
第1回『おらぁ~まだ死にたくねぇ~!』
その2 お大師様の説かれる死(2/4)
(対談者)
増田任雄
高野山真言宗 大徳院住職(東京両国)
御府内八十八ヶ所霊場50番札所
両国陵苑(堂内陵墓)を建設、運営
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■祈り、あるいは加持祈祷の世界
増田住職:
ところでね、1度だけ本当に心の底から念仏を唱えれば、必ず弥陀が救うというんだけど、仮にそれを現世の人が本当に理解できたら、これはもう今回のテ-マの言葉をひねって言えば、「おらぁ~いつ死んでもいいや!」という、ある種の開き直った境地になっていくんだね。
トリ・コ-ジ:
キリスト教の世界でも、馬から落馬した人が、落馬してから地面にたたきつけられて亡くなるまでの瞬間に、神様お助け下さいと心底から悔い改めて叫んだら、その人は救われるという伝えがあります。
増田住職:
そういえば、誤って大きなビルのベランダから堕ちたりなんかした時、地上に着く瞬間までの間に、小さい時から現在に至るまでの、あらゆることを思い出すということをよく聞くね。ほんの瞬間のうちにすべてを思い出し再現できる力っていうのが、人間にはあるのだから、確かに落馬して地上に落ちるまでの間に、全生涯を込めて『神よ!』って叫んで、それが神に受け止められて、神の国に入るにふさわしく変えられるってことは、あるんだろうね。だけどね、それはその人が、常々どこかで救いを求める祈りをしていたんだと思うよ。だから究極の死に際に、神の招きに応じる祈りができたんだ。
トリ・コ-ジ:
確かにそうですね。
増田住職;
だからね、真言宗の宗祖である空海の祈りなんていうのも、そういうところがあるんだよ。加持感応といって、仏様を拝んでいると、時にまったく普段とは違う力を感じて、如来が現れ、そのオ-ラのようなものを受ける時があるんだね。祈りってやっぱり、そういう向こうからの働きを感じて、それに応じるところから始まるんだよ。だからね、それを1度でも経験すると、祈り世界というのがほんとによくわかるようになるんだ。
トリ・コ-ジ:
そうですね、なんとなく祈りって、自分の願いや思いをお釈迦様なりお大師様にぶつけて、聞き入れてもらうことのように思うけれど、じつは向こうから引っ張ってもらって、それに応ずることで、自分の目先の願いを超えて、本当に自分を生かす祈りが出来るということはありますよね。
増田住職:
あのね、祈りなんていうとさ、なんかもう意味のわかりきったような言葉だと思うけど、密教では祈りというのは、加持祈祷って言うんですよ。祈祷とか祈りの別の言い方が、加持っていう言葉なんだね。よく加持護念とも言うんだけど、その加持によって守られているっていう言い方をするんだね。それでこの『加』というのは、あなたがさっき引っ張ってもらうと言ったけど、如来の方からのいわゆるオ-ラの力なんだよ。そして『持』がね、それを感じ取ろうとする人間の側の応える力。それが時にピタッとあう瞬間があるんだね。なかなか理想的には経験出来ないまでも、例えばどっかの神社にお参りして柏手を打ったら、気持ちよく打てたとかさ、そういうことって誰にもあると思う。そういうことの積み重ねみたいな体験によって、祈りの世界は広がっていき、加持の世界につながっていくんだね。インドで加持なんていう言葉は非常に古い言葉で、何も仏教だけが使っていた言葉ではない。だから、如来から浄土へ引き寄せるオ-ラの力と、人間の側の応える力が合わさる加持の境地というものは、仏教に関わらず普遍的にあると思うんだ。
そこで思うんだけど、幽体離脱とかして、たとえばきれいなお花畑の所へ行ってきたとか、そういった経験をした人が、今度は加持の境地や死というものをどのように捉えるか、逆にこちらから聞いてみたい気もするね。
■空海の説く死 - 定に入るということ
トリ・コ-ジ:
現在高野山で宗務総長をされている添田隆昭さんの本に書いてありましたけど、また他の臨死体験の本でもよく書いてありますけど、いわゆる臨死体験をすると、それからのその人の生き方が本当に変わってくるということらしいですね。元来この世で生きるというのは、自分の自我で、自分の思いをいかに通して生きるかというのが、人間の生き様です。だから逆に、思い通りにいかず、いろんな煩いを抱え込むということになってしまうのですけど。死というのは、まさにその思い通りにならないことの最たるものですね。そのもう自分の自我を通せない世界に行って、臨死体験をした人は、自分本位の自我を越えた、もっと大きな、すべてを育み慈しむ光り輝く大いなるいのちといったものに出会う体験をするそうなんです。そしてそのいのちと触れて帰ってきた人は、そこからの生き方がほんとにすごく変わって、その慈しみのいのちを求めて、自分も生きるようになっていくということなんです。まあ、分かるような分からないような所がある話なんですけど、私たちが死をどう捉えれば良いのか、示唆する所がある話だと思うんです。それでちょっとご住職にお伺いしたいのですけど、よくご住職が、死は、単なる死と、成仏の死あるいは涅槃の死というのがあって、これはもう違うんだと言うことをおっしゃっているんですけど、その意味あいを、もう少し詳しくお教え頂けませんか。
増田住職;
死ということで、空海の解釈する言葉として、例えば添田氏の本でも出てくるけど、入定(にゅうじょう、定に入る)っていう言葉があるでしょう。昔この寺で、私の祖父の一番弟子になっていた人がいて、その人は30歳で高野山の宗務総長を務め、またアメリカのロサンゼンルスで高野山の別院を開く時にも骨を折った人なんだけど、ともかくよく仏様を拝み、修行にも励んだ人だったらしいんだね。その人が、人の死期が近づいてきた時などには、入定の準備をしなくてはいけないといったように、とにかく入定という言葉をよく使っていたというんだよ。
トリ・コ-ジ:
入定というのは、お大師様が亡くなる時に使われた言葉ですよね。というか、今でも亡くなっておられず、生きて入定されているということなんですけど。また確か、禅定の境地に入るという意味にも使われることがあったかと思うのですけど。
増田住職;
弘法大師が入定したっていうことで、入定留身(にゅうじょうるしん)という言葉あるよね。それは弘法大師が、今も身体をこの世に留めながら、その心は三昧(精神の深まりきった悟りの境地)に入っている、つまり定(じょう)に入っているという意味なんだね。ところで空海という人は、この定に入るという体験を、生きている時にも何遍もいろんな所で体験しているんだ。
トリ・コ-ジ:
そうか、この世を去るその最後の時だけではないんだ。
増田住職;
生きて元気な時も体験しているわけなんですよ。例えば、ある種の伝説みたいになっている話だけど、嵯峨天皇の前で、即身成仏って何かと問われた時に、その場で瞑想してみせたと言われる。そして定に入られたっていうんだよ。
トリ・コ-ジ:
そしてその時、お大師様の体が光り輝いた。
増田住職;
だからね、空海という人は三昧に入る経験を何遍もしているんだ。そしてその体験をしている時には、死なんて全然無いんだよ。我々が言う死なんていうのはね。
トリ・コ-ジ;
確か般若心経を、観自在菩薩つまり観音様が舎利子に説いている時にも、その脇でお釈迦様は、ずっと瞑想つまり禅定の中に入っていらっしゃったということですね。
