ゴンと高野山体験プロジェクト〜

増田対談第1回『恐怖の死とやすらかな死』1/4

Dec 30 - 2014

増田対談第1回『恐怖の死とやすらかな死』1/4 その1(1/3) 葬式仏教 - いや仏教は生きている私たちのため


(対談者)

増田任雄
高野山真言宗 大徳院住職(東京両国)
御府内八十八ヶ所霊場50番札所
両国陵苑(堂内陵墓)を建設、運営

トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)

■人は何故死にたくないと思うのか

トリ・コ-ジ;
 本日は大徳院の増田ご住職にお願いして、『ゆったりまったりお茶のみ法話』の第1回ということで、いろんなお話をお伺いしながら、考えていく場を持てればと思っています。それで、突然初っ端なから大きなテ-マなんですけど、『おらぁ~死にたくねぇ~!』ということで、まさに死の問題をお伺いしていこうと思っています。
それでこの『おらぁ~死にたくねぇ~!』というのは、何を意味しているかというと、まさに死にたくないということ。ではなんで人は死にたくないと思うのかと考えてみると、やっぱり死は怖いと思うからでしょう。ではなんで死が怖いのかなと考えると、死ぬときはやっぱり、とても苦しい思いをするんじゃないかって思うからです。また、死んだ先のことって、わからないですよね。昔からの私たちの心に根づいた思いからすると、この世での因果応報、自業自得の報いとして極楽に往生するか地獄に行く。この世にいる間は、悪いことをしていてもお金持ちでいい思いをしている人は幾らでもいるわけで、悪行の報いを受けないかもしれないが、来世に行ったら必ずその報いを受ける。普通この世で生きて来て、天国に行けるほど良いことをしてきたかなと思うと、とてもおぼつかなく、やっぱり俺は地獄かな、なんて思うとやっぱりそれも怖い。
でも、今の時代の死に対する観念で1番大きいのは、生きているのがすべてで、死んだら無だという思いじゃないでしょうか。死んだら、もう何も無くなる。ところが、人間ってやっぱり可能性に生きる動物だから、生きている限りにおいては、いろんな可能性にめぐりあえるのだけど、死んで、無になってしまえば、その可能性がいっさい無くなってしまう。それもどうにも空しくて怖い。でもまたこの可能性っていうのが曲者で、可能性があるからこそいろいろ苦しむということもあります。死は怖いと言いながらも、今の若い子たちで20代だけは自殺が増えている。『おらぁ~死にたくねぇ~!』って言いながらも、もうこんな苦しい世の中嫌だから、早く死にてぇ~みたいなことにもなって、それで余計に苦しむ。もちろんそういう死に方は、滅びの死、破滅の死、または逃げの死ということになって、やっぱり空しくはかない。
そこで、死の恐怖や空しさに捉われていても仕方が無いから、普段の日常的な生活では死を考えないように忘れたものとし、日々をなんとなく過ごしていくことになる。しかし誰にも必ず訪れる死を、怖いもの空しいものとして捉え、それ故に日常では忘却して生きるというようなあり方で、本当に私たちは、自分の死や人の死にしっかり向かい合えるのか、また死んだらすべておしまいという思いで、はたして私たちの人生は、確かな意味を持ったものになるものなのかと思うのですけど。

増田住職;
あのさ、あなたが今回の法話対談で事前にくれた案内では、確か『おらぁ~まだ死にたくねぇ~!』と、まだがついていたと思うんだよ。このまだがあるのと無いのとでは、死に対する思いがちょっと違うと思うんだ。『おらぁ~まだ死にたくねぇ~』というと、死がまだ自分に差し迫ったものにはなっていなくて、いわゆる知識として死を意識している感じがする。一方まだが取れて、『おらぁ~死にたくねぇ~』となると、直面しだしてきている死というものを真剣に捉えようとしている気がするね。
  それで、今あなたが話したぐらいに、死についていろんな思いを自問自答している人がいるとしたら、これはもう結構しっかり死に向き合い、理解しようとしているんだ。でも『おらぁ~まだ死にたくねぇ~』という場合には、死はまだ切実にはなっていない状態だ。それでもやっぱり、ここにも死への思いというのはすでに芽生えていて、死ってなんだろうかという思いが心にちょっと持ち上がってきている。まあこういうレベルの認識が、我々の普段の死への意識の仕方なんだろうがね。
それでね、空海の本なんか読んでいると、「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終わりに暗い」という言葉がある。この生まれ死にが6回か7回も繰り返すんだよ。これはまさにそうだと思うね。生死の捉え方というのは、人間が抱えているある種の根本的な課題なんだ。だから死というのは、そう簡単には分からない。分からないが故に、不安になってくるんだな。

