
第1回『おらぁ~まだ死にたくねぇ~!』
その3 生ける者を豊かに励ます死の捉え方(3/4)
(対談者)
増田任雄
高野山真言宗 大徳院住職(東京両国)
御府内八十八ヶ所霊場50番札所
両国陵苑(堂内陵墓)を建設、運営
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■生死を貫くいのちの往来 - 如来如去
こうして人の生き死にの話、特に死の話をしてくると、どうしても、生死を貫く定・瞑想の境地というか、あるがままの不生不滅の仏の心のあり方というか、そこに戻っていくんだよ。
トリ・コ-ジ:
わかります。なんていうのかな、表面的な自我の下に隠れた、不変のいのちのあり様の領域というか。人間が自我によって自分の外の事象を対象化し、それによって自分の思い通り、思いのままに外界を操りたい、そういう世界で生きていきたいというのはある意味で仕方がない。そして、それに意味がないということではけっしてない。それが現実にこの世で生きるということだからですね。だけど例えば赤ちゃんを見ても分かるとおり、赤ちゃんにはまだ自我はない。実は私たちのいのちというのは、そういう自我だけで成り立っているわけではなしに、もっと開かれた領域というのが、その自我の底に広がっているはずなんですね。もしそこで生き得た時には、例えば仏教では菩薩行とか利他行とかあるように、人のために生きることが、本当に自分のこととしての喜びとなって生きられるようになってくる。普段の自我の自分で生きていると、人のために生きたら、自分が損をするみたいな感じになってしまいますけどね。人のためといっても、せいぜい自分に余裕が出来た時ということになり、いつまでたっても自分のことで手一杯で、結局余裕ができないということになってしまう。でも実は、人のためになって、その人が本当に喜んでくれたら、今度は自分のいのちも喜んで、大きな生きる力と希望を得ることができるという心性は、私たちの中に組み込まれてあるんですね。だから、人のために生きるということは、何よりも自分を救うというか、自分だけという負い目を越えて、心を楽に伸びやかに解き放つメリットというのがあるのです。
こうした共感と共生の心性というのは、思いのままという自我の自分で生きていると見えてこない。その思いのままの自我でいくと、死は思いのままにならない究極のイベントだから、死は怖いし、死ぬ前に好き勝手やっておこうということにもなってしまう。けれども死は、そんな捉え方ばかりではなしに、自我の底に開かれた共感と共生の心性で捉えてみれば、さきほど話したように、死を契機として私たちのいのちが、時空を超えた大きないのちのつながりに、そこには自分を含めたすべての生きられたいのちの尊い意味と価値が集積されているような、そんな大きないのいちの源に帰っていくための、1つの貴重な契機として死を捉えることもできます。そうした死の捉え方をすれば、執着の多い自我を解き放ち、開かれたいのちの心性で世界を見て、もっと互いに慈しみあいながら、生き方をもっと豊かにしていこうという思いが起こされてきますよね。
増田住職:
ところでね、仏教だとさ、如来っていう言葉があるでしょ。如から来るって書くよね。
トリ・コ-ジ:
はい、向うから来るってことですね
増田住職:
それでもう一つ、よくあなたと話したけど、如去(にょきょ)っていう言葉、如に去る、行くという言葉もあるんだよ。つまり如去如来。如へ行った人が始めて、今度は如から還って来て、それを我々は如来として拝むわけなんだよ。
トリ・コ-ジ:
ああそうかそうか、1回向こうへ行って帰ってくるということですね。
増田住職:
それでね、往生っていう言い方があるじゃない。生から往くということだけど、これも還るという意味が対になっている。例えば往相回向(回向;自分の功徳を他に差し向ける)、還相回向という言葉があって、還相回向というのは、如来、言い換えると仏の方から我々に回向をしてくれるということなんだ。この行って始めて還ってくるという捉え方が、特に密教なんかにおいては、先祖供養観の根底に流れる重要な考え方なんだね。 例えば御位牌に向かって私なんかが、こうお経を読むでしょ。でも仏道の経験の無い人から見れば、何やってんだ、あんな木っ端なんか拝んでと思われるだろう。また3回忌なんかに拝んでいても、何だもう2年も前に亡くなった人の記憶を呼び覚ましてと、ある種の回顧趣味ぐらいにしか思われない。確かに普通の我々の時間軸でいうと、過去というのは、自分がもう通り越してきた背後の後ろの方にあることになる。
ところがね、あの如来如去という捉え方からすると、亡くなった人を過去に思い起こすというのはとんでもなくて、亡くなった人というのは、前方から来ることになるんですよ。なんで死んだ人間が前方から来るかというと、如来になっているからなんだね。亡くなって往生することによって、如に往く(如去)。そして仏のいのちとなって改めて如来となって還ってくる。如来になっているから、これを拝む。そしてその如来が、前方から生ける我々を導く。こうした捉え方が、密教の先祖供養観の根底にあるんだ。そしてこれは先程の空海の入定論にもつながるし、また阿字の世界へ入るということにもつながる。如の世界へ往って、仏のいのちとなって還ってくる。だから死んで終わっていないというのは、まさにそこの所に所以があるんだね。
■聖なる死者との対話
最近若い人でいくらか宗教に関心を持ち出している人が多いっていうのは、無意識のうちにもこの生死を越えた如のあり方を理解し、心豊かな生き方を求めようという機運が起こってきているからじゃないか思う。最近もね、こんなことがあったんだよ。
