■2017.6.17パンセ通信No.141『岐路に立つ安倍政権ともう1つの選択』
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1.現代の政治ゲームの選択肢
(1)新ルールの完成と欧米の政治ゲーム
6月15日の朝に「共謀罪の構成要件を改めたテロ等準備罪(NHKの表現)」法案が可決成立しました。これで2013年12月に成立した「特定秘密保護法」、2015年9月に成立した「安保関連2法」(2014年に閣議決定した武器輸出三原則の緩和と防衛装備移転三原則への移行を含む)と併せて、安倍内閣が新たにつくろうとしていた一連のゲームのルールが、く完成したと言えるでしょう。もちろん安倍内閣が目指しているのは、日本国憲法の改憲で、それはまだこれからという意見もあります。しかし「戦後レジームの脱却」を目指してきた安倍政権にとっては、すでに安保法制で憲法9条を、また共謀罪によって罪刑法定主義を無効にしてしまっているので、ゲームの基本ルールとしては完成です。今後の改憲は、そのルールを補強するものでしかありません。つまりすでに実質的にゲームを支配しているプレーヤーが、ゲームのルールを自分たちに都合良く変えられる仕組みを制度化して追加するか、あるいは自分たちに都合の悪いプレーヤーを法制度的に排除出来るようにするだけのことです。
ただ現代の世界の先進国の政治ゲームでは、ゲームの成立に大衆の支持が必要となるために、ゲームの支配層は、民衆に気づかれないような潜在的な支配の仕方を行うのが主流です。つまり現在の政治ゲーム以外にも、別のゲームのあることを人々に気づかせないようにしたり、選択肢を限られたものにしたり、あるいは選挙等を通じて誰もがゲームに参加出来るような形式を装いつつ、実質的には多数の人々はゲームに参加出来ない仕組みをつくって、限られたプレーヤーだけでの政治ゲームを行って(支配して)いくのです。このに気づいて異議申し立てを行ったのが、アメリカのトランプ大統領であり、ヨーロッパのポピュリズム政党でした。もっと尤もトランプ大統領自身が、あからさまな(けんざいてき顕在的な)支配者(独裁者)になりそうで、民衆の反感にされていますし、ポピュリズム政党も、ただ既存のゲームへの反感をあお煽るだけで新しい社会ゲームのビジョン示せないので、人々の支持を失いつつあるようですが。
(2)安倍首相の命運
こうした現代の政治ゲームの潮流から考えれば、日本の(あるいは日本を傘下に置く国際的な)ゲームメーカーにとっては、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪(テロ等準備罪)」によって形づくられるゲームのルールでも十分に潜在支配は行え、それに脅威をもたす芽を制度的に事前に摘み取ることが出来るようになりました。それ以上踏み込んで、改憲にまで突き進むかどうかは、潜在的な支配から顕在的な支配(強権政治・独裁)へと一線を踏み越える可能性を示すことになるので、判断としては悩ましいところです。3つのセットの法律が出来たところでひとまず良しとするか、とにかく改憲まで踏み込んで、ゲームのルールをさらに自分たちに都合よく変えられるまでの道筋をつけておくか。あるいはロシアや中国や北朝鮮のような、強権を顕在化させた支配体制にまで突き進むかどうか。世論の動向次第というところでしょう。
それによってまた、安倍晋三首相の命運も変わってくるものと思われます。3つの法律が出来たところで、ゲームメーカーからしてみれば安倍首相は一応の役割を果たしたことになり、ここで役割を終えてもらっても良いところです。祖父の岸信介元首相が、1960年の日米安保協定の改定を果たしたところでお役御免となったようにです。安倍晋三という政治家は、元来強権的な政治手法を理想とする政治家で、総理大臣就任後、大衆受けするスローガンと外国からの脅威を巧みにプロパガンダとして用いて世論の支持を得つつ、特に行政機構内において統制的な政治運営を行ってきました。しかし強圧による統制は、それに対する反発をさらに抑え込む力が必要で、少しでもほころ綻びが見えてくると、反発や恨みを抱く勢力の力が噴出して、もろ脆くも崩れ去ってしまう危険性があります。改憲によって強権的支配が制度化(法制化)されていない現状では、現代の政治ゲームでは重要な武器となった反発勢力からの情報リークによって、容易に安倍首相個人に対する世論の信認が、嫌悪へと転化していってしまう可能性があるのです。
