値序列のルールの束でもあって、それが無意識化して自然に感性が反応するようになった体系ということが出来るのです。
3.人間の欲望の構造的整理
(1)人間の欲望の幻想性
このように関係性の中に見出す意味と価値や、自己価値のルールが編み込まれた“自我”をベースとして生じる人間の欲望は、また次のような特質もつことになります。それは、具体的で固定的な自然界の事物と異なり、関係は常に流動的で、都度変様していくことに由来するものです。意味と価値を求め、自己価値を求める人間の自我の欲望にとって、その対象となるのは、結局は人間や自然と自分との関係のあり様(よう)で、それが象徴化されたものです。自分にとって心充たされると感じられるものとの関係をあこがれる時、意味があり、美しくて真実で、正しいと実感されるのです。それは時に強いロマンの対象となって、ワクワクドキドキして激しく心惹かれるものともなってくるのです(例えば恋愛のように)。
ところがこの関係性というのは、常に変様していくものです。従って関係性が象徴化されて現れてくる人間の欲望の対象も、特定の事柄や内容に固定されることなく、都度変様していくことなります。これが人間と他の生き物との間で、それぞれの欲望が対象とするものの大きな相違となります。さらに人間の場合には、自我を構成する真善美の自己価値の感受性も、変様していきます。それは私たちの自我が、先ほど申し上げたように人間関係のルールの束として形成されてくるからで、他者関係が変われば、自我の中の自己価値のルールも刷新されていくのです。裏切られることの多い人間関係が積み重なれば、私たちは不信感を募らせ、また励まされる関係が続けば、信頼感を増して、それにつれて私たちの真善美の感性(ルール)も、肯定的になったり否定的になったり、皮肉っぽくなったりと編み変えられていくのです。
このように対象も欲動が動き出す自我のルールも、常に変様していくのが人間の欲望の特徴で、それ故に人間の欲望は、幻想的と言うことが出来ます。もし人間の欲望が、対象も自己価値のルールも固定的なものであれば、私たちはこれが好きだとか、これが嫌いだという感性が一義的にセットされてしまうことになります。それはもう条件反射の世界で、可能性の選択に生きる人間の生の営みでは無くなってしまいます。また全員が同じ自己価値の感性のもとに、単一の目的を持ち、同じ労働と同じ行為の積み重ねを行うのであれば、それはアリやミツバチの社会と同じになって、発展の原理が無くなってしまいます。ここに人間の自由の本源があり、また私たちの願いや希望が、各人それぞれに非常に重層的かつ多義的で、なかなか一言で言い表すことが出来ない理由があるのです。
(2)人間の欲望の特質
さてここでもう1度人間の欲望(あるいは人間存在)の特質を整理すると次のようになります。欲望というのは、快を求め不快を避ける欲動の力のことです。人間の欲望は、身体では無く自我を主体として発し、自我の満足を目的とします。欲動の力が対象として向かうのは関係性の快・不快であって、それは一義的に固定するものではなく変様します。そしてこの欲動の力は、(自己意識の認識によって分節された)意味と価値とルールの集積である自我の中で、自分が培った自己価値のルールに沿って機能します。自己価値のルールとは、真善美の価値観です。きれいなもの、良いもの、正しい(善)もの、真実(ほんとう)なもの、美しいものに惹かれ、汚いもの、駄目なもの、悪いもの、偽りのもの、醜いものは忌避する自分の中の感受性の秩序です。
この自己価値のルールも、状況や必要に応じて編み変わっていき、自分がこれ以上傷つかないように自己価値のレベルを下げたり(「所詮人間なんてこんなもの」と思って自分を宥(なだ)める等)、或いは自分をもっと生かして人生の可能性を広げていけるように、今ある価値の対象(目標)を、さらにその先へと押し広げていったりするのです。例えばさらに正しいこと(みんなにとって良いこと)、さらに美しいもの、さらにほんとうのことを目掛けて夢中になっていったりする中で、もっと大きなそして人間にとってもっと価値ある優れた目標を実現するために、それまで自分の培(つちか)ってきた価値の基準を、微妙に変化させていったりするのです。この欲動の対象と、それが働く自己価値のルールが、自分が生き易くまたもっと生かせるように変様していくのが、人間の欲望の特質でもあるのです。
4.人間の自由の本質と社会構造
(1)自由、尊厳、人権の起源