この寺は、江戸御府内八十八ヶ所の50番目の札所で、一階に石のお大師様が祭ってある。あれまさに入定大師の姿で、あの形で今も高野山で説法していらっしゃる。それでね、最近小学校1~2年生の男の子が、若いお母さんとお参りにくるんだ。お父さんが亡くなっているらしいんだけど、もう3回目になる。それで今朝気づいたら、「お父さん53歳のお誕生日おめでとう」って書いたものが、その子が描いたマンガを添えてお供えしてあるんだ。よく見たら手紙のように文章も書かれてあって、「パパいつまでも僕のこと見守っててね。」というふうに書かれてあるんだよ。今度お参りに来ているのを見かけたら、私に声をかけてくれって、事務所に頼んであるのだけどね。そうすると、この坊やにとっては、1つには死ぬ前のお父さんの記憶と、死んだ後のお父さんの記憶が、まだ幼いからある種混乱していると言えるかもしれない。お父さんが亡くなって、お葬式を出したということが、まだよく分かっていないということだね。しかしもう一方で、この子にとっては、父親は完全に自分の目の前から消えたんじゃないんだよ。むしろ亡くなったことによって、ある種神格化されて、生前とは違ってデザインされたというか、デフォルメされた父親となってイメ-ジされているとも言える。
トリ・コ-ジ:
だから生きている者にとっても、絶対に死は終わりで無だということにはならないのですね。やっぱり死者は、生きるにあたって大切なことを語りかけてくる。今この瞬間も。だからそれに対して、ちゃんと聞く耳を持たなければならないのですね。その男の子は、もうお父さんとちゃんと語っていて、その語りの中で、好き勝手して、思いのままで行き詰ってしまう生き方とは異なる視点とか、励ましとか、いろんな大切なものを御父さんから頂いているのでしょうね。
増田住職:
なんだっけな、ドラエモンとかなんとか、それに出てくるいろんなキャラクタ-みたいなものが描いてあるんだよ。お父さんときっと生前中に、一緒に体験したんだろうね。53歳の誕生日おめでとうって書いて。
トリ・コ-ジ:
ずっと、お父さんのお誕生日を祝っているんですね。
増田住職:
あの男の子の意識の中では、父親は死によって亡くなってしまった、すべて消えてしまったってことじゃないんだね。だからそこで、人の記憶の不思議さってものを感じさせられる。先程の話じゃないけど、マンションのベランダから飛び降りて地上につくまでの瞬間に、自分の人生のすべてを見るっていうけど、それは無秩序な記憶の断片が、あたりかまわず撮影した無意味なフィルムの羅列のように思い起こされるのとは違うと思うんだ。また例えば、仏像とか、如来や菩薩の絵画だとか、仏教徒が記憶から取り出してビジュアル化したものがあるんだけど、あれもやっぱり、死んだ人の浄化されたイメ-ジと同じように、記憶の中で普遍的に理想化されたものが取り出されて、写し取られているんだろうね。
このように記憶には、残る記憶とか、あっという間に消え去ってしまう記憶とか、いろいろあると思うんだけど、あの男の子のお父さんの記憶っていうのは、どうなんだろう。今まさに現前にいるかのごとく、理想化されたイメ-ジとなって、父親の記憶が残っているのではないだろうか。だからあの子にお父さんの絵を書いてごらんといったら、いったいどんな絵を書くか、私には興味あるところなんだよ。あるいは全く書けないかもしれないし。亡き父親の絵をどういうふうに書くか、それはね、もう私たちに死の捉え方の1つの具体例を示してくれているんだね。
トリ・コ-ジ;
自分が記憶している昔のありのままの写真のような、そんなお父さんの絵を書くかもしれませんけど、やっぱり子供だからこそ、もっと違う自分の中で昇華されたイメ-ジ、まさにア-トや芸術そのもの、要するに本質を捉えたみたいなものとなって描かれるのではないでしょうか。もしその子の中に、それを本当に切り取って描ける技術があったとするなkらばですけどね。その子の中で凝縮されて普遍化された、一瞬のいのちの本質の閃きみたいなものが。
増田住職;
だと思うね。だからね、死というのは例えてみると、人にそういういのちのあり方の根源的 なイメ-ジを教え、実は語るものなんだね。
トリ・コ-ジ:
だからやっぱり、死は本当は、私たちのいのちを実に豊かにするものなのですね。
■普段の父親の姿と背後の父性
増田住職;
そうなると逆にね、現実に自分の目の前にいる父親とか母親って何なんだっていう、そういう問いも次に出てくるんだよ。いったいどういうあり様で捉えているのか。
トリ・コ-ジ;
あのキリスト教の場合、神様のことを父って呼ぶんですね。御父(おんちち)とか父なる神っていう言い方をするんですけど。まあそれでよく言われるのは、実際の自分の父親を見ていて、これの延長が神様だと思ったら、たまったもんじゃないみたいな話になるんですね。だけど、そうじゃないんですね。父なる神っていう時には、本質的な本来あるべき父の姿を捉えているんです。だから現実には、まあどうしようもない父親があったとしも、二重写しでその背後に理想の父のイメ-ジを見て取るのです。そして、現実の父親から出発して父なる神のイメ-ジを類推していくのではなく、逆に父なる神のイメ-ジから、現実の父や自分のあり方を見つめ直して、悔い改めて新たに生き方を変えていく。
また別の例で言えば、例えば旅行に行った時など、普段と全然違う時間が流れ始め、全然違うものが見えてきたりしますよね。普段は私たちは、日常の中で何の感動もなく、惰性化されて生きているわけなんですけど、旅行なんかに出かけたとたん、見るもの聞くものすべてが新鮮に感じ取られてくる。普段の通勤では気にも留めない電車の窓からの景色なんかも、わくわくどきどき新鮮で、いろんなものに心が捉えられていく。ましてや素晴らしい景勝地なんかに行くと、まさにそこで、現実という表層を突き破って、自然を司る根源的ないのちのようなものに触れて、自分の魂が洗い清められような気持ちに襲われることって、実際にありますよね。そして新たなリフレッシュした気分と力が湧いてくる。だから父親についても、通常は日常的な、取るに足りない親の姿を見ているしかないんだけど、死別とか、親の情をもって諭された時とかなんかに、こちらの見る目が切り替わって、有難さに満ちた親の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
増田住職:
いややっぱりそのね、どんな親父でも父性って言えるものがあると思うんだ。だから本当はそういう父性ってものが、例えば日常の会話の中でも感じ取れないといけないと思うんだ。それが今退化してきているんじゃないかな。親の方の自覚も、子の方の父性を感じ取る力も。そういう感性が、今一番無くなってきている時代じゃないのかと思う。
だから今度取り組もうとしている『高野山の案内犬ゴン』の映画も、そういう表層の人物像の奥に隠れた人間性の崇高さみたいなものを、導き出すことがテ-マになればいいんじゃないかと思っている。あのノラ犬のゴンちゃんが、九度山駅で降りた人の求めを見分けて、高野山の大門まで、つまりその人の人間性が本来求めるものへと案内する。そういう本来の父性や人間性を見て取る感覚って、かつての人間には随分あったんだと思うよ。
■分かち合い、気づかい合いのいのちの領域
トリ・コ-ジ:
インタ-ネットのユ-チュ-ブって動画サイトがあるんですけど、そこでよくあるのが、 ワンちゃんとかニャンちゃんが、赤ちゃんとすごく仲良くなって、場合によってはワンちゃんが赤ちゃんを気遣って守るんですね。犬のゴンちゃんもにも、それにつながる所があるのだと思うんです。一方で人間は、表層の自我の人格によって、自分中心に、自分の思い通りにという感覚が強くなるから、犬なんて単なる犬畜生で、こいつらにコミュニケ-ションできる能力なんかあるものかという捉え方になってしまうのですけどね。昔の人なんかは、それに捉われないもっと大きな、ゆったりした視野から、自分の意識の深い所にあるいのちを共感する領野を働かせて、犬とも、そして今住職が飼っていらしゃる亀のようなものであっても、ちゃんとコミュニケ-ションが図れるというか、いのちを分かち合っているんだという実感を持っていたのでしょうね。だから、先ほどの広島の自然災害のようなことを引き起こす前に、自然が発するうめきのようなものを聞く耳も、やっぱり持っていたのだと思います。そういういのちの分かち合いやつながりといったものが分かる感性は、本当は私たちはみんな持っているんだけど、それを近年はどんどん退化させて、科学的な知の方を、一所懸命に肥大化させてきたのが、現代の私たちなのかもしれません。
先ほど密厳国土という言葉を例に、仏教の救いの教えを、今の若い子たちに伝わる言葉で語らないといけないというお話がありましたが、最近の言葉というのは、すぐに古びて手垢がついていきます。
たとえば“絆”なんていう言葉もそうです。とっても良い言葉なんですけどね。そうなってしまうのは、頭の中の論理で、単につながりましょうって言っているだけだからだと思います。頭の論理だけでつながろうと思ったら、絆づくりをやっているうちに、なんで自分はこんな得にもならないことを、一生懸命やらなきゃいけないんだという損得勘定が起こってきて、長続きしません。こうして言葉の内実が空しくなり、また都合よく実態が変質して、言葉が消耗していってしまうんですね。
だから頭のレベルではなしに、私たちみんなが分かち持っている、深い人間性のレベルで、他人とも動物とも、すべての生き物ともいのちを分かち持っているという実感を働かせなくてはいけないと思います。そうして初めて私たちは、実は他者と深く配慮しあって生きている存在だということがわかって、つながりあっていくことも出来るし、言葉が真実にになっていくことも出来ると思うのです。
増田住職;
あれサルの惑星とかいう映画あったでしょ。あの中でサルのボスが他のサルに、お前はサル以下のサルだっていうせりふがあったと思うんだけど、やっぱりゴンの仲間でもあれかな、ゴン以下のゴンってあるのかな。
トリ・コ-ジ;
だからまぁ、ゴン以下のゴンっていうのが、自我で生きる我々人間っていうことなんでしょうね。
増田住職;
そのへんて、どうなんだろう。
トリ・コ-ジ;
犬にも、互いに配慮しあう深いいのちの領域を押し殺して、人間のように自己の利益本位の自我を肥大化させるような、そんな意識の発達があるかどうか、それはよくわかりません。でもゴンの映画の1つの核になるところは、ゴンには損得勘定が無く、無償のいのちの分かち合いの喜びで動いているという所でしょう。純粋に人を案内すること自体が、ゴンにとってはすごくうれしい。そして何よりも自分のいのちの糧になる。それはまさに、他の人のために尽くすことが、何よりも自分のためになるという、深い分かちあいのいのちの領域で生きているということですね。そうしたいのちの本質については、人間なんかより犬畜生の方がよっぽどよくわかっているということでしょうか。
増田住職:
あのね、家畜っていう言葉があるじゃない。それからペットという言葉も我々は使うんだけど。でも気をつけなくてはいけないのは、どちらも、人間の価値観で動物を捉える言葉なんだね。そうじゃなくて、ゴンの方も人間を自分の仲間として捉え、また私たちもゴンちゃんを自分の仲間とし見るような、そういう意識のレベルで考えた時、お互いの意識の交流みたいなことは、果たしてどの程度できるのかね。それでね、昔高野山の開創の時、狩場明神が二匹の犬を連れて現れ、その犬が空海を高野山の地まで案内したというけど、ああいう時代には、犬がある種の羅針盤みたいな役をしており、飼い主は、犬がそういう能力を持っているということを、やっぱりちゃんと理解していたんだろうかな。
トリ・コ-ジ:
だから人間の言葉ではないレベルで、もうちゃんと犬とつながる領域があって、コミュニケ-ションが出来ていたんでしょうね。そんないのちを分かち合う領域があるなんて捉え方は、文学的なロマンとあしらわれ、今の世界の常識では否定されてしまいます。いや今の価値観の枠組みに入らないから、そんなことは見ないようにしている。私たちのいのちが、空間を越えたすべてのいのちとのつながりの中にあって生かされ、また過去未来の時間を越えた、連綿と続く大きないのちのつながりに支えられているという捉え方もあるのですけどね。
■いのちを育む自然環境と伝統宗教
増田住職;
やっぱりあれかね、自然環境が無くなったからだろうかね。
トリ・コ-ジ;