それでは、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪(テロ等準備罪)」の3セットの法律によって確立されたルールによって展開されるゲームというのは、いったいどういうものなのでしょうか。また現代における日本のゲームメーカーというのは、どういう勢力の人たちなのでしょうか。現在パンセ通信で検討を進めている、人間の本質と関係性の原理を解明する作業から見えてくる、新たなルールとゲームのビジョンを対置することから、次第に明らかにしていってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、6月19日月曜日18時30分より行います。場所をいつもの渋谷区本町ホームシアターから移して、東京ドームへ参ります。IBMのOBの吉田俊雄さんのご厚意により、アメリカンフットボールのパールボールの決勝戦を鑑賞しながら(IBMビッグブルーを応援しながら)語らうことが出来ればと思います。入場招待なので、ご興味のある方は文末の白鳥の連絡先までお問い合わせ下さい。また6月26日月曜日のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は、1960年製作の大映映画「大菩薩峠(三隈研次監督)」です。原作は中里介山の長編大衆時代小説で、人間の業を描こうとし、戦後の日本人の心を捉えて何度も映画化された作品です。
2.フロンティアの喪失
(1)フロンティアの意義
ところで話は少しはずれますが、資本主義というのは、常にフロンティアを必要とするものです。往々にしてそのイメージは、冒険に満ちた大航海とその果ての未知なる新世界、そしてそこで遭遇する恋とロマンと莫大な財宝、時としては世界の救済にまで至ることの出来るような未開の領域が待ち受けているといったものでしょう。現代風に言えば未開の新市場とイノベーションによる無限のビジネスチャンス、そして誰もが成功して富を得るチャンスがあって、富を通じて世界に貢献する英雄になることの出来るといったところでしょうか。このことは人間の精神の特質とも合致するものであって、私たちの精神は、あこがれとロマンによって常にその先の可能性へと突き進み、新しい価値を生み出していこうとするものです。それが出来ないと生き甲斐を喪失し、精神は萎えていってしまうのです。そして自分自身への絶望からニヒリズムを募らせ、他の人の可能性への取り組みを、虚妄とか若気の至りとさげす蔑むさもしい心性に陥ってしまうようにもなるのです。
逆に言えば市場経済と市民社会によって裏付けられた資本主義という仕組みは、始めて無限の可能性と価値創出を求める人間の精神に、その本来性を発揮する機会を与え、人間が持続的に経済発展を成し遂げていく条件を整えたのです。ところがそんな資本主義も、もう一段の質的飛躍の必要な段階にさしかかる時があって、そうした時代においてはフロンテイアが見えにくく、 “成熟社会”などと表現される行き詰まり状況に陥ってしまうのです。
(2)アメリカ型モデルのみと資源制約
現代もそんな時代と言えるでしょう。このフロンティアが見えにくくなった理由には、3つほどの事態が指摘できますが、その根幹は、アメリカ型の社会モデルが崩れ始めたことに起因すると思われます。私たちの世界は第二次世界大戦後になってようや漸くのこと、先進国において消費革命が起こり、大衆消費社会の到来が可能となりました。国民の多数が、物質的に豊かな生活を享受できるようになったのです。それはこの時代のはしゃ覇者である、アメリカの社会モデルによってもたらされたものでした。アメリカ型社会モデルというのは、人生の価値を出世と金儲けによる成功ゲームに一元化して競わせ、資源を浪費して消費市場を拡大し、さらに途上国の資源と労働力を収奪し、またイノベーションとマーケティング&広告宣伝(加えて最近では財政支出と金融緩和)によって消費を過剰に刺激して、企業の成長と利益を常に最大限に導こうとするものです。
しかしながら残念なことに、このアメリカモデルにきし軋みが生じてしまっているのです。そしてそれと同時に、フロンティアも私たちの視野から消失していくことになったのです。その第1の理由は、地球温暖化に象徴される資源浪費の限界と資源量の制約です。私たちは誰もが消費生活を享受できる普遍消費社会を実現したのですが、当然のことながらそれを可能とする資源には制約があります。エネルギー・物質循環(リサイクル)を高度に推し進めて、資源制約を打破していくのでなければ、もはや成長が望めないどころか、社会の存続も危ぶまれる状況になってきてしまっているのです。
(3)格差の拡大