■怖い死とやすらかな死 - 二つの死がある事実

それでもその分からない死、不安で怖い死というものに、我々はいつか必ず向き合っていかねば ならない時が来るのだけど、それではいったい、どう向き合っていけばよいのか。
  この間ある人のお葬式をしたんだよ。92歳のおばあさんなんだけどね。このおばあさん、お葬式が終わって、火葬場へ行こうという時に、お別れっていうのをするでしょう。その時ね、お棺のふたをとってお顔を見ると、これ実に笑っているんだよ。笑って今にも何か語り出そうとしている様子なんだ。それを娘さんも見て、娘さんといってももう年配の人だけど、やっぱりおばあちゃん何か笑っていますねと言われるので、私も思わず、いや笑っていますね、いい顔していらっしゃいますねと、応えたんだけどね。人が息を引き取る瞬間って、医学生理学的にどういう状況になるかよくわからないけど、私は自分の母親の死の時も、似たような経験をしているんだ。病院から電話で母親の病室に駆けつけると、枕もとにモニタ-みたいなのが置いてある。それで担当の先生が、「ほら増田さん、心電図はもう平行波でしょう。今お母さんの足をちょっと触ってごらんなさい。」と言うので触ってみると、確かに氷みたいにつめたい。それで次に先生が、「今度は頬を触わってごらんなさい。」と言うのでそうすると、今度はかっかと暖かい。それで思わず耳もとで、おっかさん、おっかさんと2~3遍でっかい声で呼んでみたんだね。そうすると何か心なしか、こう顔が動いた感じがしたんだ。もう医学的には死亡なんだけど、とっても安らかな感じで、私の声を受け止めてくれた気がしたんだ。それで思うんだけど、普通死ぬ時は痛いとか苦しいとか言われるんだけど、本当に自然に死を受け入れて旅立っていく時には、はたして恐怖するほどの苦しみに苛まれるのかなって思うんだよ。
  だけどね、さっきあんたがちょっと因果応報、自業自得の話をしたけど、生前の業(ごう)みたいなものをそのまま背負いこんで逝ってしまうと、その業の影響のもとで、まあ本来の完璧な死というのが出来なくて、穏やかな死の世界には入っていけないんだろうね。だから、業の話を生きている人にするのはいいんだけど、自分が執着しなければ、その業の影響を受けないということも、はっきり言っておいてあげないといけないんだ。
  こういう業(ごう)を引きずって死ぬのは、昔から実際にあったわけで、例えば突然いのちを断たれるような無念な死に方をした場合などに、よく鬼籍に入るというよね。鬼になってしまうと考えたんだ。地獄、餓鬼・鬼、畜生、修羅、人間、天道という六道というのがあるんだけど、鬼・餓鬼というのは、地獄の隣にあって、常に何かに餓えている。何かにね。その飢えの中で一番強烈なものというとやっぱり、自分自身のいのちじゃないのかな。だから突然いのちを断たれたりなんかすると、鬼の世界に行くというのはよくわかる気がすることで、いのちへの強い執着が消せなくなるんだね。例えば最近でいえば、中央高速でのトンネル崩落事故や、韓国のセウォル号の転覆事故、そして今回の御嶽山の噴火など、もちろんそれで犠牲になった人がそうだって言う訳ではないんだけど、例えばああいった突発事故などで、意図せずにいのちを落としていった人が、生への執着を持ってしまう場合があるわけなんだよ。だからよく慰霊してあげないといけないんだな。

トリ・コ-ジ:
 3・11の東北大震災以降、本当に日本で災害が多いですね。8月におこった広島の水害もそうですし、今回の御嶽山の噴火も。普通の善男善女が、因果応報とは関係なく、ある日突然に犠牲になってしまう。

増田住職:
  いやまあ、死というのは本当にいつやってくるかわからないが故にこわいよ。だからやっぱり不安になるんだね。まあそこでもう1つ留意しておかなければいけないのは、個人の業(ごう)だけではなく、集団としての人間の業みたいなものの影響だね。ありきたりな環境保護派と見られるのもちょっと嫌だけど、自然を収奪しようとする人間の欲の執着によってもたらされる因果といったものも、考えておかないといけないと思うんだ。たとえば広島の水害の場合って、どうだろう。あの滑落した地層というのは、ある報道によると、もともとの固い地層の上に柔らかい地面が乗っかって出来ていただけらしい。そこにたくさんの宅地を造成し、民家を建てて街をなしていた。

トリ・コ-ジ:
  そういうところを、開発してしまったということですね。

増田住職:
  私は地質の方の専門家でもないし、確かな情報もわからないんだけど、自然を自分たちの欲しいままにやたらにいじくり回すとどうなるか。やっぱり、何かそんな人間に対する警鐘のようなものがあるんじゃないかと思う。

