ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.127『自我の欲望、自己価値の相互承認から人間関係の原理へ』

Mar 11 - 2017

■2017.3.11パンセ通信No.127『自我の欲望、自己価値の相互承認から人間関係の原理へ』

皆 様 へ

1.構造の普遍性を取り出す考え方
私たちは誰もが、幸せに生きたいと願っているものなのですが、しかし「幸せとは何か」と問うてみてもなかなか答えが出せません。それは仮にこの世のどこかに「これが幸せだ」という決定版があったとしても、置かれた状況も感性も異なる別の人間が、そのとおり真似て生きてみたところで、幸せになれるとは限らないからです。そもそも真似ること自体が困難でしょう。人間とは何か、私とは何か、人間はどう生きるべきか、世界(社会)はどうあるべきかなどという問いについても同様です。

しかしそれでも私たちは、自分自身の意識の中で“幸せ”という感覚を覚えることには、間違いがありません。そこで私たちは、自分が“幸せ”という感覚を覚える時の状況や条件を取り出して、自分なりに理解してみることは可能でしょう。そしてそういう状況や条件のもとでなら、他の誰もが自分の意識の中で、確かにそういう時には幸せを感じるなと確認し、納得感を共有することも不可能ではありません。つまり私たちは、“幸せ”の本体や真理に到達することは出来ないのですが、どういう条件のもとでなら私たちは“幸せ”を感じることが出来るかという、普遍的な条件を取り出すことは可能なのです。(このようなものごとの考え方のことを、哲学の用語では“現象学”と言います。)

今回はこうした考え方によって今まで整理してきた、人間の自我の欲望の普遍的構造から出発して、そんな意識や存在の本質を持つ人間同士の関係の原理について、少し考えを進めていってみたいと思います。その上で、覇権統治国家の社会構造の原理についても、踏み込んで考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いの勉強会は、3月13日月曜日の18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。

2.自我の構造
(1)意味と価値に生きる人間
さて現象学的なアプローチによって、これまでパンセ通信では、人間の疑いようのない感覚や欲望から出発して、人間の意識や存在のあり様(よう)について、誰の意識においても納得できるであろうような普遍性を求めて、検討を進めてきました。まず人間に視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚のあることは、誰にとっても間違いの無いことでしょう。こうした感覚を統合して把握するのが意識です。そしてまた私たちに、何かを求めたり、何かに惹きつけられたりする欲望のあることも、確かなことでしょう。

この意識の内に、関係性の世界に生きる人間の場合には、他と区別して自分があるという「自己意識」がまず明確になってきます。そして欲望も、身体の求めからではなく、自己意識を起点として関係性の快を求めるものへと転移していきます。この自己意識の欲望との相関で、人間は意識の対象となるモノやコトや関係性を、快いものから不快なものへと順に、グラデーションをかけたように分節して認識していくことになります。そして自己意識の中で、快いものや有益な対象を意味あるもの、その中でも特に重要な対象や、その対象を得るために効果あるプロセスや手段を価値あるものとして位置付けるようになるのです。また不快なものや危険なものに対しては、恐怖や嫌悪の感情が沸いてくるようになり、次第にそうした意味と価値の連鎖が自己意識の中に蓄積されていくのです。

一方興味や関心の対象とならないものは、自己意識の中では対象として捉えられません。もちろん私たちは、日々変化する現実の環境世界・関係世界を生きていくわけですから、その都度ごとに私たちの興味関心も、目まぐるしく変化していきます。そうした目まぐるしく変化していく対象の中で、特に頻度が多く現れたり強烈な体験を与えるものが、意味あるもの価値あるものとして私たちの自己意識に刻み込まれて、無意識化して蓄積していくのです。こうして私たちは、自己意識の中に意味と価値の網の目を形成し、この網の目を通して無意識の内に世界や関係を、自分にとっての意味と価値の基準で捉えるようになっていくのです。

(2)自己価値を求める欲望
こうして自分なりの意味と価値の網の目を築き上げた人間の自己意識は、他者の意味と価値の基準も推定して了解するようになっていきます。それは人間が、自分自身の経験とのアナロジーで、他者の感情や意識を察する(類人猿以来培ってきた)共感能力を培(つちか)い、また言語によるコミュニケーション能力を有するようになったが故によるものです。この意味と価値の基準の相互了解は、自己意識に次のような3つの変化をもたらすことになります。まず第1に、他者との微妙な相違から、自分の意味と価値の基準がより一層はっきりしてきて、「私は私である」という意識が益々明確になってくることです。

