ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.132『富とは何か宝とは何か-現代の重商主義を克服する視点』

Apr 15 - 2017

■2017.4.15パンセ通信No.132『富とは何か宝とは何か-現代の重商主義を克服する視点』

皆 様 へ

1.富とは蓄財された金銀や貨幣のことか?
富とはいったい何でしょうか。それは豊かさを集積し、象徴するものであることには間違いが無いのですが、それでは、金や銀などの貴金属や貨幣などのことを指すのでしょうか。実際に16~18世紀にかけてのヨーロッパにおいては、金や銀や貨幣こそが富の源泉であるという理解のもとに、重商主義の経済政策が採用されました。この考えに基づいて、大航海時代のポルトガルやスペインは、南米を始め世界中に進出して、金や銀などの“宝”を強奪して自国に持ち帰ったのです。その後絶対専制君主制や啓蒙専制君主制のフランスやイギリスにおいては、輸出が輸入を上回る保護主義政策(輸出奨励と輸入制限)を採ることによって、貿易黒字による貨幣の蓄積を図り、国家を富ませようとしました。

富とは金や銀や貨幣のことであり、それを増やすことが豊かになることである。あるいは国家にとって、貿易の黒字は利益であり、赤字は損失である。それ故に国富を増やすためには、貿易黒字を図らなければならないという考え方は、直感的には非常に分かり易い考え方です(要するに富とは金・銀・貨幣であり、国力の増大とはその蓄積であるということ)。しかし18世紀半ばからの産業革命と、工場制に基づく労働者による商品生産の本格的な発展(資本主義)によって、こうした考えと政策では、人々も国も豊かにならず、却(かえ)って経済に弊害をもたらすことが明らかになってきました。それ故にアダム・スミスやリカードなどによって、近代産業社会に相応した経済学(古典派経済学)が体系化されてくることになるのです。

それでは、改めて富とは何でしょうか。そして現在においてもなお、アメリカのトランプ大統領がアメリカファーストを掲げて保護主義政策を打ち出し、また日本においても、依然として国際競争力の強化による輸出主導での経済成長が、自明のこととして受け入れられているのは何故なのでしょうか。そのことを手掛かりとしつつ、引き続き1980年代以降の新自由主義による世界の推移を整理し、現在における処方箋について考えていってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月17日の月曜日18時から、渋谷区本町ホームシアターで行います。またその次の4月24日(月)は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を行います。課題映画は日本映画の社会派・人道派の旗手、木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月(1957年)』を予定しています。

2.昔話が教える富と宝の本質
(1)宝とは富や幸せを提供するもの
富(宝)とはいったい何か?このことを考えてみるために、まず私たちの先人たちがどのように考えてきたのかを参考にし、そのことを糸口として検討を進めていってみたいと思います。ところで伝統と対話することによって、多様性(現在と過去の相違と共通)を過去にまで押し広げて新たな価値を見出していくことは、14~15世紀のイタリアルネッサンスにおいて用いられた方法で、次の時代の原理を見出すためにものごとの本質に気づいていくためには、常に有効な方法となります。

さて日本の昔話の中には、一寸法師の打出の小槌など、宝物(富の源泉)に溢れた物語が多くあります。紫式部が「物語の出(い)で来はじめの親(最初の物語)」と書いた『竹取物語』においても、多くの宝物が登場してきます。まず竹の節から黄金が出てきます。そしてかぐや姫は5人の求婚者に、宝物を持ってくれば結婚すると、宝探しを命じます。その宝が「仏の御石(みいし)の鉢(はち)」、「玉の枝」、「火(ひ)鼠(ねずみ)の皮(かわ)衣(ごろも)」、「龍(たつ)の首の中にある五色の玉」、「燕(つばめ)の子安(こやす)貝(がい)」なのですけれど、5人とも宝探しに失敗します。

ところで宝物というのは、往々にして光輝いています。それでは竹取物語において、最も光輝くものとして表現されているものは何かと言えば、黄金や玉や鏡などよりも何よりも、“かぐや姫”その人です。かぐや姫は光り輝くように美しく、彼女のいる部屋は暗いところが全く無いほどに光が満ち溢れています。育ての親の竹取の翁(おきな)も、気分がすぐれない時は、かぐや姫を見ればその苦しみが消え去り、腹を立てていても心が安らぎます。そしてかぐや姫を養い始めてから、節に黄金の詰まった竹を幾度なく見つけ、次第に裕福にもなっていくのです。

つまり竹取物語が後世の私たちに語りかけるものは、宝物とは、(黄金のように)消費すれば人手に渡って無くなってしまうような物質ではなく、“かぐや姫”その人であるということです。そしてかぐや姫は、自分と関わる人間に、常に豊かさと幸福を提供しつ続ける何らかの原理や仕組みを月の世界から持ち来たって、地上の人たちに伝えようとしたのです。しかし結局私たちは、それを理解しようする目も耳も持たず、かぐや姫は月の世界に帰っていくことになるのです。