トリ・コ-ジ:
  天災だけとは言えない、人災的なものもからんでいるかもしれないということですね。
増田住職;
  なんかそういう感じもするよね。

■やすらかな死の様相

トリ・コ-ジ;
  私たちは普通、死は怖いし辛いと思っています。また死後のことはわからないし、死んだら無になるという思いも強く持っています。しかし先ほどご住職が話して下さったおばあちゃんは、本当に安らかなお顔で旅立って行かれたということですね。
  じつは納棺師の青木新門さんという方がいらっしゃって、映画『おくりびと』の原案ともなったベストセラ-の『納棺夫日記』を書いていらっしゃる方なんですけど、最近その方のお話を聞く機会がありました。青木さんが話していらっしゃったのは、死んだ直後の人の顔というのは、本当にみんなやすらかで、じつにいいお顔をしていらっしゃるということでした。ただ、死後硬直が始まるので、だんだんそのお顔の表情は失われていってしまうそうですが。確かに今の時代というのは、家庭で亡くなることはほとんど無くて、最期は病院へ行くから、みんな人の死の瞬間に立ち会う機会がない。病院へ行っても、お医者さんというのは、亡くなっていく人の顔を見ているのではなく、モニタ-かなんかばかりを見ていて、心拍数がピ-ッとまっすぐになったら、はいご臨終ですというだけです。だから誰も、全然死に逝く人の顔を見ていない。それでみんな気がつかないのですけど、本当に死んだ瞬間のお顔というのは、この上なくやすらかな、すばらしい平安な顔をされているということです。
増田住職;それはね、私自身も何回か経験してますよ。昔ね、親しくしている会社の専務がいて、千葉の方の同族会社で、結構大きく事業を経営していたんだ。私よりはかなり年上だったんだけど、親しくしてもらっていてね。毎年必ず年始に来てくれたんだけど、ある年の正月、住職、俺もうだめだよって言うんだ。まあ酒の好きな人でね、肝臓が悪いというのは聞いていたけど、その時は本当にやっと歩くという感じだった。それからほんの2週間ぐらいしてから、奥さんから電話があって、住職、お父さんが今亡くなったって知らされたんで、すぐにお参りに行ったんだね。そしたら娘さんや子供さんやお孫さんもみんな来ていて、その人が顔の上に白い布をかけられて、布団の上に寝かされている。その布をちょっととって、お顔をおがまさせて頂いたら、この人のこんな穏やかな顔って見たことがないっていう顔をしているんだ。死ぬ前は恐らく、肝臓の病で本当につらかったと思うんだけど、呼吸が止まった瞬間に、この人はすべての苦痛から解放されたのではないかと思うんだ。じつにいい穏やかな顔をしていらっしゃった。人間が死ぬ時には、実際にエンドルフィンとかいう、痛みを和らげる物質が分泌されるらしいんだね。
トリ・コ-ジ;   この間NHKで立花隆さんが、20年ぶりに臨死体験や死の問題に関するドキュメンタリ-番組をやられていました。20年前にも同じテ-マで、ドキュメンタリ-を制作されているらしいのですね。その番組の中で、死に対する今の最先端の医学や科学の成果が紹介されていたのですけど、やはり死の直前には、自我の領域を司る大脳皮質ではなく、脳幹といって、脳の中で一番古い奥の方の部分が脳を司り始めて、エンドルフィンでしたっけね、いわゆるモルヒネなんかよりもはるかに強い鎮痛作用と、同時にすごい幸福感をもたらす物質を分泌し始めるらしいんです。
増田住職:
  そう幸福感なんだよね。実際に臨死体験をして生き返った人の話を聞くと、えも言われぬ心地よさと幸福感を体験するらしい。東大の医学部の教授で、救急医療を専門とする矢作直樹っていう先生がいるんだけど、この人によると、救急救命センタ-に運ばれてくる生死をさまよう患者さんで、幽体離脱のような体験をする人が実際にいるらしいんだ。自分の学んだ医学の常識では、どうしても考えられないことが現実に次々とおこってくる。それはもう霊魂とか魂とか、そういう言葉でしか言い表しようのないもので、そういうものがあることを認めざるを得ないと、この先生は言っているんだね。実際に年配の婦人なんかで、一旦息を引き取った人が、「私あの世に行ってきたのよ、そこにはきれいなお花畑があって、亡くなったお父さんがいて、でもその父さんがまだ来ちゃダメだというんで、戻ってきたのよ。」といったような話をする人がいるけど、その時にはきっと、脳幹からエンドルフィンのようなホルモンが出ているんだろうね。
トリ・コ-ジ;
  そこで安らかな死について、もう1つ心に留めておかねばならない事例があります。さきほどの納棺師の青木新門さんのお話の続きなのですけど、死を自覚するのは、臨終の間際ばかりでなく、もう少し緩慢な死というものもありますよね。例えばガンで余命が宣告されるとか、少し時間をかけて亡くなるような場合です。その時、先ほどの会社の専務さんのように、人間には自分の死期を悟るというようなところがあって、本当に自分の死を全部覚悟して受け入れた瞬間には、いろいろなこの世のしがらみとか、執着とかからいっさい解き放たれて、生きとし生けるもののすべてが愛おしく思われ、世界のすべてがなんかこう輝いて見えてくるようになるらしいんですね。青木新門さんのお兄さんが、実際にそうだったらしいのです。このお兄さんというのは、お金とか地位とか、世間的な評価で人を判断する価値観をもった人で、新門さんが納棺師をやると言った時に、すごく軽蔑して、一族・親族から出入り禁止にされたそうです。死は穢れなんて思いが強くあったからなんでしょうね。そういう人だったので、新門さんも恨みに思って、お兄さんと断絶していたそうです。そのお兄さんが臨終の時に、親戚から催促されて新門さんも嫌々ながらに病院に行ったのですけど、その時新門さんは、どうせ昏睡状態なのだから、目が覚めてなんかいないだろうという思いで、行ったそうです。ところが、運が良いのか悪いのか、その新門さんが行った時にだけ突然、お兄さんの目が覚めて意識が戻ったのだそうです。その時お兄さんが何を言ったかというと、ものすごく喜んで、よく来てくれた来てくれたと言って、新門さんの手をとって、本当に有難う有難うと何度も感謝したそうです。そうすると今度は、新門さんの方もその手を握り返して、思わず、お兄さん私が悪かった、悪かったと謝ったそうです。お兄さんの大きな感謝の心が、思わず新門さんの詫びる心を引き出して、死を目前にして兄弟の心の通い合ったのですね。その時新門さんがおっしゃっていたのは、あの時お兄さんは、本当に死を意識して、その瞬間にこの世の価値観なんてみんな吹き飛んでしまい、すべてのいのちの尊さへの感謝から、世界がほんとに違って輝いて見え、すべてが光の中にあるような気持ちの中にあったのではないかということです。そして新門さんは、ほかにもこういった事例を紹介して下さったのですけど、そこで思うのは、私たちは通常死を恐れてこわいと思っているのですけど、そんな自我を離れて、自然のままに意識と体をまかせて、あるいは私たちに本来備わる脳の機能にまかせていくと、おのずと平安な死を迎えるメカニズムが、私たちにはビルトインされているのではないかということです。だけど、人間には強い執着があって、そんな自然のメカニズムにも抗ってしまうから、死の苦しみをいやが上にも増し加わらせてしまうのではないかと思うのです。