第2の理由は、格差の拡大です。格差には、先進国と途上国における格差(南北問題)と先進国の国内おける格差の問題があります。企業が利益を上げるためには、途上国の資源・労働力を収奪するか、途上国においても消費革命(庶民が豊かになる)を起こし、途上国市場を自分たちのマーケットに変えていく方法があります。この2つの方法をバランスをとって行っていく必要があるのですが、人間は貪欲ですから、企業の貪欲と途上国の特権階層の貪欲が結びつき、庶民の生活水準の向上を犠牲にして、目先の利益の見込まれる開発投資に特化していくことになります。こうして途上国内の激しい格差の拡大と、環境・文化伝統の破壊が進み、希望を失った庶民の怨念が、テロの温床を形成していくことにもなるのです。またそもそも途上国における消費革命など、民間企業に出来ることではありません。しかし先進国家による途上国援助も、もっぱら自国企業の開発事業への支援(ODA)に向けられているため、途上個における新市場創出は意識的・計画的には進まないことになってしまうのです。この結果、やっと広がってきた途上国市場をグローバル企業が奪い合うことはあっても、無限に拡大する新市場というフロンティアの創出は、視野から消え去ってしまうことになるのです。
国内においても同じで、右肩上がりの国内市場成長が見込めない時には、企業や資産家は、自分たちの利益を優先して労働コストを始めとした売上原価を引き下げようとするのです。その結果消費支出の大多数を占める庶民の可処分所得が減少し、国内市場は停滞(デフレ)し、国内におけるフロンティアが消失していくことになるのです。
(4)生活物資の充足
アメリカ型モデルが機能しなくなり、フロンティアが見えにくくなった第3の理由は、出世と金儲けに一元化された社会(成功)ゲームの限界です。もともと人間の欲望は多様なものであって、私たちがそれぞれに多様な自己価値を追求して社会を高度化することに貢献し、人間らしく生きていけるようになることが、本来の人間の生き方と社会の目的です。その時人間と社会の生産性は最も向上し、私たちは資本主義による経済の持続的成長だけでなく、人間と社会の成長と発展の原理をも手にすることが出来るようになるのです。そうなるための必要条件として、人間は市民革命以降の300年間、まず市場経済と資本主義の発展によって物質的な生産基盤を拡大してきました。そして先進国においては、国民が普遍的に生活の困窮と不安から解放され、不足の無い消費生活を享受して、生活物質への欲求が充足される条件を整えてきたのです。
それが現在の先進国の“成熟した”段階です。この段階においては、もはや出世と金儲けに一元化された単純な我先き勝ちの成功ゲームだけでは、私たちの欲望が刺激されず、フロンティアが拓けてこないのです。それに代わって新しい価値創造の社会ゲームが必要となってくるのです。それは現在のような限られた富やポジションの獲得競争に血道を上げて、労力の消耗と引き換えに運よく“成功”を収め、他人よりもわずかばかり豊かな生活と地位を手に入れて優越感に浸るようなゲームではありません。またいつその“成功”が失われるかと不安にさいな苛まれるようなものでもありません。他者の承認と信頼のもとに、互いの価値を高め合って無限の可能性と、計り知れない富を生み出していくことの出来る人間社会の新たな成功ゲームです。
このようにこれまでの成功ゲームだけでは、私たちの欲望が刺激されない状況で、いくらその方向でのマーケティングと広告宣伝とイノベーションを駆使しても、効果は限られたものとなってきます。ましてや格差拡大によって庶民の可処分所得が制約されているのですから、私たちは生活防衛に走り、フロンティアはますます遠のいていってしまうのです。
3.フロンティア喪失への対応
(1)2つの選択肢
さてこのようにフロンティアが見えにくくなった状況で、人間の採る対応は2つです。1つは新しいフロンティアを見出そうと努力することです。なぜならフロンティアは決して無くなったわけでは無く、ただ見えなくなっただけだからです。世界は未知と驚きに満ちています。人間の意識はそのすべてを捉えることが出来ず、ただこれまでの価値観に囚われて、その延長線上で惰性的に物事を見ることしか出来ません。そのために、新たな意味あるものに気づかないのです。
もう1つの対応は、現在の閉塞した状況(ゼロサムゲーム)で自分たちの地位や利益を守り、さらにそれを強固にして自分たちの取り分も増やしていこうとする対応です。現在の社会ゲームの中で、有利なポジションにある人々は、当然こうしたモチベーションが生じることでしょう。そしてそのために採る戦略として、2つの対応があるのです。1つは潜在的(impricit)に現在の政治ゲームをコントロールして、自分たちの地位と利益を不動のものとしていく方法です。具体的には現在の地位と富の成功ゲームを、誰にも開かれて成功のチャンスのあるゲームとして見せかけ、実質的にはその可能性を阻む方法です。選挙を通じて、形式的にはゲームのルールさえ庶民が変更できるように見せかけるのです。そして他にゲームは無いと信じ込ませて、人々の欲望を現在の成功ゲーム(庶民は決して勝てない)にのみ振り向けていくのです。また一定程度の福祉政策と成長戦略(企業の利益にしかなりませんが)を実施して、人々の不満を抑え、多数の人々の支持を取り付けていくのです。これが2000年代に入って世界の先進国で取られてきた方法です。このためにマジョリティーである一般庶民は、何か良く分からないままに次第に生活水準が低下し(ゼロサムゲームなので、自分たちの利益配分が下がる)、将来の希望が失せていってしまうのです。