このように自分を良く生かせるように、自我の価値観と他者関係の相関的な状況に応じて、欲望の対象と自己価値のルールを編み変えていこうとすることが、人間の欲動の力の働きで、これが人間の自由(自由への求め)の本源となります。人間にとって自由とは、単に束縛されることからの自由ではありません。憧(あこが)れたり、夢想したり、希望を抱いたりする内面の(自己)意識の自由は、人間にとって本質的に重要です。内面の自由が圧迫されたり、1つの価値観のもとだけで判断することを強制されたりすると、私たちは必然的にこの上ない息苦しさ、生き辛さを感じてしまうのです。
また人間は、自我において世界に対して精神的な主体として立ち、自分と世界の関係について何度でもこれを捉え返し、主体としてその意味をどこまでも、無限に知ろうとしていきます(その無限に求める力が内面に向かえば、どこまでも自分と人間を知ろうとしていきます)。そして“ほんとうに大切なもの・こと”“ほんとうに美しいもの・こと”を求めて、今ある価値のさらにその向こう側へと突き進み、自己価値のルールも、社会の価値や倫理も再形成して、新たな価値を創造していくために、自己価値を求める欲動はどこまでも飛翔していきます。これが人間における自由の本性です。そして一人一人の誰もが、こうした自由な価値創出の力と可能性を有し、その力を(人類社会が築き上げた分業の仕組みを通じて)発揮しあって、国民全体、人類全体の価値を生み出すことが出来るが故に、またその恩恵を共通の利益として他の者たちも享受することが出来るが故に、人間は誰もが個人として尊ばれる必要があると感じられ、またそう感じた方が、私たちに(無意識の内にも)安らぎを覚えさせるのです。これが人間の尊厳の由来であり、またこの無限に価値を生み出す個々人の力を、(人類全体の利益のために)守り育もうとする努力が、人権の基本となり、また人間の発展の原理となってくるのです。
(2)今後のアプローチ
さてここまで人間の欲望の構造を整理すると共に、自己価値を求めて人間的価値を創出し、人類の発展の原理となる、人間の自由の本質を見てきました。要は人間の内面の側の求めと、充足される必要のある対象を整理してきたのです。それはいわば人間が、人間らしく生きて価値を生み出し、幸福感を感じて生きられるための十分条件の内実ということも出来るでしょう。
それではこの人間の内面の求めとの相関で形成されてくる人間関係、社会関係の構造の方はどのようになってくるのでしょうか。その構造の本質と、人間と社会の相関関係の力動の原理について、次に見ていきたいと思います。初めに人間関係の原理について少しだけ触れ、先に社会(政治・経済)の構造を、パンセ通信No.123~124に戻って、まず農耕牧畜社会への移行に伴い発生する普遍闘争の帰結として成立する覇権国家による統治構造について、その原理を見ていきたいと思います。次いでその国家の統治の本質と人間的価値創出の欲望との矛盾を踏まえた上で、それがどう市場経済と市民社会を準備し、やがて全ての市民による一般意思と社会契約に基づく市民(民主主義)国家へと結実していったのかを、追っていきたいと思います。その市民国家の原理が、資本主義の発展によってどう影響され、今どのような状況に直面しているのかについても明らかにしていってみたいと思います。
そうした作業を踏まえた上で、人間的自由と価値の創出が最大限に発揮でき、生産を障害なく発展させ、個々人の幸せと強力な国家を両立出来る原理について考えていってみたいと思います。また国家間の調整と、国際社会のあり方についても概観していくことが出来ればと思います。そのような外的世界の構造の理念的整理を終えた上で、もう1度身近な具体的な人間関係のあり方の原理に戻っていき、身近な家族、地域や職場での人間関係、自分が属する集団や組織での関係のあり方を、世代による生き方の課題の相違も含めて、問い直していってみたいと思います。そして社会全体のルールと仕組みを編み変えて、自分と他の人々を十分に生かしていくことの出来る具体的な筋道を、明らかにしていってみたいと思います。
次回のパンセの集いの勉強会は、3月6日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.122まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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1.生物の基本原理と人間の欲望原理