増田住職:
そう、だからね、定に入るということは、しっかりと悟りを開いた人であれば、生きている時から何遍も何遍も体験することなんだよ。
トリ・コ-ジ:
なるほど、なるほど
増田住職;
あのね、薫習(くんじゅう)っていうインドの心理学の中で使う言葉があるんだけど、これは例えば、真っ白いハンカチに線香の煙をあてると、その香りがハンカチに滲みこんでいくでしょう。そのように、そこでその滲みが煩悩だとハンカチは煩悩に染まるけど、仏の叡智によってできている現象だと、それが仏に染まっていく。あるいは確かラテン語でも、タブラ・ラサ(心の白紙の状態)って言う言葉があるよね。インドの心理学では、このハンカチのようにいろいろに染まってしまう人間の意識の、さらにその根源に、一切の経験を記録する真っ白なア-ルヤビジナクシ、つまり阿羅耶識(アラヤシキ)・聖なる意識というのを考えて、まずそこを見つめろっていうんだよ。そこには自分の生まれてからの経験だけでなく、先祖のすべての経験も蓄えられている。だから自分の生も超えていく広がりを持つ。それは誰にでもあって、まさにそここそ、定で求める根源的な意識の領域なんだね。ところが、さっきの思い通りに生きようとする自我じゃないけど、我々がこの世に生を受けて、本能的な欲で自分本位に生きていこうとする時、その本能的な生の現象が、全部この阿頼耶識に滲みこんでいってしまう。それを受けて今度はまた阿頼耶識から生起した働きが、表層意識に映し出され、またすべてを自分本位に結び付けて解釈してしまう自我を生み出していく。こうして、自分の価値観でもって何でも自分の思い通りにとあがくから、それに対抗するものとぶつかって、苦しむし本当のものが見えなくなってしまう。まあ簡単にいうと、それが人間の心の構造なんだね。
■定とは対極、自我に生きる私たちの生き方
トリ・コ-ジ:
結局私たちが、普段なんの不思議も無く当たり前に思って生きる生き方というのは、 いかに自分の思い通りに生きようとする生き方でしかないかということですね。
増田住職:
それ以外の生き方なんて無いっていうぐらいにね。
トリ・コ-ジ;
そして自分のエゴを押し通して、出来るだけ思い通りに生きられた人のことを、この社会では成功者と見なしたりしちゃうんですね。
増田住職:
まあ、成功者と呼ぼうが何でもいいんだけどね。ところでね、冒頭の自然災害の話に戻すと、例えば東北で震災がおき、広島で水害がおき、そして今度は御嶽山で噴火がおきたんだけど、御嶽山の場合なんか、さすがにハイヒ-ルで行く人はいないと思うけど、随分軽装の人もいたっていう報道がありますよ。かつてあの山って噴火しているわけでしょ。もちろん今回御嶽山に登っていた人たちが、御嶽山を軽視していたとかそんなことは思わないけど、やっぱり自然界というのは、いつ何がおこるかわからない。広島の水害だって、雨で地滑りがおきて、たまたまそこの下にあった民家が被害を受けたということだけど、そもそも開発とかっていう名のもとに美化されて、本当だったら人が住めない危険のあるところに宅地を造成したのかもしれない。まあそんなことを言ったら、実際に被害を受けた人たちに怒られるかもしれないけど、でもね、そういう思考のもとに自然を配慮せずに、人間の利益だけで人為的に作りあげていった環境って随分あるんだよ。
トリ・コ-ジ;
それは個人のレベルを超えた、人間全体として思いのままの生き方をしているということですね。
増田住職;
だからね、精一杯頑張ってあの人たちは成功したというその成功は、自分の利益のために他のものを犠牲にして、結局後からその埋め合わせをしなくてはいけなくなるような、たかだかそういうレベルの話なんだよ。これは別にね、低いレベルとは言わないよ。でも本当の成功というのは、それとは尺度が違う次元での成功なんだろうね。
私なんかだって、両国陵苑を造るにあたって、人間的な目先の欲で、罰当たりなことをすると、随分陰口をたたかれていると思うよ。お寺の境内をビルにしちゃって、ましてやね、機械を入れ込んで、数をもくろんだ納骨堂なんか造ってとね。まあ、私は私なりの1つの考えをもって、取り組んでいることなんだけどね
そのように精一杯生きて成功するというのは、じつは自分のエゴのために頑張っているだけで、結局はいつかそのつけが回ってくるという、そういう難しい所があるんだよ。
トリ・コ-ジ:
ほんとにそうですよね。だからさっきの成功者っていうのは、ある意味ではちょっと皮肉を込めた言い方なんですけどね。ちょっと考えたらとっても単純なんだけど、みんなが自分の思い通りに生きたいと思ったら、当然自我と自我がぶつかりあうことになります。仮になんとなくこの人は成功だと言っている人たちだって、100%自分の思い通りに生きられているかというと、絶対にそんなことはない。ではその中で、何をもって成功と言っているかというと、多分今の社会では、社会的な地位が上がったとか、お金を儲けたとかいうことで、勝ち組になったと評価することでしょう。だけど社会的に地位が上がろうが、お金を儲けようが、家庭はバラバラとか、子供はみんなそっぽを向いて家を出ていってしまったとか、そういうことはいくらでもありますよね。
■対象化する人間の意志と曼荼羅の世界観
増田住職:
あのね、私自身まだよく理解できないんだけど、密教というのは、人間が最も素朴に疑問に思う所から、例えばこの地球って何ですかとか、宇宙って何ですかとか、空間って何ですかってことを、自問自答したんだよ。それで結果としてあの曼荼羅なんていうのをつくり上げたわけなんだ。曼荼羅ってある意味で、もう完全に世界を対象化して捉えているでしょう。通常は絵画として描かれ、時に立体的な建築物として現されることもあるんだけど。そうするとね、例えばどっか地方の空気の澄んだ所で、とてもきれいな夜空を見ていると、空間っていうのは本当に捉えどころなく果てしなく広がっていると思うよね。その捉え切れない広がりを、インドの人っていうのは、ある種枠の中にはめこんで認識できるように、曼荼羅という形で示そうとしたんだ。だからね、人間にはそういう自分を取り囲んでいるものを、なんかとか対象化して認識できるようにしようという思いがあるんだね。一方で、今の高野山の松永有慶官長なんかが、あの人はまあ学者だけどね、密教環境論ということで、自然を大事に大事にと、自然と人間とを分けずに一体となって循環していくような捉え方もある。しかし例えば、この宇宙の大空間をああいう曼荼羅という1つの凝縮した対象化された世界に作り上げていってしまう、あのインド人の意志、あるいは人間一般の持つフィ-リングというのは、やっぱり留意しておかなければならないことだろうね。
トリ・コ-ジ:
私は全く仏教には門外漢なのでわからないのですけど、なんとなく曼荼羅を見ていると、確かに対象化しているんですけど、でも単なる対象化とも違うんではないかという気がするんですね。通常対象化というのは、まず自分があって、自分の思い通りにしたいということがあって、そのために自分の外部のすべてのものを、自分の手段として捉えるために、対象化して捉える。そして先ほどの広島の地滑りなんかもそうだと思うんですけど、個人ばかりでなく人間全体としても、自然に対して人間の思い通りにしようとして、対象化する意志が働く。そうなるともう、自然に対する畏怖の念とか、配慮とかいうのは無くなってきますよね。でもじつは人間と自然とは、あるいは自分と他者とは、自我があって対象化するような関わりだけではなしに、なんかもっと深くて大きないのちの領域で、場合によっては先ほど話の出た死をも越えて受け継がれるいのちの領域で、共につながり、分かちあっているというイメ-ジもあるのではないかと思うんです。だから曼荼羅というのは、単に対象化して自分の手段に利用するという意図よりも、そこでなんか調和して、つながって、一緒に組み込まれて配置されているみたいな、そんな捉え方を表そうとしているんじゃないかと思うのですけど。
増田住職;
曼荼羅というのはね、自分がやっぱりあの中に入らないとダメなんだね。
トリ・コ-ジ;
ああなるほど、そうですよね。対象化して外から見ているんじゃダメなんですね。
増田住職;
入らないと曼荼羅の本当の意味なんて出てこない。ただその一方で、自我的な価値観と一括りになってしまうかもしれないが、自分を取り囲むものを対象化して捉えようとする認識の意味もあると思うんだよ。そのようにして自分たちにとっての価値を、何とか見出していこうとするんだ。
トリ・コ-ジ;
自分にとっての利用可能性の目的から、外界を対象化する認識の機能は、良い面と限界があるのでしょうね。対象化する捉え方をするから、科学は発達したのでしょうし。
増田住職:
今度の御嶽山の水蒸気爆発があって、火山灰に地表が覆われた映像を見ていて思うんだけど、実際に窪んだようなところを救助隊の人たちが歩いている様子は、ほんとに月世界にそっくりですよ。足跡がついて、あるいは石がこう落っこちてきて、パ-ンと跳ねると跡に丸いクレ-タ-が出きている。あれほんと月面そっくりだよね。そんなのを見ると、やっぱり地球って、1つの大宇宙の中の限りと寿命のある星だっていうことが思い知らされる。
そういう中で、かつての日本もそうだったんだけど、今の中国なんかに象徴される人間の、特に指導者なんかの発想を見ていると、どうせ地球はいずれは寿命があるんだから、今やりたいことをやればいいんだっていうような、そんな見方をどこかで持っているんじゃないかと思えてくる。
トリ・コ-ジ:
確かにそういう見方もできますよね。テレビの報道によると、中国や途上国の指導者の人たちは、海外に多額の資産を蓄えていて、いざという時には、いつでも逃げられる準備をしているとか。
増田住職:
例えば北京の最近の大気汚染とかね、まあかつての日本もそうだったんだけど、あれもうどうしようもない状況ですよね。それからいわゆるエネルギ-として原油を確保する、その行動を見ていると、どうもなんか地球を我がもの顔で収奪しているというか、なんか最近そんな感じがして仕方がないんだな。
トリ・コ-ジ;
人間の自我の欲望を満たすために、自然を対象化して捉えようとする認識の限界ですね。また少し死の話に戻りますが、やっぱりどこかで、死んだら無だ、何もないんだというそういうニヒリズムの意識が心の深いところにあると、だったら今やりたいことやっちゃおうというようなことになってしまうのでしょうね。
■死の始まりと宗教・哲学の智慧
増田住職;
あのね、あなたに聞きたいんだけどさ、人間ってなんで死というものを見つめ出したと思う?
トリ・コ-ジ;
う~んとあの~、ある神話には、日本の神話も聖書もそうなんですけど、始めは死はなかったっていうんですよね。どこかの時点で死が生まれちゃう、死が出来てきちゃうんです。これ結構大事なことで、多分人は、それまでも実際には死んでいたと思うんですけど、古い時代の間は、人は死んだけれども、今みたいな形で捉えていなくて、なんかまだ明確に断絶が意識されなくて、つながっているみたいな。でもどっかで死が生まれて、そして日本なんかでも、死は穢れとして意識されるようになりますよね。聖書でもそうですけど。穢れとか罪の結果とか。聖書の中では、『欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死に至る。』、という言葉あるんですけど、そういう形で死がある時から、何かやっぱり恐ろしいものというか、この世の自分たちから断ち切られたものというか、そういうことで意識され始める時が、きっとあっただろうと思うんです。
増田住職:
あのね、お経の中に『無始無終』っていう言葉があるんですよ。始めもなく終りもない。それにもう1つ、『初中後善』、始めも中も終わりも良いことという言葉がある。この善というのは、非常にいろんな意味があるんだけどね。それでね、こういう言葉で例えば生死を見つめると、生とか死とかの断絶を、まあ何というか、離れるというか乗り超えるというか、死で終わりというのとは別のものの考え方が出てくる。人が死を意識するという一方で、死とは別の無始無終、悠久の生の流れという考え方、生き方が出てくる。この悠久の流れに入った時には、地球に寿命があるとか、宇宙や星に寿命があって、いずれ死んじゃうんだから今何をやってもいいんだということとは、全く別の観念が出てくる。だからね、宗教とか哲学とかいうのは、人が死を意識したっていうことによって生まれてきたのだと思うんだ。死んだら終わりというニヒリスティクな考え方が最高潮になってくると、何もしないっていうのと、何をしてもいいんだというのと、両極端のその場しのぎの対応になってくる。
そこでそれを何とか克服したいという人間の叡知が、働き出すんだろうね。 今私が今一番怖いことは、人間が置かれている環境が破壊されるっていうことなんだけど、一方でこういう問題を日常的なレベルでみんなが語り出すような、そういう環境も出来つつあると思うんだ。だからもう1度宗教とか哲学が意味を持って、全く新しいものの考え方が出てくる、今そういう時期に来ているのかもしれないね。
トリ・コ-ジ:
例えばこの300~400年の間、人間はものすごい勢いで科学という知恵を発達させたのですが、それはまさに、人間が自分の思い通りにいろんなものを使いこなしたいという思いからですね。だけどその科学をどう使ったよいのかという智慧は、科学の中に答えは見つからない。どうしたら科学を使って、人間は幸せになれるのか。科学は、未だ戦争や環境破壊を引き起こす手段となり、答えを出せていないですよね。
増田住職;
科学によって、私たちの身辺が本当に便利になっていくというのは、確かに事実で、恩恵だと思う。たとえばこうやって暗い所でも、明るく昼間のごとく過ごせるし、あるいは、自分のしゃべった内容やその様子を、あたかも今現実にしゃべっているかのごとく正確に録画することも出来る。 でも、微妙な声の調子や表情・身振り等から、ここで話している我々の感情や気分を、この記録を見た人が同じように感じ取れるかというと、まだまだ課題が残る。そこでその課題に取り組んで解決すると、また分からない所が出てくる。こうして次々と起こってくる課題を、どこまでも解いていくために、直線的に掘り進んでいくという傾向が科学にはあるよね。
トリ・コ-ジ;
確かにありますね。
増田住職;
だから科学は、我々の身辺をどんどん便利にする方向には進んで行くんだけど、違う次元の方向にはなかなか進みにくい。例えば、今私が一番気になるのは、この地球って星の環境のバランスなんだけど、その深刻化するアンバランスにどう対処するかという方向転換は、科学自体には難しい。だからそこで、科学以外の例えば宗教みたいな智慧が、警鐘を鳴らすようなことが大切になってくる。密教でも、曼荼羅環境論なんてのを提唱している人がいるみたいなんだけどね。