2つ目は、顕在的(あからさま、expricit)にゲームをコントロールしていく方法です。国家的な危機を演出して、権限を政府に集中させて、国家を一丸とすることによって、現状以外の選択肢を制度的にも無くさせていく方法です。
(2)日本の対応
日本においては、2001年の小泉政権になって遅ればせながら本格的な新自由主義政策を採り、成長戦略の名のもとに、それまでの利益分配政策から成功ゲームでの勝者を固定する国家戦略に切り替えていきました。しかし格差拡大の矛盾をこと糊塗する手法に乏しく、一旦は自民党が民主党に政権を明け渡すことになりました。この時小泉元首相によって用いられた政治手法が、“抵抗勢力”の名のもとに敵をつくって自分を正義の側に置き、二者選択を迫る方法です。この政治手法は、その後安倍首相はもとより、橋下徹氏の維新の会や小池ゆり子東京都知事に受け継がれていきました。
その後現状の社会ゲームでの勝者を固定させることを求める人々の戦略が、日本において洗練されていったのは、第二次安倍内閣以降のことです。安倍首相自身は、国家主権による顕在的な支配に美学(美しい国日本)と大義を感じ、それを推し進めようとする人ですが、現在の社会ゲームで地位と利益を確保したい人々にとっては、顕在的支配でも潜在的支配でも、自分たちの目的が達せられればどちらでも良いことなのです。
(3)安倍政権の政治手法
この目的の達成のために、安倍政権は2つの手法を推進しました。1つは高度な企業型広報戦略の政治利用です。これによる“印象操作”によって、経済成長、問題解決に挑む信頼できる政府、世界をリードして国益を高める安倍首相のイメージを演出し、“この道しかない”と、他の社会ゲームの選択をシャットアウトして、国民を安倍政権にしがみつかせていくように仕向けたのです。またマスメディアばかりでなく、T2(Truth Team)ルームを設置して、強力なインタ-ネット対応をも図っていったのです。こうして確立した「政治のメディア戦略」は、恐らく世界的に見ても優れたもので、それに対して「メディアの側の政治戦略」は全く追いつかず、安倍政権にコントロールされるようになっていってしまったのです。
もう1つの方法は、内閣府を中心とした徹底的な権力統制です。人事権による官僚(行政機構)のコントロールと、メディアコントロール及びマーケティング&パブリックリレーションによる、大衆人気の醸成です。このために“敵をつくる”戦略を駆使して、野党を徹底的におとし貶めて信頼を無くし、すり寄るマスコミや人材は優遇し、反抗したり指示を聞かぬ者は、徹底して排除したり攻撃を加え、また近隣諸国の脅威を煽って政権への求心力を高めていったのです。
4.もう1つの選択
(1)安倍政権の行く末
しかしここに来て安倍政権の統治手法にも、ほころ綻びが見え始めてきました。敵をつくって統制する手法は、政権の力が有無を言わせぬ強さのある時は良いのですが、少しでも弱みが見えると、排除されて恨みを抱いていた者が逆襲してきます。また元来がメディア操作による印象政治ですから、“裸の王様”と同様、その幻想が解けた時には、一挙に信用が瓦解していくのです。実際にアベノミクスは、国家財政の赤字と日銀の国債買い入れによる資産増大という巨額の負債と引き換えに、企業の内部留保を高めることには成功しましたが、国内市場を成長させることには成功しませんでした。また東京証券取引所に上場する20世紀型の企業にとっては、手厚い支援があって良いのですが、IT&AI技術とその関連産業という21世紀前半の主戦場となる産業においては、日本の技術も企業活動もさんたん惨憺たる状況に陥っているのです。そしてまたトランプ政権が誕生して世界が流動化する中で、近隣諸国を仮想敵国化する戦略も、企業収益へのマイナス要因が大きくなる可能性が出て来てきているのです。
こうした状況にあって、安倍政権の行く末は世論の動向次第といったところになっています。未だ国家主権による強権統治体制が法制度的に確立していない以上、やはり世論の支持が、政治を決める最大の要因です。もともとあからさまな強権支配というのは、世論の反発も引き起こしやすくもろ脆い面もあります。現在の地位と利益を確保したい勢力にとっては、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪」が成立した現段階において、武器輸出という国際軍事マーケットに参画出来るビジネスチャンスが開け、また現在のゲームに異議申し立てする勢力の芽を事前に摘み取る法制も出来たので、支配の体制としては、顕在的なものであれ潜在的なものであれどちらでも良いのです。
(2)新しいフロンティアの創造