生物の基本原理は、生きるために必要なものや快さの得られるものを求め、危険や苦痛や不安は回避しようとすることです。そのために生物特有の感覚器官を用いて、世界を自分にとって必要なものから、関係の無いもの、危険なものへと分節して認識します。この原理は人間においても変わりはありません。この快を欲望し、不快を忌避する基本原理は、人間以外の生き物の場合には、生命維持のために「身体」から沸き起こってくる欲望が、自分を取り巻く(自然)「環境世界」において、「具体的に惹き付けられる(物質的)対象」を見出すことで機能します。例えばパンダにとっての空腹を充たすエサが、笹の葉という具体物であるようにです。危険や苦痛も、自分の「身体」に危害の及ぶ恐れのある「具体的な対象(肉食動物など)」に対して、それを遠ざけようとする欲動が働きます。その意味で生物の欲望の対象は具体的で、特定の対象に限定され、対象と欲望とが概ね一義的な対応関係にあると言えます。だから人間以外の生き物にとっては、「自分はいったい何がしたいのだろう」などと悩む必要は無いのです。
ところが人間の場合はそうではありません。人間は他者との複雑な関係性のもとに生きる間に、意識の中に他と自分を区別して、自分を明確に意識する自己意識(自我)をつくり出しました。人間の欲望は、例え物理的な身体由来のものであっても、この自己意識において意識し直され、自己意識(自我)が求め、また避ける快・不快の欲望へと変質していくことになるのです。この自我の欲望というのは、端的に言って関係性の快・不快を求める欲望です。人間にとって生きていく上で、身体的な欠乏を充たすよりも、人から愛されたり嫌われたりすることの方が、はるかに大きな意味を持つのです。空腹のような身体由来の欲望であっても、「気の置けない馴染みの食堂で食べたほうが美味しく感じられる」などのように、関係性の要素が入ってくるのです。
今回はこの人間の自我の欲望をもう1度整理し直し、その自我の欲望との相関で、まず覇権統治社会の統治のルールの是非から始めて、人間が生み出す社会ゲーム・文化ゲームのあり方について考えていくための、人間の内面の側からの本来のあり様(よう)を確認しておいきたいと思います。なお次回のパンセの集いにおける勉強会は、3月6日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。
2.人間存在の本質構造
(1)関係世界の意味と価値に生きる人間
さて今申し上げたとおり、生物にとって欲望を充足させる主体は身体で、欲望の対象は自然界(環境世界)の事物です。しかし人間の場合には、欲望の主体は自我(自己意識)であり、対象は他者との関係性ということになります。その意味で私たち人間は、物質的な環境世界に生きるというよりも、人間が織りなす関係世界に生きるという意味合いの方が強くなります。ではいったい私たち人間にとっては、どのような関係性が快く、また不快と感じられるようになるのでしょうか。それが前回パンセ通信No.125で考えたテーマです。一言で言えば、お互い同士の存在を受け入れ合う関係が快く、また真善美の自己価値を自由に求める営みを支え合う関係が励みになり、その逆が不快や苦痛に感じられるということでしょう。
人間は自己意識の中で、人間関係について心地良さを覚えるもの、自分を生かせて励まされるものから、不快を感じるものまで、グレデーションをかけたように分節して認識します。そして快さを与える対象となるような関係性を意味あるもの、またその意味ある関係性の中で特に重要なもの、あるいはその関係性を実現するために効果のあるものを価値あるものと捉えて、自分の中に意味と価値の網の目を形成していきます。この自分なりの意味と価値の網の目によって出来上がってくる意識が“自我”です。
こうして人間において欲望は、まず身体性と環境世界の具体的な事物を対象として生じる快・不快から、人間相互の関係性の快・不快を求め、避けるものへと変容していきます。更にそれが、自己意識の中で意味と価値の網の目として膨大に累積していき、他の誰でもない自分(なりの意味と価値の体系が感受できる)という“自我”が形成されていくのです。この結果関係世界を生きる人間の欲望は、“自我”において、自分にとっての意味と価値を感受し、意味あるもの価値あるものを求める欲望へとさらにもう一段変容していくのです。
(2)自我の構造
この各人にとっての意味あるもの価値あるものを相互了解して生まれてくる価値序列のルールが、「きれい・きたない」「良い・駄目」「善・悪」の観念です。さらにこの価値観念に、人間誰しも経験する挫折感覚から生じてくる憧(あこが)れやロマンの念が相俟(あいま)って、「真・偽」「美・醜」の観念が生まれてくるのです。真・美というのは、ほんとうに大切なものや、ほんとうに美しいものを求める欲望で、もはやそれは具体的な対象性を超えて、さらにその向こうを幻想的に求める欲望として結実してくるのです。