トリ・コ-ジ;
科学というのは、経験で誰もが検証できることを事実として積み上げて、そこから1つの正しい法則性を見出していく知恵ですよね。だから、自然の分野では誰もが同じ事実を検証出来るから成立するけど、人によって意見や価値観が分かれる分野では、その方法は当てはめにくい。環境の分野でも、人によって価値観が分かれて、数学のようなたった1つの正解なんてないですよね。だからどういう方向に進めば良いのかということを、大多数の人で共通に了解できる異なる判断基準が必要になってくる。一旦方向性が決まれば、例えば環境バランスを最優先した社会経済の仕組みをつくろうとか、それが決まれば、その方向で自然科学は、また大きな成果を生み出して自律的に進んでいくんでしょうけどね。
■悟りの境地を現実に実現していくために - 布施
トリ・コ-ジ;
それで、また話がちょっと飛んでしまうんですけど、さっきの臨死体験や死の問題に戻りたいのですけど、科学というのは、今言ったように経験で検証できるものだけから事実を取り出すから、臨死体験は科学の対象になりますけど、死はもう、科学の対象外になってしまいます。死んだ先のことは、誰も戻ってこないのですから、経験できません。だから科学は通用しない。そうすると、誰も事実はわからないのですから、事実検証よりも、むしろどういう考え方をすれば、私たちの死に対する恐れや不安を取り除き、生をもっと充実したものに出来るかという捉え方の方が、もっと大事になってくると思うんです。 例えば、臨死体験の死の直前の報告などから類推して、死後の世界では、これまでの自我の狭い執着から解き放たれて、大きないのちの繋がりと慈しみに戻っていく、それは、この地上のすべてのいのちと横につながっているだけではなく、時間的にも過去から未来へとつながっている。そんな時空を超えたいのちの源へと帰っていく時、私たちはこの上ない至福に満たされると、まあそんな捉え方をした方が、死の恐れを越えたいのちの希望というものが、感じられますよね。
増田住職:
いやだから、わからないが故に、洋の東西を問わず、みんな死後の捉え方の工夫をやってきたわけですよ。例えば神っていうものをつくるとかね。密教なんかもそうです。たとえば密教の瞑想法である阿字観で言うところのように、梵語の最初の文字「あ」の世界へ戻っていく。すべてのものは、「あ」から生まれてまた「あ」の世界へ帰っていく。
トリ・コ-ジ:
宇宙の不生不滅の根源ですね。
増田住職:
すべてのものは、表面的な現象の変化の底に、同一の性(しょう)を有するが故に、再び阿字の世界へ入っていく。これはお経の最後の締めくくりの言葉ともなっている。同一性光明阿字、阿字の世界へ入っていくとね。
このあるがままの不生不滅の仏の世界を考えると、人間が変化するこの世界を対象化して捉えようとする認識の方法は、1つの便法であって、俗世を生きるための手段なんだね。でも阿字の世界、定の世界のことばかり考えていると、現実に我々はどう生きるのかということになってくるから、対象化という便法も、けっして間違ってはいない気がするんだけどね。
トリ・コ-ジ:
そうですね。私は宗教おたくだから、宗教には可能性があると思っているのですけど、よく批判されるのは、宗教は、自分が心の中で悟って満足するだけのもので、実生活の営みには何の役にも立たないというものですね。確かにずっと瞑想していて、それで自分は気分が良くなったと言っても、じゃあ明日から会社で、いろんなしがらみの中で生きていくのに、どう具体的に役立つのかって言われたら、答えに窮しますよね。
増田住職:
あのね、たとえば極楽世界っていう言葉があるでしょう。あれはいわゆる念仏宗、浄土系の理想世界を言うんだよ。その理想世界っていうのを、例えばこの現実の日常の中につくるというのと、あくまでも現実世界の最終段階としての真理の世界と見るのか、浄土宗にはその両様に捉えられるところがある。ところが密教では、あの曼荼羅の考え方の世界を、別の言葉で密厳国土って言うんだけど、あの曼荼羅のように荘厳(しょうごん)された国土を、この世につくっていくという考え方があるんだよ。荘厳に飾られるということは、要するに密教の考え方によって飾られる世界ということ。それは例えば極端なことを言うと、自我なんていうものを我々は持っているんだけど、そんなものは何れ限界にぶつかるもので、悠久のものでも何でもない。そうではなく悠久普遍の真理をベ-スに、密教の理想郷を現実にこの世につくっていくという考え方なんだね。
その理想の実現のための現実世界への働きかけとして、布施という行いがあるんだ。例えば簡単なことだけど、道路に1つ木のベンチを置いてあげる。実際インドなんかに行くと、かつては大きな街道とかに青々と茂る樹木を植えて、そこにベンチを置く布施があった。緑陰施といって陰を提供してあげる布施なんだけどね。昔はそこを歩く旅人が、その木陰でどれほど憩えたか。
トリ・コ-ジ:
なるほど、布施という行為による現実社会への働きかけなんですね。
増田住職;
そうなんだね。そういう慈悲の心をもって互いに施し合うということが、密厳国土のあり様なんだよ。そういう形で宗教による倫理化というか道徳化を整えていって、そういう価値観や倫理観で人間が生きていければいいんじゃないかというので、密厳国土はあるんだよ。やっぱり人間が、快適な生き方をしていけるようにね。
トリ・コ-ジ:
お互い同士、みんな一緒に快適な生き方ができるようにということですね。
増田住職:
例えばね、大徳院がこういう両国陵苑という建物を造ったでしょ。それでこの建物の中で、ある意味で人の生き死にの処理ということをやっているわけだけど、これはじつは、建物自体が布施をしているんだよ。
トリ・コ-ジ:
ああ、なるほど。
増田住職:
建物というのは機能を持っている。この建物はどこの階を見ても、酒を飲んで、欲望を満たすための建物ではないということは、その造りの構造と雰囲気でよくわかる。この建物というのは、これに見合った働きをしているんだ。これがね、建物というものが持っている布施なんだよ。この建物が持っている意味というのがよくわかって、結構意義を認めている人たちがいるんですよ。布施というのは、人の施しをしたいという思いから生まれるものであって、そういう思いを引き出す仕組みや環境も、この建物のように布施の働きを担うんだね。
だからバカみたいに思うのは、例えば電車に乗ると、お年寄りのためのシ-トが機械的に区切られて、ここだって色分けまでしてあるじゃない。あれでは強制であって、お年寄りに席を譲ろうという布施の心を引き出す仕組みになっていない。あれ本来だったら、年寄りが電車に乗ってきたら、若い人だったら自ら席を譲ろうという心が働かないと。ちゃんと床座布っていう布施が、インドにはあるんですよ。
このように密厳国土というのは、例えば布施の心や行いに表されるように、またその心や行いが働きやすいように、密教の思考によって内容づけられ、仕組みづけられた社会のことなんだね。これをね、密厳国土なんていう言葉ではなく、若い人が何の抵抗もなく受け入れられるような、なんかもっと現代的なうまい表現はないものかと考えてしまうんだ。
