■2014年11月30日 パンセ通信No.8 『いのちを励ます死についての捉え方』
皆 さ ま へ
12月2日(火)も、表参道のフィルムクレッセントで16時からパンセの集いを行います。
昨日私の昔からの知人で、今大学で博士論文の仕上げを行っている方と話す機会がありました。彼女は看護学が専攻で、透析患者の看護ケアをテ-マにしていらっしゃいます。透析患者さんというのは、腎臓の機能を代替する透析機器によって、人工的に血液を浄化するのですが、やはり負担があり、次第に身体各部の機能が衰えていきます。ある意味ガン患者の方よりもさらに長い時間をかけて、緩慢な死へと歩んで行かなければなりません。当初は1日おきの透析を続ける限り、会社勤務を行う等通常に近い生活を行っていけるのですが、やがて足が壊死して車椅子生活になり、皮膚の色も黒ずみ、ついには全身の様々な症状が悪化していきます。
この透析患者に対する現在の医学的研究の大部分は、どう適切で効果の高い医療処置を施すかというものです。確かに医学・看護学の課題は、あたり前のことですが、病気をいかに治すかということになります。
しかし、もう治療が困難な患者さんにどう対応するかということは、長らくテ-マから除外されてきました。病気を克服することが、医学のテーマだったからです。ですから、やがてはもう病気の治療ができなくなる時が来るのが分かっていても、治療困難者への対応は、主要なテ-マから除外されてきたのですね。
ただ看護学の分野ではそうはいきません。もう治療が困難になった患者さんに対して、どう看護ケアを行っていくか。それが私の知人のテ-マです。皆さんはそんなこと本当?って思われるかも知れませんが、今医療の現場では、例えばガン患者の方が、「先生、痛くてたまらないのですが、何とかして頂けませんか」とお医者さんに訴えると、検査デ-タを見ていたお医者さんが「おかしいですね、デ-タ的にはもう異常値はないので、痛みはないはずですが」などという会話が、平気で交わされているということも聞きます。生身の人間としての患者さんを見るのではなく、検査デ-タが優先されるのですね。
彼女は、生身の患者さんの訴えに寄り添う看護を確立するために、仏教でいう唯識論の現代的発展ともいえる現象学の方法を用いて、患者さんの内面を理解し、その人の人間的な訴えに寄り添った看護のあり方と方法を、論文にまとめようとしているのです。
しかしそれでも、本当の終末期になると、そんな論理や方法論さえももう通用しなくなります。死に赴く人の心を、どうなだめ、恐れを取り除き、平穏に死を受け入れる整えをしていくのか。本当の意味での、一番大切な人間のいのちへの配慮、いや生死を越えた魂への配慮が求められてきます。
欧米のキリスト教圏では、古くから病院付きのチャプレンという制度があり、死にゆく人々の魂のケアを行っています。日本でも、3.11以降東北大学に臨床宗教学講座が設けられ、死を迎える人々とその家族を支える人材を、宗派を超えて育成し、終末期医療の現場に送り出し始めています。
生が尽きる時だからこそ、また生にとって一番大切ないのち価値が何であったのかが、見えてくる時でもあります。では、この一番大切ないのちの価値とは何なのか。それが伝統宗教が求めてきたものであり、パンセ・ドゥ・高野山でもそれに基づいて、生き方や社会の仕組みを考えていきたいと思っている内容です。
少しずつその内容とそれにもとづくあり方について問い続け、またその情報発信としてのWebサイトの内容も検討していければと思っています。
お時間許す方は、今週火曜日ですので、パンセの集いご参加ください。
なお、12月4日(木)に芳賀妙純先生が、巣鴨真性寺で「高野山の案内犬ゴンちゃん」の法話をなさいます。ます。また12月3日(木)には、大徳院で第2回の増田ご住職の法話対談「お葬式は晴れ舞台」の収録を行いますので、ご連絡致します。
P.S. 10月2日に収録しました増田ご住職の第1回法話対談の内容が、ようやくまとまりました。「いのちを励ます死」をテーマに対談を行いましたが、内容が膨大なので、とりあえず表題と見出しだけを下記致します。多少なりとも興味のある方は、眺めていて下さい。病・老・死は成熟社会にとって大きなテ-マとなってきますので、いつか役に立つことがあるかもしれません。
<両国大黒院 増田ご住職 「ゆったりまったりお茶のみ法話」>
第1回 おらぁ~まだ死にたくねぇ~
第1部 恐怖の死とやすらかな死
(1)人は何故死にたくないと思うのか
(2)怖い死とやすらかな死 ― 2つの死がある事実
(3)やすらかな死の様相
(4)肯定感と幸福に包まれた死後の世界
第2部 お大師様の説かれる死
(1)祈り、あるいは加持祈祷の世界
(2)空海の説く死 - 定に入るということ
(3)定とは対極、自我に生きる私たちの生き方
(4)対象化する人間の意志と曼荼羅の世界
(5)死の始まりと宗教・哲学の智慧
(6)悟りの境地を現実に実現していくために - 布施
第3部 生ける者を豊かに励ます死の捉え方
(1)生死を貫くいのちの往来 - 如来如去
(2)聖なる死者との対話
(3)普段の父親の姿と背後の父性
(4)分かち合い、気づかい合いのいのちの領域
(5)いのちを育む自然環境と伝統宗教
第4部 葬儀、病、お墓の持つ豊かな意味の捉え方
(1)意味喪失の現代の葬儀から、穢れをハレに変える本来の葬儀へ
(2)戒名の持つ力
(3)病の捉え方と加持祈祷
(4)死を扱わず、葬儀を軽視することで衰退する宗教
(5)三有 - 生死を越えた意識の転回