(2)宝物への関わり方
次に『花咲か爺さん』の昔話です。この話では、犬のポチが宝物(富の源泉)で、正直者の老夫婦に大判小判を始め、豊かさと幸福をもたらします。しかし欲張りでポチ(宝・富)を邪険にし、あるいは私利私欲の強欲の目的に扱う隣の夫婦に対しては、ガラクタや汚物、そして不幸をもたらすだけです。さてこの物語が教えるのは、宝や富に対する人間の側の関わり方です。人間が正しく(ポチに)働きかければ、宝は富を生み出し続けますが、正しく管理しなければ、逆に災いをもたらすものになるのです。

そして3つ目が、『古事記』の山(やま)幸彦(さちひこ)の神話です。山幸彦は海神宮(わたつみのいろこのみや)から、海面を上昇させる「シオミツ玉」と、海面を下降させる「シオヒル玉」を授かります。そしてこの2つの宝物をセットで使いこなすことによって、意地悪な兄の海(うみ)幸彦(さちひこ)を溺れさせて屈服させ、また服従を誓ったので海面を下降させて命を助けます。こうして山幸彦が地上の支配権を兄から奪い取り、権力とその正当性を確立し、彼の孫が初代神武天皇として即位することになるのです。この物語から教えられることは、宝物から富や幸せを引き出すためには、相反する要素をセットで用いなくてならない(3種の神器のように、3セットの場合やそれ以上の場合もあります)ということです。(以上島内景二「源氏物語に学ぶ13の知恵」より)

(3)富を生み出す5つのポイント
以上の昔話を通じて先人たちが、現代の私たちに“富”について教えてくれるものを整理すると、以下のようになるでしょう。まず第1に富に対して、それを生み出す“宝”があるということです。第2に宝は、黄金のように使えば無くなってしまうようなものでは無く、特別な人間や存在(かぐや姫やポチ)として現れ、その特別な存在は、常に富(や幸せ)を供給し続ける何か(仕組み)を象徴しているということです。そして第3にその宝から富を生み出し続けるためには、私たちは宝に対して正しく働きかけて管理せねばならず、第4にその管理の要諦とは、強欲にならないなどの心の姿勢と、相反する要素をセットで巧みに用いて制御していく必要があるということです。

さらに第5に、もし私たちが宝に対する働きかけを過(あやま)つならば、宝は人間に富をもたらすどころか大きな災いをもたらし、源氏物語の六条(ろくじょうの)御息所(みやすどころ)のように、恐るべき祟(たた)りや不幸と悲しみをもたらす存在となってしまうということです。宝物にはこのように、両義性があるのです。それ故に逆に、私たちに敵対して大きな苦難をもたらすものは、実は私たちの接し方が間違っているだけで、本来は大きな宝であるのかもしれません。確かに大きな敵ほど、味方につければ頼もしいものはありません。そして第六に源氏物語に登場する葵(あおい)の上や明石の君に対する光源氏の接し方のように、人間は宝物を手にしているにも関わらずそれが分からず、別のものを宝と見誤って追いかけてしまうことがあるということです。

3.重商主義と古典派経済学における富の概念の相違
(1)富とは生活の豊かさ
さて以上のように、昔話から先人たちが教える富とそれを生み出す宝について聞き取って整理した上で、もう1度アダム・スミスに戻って、“富”とは何かについて考えてみたいと思います。アダム・スミスの著(あらわ)した書物の題名は『国富論』ですが、正式な題名は『諸国民の富の性質と原因の研究』です。つまり富とは何であり、それはどこから生まれてくるかについて研究した書物ということです。彼が国富(国の富)ではなく、諸国民の富(人々の、人類の富)と言っていることも、示唆的なことだと思われます。

アダム・スミスが指摘したことは、富とは貴金属や貨幣の蓄積、あるいは貿易黒字などではなく、年々に国民が享受できる生産物の量(つまり一人当たりの消費の量、生活の豊かさ)だと言うことです。そしてその富を生み出す原因となるのが、人間の労働(労働価値説)だという原理を置いたのです。そしてその国民が享受できる生産物を生み出す“宝”を、人の労働を効率よく生産物に転換して富を生み出す、産業の仕組みとその発展だと看破したのです。

(2)絶対王政の財政基盤としての重商主義
確かにいくら貴金属を貯めこんでも、貿易黒字が拡大しても、それを有効に用いて豊かになるので無くては“富”とは言えません。業突(ごうつ)く張(ば)りの金貸しの婆さんが、質素な生活に身を置きながらいくらお金を貯めこんだとしても、豊かとは言えません(お金を貯めねばという脅迫神経症的な不安の解消と、強欲の充足は果たせるかもしれませんが)。ところで16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパにおいて重商主義の政策が採られたのは、「富とは黄金であり、豊かさとはその蓄財である」という論理が、直感的で分かり易かったこともありますが、もう1つの理由は、絶対王政の財政を賄う必要があったからでもありました。