増田任雄
高野山真言宗 大徳院住職(東京両国)
御府内八十八ヶ所霊場50番札所
両国陵苑(堂内陵墓)を建設、運営
トリ・コ-ジ
プロテスタン系のキリスト教徒(バプテスト派)
宗教おたく。脱力系生活宗教を実践
愛視聴番組:心の時代(Eテレ)、宗教の時間(ラジオ第2)
高野山の時間(ラジオNIKKEI)
■祈り、あるいは加持祈祷の世界
増田住職:
ところでね、1度だけ本当に心の底から念仏を唱えれば、必ず弥陀が救うというんだけど、仮にそれを現世の人が本当に理解できたら、これはもう今回のテ-マの言葉をひねって言えば、「おらぁ~いつ死んでもいいや!」という、ある種の開き直った境地になっていくんだね。
トリ・コ-ジ:
キリスト教の世界でも、馬から落馬した人が、落馬してから地面にたたきつけられて亡くなるまでの瞬間に、神様お助け下さいと心底から悔い改めて叫んだら、その人は救われるという伝えがあります。
増田住職:
そういえば、誤って大きなビルのベランダから堕ちたりなんかした時、地上に着く瞬間までの間に、小さい時から現在に至るまでの、あらゆることを思い出すということをよく聞くね。ほんの瞬間のうちにすべてを思い出し再現できる力っていうのが、人間にはあるのだから、確かに落馬して地上に落ちるまでの間に、全生涯を込めて『神よ!』って叫んで、それが神に受け止められて、神の国に入るにふさわしく変えられるってことは、あるんだろうね。だけどね、それはその人が、常々どこかで救いを求める祈りをしていたんだと思うよ。だから究極の死に際に、神の招きに応じる祈りができたんだ。
トリ・コ-ジ:
確かにそうですね。
増田住職;
だからね、真言宗の宗祖である空海の祈りなんていうのも、そういうところがあるんだよ。加持感応といって、仏様を拝んでいると、時にまったく普段とは違う力を感じて、如来が現れ、そのオ-ラのようなものを受ける時があるんだね。祈りってやっぱり、そういう向こうからの働きを感じて、それに応じるところから始まるんだよ。だからね、それを1度でも経験すると、祈り世界というのがほんとによくわかるようになるんだ。
トリ・コ-ジ:
そうですね、なんとなく祈りって、自分の願いや思いをお釈迦様なりお大師様にぶつけて、聞き入れてもらうことのように思うけれど、じつは向こうから引っ張ってもらって、それに応ずることで、自分の目先の願いを超えて、本当に自分を生かす祈りが出来るということはありますよね。
増田住職:
あのね、祈りなんていうとさ、なんかもう意味のわかりきったような言葉だと思うけど、密教では祈りというのは、加持祈祷って言うんですよ。祈祷とか祈りの別の言い方が、加持っていう言葉なんだね。よく加持護念とも言うんだけど、その加持によって守られているっていう言い方をするんだね。それでこの『加』というのは、あなたがさっき引っ張ってもらうと言ったけど、如来の方からのいわゆるオ-ラの力なんだよ。そして『持』がね、それを感じ取ろうとする人間の側の応える力。それが時にピタッとあう瞬間があるんだね。なかなか理想的には経験出来ないまでも、例えばどっかの神社にお参りして柏手を打ったら、気持ちよく打てたとかさ、そういうことって誰にもあると思う。そういうことの積み重ねみたいな体験によって、祈りの世界は広がっていき、加持の世界につながっていくんだね。インドで加持なんていう言葉は非常に古い言葉で、何も仏教だけが使っていた言葉ではない。だから、如来から浄土へ引き寄せるオ-ラの力と、人間の側の応える力が合わさる加持の境地というものは、仏教に関わらず普遍的にあると思うんだ。
そこで思うんだけど、幽体離脱とかして、たとえばきれいなお花畑の所へ行ってきたとか、そういった経験をした人が、今度は加持の境地や死というものをどのように捉えるか、逆にこちらから聞いてみたい気もするね。
■空海の説く死 - 定に入るということ
トリ・コ-ジ:
現在高野山で宗務総長をされている添田隆昭さんの本に書いてありましたけど、また他の臨死体験の本でもよく書いてありますけど、いわゆる臨死体験をすると、それからのその人の生き方が本当に変わってくるということらしいですね。元来この世で生きるというのは、自分の自我で、自分の思いをいかに通して生きるかというのが、人間の生き様です。だから逆に、思い通りにいかず、いろんな煩いを抱え込むということになってしまうのですけど。死というのは、まさにその思い通りにならないことの最たるものですね。そのもう自分の自我を通せない世界に行って、臨死体験をした人は、自分本位の自我を越えた、もっと大きな、すべてを育み慈しむ光り輝く大いなるいのちといったものに出会う体験をするそうなんです。そしてそのいのちと触れて帰ってきた人は、そこからの生き方がほんとにすごく変わって、その慈しみのいのちを求めて、自分も生きるようになっていくということなんです。まあ、分かるような分からないような所がある話なんですけど、私たちが死をどう捉えれば良いのか、示唆する所がある話だと思うんです。それでちょっとご住職にお伺いしたいのですけど、よくご住職が、死は、単なる死と、成仏の死あるいは涅槃の死というのがあって、これはもう違うんだと言うことをおっしゃっているんですけど、その意味あいを、もう少し詳しくお教え頂けませんか。
増田住職;
死ということで、空海の解釈する言葉として、例えば添田氏の本でも出てくるけど、入定(にゅうじょう、定に入る)っていう言葉があるでしょう。昔この寺で、私の祖父の一番弟子になっていた人がいて、その人は30歳で高野山の宗務総長を務め、またアメリカのロサンゼンルスで高野山の別院を開く時にも骨を折った人なんだけど、ともかくよく仏様を拝み、修行にも励んだ人だったらしいんだね。その人が、人の死期が近づいてきた時などには、入定の準備をしなくてはいけないといったように、とにかく入定という言葉をよく使っていたというんだよ。
トリ・コ-ジ:
入定というのは、お大師様が亡くなる時に使われた言葉ですよね。というか、今でも亡くなっておられず、生きて入定されているということなんですけど。また確か、禅定の境地に入るという意味にも使われることがあったかと思うのですけど。
増田住職;
弘法大師が入定したっていうことで、入定留身(にゅうじょうるしん)という言葉あるよね。それは弘法大師が、今も身体をこの世に留めながら、その心は三昧(精神の深まりきった悟りの境地)に入っている、つまり定(じょう)に入っているという意味なんだね。ところで空海という人は、この定に入るという体験を、生きている時にも何遍もいろんな所で体験しているんだ。
トリ・コ-ジ:
そうか、この世を去るその最後の時だけではないんだ。
増田住職;
生きて元気な時も体験しているわけなんですよ。例えば、ある種の伝説みたいになっている話だけど、嵯峨天皇の前で、即身成仏って何かと問われた時に、その場で瞑想してみせたと言われる。そして定に入られたっていうんだよ。
トリ・コ-ジ:
そしてその時、お大師様の体が光り輝いた。
増田住職;
だからね、空海という人は三昧に入る経験を何遍もしているんだ。そしてその体験をしている時には、死なんて全然無いんだよ。我々が言う死なんていうのはね。
トリ・コ-ジ;
確か般若心経を、観自在菩薩つまり観音様が舎利子に説いている時にも、その脇でお釈迦様は、ずっと瞑想つまり禅定の中に入っていらっしゃったということですね。