ところが忘れてはいけないもう1つの選択肢があります。それが今までと異なるゲームとルールをつくって、新しいフロンティアを生み出していく選択です。野党は民主主義を無視した安倍政権の横暴さを非難しますが、安倍政権がつくったゲームのルールの上でパワーゲームを挑んでも、勝ち目が無いのは当然のことでしょう。ここで安倍政権を批判する訳ではありません。このままでもある時期まで私たちは、そこそこの生活を送っていくことが出来るでしょう。しかしそれは問題の先送りであって、累積する財政赤字を解消し、エネルギーと食料の安全保障を解決し、新しいフロンティアを拓いていく原理は、現状のゲームが持ち合わせるものでは無いのです。しかしそれが無ければ、やがて1989年の東欧・ソ連邦の解体のように、ある日を境に現在の社会ゲームは崩壊することになるでしょう。
大切なことは、新しいフロンティア拓くもう1つのゲームを明確にして、現在の社会ゲームとの比較を行い、私たちが選択を行えるようにしていくことです。その時に社会の活力は取り戻され、人間の未来も拓けてくるものと思われます。パンセ通信では、人間と社会の原理から、もう1つの人間社会ゲームを構築する試みを続けていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、6月19日月曜日18時30分より行います。場所は東京ドームに移して、アメリカンフットボールの決勝戦を鑑賞しながら行います。入場招待なので、ご興味のある方は下記の白鳥までご連絡下さい。また6月26日月曜日のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は、1960年製作の大映映画「大菩薩峠(三隈研次監督)」です。
P.S. 現在パンセ通信は、No.139まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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1.現代の政治ゲームの選択肢
(1)新ルールの完成と欧米の政治ゲーム
6月15日の朝に「共謀罪の構成要件を改めたテロ等準備罪(NHKの表現)」法案が可決成立しました。これで2013年12月に成立した「特定秘密保護法」、2015年9月に成立した「安保関連2法」(2014年に閣議決定した武器輸出三原則の緩和と防衛装備移転三原則への移行を含む)と併せて、安倍内閣が新たにつくろうとしていた一連のゲームのルールが、く完成したと言えるでしょう。もちろん安倍内閣が目指しているのは、日本国憲法の改憲で、それはまだこれからという意見もあります。しかし「戦後レジームの脱却」を目指してきた安倍政権にとっては、すでに安保法制で憲法9条を、また共謀罪によって罪刑法定主義を無効にしてしまっているので、ゲームの基本ルールとしては完成です。今後の改憲は、そのルールを補強するものでしかありません。つまりすでに実質的にゲームを支配しているプレーヤーが、ゲームのルールを自分たちに都合良く変えられる仕組みを制度化して追加するか、あるいは自分たちに都合の悪いプレーヤーを法制度的に排除出来るようにするだけのことです。
ただ現代の世界の先進国の政治ゲームでは、ゲームの成立に大衆の支持が必要となるために、ゲームの支配層は、民衆に気づかれないような潜在的な支配の仕方を行うのが主流です。つまり現在の政治ゲーム以外にも、別のゲームのあることを人々に気づかせないようにしたり、選択肢を限られたものにしたり、あるいは選挙等を通じて誰もがゲームに参加出来るような形式を装いつつ、実質的には多数の人々はゲームに参加出来ない仕組みをつくって、限られたプレーヤーだけでの政治ゲームを行って(支配して)いくのです。このに気づいて異議申し立てを行ったのが、アメリカのトランプ大統領であり、ヨーロッパのポピュリズム政党でした。もっと尤もトランプ大統領自身が、あからさまな(けんざいてき顕在的な)支配者(独裁者)になりそうで、民衆の反感にされていますし、ポピュリズム政党も、ただ既存のゲームへの反感をあお煽るだけで新しい社会ゲームのビジョン示せないので、人々の支持を失いつつあるようですが。
(2)安倍首相の命運
こうした現代の政治ゲームの潮流から考えれば、日本の(あるいは日本を傘下に置く国際的な)ゲームメーカーにとっては、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪(テロ等準備罪)」によって形づくられるゲームのルールでも十分に潜在支配は行え、それに脅威をもたす芽を制度的に事前に摘み取ることが出来るようになりました。それ以上踏み込んで、改憲にまで突き進むかどうかは、潜在的な支配から顕在的な支配(強権政治・独裁)へと一線を踏み越える可能性を示すことになるので、判断としては悩ましいところです。3つのセットの法律が出来たところでひとまず良しとするか、とにかく改憲まで踏み込んで、ゲームのルールをさらに自分たちに都合よく変えられるまでの道筋をつけておくか。あるいはロシアや中国や北朝鮮のような、強権を顕在化させた支配体制にまで突き進むかどうか。世論の動向次第というところでしょう。