当時のヨーロパでは、貨幣経済や工場制手工業などが次第に進展してきて、新興ブルジョアジー階層が勃興してくる一方で、貴族階層が次第にその経済的地位を弱体化させていきました。こうした状況において、国王に大きな権力を与えて、貴族やブルジョアジー、また商人・職人ギルドなどの特権階層の利害を調停する必要が生まれてきたのです。こうして誕生してくる絶対王政において、国家は中央集権化が図られ、そのために官僚制の維持が必要となってきました。また他方で王権を支える特権階層の利益享受の期待にも応えねばなりません。そのためには重税を課して農民を疲弊させたり、特権層の誰かの利益を奪って他に分け与えるわけにもいかず、畢竟(ひっきょう)国外から富を得ていくしかありませんでした。それは植民地の獲得であったり、交易路の確保であったり、土地(農林収益)の奪取であったりしたわけですけど、そのためには他国との紛争に備えねばならず、常備軍の維持も必要となってきたのです。

こうして絶対王政にとって、その中央集権統治を支える官僚機構と常備軍を維持する費用が、既存の税収以外に必要となり、その費用を賄うために重商主義の経済政策は編み出されていったのです。そしてまた重商主義は、絶対王政を支える特権階層への利益配分型政治と、国家の求心力を高めて対外紛争に勝利するためのナショナリズムとも結びついていったのです。

4.重商主義から産業発展へ
(1)重商主義の破綻
しかしながら、やがて重商主義政策は行き詰まるようになってきます。17世紀の初頭には、膨大な戦費と新大陸植民地から産出する金銀の枯渇、および植民地経営コストの上昇によって、財政破綻を来(きた)したポルトガル・スペインがまず没落していきます。また貿易差額(黒字)を求めて保護主義政策をとったイギリスも、穀物を無理に輸出に回したことによる国内穀物の価格の高騰と、軍事支出の増大によって国内経済が疲弊し、人口の増加も伸び悩む事態に至りました。

そもそも重商主義の目的は、絶対王政の財政を賄うことであって、そのために君主は東インド会社などに特権的営業権を与えて、その利益から財政資金を賄おうとします。ただ海外から富を得て、その富を東インド会社などの特権団体や特権階層、そして中央集権の官僚機構や常備軍組織を循環させるだけのもので、どこにも“富”そのものを生み出す仕組みは無かったのです(もちろん東インド会社などが資本を蓄積し、後の産業革命を推進する投資資金の原資となったという効用はありますが)。

(2)産業発展によるイギリスの繁栄
こうしてイギリスは、貿易差額を求めての保護主義政策を次第に放棄(規制緩和)して、自由貿易(関税率の引き下げ)に向かわざるを得なくなりました。しかしその結果、次第に国内産業が活性化し、国民の労働による生産力が増大していくことになったのです。(このような状況は、スペインから独立したオランダについても見られました)。そしてイギリスはやがて世界の工場となり、19世紀はイギリスの世紀となって空前の繁栄を遂げ、世界に君臨する大英帝国を築き上げることになったのです。

一方重商主義に固執したフランスは、英国との植民地戦争に敗れた後、海外からの富の流入の術(すべ)を失ってしまいます。それでも中央集権を維持するために財政を賄わなければならず、止む無く国内での平民階層への増税と、貴族やブルジョアジー階級への税金配分を見直して中央政権(国王)への配分を多くしようとします。その不満から約170年ぶりに三部会を招集せざるを得なくなり、これがフランス革命の引き金となってf、フランスの絶対王政ブルンボン王朝は滅亡することになるのです。

5.現代における富と富を生み出す仕組み
(1)富を生み出す宝としての産業
さてこのように、金銀・貨幣の蓄積や貿易黒字を富とする重商主義は、結局その目的とする経済効果を果たすことが出来ないことが分かり、産業革命の進展する19世紀の世界においては消滅していくことになります(現在再びその亡霊が復活しているようですが)。それでは改めて“富”とは何でしょうか。それをアダム・スミスが置いた原理に沿ってもう1度整理してみることにします。

“富”とは、国民(人々)が享受する生産物の量(一人当たりの消費量)のことであり、これが増大するほど富は増し、豊かになります。つまり富とは、“国民(すべての人々の)生活の豊かさ”と言い換えることも出来るのです。そしてこの富(価値)を生み出す原因となるのは、人間の労働(活動)です。またこの富を生み出し続ける“宝”となるものが産業です。産業によって、個々人の人間労働が、すべての人間生活を豊かにする膨大な生産物へと置き換えられるようになるのです。従って国家における経済政策の目標は、貿易黒字やそのための輸出を中心とした国際競争力の強化ではなく、国民労働による生産力の増大(そしてその消費を享受できる豊かな国内市場の形成)ということになってくるのです。