そして2つ目に生じることは、人間の欲望は関係性の快をベースにした自己意識の欲望ですから、推定される他者の意味と価値の基準に沿った行動をとることにより、他者から承認されたり称賛されたりすることで、自己意識の欲望を充たしていこうとすることです。しかしあまりに他者に気に入られようとすると、今度は自分自身の意味と価値の規範との齟齬(そご)を生じ、自分が自分でなくなってしまうような気持ちに襲われてしまいます。こうして私たちは、複雑に交錯する人間関係の中から、自分を自分として保ちながら他者に自分の存在の意義を認めさせようとする、自己価値の欲望を育んでいくことになるのです。

自己価値の欲望というのは、自分なりの価値を求めようとする力と、自分自身の存在の価値を高めようとする欲動の力が合わさったものです。ここでも他者との交流と共感、そして相互了解を重ねる中から、次第に自己価値の対象が定まっていくようになります。その価値の対象が、「きれい・きたいない」「良い・駄目」「善・悪」「真・偽」「美・醜」などの基準で、それぞれの価値対象について、例えば「美しい」から「醜い」までの序列を形成し、自分なりの感受性のルールをつくっていくことになります。欲動の力は、この自己価値のルールに沿って流れ、例えば「美しい」ものを目掛け、「醜い」ものを忌避する力として機能するようになるのです。こうして自己価値のルールが束となって集積し、そのルールを基に自己価値の欲望が機能するようになった自己意識が「自我」なのです。

3.幸福の必要十分条件
(1)幸福を感じるための必要条件
この自己価値を求める自我の欲望を充たす時、つまり私たちが自分の価値を存分に発揮できる時に、人間は幸福を感じることになります。しかし当然のことながら、自己価値を発揮するためには、私たちは安全で、ある程度日々の生活が保障されていることが前提になります。そこで今度は、人間の意識構造の中で、自我がどういう条件のもとでなら幸福感を覚えることが出来るのかという視点から、欲望と幸福感との相関関係についてもう1度整理し直しておく必要が生じてきます。

私たちが幸福を感じるためには、まず生命を脅かされたり、身体や財産に危害の加えられる心配の無いことは、最も根底的な条件となります。また生計が維持できて、生活の不安に打ちのめされることの無いことも、基本的な条件でしょう。もし安全や生計の不安があれば、自己価値を追求する前に、安全を守り、生活の不安を払拭することに意識の大半が向いてしまい、そのことだけで精一杯になってしまうからです。また家族や友人や学校や職場など、身近な人間関係が不和であれば、その煩いにも心が捕らわれて、自分らしさを求めるどころでは無くなってしまいます。ましてや“いじめ”の対象にでもなってしまえば、欲望どころかその苦悩にもがき苦しむことになってしまうのです。

このように、安全や安定した生活、円滑な人間関係のもとで自分の存在が受け入れられて生きることは(そうした欲望が充足されることは)、私たちが幸福を感じるための必要条件となります。こうした必要条件が充足された上で、私たちが実際に幸福感や満足感を覚える欲望が展開することになります。それが幸福を実感できるための十分条件となる欲望です。この欲望は、より個別的な快を求めるものと、より関係性の快を求めるものとに分かれてきます。個別的な快を求める欲望というのは、嗜好(趣味)や享楽・快楽などを求めるもので、それを充足させた時には、一時的ではありますが、確かに満足や幸福感が訪れます。またストレスを解消したり、憩いを求めリフレッシュしたいといった欲望(温泉に行きたいですね)も、それを充足した時には幸福感を得ることが出来るでしょう。

(2)成功と自己価値の実現
幸福感を得るための十分条件となる欲望の内、より関係性の快を求める欲望というのは、1つは承認や成功を求める欲望です。自分に課せられた役割を遂行したり、何かに役立ったり、優れたことを行ったりして、自分の存在が認められ、称賛されることを望む欲望です。あるいはその社会でみんなが価値あると求める目標にチャレンジして、競争に勝ち抜き、それに伴う栄光や褒賞を勝ち得る欲望も挙げられます。これが成功の欲望で、現在では富(事業に成功するなどしてお金持ちになること)と出世(地位)がその対象といえるでしょう。

そしてもう1つの関係性の快を求める欲望というのが、2(2)や、パンセ通信No.125、126などで詳しく述べてきた、真善美などの自己価値を求める欲望なのです。自己価値を求める欲望には、3つほどの特徴があります。まず自己価値の基準(ルール)というのは、人それぞれの生い立ちの相違によって、人ごとに異なってくるということです。自己価値のルールは、自我の中で無意識化されて感受化されて出来上がってくるものですから、何がきれいで美しく、何が正しくて本当なのかという感受性は、生い立ちの違いに応じて人によって異なってきて当然なのです。2つ目は、真善美の価値を求める欲望は、生きていく上で必然的に生じる挫折から派生するあこがれやロマンを求める欲動に支えられて、常に今ある対象のさらにその先にあるものを幻想的に追い求めるということです。これが人間における、内面の精神の自由の正体です。