それはあると思いますよ。いのちの営みの連鎖である自然が教えるものって、すごくたくさんありますからね。だから私たちも、絶えず自然に行きたくなる衝動を持つ。自然の環境に行って、その共生するいのちの連鎖の中で、私たちの心の奥のいのちの領域が活性化されて、リセットされて、そして心が洗われてまた日常に戻ってくる。
増田住職:
それはあるよね。福島で津波の時に家が全部流されて、それこそ宅地分譲地のような更地になってしまった地域で、低学年の子供たちを高野山へ毎年夏に連れて行って、森林セラピ-とかいうのを体験させているんだよ。福島県だから自然の多い所だとは思うけど、やっぱりいろんな効果があるって言うんだね。森林セラピストとかいうのがいて、専門的に指導するらしいんだけど、やっぱり自然の中に置かれると、人間っていうのはある種の精神の休息っていうか、疲れた精神がやっぱりこう癒されて、回復されてくるのだろうね。
トリ・コ-ジ:
よくわからないんですど、脳科学的に言うと、といっても脳科学のことを知っているわけではないんですけど、さっき言った自我というか、自分の思い通り対象化して生きる時、実は脳の全部を使っているわけではなしに、ある部分だけが活発に働いているらしいんですね。だからあまり機能していない部分もいっぱいあるわけで、それこそ犬とコミュニケ-ションしたり、自然の中で木々といのちを分かち合うような時には、別の脳の部分が活発に働き始めるらしいんです。その部分は、現代の社会では普段はあまり使われないから惰性化しているけど、森林の中なんかに行くと、すごく働き始めて、全然違う領域から脳を活性化していくらしいんですね。
増田住職:
そういうことって、あるんだろうね。犬の本当に嫌いな人は、どんなに飼い主にお世辞を使って、その犬に媚を売っても、犬はわかるらしんだね。犬の嫌いな人って、肝臓かなんかからホルモンを出して、それを犬が、臭覚で嗅ぎ分けるって話を聞いたことがあるよ。
トリ・コ-ジ:
赤ちゃんがすばらしいのは、犬が好きとか嫌いとかが身につく前の、無垢ないのちの発露のような状態で生きていて、多分何に対しても、警戒心が無いって思うんですね。だから犬に対しても、自然ないのちのままで向きあえるから、犬も応えてコミュニケ-ションが取れる。大人は、その自然ないのちの上にいろんな価値観を身に着けて、自我を形成して、結局死も恐怖としてしか思えず、いのちの本来の姿が見えなくなってしまうんでしょうね。そう考えたら、赤ちゃんの時には私たちがそこで生きていた、純粋ないのちの領域というのを活性化しないと、視野が凝り固まっていって、人生の生き詰まりや、社会の行き詰まりに陥っていってしまうんでしょうね。
増田住職:
確かにそうなんだろうね。
トリ・コ-ジ;
それで僕らの先祖は、やっぱりそのことがよくわかっていて、伝統宗教っていう形で、純粋ないのちの領域を活性化する修法を編み出していったのではないかと思うんです。阿字観みたいな瞑想法もそうでしょうし、写経もそうでしょうし、お経を読むのも、法話を聞くのも、布施をするのもそうだと思います。こうして純粋ないのちの領域を活性化して、単に頭の中でわかって道徳規範として無理に行うのではなしに、自然と心の奥底から、人のいのちは自分のいのち、人のために生きることは自分のために生きること、人を傷つけることは自分を傷つけること、人を殺すことは自分を殺すことということが、深い実感として分かって、自ずとそのように生きられるようになることを、目指したのではないかと思うんですね。多分かつてのアメリカのインデジアンとか、大昔の未開の人々というのは、そんな心性をしっかり持って生きていたんじゃないかと思うんです。
増田住職:
結局そのように我々は、人間の本来的ないのちの領域を開眼させないと、自分がこう朽ち果てていってしまうんだろうね。
トリ・コ-ジ;
こうして人間が変わることによって、自然のすべてもその本来的ないのちを開花させ、あるいは人間の目の曇りがとれることで、自然のいのち豊かな共生が見えてくる。だから、1つ1つの木にも石にも、神がやどるみたいな感性を、昔の日本人は持っていたのでしょうね。
増田住職;
だからさ、テレビで志村けんがお猿さんのチンパンジ-を連れて歩いている番組なんかがあるけど、あれを見ていると、なんかほんとほのぼのとした感じになるね。あれやっぱり、共に生きているという記憶が、我々にあるからなんだろうね。きっとそんな我々の、本能的な部分を刺激するんだと思うんだ。だから見ていて、けっして不愉快な思いはしない。
トリ・コ-ジ:
私たちの心の奥の一番根っこにある純粋ないのちというのは、その本性として自分のいのちを本当に大切にし、また他のいのちも大切にし、それ故お互い同士を思いやるという心性が、組み込まれているんですね。それを信じるか信じないか。それは論理では証明できないことですけど、それを信じるのが、信仰ではないかと思うんです。
増田住職:
うん、そうだね。
トリ・コ-ジ:
そしてその純粋ないのちが本来的に配慮し、慈しむ対象は、現在の自分と他者だけではなく、過去や未来のいのちに対する配慮までに広がっている。そうするとさっきの話に戻りますけど、過去のいのちである死者とも、時間を越えてそのいのちはつながり、生きている私たちと配慮しあっているというふうに考えられる。そうすると死者はどう私たちを見ているかといったら、まあよっぽど悪いことをしたらお岩さんみたいに恨まれるかもしれないけど、でも先ほども話題になったお父さんだったら、やっぱり子供のことを、その幸せをず-っと願い続けるということでしかあり得ないわけじゃないですか。だから、太平洋戦争で亡くなったたくさんの人たちも、俺をこんなに惨めに殺したこの国を恨むというよりも、もう2度と戦争をしないでくれ、戦争をしない世界をつくってくれという声を、きっと一生懸命に響かせていると思うんですね。私たちはそのいのちの声を聞きとって、私たちのいのちと響かせあっていく。その死者とのいのちの響きあいから、もう1度自分の生き様を問い直し、未来の子孫のいのちのことを考えるということが、私たちに求められている本来的ないのちによる生き方ではないのでしょうか。