(6)人生を充実させる墓
皆 さ ま へ
12月2日(火)も、表参道のフィルムクレッセントで16時からパンセの集いを行います。
昨日私の昔からの知人で、今大学で博士論文の仕上げを行っている方と話す機会がありました。彼女は看護学が専攻で、透析患者の看護ケアをテ-マにしていらっしゃいます。透析患者さんというのは、腎臓の機能を代替する透析機器によって、人工的に血液を浄化するのですが、やはり負担があり、次第に身体各部の機能が衰えていきます。ある意味ガン患者の方よりもさらに長い時間をかけて、緩慢な死へと歩んで行かなければなりません。当初は1日おきの透析を続ける限り、会社勤務を行う等通常に近い生活を行っていけるのですが、やがて足が壊死して車椅子生活になり、皮膚の色も黒ずみ、ついには全身の様々な症状が悪化していきます。
この透析患者に対する現在の医学的研究の大部分は、どう適切で効果の高い医療処置を施すかというものです。確かに医学・看護学の課題は、あたり前のことですが、病気をいかに治すかということになります。
しかし、もう治療が困難な患者さんにどう対応するかということは、長らくテ-マから除外されてきました。病気を克服することが、医学のテーマだったからです。ですから、やがてはもう病気の治療ができなくなる時が来るのが分かっていても、治療困難者への対応は、主要なテ-マから除外されてきたのですね。
ただ看護学の分野ではそうはいきません。もう治療が困難になった患者さんに対して、どう看護ケアを行っていくか。それが私の知人のテ-マです。皆さんはそんなこと本当?って思われるかも知れませんが、今医療の現場では、例えばガン患者の方が、「先生、痛くてたまらないのですが、何とかして頂けませんか」とお医者さんに訴えると、検査デ-タを見ていたお医者さんが「おかしいですね、デ-タ的にはもう異常値はないので、痛みはないはずですが」などという会話が、平気で交わされているということも聞きます。生身の人間としての患者さんを見るのではなく、検査デ-タが優先されるのですね。
彼女は、生身の患者さんの訴えに寄り添う看護を確立するために、仏教でいう唯識論の現代的発展ともいえる現象学の方法を用いて、患者さんの内面を理解し、その人の人間的な訴えに寄り添った看護のあり方と方法を、論文にまとめようとしているのです。
しかしそれでも、本当の終末期になると、そんな論理や方法論さえももう通用しなくなります。死に赴く人の心を、どうなだめ、恐れを取り除き、平穏に死を受け入れる整えをしていくのか。本当の意味での、一番大切な人間のいのちへの配慮、いや生死を越えた魂への配慮が求められてきます。
欧米のキリスト教圏では、古くから病院付きのチャプレンという制度があり、死にゆく人々の魂のケアを行っています。日本でも、3.11以降東北大学に臨床宗教学講座が設けられ、死を迎える人々とその家族を支える人材を、宗派を超えて育成し、終末期医療の現場に送り出し始めています。
生が尽きる時だからこそ、また生にとって一番大切ないのち価値が何であったのかが、見えてくる時でもあります。では、この一番大切ないのちの価値とは何なのか。それが伝統宗教が求めてきたものであり、パンセ・ドゥ・高野山でもそれに基づいて、生き方や社会の仕組みを考えていきたいと思っている内容です。
少しずつその内容とそれにもとづくあり方について問い続け、またその情報発信としてのWebサイトの内容も検討していければと思っています。
お時間許す方は、今週火曜日ですので、パンセの集いご参加ください。
なお、12月4日(木)に芳賀妙純先生が、巣鴨真性寺で「高野山の案内犬ゴンちゃん」の法話をなさいます。ます。また12月3日(木)には、大徳院で第2回の増田ご住職の法話対談「お葬式は晴れ舞台」の収録を行いますので、ご連絡致します。
P.S. 10月2日に収録しました増田ご住職の第1回法話対談の内容が、ようやくまとまりました。「いのちを励ます死」をテーマに対談を行いましたが、内容が膨大なので、とりあえず表題と見出しだけを下記致します。多少なりとも興味のある方は、眺めていて下さい。病・老・死は成熟社会にとって大きなテ-マとなってきますので、いつか役に立つことがあるかもしれません。
<両国大黒院 増田ご住職 「ゆったりまったりお茶のみ法話」>
第1回 おらぁ~まだ死にたくねぇ~
第1部 恐怖の死とやすらかな死
(1)人は何故死にたくないと思うのか
(2)怖い死とやすらかな死 ― 2つの死がある事実
(3)やすらかな死の様相
(4)肯定感と幸福に包まれた死後の世界
第2部 お大師様の説かれる死
(1)祈り、あるいは加持祈祷の世界
(2)空海の説く死 - 定に入るということ
(3)定とは対極、自我に生きる私たちの生き方
(4)対象化する人間の意志と曼荼羅の世界
(5)死の始まりと宗教・哲学の智慧
(6)悟りの境地を現実に実現していくために - 布施
第3部 生ける者を豊かに励ます死の捉え方
(1)生死を貫くいのちの往来 - 如来如去
(2)聖なる死者との対話
(3)普段の父親の姿と背後の父性
(4)分かち合い、気づかい合いのいのちの領域
(5)いのちを育む自然環境と伝統宗教
第4部 葬儀、病、お墓の持つ豊かな意味の捉え方
(1)意味喪失の現代の葬儀から、穢れをハレに変える本来の葬儀へ
(2)戒名の持つ力
(3)病の捉え方と加持祈祷
(4)死を扱わず、葬儀を軽視することで衰退する宗教
(5)三有 - 生死を越えた意識の転回
(6)人生を充実させる墓