増田住職:
そう、だからね、定に入るということは、しっかりと悟りを開いた人であれば、生きている時から何遍も何遍も体験することなんだよ。
トリ・コ-ジ:
なるほど、なるほど
増田住職;
あのね、薫習(くんじゅう)っていうインドの心理学の中で使う言葉があるんだけど、これは例えば、真っ白いハンカチに線香の煙をあてると、その香りがハンカチに滲みこんでいくでしょう。そのように、そこでその滲みが煩悩だとハンカチは煩悩に染まるけど、仏の叡智によってできている現象だと、それが仏に染まっていく。あるいは確かラテン語でも、タブラ・ラサ(心の白紙の状態)って言う言葉があるよね。インドの心理学では、このハンカチのようにいろいろに染まってしまう人間の意識の、さらにその根源に、一切の経験を記録する真っ白なア-ルヤビジナクシ、つまり阿羅耶識(アラヤシキ)・聖なる意識というのを考えて、まずそこを見つめろっていうんだよ。そこには自分の生まれてからの経験だけでなく、先祖のすべての経験も蓄えられている。だから自分の生も超えていく広がりを持つ。それは誰にでもあって、まさにそここそ、定で求める根源的な意識の領域なんだね。ところが、さっきの思い通りに生きようとする自我じゃないけど、我々がこの世に生を受けて、本能的な欲で自分本位に生きていこうとする時、その本能的な生の現象が、全部この阿頼耶識に滲みこんでいってしまう。それを受けて今度はまた阿頼耶識から生起した働きが、表層意識に映し出され、またすべてを自分本位に結び付けて解釈してしまう自我を生み出していく。こうして、自分の価値観でもって何でも自分の思い通りにとあがくから、それに対抗するものとぶつかって、苦しむし本当のものが見えなくなってしまう。まあ簡単にいうと、それが人間の心の構造なんだね。
■定とは対極、自我に生きる私たちの生き方
トリ・コ-ジ:
結局私たちが、普段なんの不思議も無く当たり前に思って生きる生き方というのは、 いかに自分の思い通りに生きようとする生き方でしかないかということですね。
増田住職:
それ以外の生き方なんて無いっていうぐらいにね。
トリ・コ-ジ;
そして自分のエゴを押し通して、出来るだけ思い通りに生きられた人のことを、この社会では成功者と見なしたりしちゃうんですね。
増田住職:
まあ、成功者と呼ぼうが何でもいいんだけどね。ところでね、冒頭の自然災害の話に戻すと、例えば東北で震災がおき、広島で水害がおき、そして今度は御嶽山で噴火がおきたんだけど、御嶽山の場合なんか、さすがにハイヒ-ルで行く人はいないと思うけど、随分軽装の人もいたっていう報道がありますよ。かつてあの山って噴火しているわけでしょ。もちろん今回御嶽山に登っていた人たちが、御嶽山を軽視していたとかそんなことは思わないけど、やっぱり自然界というのは、いつ何がおこるかわからない。広島の水害だって、雨で地滑りがおきて、たまたまそこの下にあった民家が被害を受けたということだけど、そもそも開発とかっていう名のもとに美化されて、本当だったら人が住めない危険のあるところに宅地を造成したのかもしれない。まあそんなことを言ったら、実際に被害を受けた人たちに怒られるかもしれないけど、でもね、そういう思考のもとに自然を配慮せずに、人間の利益だけで人為的に作りあげていった環境って随分あるんだよ。
トリ・コ-ジ;
それは個人のレベルを超えた、人間全体として思いのままの生き方をしているということですね。
増田住職;
だからね、精一杯頑張ってあの人たちは成功したというその成功は、自分の利益のために他のものを犠牲にして、結局後からその埋め合わせをしなくてはいけなくなるような、たかだかそういうレベルの話なんだよ。これは別にね、低いレベルとは言わないよ。でも本当の成功というのは、それとは尺度が違う次元での成功なんだろうね。
私なんかだって、両国陵苑を造るにあたって、人間的な目先の欲で、罰当たりなことをすると、随分陰口をたたかれていると思うよ。お寺の境内をビルにしちゃって、ましてやね、機械を入れ込んで、数をもくろんだ納骨堂なんか造ってとね。まあ、私は私なりの1つの考えをもって、取り組んでいることなんだけどね
そのように精一杯生きて成功するというのは、じつは自分のエゴのために頑張っているだけで、結局はいつかそのつけが回ってくるという、そういう難しい所があるんだよ。
トリ・コ-ジ:
ほんとにそうですよね。だからさっきの成功者っていうのは、ある意味ではちょっと皮肉を込めた言い方なんですけどね。ちょっと考えたらとっても単純なんだけど、みんなが自分の思い通りに生きたいと思ったら、当然自我と自我がぶつかりあうことになります。仮になんとなくこの人は成功だと言っている人たちだって、100%自分の思い通りに生きられているかというと、絶対にそんなことはない。ではその中で、何をもって成功と言っているかというと、多分今の社会では、社会的な地位が上がったとか、お金を儲けたとかいうことで、勝ち組になったと評価することでしょう。だけど社会的に地位が上がろうが、お金を儲けようが、家庭はバラバラとか、子供はみんなそっぽを向いて家を出ていってしまったとか、そういうことはいくらでもありますよね。
■対象化する人間の意志と曼荼羅の世界観
増田住職:
あのね、私自身まだよく理解できないんだけど、密教というのは、人間が最も素朴に疑問に思う所から、例えばこの地球って何ですかとか、宇宙って何ですかとか、空間って何ですかってことを、自問自答したんだよ。それで結果としてあの曼荼羅なんていうのをつくり上げたわけなんだ。曼荼羅ってある意味で、もう完全に世界を対象化して捉えているでしょう。通常は絵画として描かれ、時に立体的な建築物として現されることもあるんだけど。そうするとね、例えばどっか地方の空気の澄んだ所で、とてもきれいな夜空を見ていると、空間っていうのは本当に捉えどころなく果てしなく広がっていると思うよね。その捉え切れない広がりを、インドの人っていうのは、ある種枠の中にはめこんで認識できるように、曼荼羅という形で示そうとしたんだ。だからね、人間にはそういう自分を取り囲んでいるものを、なんかとか対象化して認識できるようにしようという思いがあるんだね。一方で、今の高野山の松永有慶官長なんかが、あの人はまあ学者だけどね、密教環境論ということで、自然を大事に大事にと、自然と人間とを分けずに一体となって循環していくような捉え方もある。しかし例えば、この宇宙の大空間をああいう曼荼羅という1つの凝縮した対象化された世界に作り上げていってしまう、あのインド人の意志、あるいは人間一般の持つフィ-リングというのは、やっぱり留意しておかなければならないことだろうね。
トリ・コ-ジ:
私は全く仏教には門外漢なのでわからないのですけど、なんとなく曼荼羅を見ていると、確かに対象化しているんですけど、でも単なる対象化とも違うんではないかという気がするんですね。通常対象化というのは、まず自分があって、自分の思い通りにしたいということがあって、そのために自分の外部のすべてのものを、自分の手段として捉えるために、対象化して捉える。そして先ほどの広島の地滑りなんかもそうだと思うんですけど、個人ばかりでなく人間全体としても、自然に対して人間の思い通りにしようとして、対象化する意志が働く。そうなるともう、自然に対する畏怖の念とか、配慮とかいうのは無くなってきますよね。でもじつは人間と自然とは、あるいは自分と他者とは、自我があって対象化するような関わりだけではなしに、なんかもっと深くて大きないのちの領域で、場合によっては先ほど話の出た死をも越えて受け継がれるいのちの領域で、共につながり、分かちあっているというイメ-ジもあるのではないかと思うんです。だから曼荼羅というのは、単に対象化して自分の手段に利用するという意図よりも、そこでなんか調和して、つながって、一緒に組み込まれて配置されているみたいな、そんな捉え方を表そうとしているんじゃないかと思うのですけど。
増田住職;
曼荼羅というのはね、自分がやっぱりあの中に入らないとダメなんだね。
トリ・コ-ジ;
ああなるほど、そうですよね。対象化して外から見ているんじゃダメなんですね。
増田住職;
入らないと曼荼羅の本当の意味なんて出てこない。ただその一方で、自我的な価値観と一括りになってしまうかもしれないが、自分を取り囲むものを対象化して捉えようとする認識の意味もあると思うんだよ。そのようにして自分たちにとっての価値を、何とか見出していこうとするんだ。
トリ・コ-ジ;
自分にとっての利用可能性の目的から、外界を対象化する認識の機能は、良い面と限界があるのでしょうね。対象化する捉え方をするから、科学は発達したのでしょうし。
増田住職:
今度の御嶽山の水蒸気爆発があって、火山灰に地表が覆われた映像を見ていて思うんだけど、実際に窪んだようなところを救助隊の人たちが歩いている様子は、ほんとに月世界にそっくりですよ。足跡がついて、あるいは石がこう落っこちてきて、パ-ンと跳ねると跡に丸いクレ-タ-が出きている。あれほんと月面そっくりだよね。そんなのを見ると、やっぱり地球って、1つの大宇宙の中の限りと寿命のある星だっていうことが思い知らされる。
そういう中で、かつての日本もそうだったんだけど、今の中国なんかに象徴される人間の、特に指導者なんかの発想を見ていると、どうせ地球はいずれは寿命があるんだから、今やりたいことをやればいいんだっていうような、そんな見方をどこかで持っているんじゃないかと思えてくる。
トリ・コ-ジ:
確かにそういう見方もできますよね。テレビの報道によると、中国や途上国の指導者の人たちは、海外に多額の資産を蓄えていて、いざという時には、いつでも逃げられる準備をしているとか。
増田住職:
例えば北京の最近の大気汚染とかね、まあかつての日本もそうだったんだけど、あれもうどうしようもない状況ですよね。それからいわゆるエネルギ-として原油を確保する、その行動を見ていると、どうもなんか地球を我がもの顔で収奪しているというか、なんか最近そんな感じがして仕方がないんだな。
トリ・コ-ジ;
人間の自我の欲望を満たすために、自然を対象化して捉えようとする認識の限界ですね。また少し死の話に戻りますが、やっぱりどこかで、死んだら無だ、何もないんだというそういうニヒリズムの意識が心の深いところにあると、だったら今やりたいことやっちゃおうというようなことになってしまうのでしょうね。
■死の始まりと宗教・哲学の智慧
増田住職;
あのね、あなたに聞きたいんだけどさ、人間ってなんで死というものを見つめ出したと思う?
トリ・コ-ジ;
う~んとあの~、ある神話には、日本の神話も聖書もそうなんですけど、始めは死はなかったっていうんですよね。どこかの時点で死が生まれちゃう、死が出来てきちゃうんです。これ結構大事なことで、多分人は、それまでも実際には死んでいたと思うんですけど、古い時代の間は、人は死んだけれども、今みたいな形で捉えていなくて、なんかまだ明確に断絶が意識されなくて、つながっているみたいな。でもどっかで死が生まれて、そして日本なんかでも、死は穢れとして意識されるようになりますよね。聖書でもそうですけど。穢れとか罪の結果とか。聖書の中では、『欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死に至る。』、という言葉あるんですけど、そういう形で死がある時から、何かやっぱり恐ろしいものというか、この世の自分たちから断ち切られたものというか、そういうことで意識され始める時が、きっとあっただろうと思うんです。
増田住職:
あのね、お経の中に『無始無終』っていう言葉があるんですよ。始めもなく終りもない。それにもう1つ、『初中後善』、始めも中も終わりも良いことという言葉がある。この善というのは、非常にいろんな意味があるんだけどね。それでね、こういう言葉で例えば生死を見つめると、生とか死とかの断絶を、まあ何というか、離れるというか乗り超えるというか、死で終わりというのとは別のものの考え方が出てくる。人が死を意識するという一方で、死とは別の無始無終、悠久の生の流れという考え方、生き方が出てくる。この悠久の流れに入った時には、地球に寿命があるとか、宇宙や星に寿命があって、いずれ死んじゃうんだから今何をやってもいいんだということとは、全く別の観念が出てくる。だからね、宗教とか哲学とかいうのは、人が死を意識したっていうことによって生まれてきたのだと思うんだ。死んだら終わりというニヒリスティクな考え方が最高潮になってくると、何もしないっていうのと、何をしてもいいんだというのと、両極端のその場しのぎの対応になってくる。
そこでそれを何とか克服したいという人間の叡知が、働き出すんだろうね。 今私が今一番怖いことは、人間が置かれている環境が破壊されるっていうことなんだけど、一方でこういう問題を日常的なレベルでみんなが語り出すような、そういう環境も出来つつあると思うんだ。だからもう1度宗教とか哲学が意味を持って、全く新しいものの考え方が出てくる、今そういう時期に来ているのかもしれないね。
トリ・コ-ジ:
例えばこの300~400年の間、人間はものすごい勢いで科学という知恵を発達させたのですが、それはまさに、人間が自分の思い通りにいろんなものを使いこなしたいという思いからですね。だけどその科学をどう使ったよいのかという智慧は、科学の中に答えは見つからない。どうしたら科学を使って、人間は幸せになれるのか。科学は、未だ戦争や環境破壊を引き起こす手段となり、答えを出せていないですよね。
増田住職;
科学によって、私たちの身辺が本当に便利になっていくというのは、確かに事実で、恩恵だと思う。たとえばこうやって暗い所でも、明るく昼間のごとく過ごせるし、あるいは、自分のしゃべった内容やその様子を、あたかも今現実にしゃべっているかのごとく正確に録画することも出来る。 でも、微妙な声の調子や表情・身振り等から、ここで話している我々の感情や気分を、この記録を見た人が同じように感じ取れるかというと、まだまだ課題が残る。そこでその課題に取り組んで解決すると、また分からない所が出てくる。こうして次々と起こってくる課題を、どこまでも解いていくために、直線的に掘り進んでいくという傾向が科学にはあるよね。
トリ・コ-ジ;
確かにありますね。
増田住職;
だから科学は、我々の身辺をどんどん便利にする方向には進んで行くんだけど、違う次元の方向にはなかなか進みにくい。例えば、今私が一番気になるのは、この地球って星の環境のバランスなんだけど、その深刻化するアンバランスにどう対処するかという方向転換は、科学自体には難しい。だからそこで、科学以外の例えば宗教みたいな智慧が、警鐘を鳴らすようなことが大切になってくる。密教でも、曼荼羅環境論なんてのを提唱している人がいるみたいなんだけどね。