増田任雄
高野山真言宗 大徳院住職(東京両国)
御府内八十八ヶ所霊場50番札所
両国陵苑(堂内陵墓)を建設、運営
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■生死を貫くいのちの往来 - 如来如去
こうして人の生き死にの話、特に死の話をしてくると、どうしても、生死を貫く定・瞑想の境地というか、あるがままの不生不滅の仏の心のあり方というか、そこに戻っていくんだよ。
トリ・コ-ジ:
わかります。なんていうのかな、表面的な自我の下に隠れた、不変のいのちのあり様の領域というか。人間が自我によって自分の外の事象を対象化し、それによって自分の思い通り、思いのままに外界を操りたい、そういう世界で生きていきたいというのはある意味で仕方がない。そして、それに意味がないということではけっしてない。それが現実にこの世で生きるということだからですね。だけど例えば赤ちゃんを見ても分かるとおり、赤ちゃんにはまだ自我はない。実は私たちのいのちというのは、そういう自我だけで成り立っているわけではなしに、もっと開かれた領域というのが、その自我の底に広がっているはずなんですね。もしそこで生き得た時には、例えば仏教では菩薩行とか利他行とかあるように、人のために生きることが、本当に自分のこととしての喜びとなって生きられるようになってくる。普段の自我の自分で生きていると、人のために生きたら、自分が損をするみたいな感じになってしまいますけどね。人のためといっても、せいぜい自分に余裕が出来た時ということになり、いつまでたっても自分のことで手一杯で、結局余裕ができないということになってしまう。でも実は、人のためになって、その人が本当に喜んでくれたら、今度は自分のいのちも喜んで、大きな生きる力と希望を得ることができるという心性は、私たちの中に組み込まれてあるんですね。だから、人のために生きるということは、何よりも自分を救うというか、自分だけという負い目を越えて、心を楽に伸びやかに解き放つメリットというのがあるのです。
こうした共感と共生の心性というのは、思いのままという自我の自分で生きていると見えてこない。その思いのままの自我でいくと、死は思いのままにならない究極のイベントだから、死は怖いし、死ぬ前に好き勝手やっておこうということにもなってしまう。けれども死は、そんな捉え方ばかりではなしに、自我の底に開かれた共感と共生の心性で捉えてみれば、さきほど話したように、死を契機として私たちのいのちが、時空を超えた大きないのちのつながりに、そこには自分を含めたすべての生きられたいのちの尊い意味と価値が集積されているような、そんな大きないのいちの源に帰っていくための、1つの貴重な契機として死を捉えることもできます。そうした死の捉え方をすれば、執着の多い自我を解き放ち、開かれたいのちの心性で世界を見て、もっと互いに慈しみあいながら、生き方をもっと豊かにしていこうという思いが起こされてきますよね。
増田住職:
ところでね、仏教だとさ、如来っていう言葉があるでしょ。如から来るって書くよね。
トリ・コ-ジ:
はい、向うから来るってことですね
増田住職:
それでもう一つ、よくあなたと話したけど、如去(にょきょ)っていう言葉、如に去る、行くという言葉もあるんだよ。つまり如去如来。如へ行った人が始めて、今度は如から還って来て、それを我々は如来として拝むわけなんだよ。
トリ・コ-ジ:
ああそうかそうか、1回向こうへ行って帰ってくるということですね。
増田住職:
それでね、往生っていう言い方があるじゃない。生から往くということだけど、これも還るという意味が対になっている。例えば往相回向(回向;自分の功徳を他に差し向ける)、還相回向という言葉があって、還相回向というのは、如来、言い換えると仏の方から我々に回向をしてくれるということなんだ。この行って始めて還ってくるという捉え方が、特に密教なんかにおいては、先祖供養観の根底に流れる重要な考え方なんだね。 例えば御位牌に向かって私なんかが、こうお経を読むでしょ。でも仏道の経験の無い人から見れば、何やってんだ、あんな木っ端なんか拝んでと思われるだろう。また3回忌なんかに拝んでいても、何だもう2年も前に亡くなった人の記憶を呼び覚ましてと、ある種の回顧趣味ぐらいにしか思われない。確かに普通の我々の時間軸でいうと、過去というのは、自分がもう通り越してきた背後の後ろの方にあることになる。
ところがね、あの如来如去という捉え方からすると、亡くなった人を過去に思い起こすというのはとんでもなくて、亡くなった人というのは、前方から来ることになるんですよ。なんで死んだ人間が前方から来るかというと、如来になっているからなんだね。亡くなって往生することによって、如に往く(如去)。そして仏のいのちとなって改めて如来となって還ってくる。如来になっているから、これを拝む。そしてその如来が、前方から生ける我々を導く。こうした捉え方が、密教の先祖供養観の根底にあるんだ。そしてこれは先程の空海の入定論にもつながるし、また阿字の世界へ入るということにもつながる。如の世界へ往って、仏のいのちとなって還ってくる。だから死んで終わっていないというのは、まさにそこの所に所以があるんだね。
■聖なる死者との対話
最近若い人でいくらか宗教に関心を持ち出している人が多いっていうのは、無意識のうちにもこの生死を越えた如のあり方を理解し、心豊かな生き方を求めようという機運が起こってきているからじゃないか思う。最近もね、こんなことがあったんだよ。