■肯定感と幸福に包まれた死後の世界

増田住職:
  確かにそういうことなんだろうね。ただね、単に安らかな死を迎えたいのであれば、今話してきたような生理的な自然機能に抗わなければ良いだけのことなのだろうけれど、その先の死後の世界、ある種の大きな幸福感に包まれた肯定的な死の世界や、あるいは死後のいのちに入っていくことを想定するためには、やっぱりそれにプラスして、宗教が問うてきた問題を考える必要があると思うんだ。イエス・キリストも十字架で死んだ後復活したっていうし、仏陀にしたって、単なる死ではなく涅槃に入ったという。人間の肉体が生理変化をきたして死という現象の世界に入っていくときに、それにあわせてやっぱり精神の内奥で、もはや生を拒絶せねばならないという意識と共に、死後のいのちを開いていく精神の働きといったものがあると思うんだね。
  高野山に山越えの弥陀というのがあるんだけど、大きな山の峰が描かれていて、その峰の背後から、 阿弥陀様が上半身を大きく出して、臨終の信仰者を迎えにくる来迎図なんだ。あれは死後の極楽浄土に迎えられるある種の幸福感みたいなものを、ああいう形で弥陀信仰をしている人たちは、捉えたのだろうね。あるいは現世での念仏三昧の中で、そういう状況を意識したのかもしれない。よく臨死体験をした時に無上の幸福感を味わうというけれど、そういう話を聞くたびに、私はあの山越えの弥陀というのを思い出すんだね。本当に山の上から上半身を大きく出して、臨終の私たちを迎え取って下さる。

トリ・コ-ジ:
  仏像や仏画のイメ-ジというのは、本来捉えきれない仏様のありようを垣間見せるために、深い本質の一瞬を切り取って、私たちに示してくれているんですね。