こうして人間の欲望は、身体的な欲望から離れて、関係性の快を求め、意味と価値を求め、そして真善美を目指しての自己価値を求める欲望へと進展していくことになります。この真善美をめがける自己価値の欲望は、何が真で何が美で何が善なのかという一般概念においては、相互了解されてある程度共通のルール(枠組み・構造)として取り出せますが、その具体的な内容においては、個人がその生い立ちにおいて育んできた感性によって一人一人異なってきます。つまり自分が生きてくる間に無数の他者との関係を経験し、その間に自分が傷つかずに済むように、巧(たくみ)に自分を生かしていく自己ルールを蓄積させて、何がほんとうで、何が美しく、何が正しいと感じられるのかという、自分独自の感受性を培ってくるのです。その意味で自我というのは、自己価値を求めるにあたっての意味と価値ある関係性の記憶の網の目であると共に、自分にとっての真善美の価値序列のルールの束でもあって、それが無意識化して自然に感性が反応するようになった体系ということが出来るのです。
3.人間の欲望の構造的整理
(1)人間の欲望の幻想性
このように関係性の中に見出す意味と価値や、自己価値のルールが編み込まれた“自我”をベースとして生じる人間の欲望は、また次のような特質もつことになります。それは、具体的で固定的な自然界の事物と異なり、関係は常に流動的で、都度変様していくことに由来するものです。意味と価値を求め、自己価値を求める人間の自我の欲望にとって、その対象となるのは、結局は人間や自然と自分との関係のあり様(よう)で、それが象徴化されたものです。自分にとって心充たされると感じられるものとの関係をあこがれる時、意味があり、美しくて真実で、正しいと実感されるのです。それは時に強いロマンの対象となって、ワクワクドキドキして激しく心惹かれるものともなってくるのです(例えば恋愛のように)。
ところがこの関係性というのは、常に変様していくものです。従って関係性が象徴化されて現れてくる人間の欲望の対象も、特定の事柄や内容に固定されることなく、都度変様していくことなります。これが人間と他の生き物との間で、それぞれの欲望が対象とするものの大きな相違となります。さらに人間の場合には、自我を構成する真善美の自己価値の感受性も、変様していきます。それは私たちの自我が、先ほど申し上げたように人間関係のルールの束として形成されてくるからで、他者関係が変われば、自我の中の自己価値のルールも刷新されていくのです。裏切られることの多い人間関係が積み重なれば、私たちは不信感を募らせ、また励まされる関係が続けば、信頼感を増して、それにつれて私たちの真善美の感性(ルール)も、肯定的になったり否定的になったり、皮肉っぽくなったりと編み変えられていくのです。
このように対象も欲動が動き出す自我のルールも、常に変様していくのが人間の欲望の特徴で、それ故に人間の欲望は、幻想的と言うことが出来ます。もし人間の欲望が、対象も自己価値のルールも固定的なものであれば、私たちはこれが好きだとか、これが嫌いだという感性が一義的にセットされてしまうことになります。それはもう条件反射の世界で、可能性の選択に生きる人間の生の営みでは無くなってしまいます。また全員が同じ自己価値の感性のもとに、単一の目的を持ち、同じ労働と同じ行為の積み重ねを行うのであれば、それはアリやミツバチの社会と同じになって、発展の原理が無くなってしまいます。ここに人間の自由の本源があり、また私たちの願いや希望が、各人それぞれに非常に重層的かつ多義的で、なかなか一言で言い表すことが出来ない理由があるのです。
(2)人間の欲望の特質
さてここでもう1度人間の欲望(あるいは人間存在)の特質を整理すると次のようになります。欲望というのは、快を求め不快を避ける欲動の力のことです。人間の欲望は、身体では無く自我を主体として発し、自我の満足を目的とします。欲動の力が対象として向かうのは関係性の快・不快であって、それは一義的に固定するものではなく変様します。そしてこの欲動の力は、(自己意識の認識によって分節された)意味と価値とルールの集積である自我の中で、自分が培った自己価値のルールに沿って機能します。自己価値のルールとは、真善美の価値観です。きれいなもの、良いもの、正しい(善)もの、真実(ほんとう)なもの、美しいものに惹かれ、汚いもの、駄目なもの、悪いもの、偽りのもの、醜いものは忌避する自分の中の感受性の秩序です。
この自己価値のルールも、状況や必要に応じて編み変わっていき、自分がこれ以上傷つかないように自己価値のレベルを下げたり(「所詮人間なんてこんなもの」と思って自分を宥(なだ)める等)、或いは自分をもっと生かして人生の可能性を広げていけるように、今ある価値の対象(目標)を、さらにその先へと押し広げていったりするのです。例えばさらに正しいこと(みんなにとって良いこと)、さらに美しいもの、さらにほんとうのことを目掛けて夢中になっていったりする中で、もっと大きなそして人間にとってもっと価値ある優れた目標を実現するために、それまで自分の培(つちか)ってきた価値の基準を、微妙に変化させていったりするのです。この欲動の対象と、それが働く自己価値のルールが、自分が生き易くまたもっと生かせるように変様していくのが、人間の欲望の特質でもあるのです。