それによってまた、安倍晋三首相の命運も変わってくるものと思われます。3つの法律が出来たところで、ゲームメーカーからしてみれば安倍首相は一応の役割を果たしたことになり、ここで役割を終えてもらっても良いところです。祖父の岸信介元首相が、1960年の日米安保協定の改定を果たしたところでお役御免となったようにです。安倍晋三という政治家は、元来強権的な政治手法を理想とする政治家で、総理大臣就任後、大衆受けするスローガンと外国からの脅威を巧みにプロパガンダとして用いて世論の支持を得つつ、特に行政機構内において統制的な政治運営を行ってきました。しかし強圧による統制は、それに対する反発をさらに抑え込む力が必要で、少しでもほころ綻びが見えてくると、反発や恨みを抱く勢力の力が噴出して、もろ脆くも崩れ去ってしまう危険性があります。改憲によって強権的支配が制度化(法制化)されていない現状では、現代の政治ゲームでは重要な武器となった反発勢力からの情報リークによって、容易に安倍首相個人に対する世論の信認が、嫌悪へと転化していってしまう可能性があるのです。
それでは、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪(テロ等準備罪)」の3セットの法律によって確立されたルールによって展開されるゲームというのは、いったいどういうものなのでしょうか。また現代における日本のゲームメーカーというのは、どういう勢力の人たちなのでしょうか。現在パンセ通信で検討を進めている、人間の本質と関係性の原理を解明する作業から見えてくる、新たなルールとゲームのビジョンを対置することから、次第に明らかにしていってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、6月19日月曜日18時30分より行います。場所をいつもの渋谷区本町ホームシアターから移して、東京ドームへ参ります。IBMのOBの吉田俊雄さんのご厚意により、アメリカンフットボールのパールボールの決勝戦を鑑賞しながら(IBMビッグブルーを応援しながら)語らうことが出来ればと思います。入場招待なので、ご興味のある方は文末の白鳥の連絡先までお問い合わせ下さい。また6月26日月曜日のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は、1960年製作の大映映画「大菩薩峠(三隈研次監督)」です。原作は中里介山の長編大衆時代小説で、人間の業を描こうとし、戦後の日本人の心を捉えて何度も映画化された作品です。
2.フロンティアの喪失
(1)フロンティアの意義
ところで話は少しはずれますが、資本主義というのは、常にフロンティアを必要とするものです。往々にしてそのイメージは、冒険に満ちた大航海とその果ての未知なる新世界、そしてそこで遭遇する恋とロマンと莫大な財宝、時としては世界の救済にまで至ることの出来るような未開の領域が待ち受けているといったものでしょう。現代風に言えば未開の新市場とイノベーションによる無限のビジネスチャンス、そして誰もが成功して富を得るチャンスがあって、富を通じて世界に貢献する英雄になることの出来るといったところでしょうか。このことは人間の精神の特質とも合致するものであって、私たちの精神は、あこがれとロマンによって常にその先の可能性へと突き進み、新しい価値を生み出していこうとするものです。それが出来ないと生き甲斐を喪失し、精神は萎えていってしまうのです。そして自分自身への絶望からニヒリズムを募らせ、他の人の可能性への取り組みを、虚妄とか若気の至りとさげす蔑むさもしい心性に陥ってしまうようにもなるのです。
逆に言えば市場経済と市民社会によって裏付けられた資本主義という仕組みは、始めて無限の可能性と価値創出を求める人間の精神に、その本来性を発揮する機会を与え、人間が持続的に経済発展を成し遂げていく条件を整えたのです。ところがそんな資本主義も、もう一段の質的飛躍の必要な段階にさしかかる時があって、そうした時代においてはフロンテイアが見えにくく、 “成熟社会”などと表現される行き詰まり状況に陥ってしまうのです。
(2)アメリカ型モデルのみと資源制約