(3)自由の相互承認と社会的価値創造
3つ目は、先ほど自己価値の感受性は、個人によって異なると言いましたが、もちろん真善美の構造については、一般的に共通了解できる普遍性があることも事実です。そうでなければ私が「これは善だ」と言っても誰にも了解されず、善のルールが人によって異なることになり、社会は崩壊してしまいます。そこで私たちは、無意識の内にも他者の自己価値を意識し、自分のものと比べます。場合によっては明確に意見を述べて、その意見を他人の評価に晒(さら)すことにもなります。関係世界に生きる私たち人間は、このように必然的に自己価値を相互評価することになり、そのプロセスの中で、より多くの人に共感を得られる自己価値を練り鍛えることになり、新たな価値が社会的に創造される萌芽となるのです。

自己価値を求める自我の欲望は、こうしてイノベーションと自己の成長、社会の発展の原動力となるのですが、他者の価値ルール(感受性)との摺(す)り合わせの過程で、自己価値のルールは、自分も他者も相互に変化していきます。このように常に変様していくことが、自己価値を求める自我の欲望の3つ目の特徴なのです。従って真善美の価値ルールの普遍性について、厳密に定義することは出来ません。その都度の社会の状況や共に評価しあう構成メンバーの相違によって異なり、皆がほんとうを求める営みの中で、共通に了解できる真善美が、都度創り出されてくることになるのです(どこかに固定的な本質があって、それが現れ出てくるというのではありません)。これが人間的自由の本質です。

この時私たちは、自分の価値観を相手に押し付けて良しとするのではなく、自分の考えが受け入れられない苦悩にもがき苦しみながら、結果として他者の価値観も受け入れて、お互いが、そして誰もが普遍的に納得できる地点を目指して進み出ていくのです。こうして他者も生かされて自分も生かされながら、誰も傷つけることなく人間と社会を発展させていくという、人間的自由が生み出されていくのです。

このように人間の自我の欲望は、常にほんとうを求めてその先を目指し(精神の自由)、またこの無限に展開する精神の自由を相互に承認して、関係性の自由と新たな価値創造の自由(相互承認の自由)を生み出していきます。こうした人類を発展させていくことの原理を有しているからこそ、どんな人間にも尊厳があり、またこのように人間的自由(精神の自由と相互承認の自由)を発揮させあって、社会全体の富を増していけるようにするために、人権を守ることが重要となってくるのです。

自分なりのほんとうを求め、解き放たれた人間的自由(誰かに不利益や矛盾を押し付けることの無い自由)を実感しながら、社会にとって意味ある新たな価値創造を行っていける時、私たちは充実した自身の存在の意味と価値と、幸福感を実感することが出来るのです。

4.個人の意識の原理から人間の関係性の原理へ
(1)自分の感受性での確認
さてここまで現象学的アプローチを用いて、人間の主観の構造について考え、自己価値の実現を求める自我の欲望と、幸せを感じるための必要十分条件について確認し、共通了解出来るであろうと思われるところを取り出してみました。自我の欲望と幸せは、人間の存在理由であり人生の目的とも言えるものであって、まさに人間の活動の原理とも言えるものです。もちろんここで述べたものは真実でも唯一の真理でもありません。私自身の自我の感受性(自己価値のルール)のもとで、私にとっては確かでしかも普遍性があると感じられるものを、取り出して提示したものに過ぎません。

従ってこの文章を読むそれぞれの皆さんにおいて、自分の感受性において共感・納得が出来るか、あるいは違和感を覚えるかを確認してみる必要があります。そうして自分なりの確信と意見を形づくっていってみる。そうした営みを相互に行い、確認しあってより普遍性(ほんとう)を高めていくことが、民主主義の原理であり、イノベーションと価値の創出につながっていくのです。そしてまた、個人の成長と社会の発展の動力ともなっていくのです。

(2)人間の関係性の3つの次元
以上のように個人の主観的な意識の構造を整理してきたところで、次に関係世界に生きる私たち人間の、人と人との関係性の原理について、検討を進めていきたいと思います。これも同じように現象学的手法を用いて、私たちの意識の上でどのように関係が捉えられ、確認できるかということを積み重ねていくことによって、普遍的な原理を取り出していってみたいと思います。