4.人間の自由の本質と社会構造
(1)自由、尊厳、人権の起源
このように自分を良く生かせるように、自我の価値観と他者関係の相関的な状況に応じて、欲望の対象と自己価値のルールを編み変えていこうとすることが、人間の欲動の力の働きで、これが人間の自由(自由への求め)の本源となります。人間にとって自由とは、単に束縛されることからの自由ではありません。憧(あこが)れたり、夢想したり、希望を抱いたりする内面の(自己)意識の自由は、人間にとって本質的に重要です。内面の自由が圧迫されたり、1つの価値観のもとだけで判断することを強制されたりすると、私たちは必然的にこの上ない息苦しさ、生き辛さを感じてしまうのです。
また人間は、自我において世界に対して精神的な主体として立ち、自分と世界の関係について何度でもこれを捉え返し、主体としてその意味をどこまでも、無限に知ろうとしていきます(その無限に求める力が内面に向かえば、どこまでも自分と人間を知ろうとしていきます)。そして“ほんとうに大切なもの・こと”“ほんとうに美しいもの・こと”を求めて、今ある価値のさらにその向こう側へと突き進み、自己価値のルールも、社会の価値や倫理も再形成して、新たな価値を創造していくために、自己価値を求める欲動はどこまでも飛翔していきます。これが人間における自由の本性です。そして一人一人の誰もが、こうした自由な価値創出の力と可能性を有し、その力を(人類社会が築き上げた分業の仕組みを通じて)発揮しあって、国民全体、人類全体の価値を生み出すことが出来るが故に、またその恩恵を共通の利益として他の者たちも享受することが出来るが故に、人間は誰もが個人として尊ばれる必要があると感じられ、またそう感じた方が、私たちに(無意識の内にも)安らぎを覚えさせるのです。これが人間の尊厳の由来であり、またこの無限に価値を生み出す個々人の力を、(人類全体の利益のために)守り育もうとする努力が、人権の基本となり、また人間の発展の原理となってくるのです。
(2)今後のアプローチ
さてここまで人間の欲望の構造を整理すると共に、自己価値を求めて人間的価値を創出し、人類の発展の原理となる、人間の自由の本質を見てきました。要は人間の内面の側の求めと、充足される必要のある対象を整理してきたのです。それはいわば人間が、人間らしく生きて価値を生み出し、幸福感を感じて生きられるための十分条件の内実ということも出来るでしょう。
それではこの人間の内面の求めとの相関で形成されてくる人間関係、社会関係の構造の方はどのようになってくるのでしょうか。その構造の本質と、人間と社会の相関関係の力動の原理について、次に見ていきたいと思います。初めに人間関係の原理について少しだけ触れ、先に社会(政治・経済)の構造を、パンセ通信No.123~124に戻って、まず農耕牧畜社会への移行に伴い発生する普遍闘争の帰結として成立する覇権国家による統治構造について、その原理を見ていきたいと思います。次いでその国家の統治の本質と人間的価値創出の欲望との矛盾を踏まえた上で、それがどう市場経済と市民社会を準備し、やがて全ての市民による一般意思と社会契約に基づく市民(民主主義)国家へと結実していったのかを、追っていきたいと思います。その市民国家の原理が、資本主義の発展によってどう影響され、今どのような状況に直面しているのかについても明らかにしていってみたいと思います。
そうした作業を踏まえた上で、人間的自由と価値の創出が最大限に発揮でき、生産を障害なく発展させ、個々人の幸せと強力な国家を両立出来る原理について考えていってみたいと思います。また国家間の調整と、国際社会のあり方についても概観していくことが出来ればと思います。そのような外的世界の構造の理念的整理を終えた上で、もう1度身近な具体的な人間関係のあり方の原理に戻っていき、身近な家族、地域や職場での人間関係、自分が属する集団や組織での関係のあり方を、世代による生き方の課題の相違も含めて、問い直していってみたいと思います。そして社会全体のルールと仕組みを編み変えて、自分と他の人々を十分に生かしていくことの出来る具体的な筋道を、明らかにしていってみたいと思います。
次回のパンセの集いの勉強会は、3月6日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。
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