トリ・コ-ジ;
科学というのは、経験で誰もが検証できることを事実として積み上げて、そこから1つの正しい法則性を見出していく知恵ですよね。だから、自然の分野では誰もが同じ事実を検証出来るから成立するけど、人によって意見や価値観が分かれる分野では、その方法は当てはめにくい。環境の分野でも、人によって価値観が分かれて、数学のようなたった1つの正解なんてないですよね。だからどういう方向に進めば良いのかということを、大多数の人で共通に了解できる異なる判断基準が必要になってくる。一旦方向性が決まれば、例えば環境バランスを最優先した社会経済の仕組みをつくろうとか、それが決まれば、その方向で自然科学は、また大きな成果を生み出して自律的に進んでいくんでしょうけどね。
■悟りの境地を現実に実現していくために - 布施
トリ・コ-ジ;
それで、また話がちょっと飛んでしまうんですけど、さっきの臨死体験や死の問題に戻りたいのですけど、科学というのは、今言ったように経験で検証できるものだけから事実を取り出すから、臨死体験は科学の対象になりますけど、死はもう、科学の対象外になってしまいます。死んだ先のことは、誰も戻ってこないのですから、経験できません。だから科学は通用しない。そうすると、誰も事実はわからないのですから、事実検証よりも、むしろどういう考え方をすれば、私たちの死に対する恐れや不安を取り除き、生をもっと充実したものに出来るかという捉え方の方が、もっと大事になってくると思うんです。 例えば、臨死体験の死の直前の報告などから類推して、死後の世界では、これまでの自我の狭い執着から解き放たれて、大きないのちの繋がりと慈しみに戻っていく、それは、この地上のすべてのいのちと横につながっているだけではなく、時間的にも過去から未来へとつながっている。そんな時空を超えたいのちの源へと帰っていく時、私たちはこの上ない至福に満たされると、まあそんな捉え方をした方が、死の恐れを越えたいのちの希望というものが、感じられますよね。
増田住職:
いやだから、わからないが故に、洋の東西を問わず、みんな死後の捉え方の工夫をやってきたわけですよ。例えば神っていうものをつくるとかね。密教なんかもそうです。たとえば密教の瞑想法である阿字観で言うところのように、梵語の最初の文字「あ」の世界へ戻っていく。すべてのものは、「あ」から生まれてまた「あ」の世界へ帰っていく。
トリ・コ-ジ:
宇宙の不生不滅の根源ですね。
増田住職:
すべてのものは、表面的な現象の変化の底に、同一の性(しょう)を有するが故に、再び阿字の世界へ入っていく。これはお経の最後の締めくくりの言葉ともなっている。同一性光明阿字、阿字の世界へ入っていくとね。
このあるがままの不生不滅の仏の世界を考えると、人間が変化するこの世界を対象化して捉えようとする認識の方法は、1つの便法であって、俗世を生きるための手段なんだね。でも阿字の世界、定の世界のことばかり考えていると、現実に我々はどう生きるのかということになってくるから、対象化という便法も、けっして間違ってはいない気がするんだけどね。
トリ・コ-ジ:
そうですね。私は宗教おたくだから、宗教には可能性があると思っているのですけど、よく批判されるのは、宗教は、自分が心の中で悟って満足するだけのもので、実生活の営みには何の役にも立たないというものですね。確かにずっと瞑想していて、それで自分は気分が良くなったと言っても、じゃあ明日から会社で、いろんなしがらみの中で生きていくのに、どう具体的に役立つのかって言われたら、答えに窮しますよね。
増田住職:
あのね、たとえば極楽世界っていう言葉があるでしょう。あれはいわゆる念仏宗、浄土系の理想世界を言うんだよ。その理想世界っていうのを、例えばこの現実の日常の中につくるというのと、あくまでも現実世界の最終段階としての真理の世界と見るのか、浄土宗にはその両様に捉えられるところがある。ところが密教では、あの曼荼羅の考え方の世界を、別の言葉で密厳国土って言うんだけど、あの曼荼羅のように荘厳(しょうごん)された国土を、この世につくっていくという考え方があるんだよ。荘厳に飾られるということは、要するに密教の考え方によって飾られる世界ということ。それは例えば極端なことを言うと、自我なんていうものを我々は持っているんだけど、そんなものは何れ限界にぶつかるもので、悠久のものでも何でもない。そうではなく悠久普遍の真理をベ-スに、密教の理想郷を現実にこの世につくっていくという考え方なんだね。
その理想の実現のための現実世界への働きかけとして、布施という行いがあるんだ。例えば簡単なことだけど、道路に1つ木のベンチを置いてあげる。実際インドなんかに行くと、かつては大きな街道とかに青々と茂る樹木を植えて、そこにベンチを置く布施があった。緑陰施といって陰を提供してあげる布施なんだけどね。昔はそこを歩く旅人が、その木陰でどれほど憩えたか。
トリ・コ-ジ:
なるほど、布施という行為による現実社会への働きかけなんですね。
増田住職;
そうなんだね。そういう慈悲の心をもって互いに施し合うということが、密厳国土のあり様なんだよ。そういう形で宗教による倫理化というか道徳化を整えていって、そういう価値観や倫理観で人間が生きていければいいんじゃないかというので、密厳国土はあるんだよ。やっぱり人間が、快適な生き方をしていけるようにね。
トリ・コ-ジ:
お互い同士、みんな一緒に快適な生き方ができるようにということですね。
増田住職:
例えばね、大徳院がこういう両国陵苑という建物を造ったでしょ。それでこの建物の中で、ある意味で人の生き死にの処理ということをやっているわけだけど、これはじつは、建物自体が布施をしているんだよ。
トリ・コ-ジ:
ああ、なるほど。
増田住職:
建物というのは機能を持っている。この建物はどこの階を見ても、酒を飲んで、欲望を満たすための建物ではないということは、その造りの構造と雰囲気でよくわかる。この建物というのは、これに見合った働きをしているんだ。これがね、建物というものが持っている布施なんだよ。この建物が持っている意味というのがよくわかって、結構意義を認めている人たちがいるんですよ。布施というのは、人の施しをしたいという思いから生まれるものであって、そういう思いを引き出す仕組みや環境も、この建物のように布施の働きを担うんだね。
だからバカみたいに思うのは、例えば電車に乗ると、お年寄りのためのシ-トが機械的に区切られて、ここだって色分けまでしてあるじゃない。あれでは強制であって、お年寄りに席を譲ろうという布施の心を引き出す仕組みになっていない。あれ本来だったら、年寄りが電車に乗ってきたら、若い人だったら自ら席を譲ろうという心が働かないと。ちゃんと床座布っていう布施が、インドにはあるんですよ。
このように密厳国土というのは、例えば布施の心や行いに表されるように、またその心や行いが働きやすいように、密教の思考によって内容づけられ、仕組みづけられた社会のことなんだね。これをね、密厳国土なんていう言葉ではなく、若い人が何の抵抗もなく受け入れられるような、なんかもっと現代的なうまい表現はないものかと考えてしまうんだ。