現代もそんな時代と言えるでしょう。このフロンティアが見えにくくなった理由には、3つほどの事態が指摘できますが、その根幹は、アメリカ型の社会モデルが崩れ始めたことに起因すると思われます。私たちの世界は第二次世界大戦後になってようや漸くのこと、先進国において消費革命が起こり、大衆消費社会の到来が可能となりました。国民の多数が、物質的に豊かな生活を享受できるようになったのです。それはこの時代のはしゃ覇者である、アメリカの社会モデルによってもたらされたものでした。アメリカ型社会モデルというのは、人生の価値を出世と金儲けによる成功ゲームに一元化して競わせ、資源を浪費して消費市場を拡大し、さらに途上国の資源と労働力を収奪し、またイノベーションとマーケティング&広告宣伝(加えて最近では財政支出と金融緩和)によって消費を過剰に刺激して、企業の成長と利益を常に最大限に導こうとするものです。
しかしながら残念なことに、このアメリカモデルにきし軋みが生じてしまっているのです。そしてそれと同時に、フロンティアも私たちの視野から消失していくことになったのです。その第1の理由は、地球温暖化に象徴される資源浪費の限界と資源量の制約です。私たちは誰もが消費生活を享受できる普遍消費社会を実現したのですが、当然のことながらそれを可能とする資源には制約があります。エネルギー・物質循環(リサイクル)を高度に推し進めて、資源制約を打破していくのでなければ、もはや成長が望めないどころか、社会の存続も危ぶまれる状況になってきてしまっているのです。
(3)格差の拡大
第2の理由は、格差の拡大です。格差には、先進国と途上国における格差(南北問題)と先進国の国内おける格差の問題があります。企業が利益を上げるためには、途上国の資源・労働力を収奪するか、途上国においても消費革命(庶民が豊かになる)を起こし、途上国市場を自分たちのマーケットに変えていく方法があります。この2つの方法をバランスをとって行っていく必要があるのですが、人間は貪欲ですから、企業の貪欲と途上国の特権階層の貪欲が結びつき、庶民の生活水準の向上を犠牲にして、目先の利益の見込まれる開発投資に特化していくことになります。こうして途上国内の激しい格差の拡大と、環境・文化伝統の破壊が進み、希望を失った庶民の怨念が、テロの温床を形成していくことにもなるのです。またそもそも途上国における消費革命など、民間企業に出来ることではありません。しかし先進国家による途上国援助も、もっぱら自国企業の開発事業への支援(ODA)に向けられているため、途上個における新市場創出は意識的・計画的には進まないことになってしまうのです。この結果、やっと広がってきた途上国市場をグローバル企業が奪い合うことはあっても、無限に拡大する新市場というフロンティアの創出は、視野から消え去ってしまうことになるのです。
国内においても同じで、右肩上がりの国内市場成長が見込めない時には、企業や資産家は、自分たちの利益を優先して労働コストを始めとした売上原価を引き下げようとするのです。その結果消費支出の大多数を占める庶民の可処分所得が減少し、国内市場は停滞(デフレ)し、国内におけるフロンティアが消失していくことになるのです。
(4)生活物資の充足
アメリカ型モデルが機能しなくなり、フロンティアが見えにくくなった第3の理由は、出世と金儲けに一元化された社会(成功)ゲームの限界です。もともと人間の欲望は多様なものであって、私たちがそれぞれに多様な自己価値を追求して社会を高度化することに貢献し、人間らしく生きていけるようになることが、本来の人間の生き方と社会の目的です。その時人間と社会の生産性は最も向上し、私たちは資本主義による経済の持続的成長だけでなく、人間と社会の成長と発展の原理をも手にすることが出来るようになるのです。そうなるための必要条件として、人間は市民革命以降の300年間、まず市場経済と資本主義の発展によって物質的な生産基盤を拡大してきました。そして先進国においては、国民が普遍的に生活の困窮と不安から解放され、不足の無い消費生活を享受して、生活物質への欲求が充足される条件を整えてきたのです。
それが現在の先進国の“成熟した”段階です。この段階においては、もはや出世と金儲けに一元化された単純な我先き勝ちの成功ゲームだけでは、私たちの欲望が刺激されず、フロンティアが拓けてこないのです。それに代わって新しい価値創造の社会ゲームが必要となってくるのです。それは現在のような限られた富やポジションの獲得競争に血道を上げて、労力の消耗と引き換えに運よく“成功”を収め、他人よりもわずかばかり豊かな生活と地位を手に入れて優越感に浸るようなゲームではありません。またいつその“成功”が失われるかと不安にさいな苛まれるようなものでもありません。他者の承認と信頼のもとに、互いの価値を高め合って無限の可能性と、計り知れない富を生み出していくことの出来る人間社会の新たな成功ゲームです。
このようにこれまでの成功ゲームだけでは、私たちの欲望が刺激されない状況で、いくらその方向でのマーケティングと広告宣伝とイノベーションを駆使しても、効果は限られたものとなってきます。ましてや格差拡大によって庶民の可処分所得が制約されているのですから、私たちは生活防衛に走り、フロンティアはますます遠のいていってしまうのです。