この寺は、江戸御府内八十八ヶ所の50番目の札所で、一階に石のお大師様が祭ってある。あれまさに入定大師の姿で、あの形で今も高野山で説法していらっしゃる。それでね、最近小学校1~2年生の男の子が、若いお母さんとお参りにくるんだ。お父さんが亡くなっているらしいんだけど、もう3回目になる。それで今朝気づいたら、「お父さん53歳のお誕生日おめでとう」って書いたものが、その子が描いたマンガを添えてお供えしてあるんだ。よく見たら手紙のように文章も書かれてあって、「パパいつまでも僕のこと見守っててね。」というふうに書かれてあるんだよ。今度お参りに来ているのを見かけたら、私に声をかけてくれって、事務所に頼んであるのだけどね。そうすると、この坊やにとっては、1つには死ぬ前のお父さんの記憶と、死んだ後のお父さんの記憶が、まだ幼いからある種混乱していると言えるかもしれない。お父さんが亡くなって、お葬式を出したということが、まだよく分かっていないということだね。しかしもう一方で、この子にとっては、父親は完全に自分の目の前から消えたんじゃないんだよ。むしろ亡くなったことによって、ある種神格化されて、生前とは違ってデザインされたというか、デフォルメされた父親となってイメ-ジされているとも言える。
トリ・コ-ジ:
だから生きている者にとっても、絶対に死は終わりで無だということにはならないのですね。やっぱり死者は、生きるにあたって大切なことを語りかけてくる。今この瞬間も。だからそれに対して、ちゃんと聞く耳を持たなければならないのですね。その男の子は、もうお父さんとちゃんと語っていて、その語りの中で、好き勝手して、思いのままで行き詰ってしまう生き方とは異なる視点とか、励ましとか、いろんな大切なものを御父さんから頂いているのでしょうね。
増田住職:
なんだっけな、ドラエモンとかなんとか、それに出てくるいろんなキャラクタ-みたいなものが描いてあるんだよ。お父さんときっと生前中に、一緒に体験したんだろうね。53歳の誕生日おめでとうって書いて。
トリ・コ-ジ:
ずっと、お父さんのお誕生日を祝っているんですね。
増田住職:
あの男の子の意識の中では、父親は死によって亡くなってしまった、すべて消えてしまったってことじゃないんだね。だからそこで、人の記憶の不思議さってものを感じさせられる。先程の話じゃないけど、マンションのベランダから飛び降りて地上につくまでの瞬間に、自分の人生のすべてを見るっていうけど、それは無秩序な記憶の断片が、あたりかまわず撮影した無意味なフィルムの羅列のように思い起こされるのとは違うと思うんだ。また例えば、仏像とか、如来や菩薩の絵画だとか、仏教徒が記憶から取り出してビジュアル化したものがあるんだけど、あれもやっぱり、死んだ人の浄化されたイメ-ジと同じように、記憶の中で普遍的に理想化されたものが取り出されて、写し取られているんだろうね。
このように記憶には、残る記憶とか、あっという間に消え去ってしまう記憶とか、いろいろあると思うんだけど、あの男の子のお父さんの記憶っていうのは、どうなんだろう。今まさに現前にいるかのごとく、理想化されたイメ-ジとなって、父親の記憶が残っているのではないだろうか。だからあの子にお父さんの絵を書いてごらんといったら、いったいどんな絵を書くか、私には興味あるところなんだよ。あるいは全く書けないかもしれないし。亡き父親の絵をどういうふうに書くか、それはね、もう私たちに死の捉え方の1つの具体例を示してくれているんだね。
トリ・コ-ジ;
自分が記憶している昔のありのままの写真のような、そんなお父さんの絵を書くかもしれませんけど、やっぱり子供だからこそ、もっと違う自分の中で昇華されたイメ-ジ、まさにア-トや芸術そのもの、要するに本質を捉えたみたいなものとなって描かれるのではないでしょうか。もしその子の中に、それを本当に切り取って描ける技術があったとするなkらばですけどね。その子の中で凝縮されて普遍化された、一瞬のいのちの本質の閃きみたいなものが。
増田住職;
だと思うね。だからね、死というのは例えてみると、人にそういういのちのあり方の根源的 なイメ-ジを教え、実は語るものなんだね。
トリ・コ-ジ:
だからやっぱり、死は本当は、私たちのいのちを実に豊かにするものなのですね。
■普段の父親の姿と背後の父性
増田住職;
そうなると逆にね、現実に自分の目の前にいる父親とか母親って何なんだっていう、そういう問いも次に出てくるんだよ。いったいどういうあり様で捉えているのか。
トリ・コ-ジ;
あのキリスト教の場合、神様のことを父って呼ぶんですね。御父(おんちち)とか父なる神っていう言い方をするんですけど。まあそれでよく言われるのは、実際の自分の父親を見ていて、これの延長が神様だと思ったら、たまったもんじゃないみたいな話になるんですね。だけど、そうじゃないんですね。父なる神っていう時には、本質的な本来あるべき父の姿を捉えているんです。だから現実には、まあどうしようもない父親があったとしも、二重写しでその背後に理想の父のイメ-ジを見て取るのです。そして、現実の父親から出発して父なる神のイメ-ジを類推していくのではなく、逆に父なる神のイメ-ジから、現実の父や自分のあり方を見つめ直して、悔い改めて新たに生き方を変えていく。
また別の例で言えば、例えば旅行に行った時など、普段と全然違う時間が流れ始め、全然違うものが見えてきたりしますよね。普段は私たちは、日常の中で何の感動もなく、惰性化されて生きているわけなんですけど、旅行なんかに出かけたとたん、見るもの聞くものすべてが新鮮に感じ取られてくる。普段の通勤では気にも留めない電車の窓からの景色なんかも、わくわくどきどき新鮮で、いろんなものに心が捉えられていく。ましてや素晴らしい景勝地なんかに行くと、まさにそこで、現実という表層を突き破って、自然を司る根源的ないのちのようなものに触れて、自分の魂が洗い清められような気持ちに襲われることって、実際にありますよね。そして新たなリフレッシュした気分と力が湧いてくる。だから父親についても、通常は日常的な、取るに足りない親の姿を見ているしかないんだけど、死別とか、親の情をもって諭された時とかなんかに、こちらの見る目が切り替わって、有難さに満ちた親の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
増田住職:
いややっぱりそのね、どんな親父でも父性って言えるものがあると思うんだ。だから本当はそういう父性ってものが、例えば日常の会話の中でも感じ取れないといけないと思うんだ。それが今退化してきているんじゃないかな。親の方の自覚も、子の方の父性を感じ取る力も。そういう感性が、今一番無くなってきている時代じゃないのかと思う。
だから今度取り組もうとしている『高野山の案内犬ゴン』の映画も、そういう表層の人物像の奥に隠れた人間性の崇高さみたいなものを、導き出すことがテ-マになればいいんじゃないかと思っている。あのノラ犬のゴンちゃんが、九度山駅で降りた人の求めを見分けて、高野山の大門まで、つまりその人の人間性が本来求めるものへと案内する。そういう本来の父性や人間性を見て取る感覚って、かつての人間には随分あったんだと思うよ。
■分かち合い、気づかい合いのいのちの領域
トリ・コ-ジ:
インタ-ネットのユ-チュ-ブって動画サイトがあるんですけど、そこでよくあるのが、 ワンちゃんとかニャンちゃんが、赤ちゃんとすごく仲良くなって、場合によってはワンちゃんが赤ちゃんを気遣って守るんですね。犬のゴンちゃんもにも、それにつながる所があるのだと思うんです。一方で人間は、表層の自我の人格によって、自分中心に、自分の思い通りにという感覚が強くなるから、犬なんて単なる犬畜生で、こいつらにコミュニケ-ションできる能力なんかあるものかという捉え方になってしまうのですけどね。昔の人なんかは、それに捉われないもっと大きな、ゆったりした視野から、自分の意識の深い所にあるいのちを共感する領野を働かせて、犬とも、そして今住職が飼っていらしゃる亀のようなものであっても、ちゃんとコミュニケ-ションが図れるというか、いのちを分かち合っているんだという実感を持っていたのでしょうね。だから、先ほどの広島の自然災害のようなことを引き起こす前に、自然が発するうめきのようなものを聞く耳も、やっぱり持っていたのだと思います。そういういのちの分かち合いやつながりといったものが分かる感性は、本当は私たちはみんな持っているんだけど、それを近年はどんどん退化させて、科学的な知の方を、一所懸命に肥大化させてきたのが、現代の私たちなのかもしれません。
先ほど密厳国土という言葉を例に、仏教の救いの教えを、今の若い子たちに伝わる言葉で語らないといけないというお話がありましたが、最近の言葉というのは、すぐに古びて手垢がついていきます。
たとえば“絆”なんていう言葉もそうです。とっても良い言葉なんですけどね。そうなってしまうのは、頭の中の論理で、単につながりましょうって言っているだけだからだと思います。頭の論理だけでつながろうと思ったら、絆づくりをやっているうちに、なんで自分はこんな得にもならないことを、一生懸命やらなきゃいけないんだという損得勘定が起こってきて、長続きしません。こうして言葉の内実が空しくなり、また都合よく実態が変質して、言葉が消耗していってしまうんですね。
だから頭のレベルではなしに、私たちみんなが分かち持っている、深い人間性のレベルで、他人とも動物とも、すべての生き物ともいのちを分かち持っているという実感を働かせなくてはいけないと思います。そうして初めて私たちは、実は他者と深く配慮しあって生きている存在だということがわかって、つながりあっていくことも出来るし、言葉が真実にになっていくことも出来ると思うのです。
増田住職;
あれサルの惑星とかいう映画あったでしょ。あの中でサルのボスが他のサルに、お前はサル以下のサルだっていうせりふがあったと思うんだけど、やっぱりゴンの仲間でもあれかな、ゴン以下のゴンってあるのかな。
トリ・コ-ジ;
だからまぁ、ゴン以下のゴンっていうのが、自我で生きる我々人間っていうことなんでしょうね。
増田住職;
そのへんて、どうなんだろう。
トリ・コ-ジ;
犬にも、互いに配慮しあう深いいのちの領域を押し殺して、人間のように自己の利益本位の自我を肥大化させるような、そんな意識の発達があるかどうか、それはよくわかりません。でもゴンの映画の1つの核になるところは、ゴンには損得勘定が無く、無償のいのちの分かち合いの喜びで動いているという所でしょう。純粋に人を案内すること自体が、ゴンにとってはすごくうれしい。そして何よりも自分のいのちの糧になる。それはまさに、他の人のために尽くすことが、何よりも自分のためになるという、深い分かちあいのいのちの領域で生きているということですね。そうしたいのちの本質については、人間なんかより犬畜生の方がよっぽどよくわかっているということでしょうか。
増田住職:
あのね、家畜っていう言葉があるじゃない。それからペットという言葉も我々は使うんだけど。でも気をつけなくてはいけないのは、どちらも、人間の価値観で動物を捉える言葉なんだね。そうじゃなくて、ゴンの方も人間を自分の仲間として捉え、また私たちもゴンちゃんを自分の仲間とし見るような、そういう意識のレベルで考えた時、お互いの意識の交流みたいなことは、果たしてどの程度できるのかね。それでね、昔高野山の開創の時、狩場明神が二匹の犬を連れて現れ、その犬が空海を高野山の地まで案内したというけど、ああいう時代には、犬がある種の羅針盤みたいな役をしており、飼い主は、犬がそういう能力を持っているということを、やっぱりちゃんと理解していたんだろうかな。
トリ・コ-ジ:
だから人間の言葉ではないレベルで、もうちゃんと犬とつながる領域があって、コミュニケ-ションが出来ていたんでしょうね。そんないのちを分かち合う領域があるなんて捉え方は、文学的なロマンとあしらわれ、今の世界の常識では否定されてしまいます。いや今の価値観の枠組みに入らないから、そんなことは見ないようにしている。私たちのいのちが、空間を越えたすべてのいのちとのつながりの中にあって生かされ、また過去未来の時間を越えた、連綿と続く大きないのちのつながりに支えられているという捉え方もあるのですけどね。
■いのちを育む自然環境と伝統宗教
増田住職;
やっぱりあれかね、自然環境が無くなったからだろうかね。
トリ・コ-ジ;