(2)産業を機能させる3つの宝
それでは富を供給し続ける宝である“産業”とは何なのでしょうか。それはどういう仕組みのものなのでしょうか。まず第1に貨幣経済と資本主義を取り出すことが出来ます。貨幣は人間の様々な物的財貨やサービスへの欲望を、貨幣に収斂させることで価値(富)の象徴となっていきます。そのことによって貨幣は、富を求め、また蓄積してさらに投資して増大させる(資本主義)という、自己利益の欲望を刺激し拡大していきます。こうして貨幣によって触発された自己利益への欲望は、富(価値を生み出す)の第1原因である人間労働を喚起する原動力となっていくのです。次いで第2は市場機能です。市場での商品取引(交換)は、自己利益の追求による商品生産や流通を、他者や社会のための生産へと自動的に転換していきます。また価格調整メカニズムを通じて、必要な財の種類や量と、その効率的な生産・供給・配分を達成していきます。この貨幣経済(資本主義)と市場メカニズムという宝によって、私たちは、交換・分業(生産)・消費という循環を社会の隅々にまで普遍的に行き渡らせ、この循環を拡大させることで、次第により大きな消費を享受出来るようになっていったのです。

加えて第3の宝があります。それが国民(市民、民主主義)国家の仕組みです。国民国家は、一般意思(国民全ての幸せ)の実現を目的に、富を生み出す宝である産業・経済の仕組みを調整すると共に、各人の多様な自己価値を追求する欲望をも調整して、その多様性を発展と成長の原理へと組み替えていく仕組みです。発展というのは、生産と消費の循環の規模を恒常的に拡大させていくことと、その仕組みを高度化させていくことを言います。成長というのは、人間の自己価値を求める欲望の自由を育んで、またそれを実現する能力を培って、新しい価値を生み出していく力を強めていくことです。

現代においては上記の3つの富を生み出す仕組み(宝)に加えて、普遍生産と普遍消費を永続的に可能にしていくための“普遍循環”の仕組みの確立が求められているでしょう。また現状の貨幣・資本主義経済と市場メカニズムにおいては、人間の欲望は物的財貨を求める競争ゲームへと一元化されていきます。しかし先進国において消費革命が一巡してきた現在の段階においては、物的欲望以外の人間の自己価値を求める多様な欲望をも充足し、それを価値へと変えていって、人間的豊かさの総体をも拡大させていく仕組みも、求められてきているものと思われます。

6.豊かさと発展への新しい道筋
(1)現代における富と宝への働きかけ方
さて今回は、重商主義とアダム・スミス(古典派経済学)との比較から、現代における富とは何か、富み生み出す仕組み(宝)とは何かについて検討してきました。そこで最後に、更にこの富や宝の扱いについて、昔話に込められた先人たちの教訓を重ね合わせて考えておきたいと思います。

まず第1に、現代における人間と人間社会にとっての“富”と“宝”が何であるかを、見間違えないようにしなければならないということです。この対象を誤って、別のものを宝として追い求めたが故に失敗したのが、社会主義であったということが出来ます(その内容については、後日詳述します)。第2には、富を生み出す宝に対して、正しく働きかけて管理しなければならないということです。さもなくば市場は失敗して寡占や環境汚染、また格差の拡大をもたらし、資本主義は強欲なものへと暴走します。更に国家も市民原理を失い、ファシズム化することも生じてくることになります。そして第3に、この宝を管理していくためには、多様性と市場原理など、相反する要素を巧みに制御して(1つの価値や手法に固執する原理主義に陥ることなく)、現実的に柔軟に対処していくことが求められてくるということです。

(2)富への新しい道筋を求めて
前回と今回のパンセ通信を通じて、現代の政治理念と富の原理、そしてその富を生み出す仕組みとそれへの対処の仕方について整理してきました。こうしたことを視点として、次回は1980年代以降の新自由主義について見ていきたいと思います。本来1つの経済政策にしか過ぎなかったものが、何故キリスト教原理主義や保守ナショナリズム・復古主義と結びついて、社会主義に対抗するイデオロギーとなっていったのか。そしてなぜそこからポピュリズムが台頭するようになっていったのかを検討し、経済と人間性において、豊かさを再興する道筋を明らかにしていってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、4月17日(月)の18時から、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。また4月24日(月)はホームシアターサークルの活動を行い、木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』をテーマとする予定です。


P.S. 現在パンセ通信は、No.129まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

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