人間の関係性については、大きく3つの対象と次元に分けて考えてみることが出来ると思われます。第1の対象は、直接的な人間関係の次元です。身近に、直接的に接して交渉を交わす人現関係です。第2の対象は、間接的な人間関係の次元です。大企業のような巨大組織や、社会や経済や国家などにおける、抽象的かつ普遍的な関わりを持つ人間関係です。そして第3の対象は、自分自身です。自分自身とうまく折り合いをつけて、自我を御して、自分を生き易くそして自己価値を発揮させていけるような、自分自身との関係性の持ち方についてです。

自分自身との関わり方や直接的な人間関係との関わり方については、伝統宗教が培ってきたノウハウの蓄積があるので、今後そうした叡智も参考にしていってみたいと思います。また社会や経済や国家などの抽象的かつ普遍的な人間関係のあり方については、近代市民社会の原理として西欧で展開された近代思想の蓄積があるので、そうしたものも指針として考えていってみたいと思います。

5.直接的人間関係の5類型
(1)家族的関係と役割的関係
そこでまず今回は、人間関係の第1の対象である、直接的な人間関係の次元について、その枠組みを整理していってみたいと思います。直接的な身近な人間関係を、私たちの意識で捉えられる状況に応じて分類してみると、5つほどの相違する関係に分けられるかと思われます。

最初に分類できる関係性は、危険や恐れや不安を感じる関係性です。人間関係が敵対的であったり、相手が信用出来ず、危害を及ぼされる可能性のあるような人間関係です。力による支配・被支配の人間関係や、いじめによる人間関係などが想定されます。2番目は家族的人間関係です。愛情をベースにしながら、お互い同士の存在を無条件に全的に受け入れて、普段は空気のように意識することなく暮らしを共にし、何かあれば配慮しあうような人間関係です。意図的に努力しなくても、無前提に出来上がっているような人間関係で、伝統的な村落共同体などもこうした人間関係の内に入るでしょう。

3番目は役割とその評価的承認にもとづく人間関係です。職場や取引先との人間関係などがこれにあたります。役割をこなし、成果を上げることによって評価を受け、自己価値を充たしていけるような人間関係です(成果を上げられなければ肩身の狭い思いをしますが)。時に自分の成果を上げるために、他者を自分の目的の手段として見てしまうこともあるような人間関係です。現代においてはこの部分の人間関係において、競争ゲームが展開されるので、競争的人間関係と呼んでも差支(さしつか)えないでしょう。それ故にまた敗者は勝者に対して、妬みや恨みを抱くことになるような人間関係です。

(2)信頼関係と自己価値を相互発揮させる関係
4番目は親和的承認と信頼の形成による人間関係です。クラスや職場の仲間や、親しい仕事先の人間関係などです。初めは見ず知らずの他人であったものが、次第に親しくなり、信頼感を抱くことになるような人間関係です。信頼感を抱けるようになるまでには、長い時間を要しますが、一旦信頼が形成されると、様々な協力関係の相手となり、貴重な財産となります。江戸時代のような平和で安定的で、持続可能性が予期できたような時代においては、信頼性をより多く勝ち得る徳の高い人間を目指すことも、文化的な競争として人々の意識中に刻み込まれていました。

5番目は、自己価値の実現を求める自我の欲望の自由を相互に承認し、普遍的価値を生み出していこうとするような人間関係です。優れた教師や親方、リーダーなどはこうした意識をもって、生徒や弟子やメンバー各人の得意な能力を伸ばして、人材を育成していきます。またかつてのモノづくり大国日本の製造現場においても、それぞれが与えられた工程において職人的な自己価値を発揮し、他に追随を許さない誇りをもって仕事に取り組んでいたことでしょう。あるいは芸術などの文化活動の批評サークルなどでも、こうした人間関係が営まれることがあると思われます。しかし残念ながら現代の日本社会においては、一人一人の“ほんとう”を求める思いと努力を大事に育んで、それを組み合わせて普遍的価値を創造し、生産性を向上させていこうとする営みが、意識的に取り組まれているとは思えません。それが現在の日本における、停滞の理由の1つでしょう。

こうした直接的な人間関係のあり方を手掛かりに、自分自身との関わり方、そして社会・経済・国家との関わり方を検討し直し、自己価値を求める自我の欲望を充たせるような、また自己価値を求める自由の相互承認を行って、普遍的価値を存分に生み出していくことの出来るような、そんなこれからからの人間の生き方と社会のモデルを描いていってみたいと思います。次回のパンセの集いの勉強会は、3月13日の月曜日18時からです。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。


P.S. 現在パンセ通信は、No.126まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

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