それはあると思いますよ。いのちの営みの連鎖である自然が教えるものって、すごくたくさんありますからね。だから私たちも、絶えず自然に行きたくなる衝動を持つ。自然の環境に行って、その共生するいのちの連鎖の中で、私たちの心の奥のいのちの領域が活性化されて、リセットされて、そして心が洗われてまた日常に戻ってくる。
増田住職:
それはあるよね。福島で津波の時に家が全部流されて、それこそ宅地分譲地のような更地になってしまった地域で、低学年の子供たちを高野山へ毎年夏に連れて行って、森林セラピ-とかいうのを体験させているんだよ。福島県だから自然の多い所だとは思うけど、やっぱりいろんな効果があるって言うんだね。森林セラピストとかいうのがいて、専門的に指導するらしいんだけど、やっぱり自然の中に置かれると、人間っていうのはある種の精神の休息っていうか、疲れた精神がやっぱりこう癒されて、回復されてくるのだろうね。
トリ・コ-ジ:
よくわからないんですど、脳科学的に言うと、といっても脳科学のことを知っているわけではないんですけど、さっき言った自我というか、自分の思い通り対象化して生きる時、実は脳の全部を使っているわけではなしに、ある部分だけが活発に働いているらしいんですね。だからあまり機能していない部分もいっぱいあるわけで、それこそ犬とコミュニケ-ションしたり、自然の中で木々といのちを分かち合うような時には、別の脳の部分が活発に働き始めるらしいんです。その部分は、現代の社会では普段はあまり使われないから惰性化しているけど、森林の中なんかに行くと、すごく働き始めて、全然違う領域から脳を活性化していくらしいんですね。
増田住職:
そういうことって、あるんだろうね。犬の本当に嫌いな人は、どんなに飼い主にお世辞を使って、その犬に媚を売っても、犬はわかるらしんだね。犬の嫌いな人って、肝臓かなんかからホルモンを出して、それを犬が、臭覚で嗅ぎ分けるって話を聞いたことがあるよ。
トリ・コ-ジ:
赤ちゃんがすばらしいのは、犬が好きとか嫌いとかが身につく前の、無垢ないのちの発露のような状態で生きていて、多分何に対しても、警戒心が無いって思うんですね。だから犬に対しても、自然ないのちのままで向きあえるから、犬も応えてコミュニケ-ションが取れる。大人は、その自然ないのちの上にいろんな価値観を身に着けて、自我を形成して、結局死も恐怖としてしか思えず、いのちの本来の姿が見えなくなってしまうんでしょうね。そう考えたら、赤ちゃんの時には私たちがそこで生きていた、純粋ないのちの領域というのを活性化しないと、視野が凝り固まっていって、人生の生き詰まりや、社会の行き詰まりに陥っていってしまうんでしょうね。
増田住職:
確かにそうなんだろうね。
トリ・コ-ジ;
それで僕らの先祖は、やっぱりそのことがよくわかっていて、伝統宗教っていう形で、純粋ないのちの領域を活性化する修法を編み出していったのではないかと思うんです。阿字観みたいな瞑想法もそうでしょうし、写経もそうでしょうし、お経を読むのも、法話を聞くのも、布施をするのもそうだと思います。こうして純粋ないのちの領域を活性化して、単に頭の中でわかって道徳規範として無理に行うのではなしに、自然と心の奥底から、人のいのちは自分のいのち、人のために生きることは自分のために生きること、人を傷つけることは自分を傷つけること、人を殺すことは自分を殺すことということが、深い実感として分かって、自ずとそのように生きられるようになることを、目指したのではないかと思うんですね。多分かつてのアメリカのインデジアンとか、大昔の未開の人々というのは、そんな心性をしっかり持って生きていたんじゃないかと思うんです。
増田住職:
結局そのように我々は、人間の本来的ないのちの領域を開眼させないと、自分がこう朽ち果てていってしまうんだろうね。
トリ・コ-ジ;
こうして人間が変わることによって、自然のすべてもその本来的ないのちを開花させ、あるいは人間の目の曇りがとれることで、自然のいのち豊かな共生が見えてくる。だから、1つ1つの木にも石にも、神がやどるみたいな感性を、昔の日本人は持っていたのでしょうね。
増田住職;
だからさ、テレビで志村けんがお猿さんのチンパンジ-を連れて歩いている番組なんかがあるけど、あれを見ていると、なんかほんとほのぼのとした感じになるね。あれやっぱり、共に生きているという記憶が、我々にあるからなんだろうね。きっとそんな我々の、本能的な部分を刺激するんだと思うんだ。だから見ていて、けっして不愉快な思いはしない。
トリ・コ-ジ:
私たちの心の奥の一番根っこにある純粋ないのちというのは、その本性として自分のいのちを本当に大切にし、また他のいのちも大切にし、それ故お互い同士を思いやるという心性が、組み込まれているんですね。それを信じるか信じないか。それは論理では証明できないことですけど、それを信じるのが、信仰ではないかと思うんです。
増田住職:
うん、そうだね。
トリ・コ-ジ:
そしてその純粋ないのちが本来的に配慮し、慈しむ対象は、現在の自分と他者だけではなく、過去や未来のいのちに対する配慮までに広がっている。そうするとさっきの話に戻りますけど、過去のいのちである死者とも、時間を越えてそのいのちはつながり、生きている私たちと配慮しあっているというふうに考えられる。そうすると死者はどう私たちを見ているかといったら、まあよっぽど悪いことをしたらお岩さんみたいに恨まれるかもしれないけど、でも先ほども話題になったお父さんだったら、やっぱり子供のことを、その幸せをず-っと願い続けるということでしかあり得ないわけじゃないですか。だから、太平洋戦争で亡くなったたくさんの人たちも、俺をこんなに惨めに殺したこの国を恨むというよりも、もう2度と戦争をしないでくれ、戦争をしない世界をつくってくれという声を、きっと一生懸命に響かせていると思うんですね。私たちはそのいのちの声を聞きとって、私たちのいのちと響かせあっていく。その死者とのいのちの響きあいから、もう1度自分の生き様を問い直し、未来の子孫のいのちのことを考えるということが、私たちに求められている本来的ないのちによる生き方ではないのでしょうか。