3.フロンティア喪失への対応
(1)2つの選択肢
さてこのようにフロンティアが見えにくくなった状況で、人間の採る対応は2つです。1つは新しいフロンティアを見出そうと努力することです。なぜならフロンティアは決して無くなったわけでは無く、ただ見えなくなっただけだからです。世界は未知と驚きに満ちています。人間の意識はそのすべてを捉えることが出来ず、ただこれまでの価値観に囚われて、その延長線上で惰性的に物事を見ることしか出来ません。そのために、新たな意味あるものに気づかないのです。
もう1つの対応は、現在の閉塞した状況(ゼロサムゲーム)で自分たちの地位や利益を守り、さらにそれを強固にして自分たちの取り分も増やしていこうとする対応です。現在の社会ゲームの中で、有利なポジションにある人々は、当然こうしたモチベーションが生じることでしょう。そしてそのために採る戦略として、2つの対応があるのです。1つは潜在的(impricit)に現在の政治ゲームをコントロールして、自分たちの地位と利益を不動のものとしていく方法です。具体的には現在の地位と富の成功ゲームを、誰にも開かれて成功のチャンスのあるゲームとして見せかけ、実質的にはその可能性を阻む方法です。選挙を通じて、形式的にはゲームのルールさえ庶民が変更できるように見せかけるのです。そして他にゲームは無いと信じ込ませて、人々の欲望を現在の成功ゲーム(庶民は決して勝てない)にのみ振り向けていくのです。また一定程度の福祉政策と成長戦略(企業の利益にしかなりませんが)を実施して、人々の不満を抑え、多数の人々の支持を取り付けていくのです。これが2000年代に入って世界の先進国で取られてきた方法です。このためにマジョリティーである一般庶民は、何か良く分からないままに次第に生活水準が低下し(ゼロサムゲームなので、自分たちの利益配分が下がる)、将来の希望が失せていってしまうのです。
2つ目は、顕在的(あからさま、expricit)にゲームをコントロールしていく方法です。国家的な危機を演出して、権限を政府に集中させて、国家を一丸とすることによって、現状以外の選択肢を制度的にも無くさせていく方法です。
(2)日本の対応
日本においては、2001年の小泉政権になって遅ればせながら本格的な新自由主義政策を採り、成長戦略の名のもとに、それまでの利益分配政策から成功ゲームでの勝者を固定する国家戦略に切り替えていきました。しかし格差拡大の矛盾をこと糊塗する手法に乏しく、一旦は自民党が民主党に政権を明け渡すことになりました。この時小泉元首相によって用いられた政治手法が、“抵抗勢力”の名のもとに敵をつくって自分を正義の側に置き、二者選択を迫る方法です。この政治手法は、その後安倍首相はもとより、橋下徹氏の維新の会や小池ゆり子東京都知事に受け継がれていきました。
その後現状の社会ゲームでの勝者を固定させることを求める人々の戦略が、日本において洗練されていったのは、第二次安倍内閣以降のことです。安倍首相自身は、国家主権による顕在的な支配に美学(美しい国日本)と大義を感じ、それを推し進めようとする人ですが、現在の社会ゲームで地位と利益を確保したい人々にとっては、顕在的支配でも潜在的支配でも、自分たちの目的が達せられればどちらでも良いことなのです。
(3)安倍政権の政治手法
この目的の達成のために、安倍政権は2つの手法を推進しました。1つは高度な企業型広報戦略の政治利用です。これによる“印象操作”によって、経済成長、問題解決に挑む信頼できる政府、世界をリードして国益を高める安倍首相のイメージを演出し、“この道しかない”と、他の社会ゲームの選択をシャットアウトして、国民を安倍政権にしがみつかせていくように仕向けたのです。またマスメディアばかりでなく、T2(Truth Team)ルームを設置して、強力なインタ-ネット対応をも図っていったのです。こうして確立した「政治のメディア戦略」は、恐らく世界的に見ても優れたもので、それに対して「メディアの側の政治戦略」は全く追いつかず、安倍政権にコントロールされるようになっていってしまったのです。
もう1つの方法は、内閣府を中心とした徹底的な権力統制です。人事権による官僚(行政機構)のコントロールと、メディアコントロール及びマーケティング&パブリックリレーションによる、大衆人気の醸成です。このために“敵をつくる”戦略を駆使して、野党を徹底的におとし貶めて信頼を無くし、すり寄るマスコミや人材は優遇し、反抗したり指示を聞かぬ者は、徹底して排除したり攻撃を加え、また近隣諸国の脅威を煽って政権への求心力を高めていったのです。
4.もう1つの選択
(1)安倍政権の行く末
しかしここに来て安倍政権の統治手法にも、ほころ綻びが見え始めてきました。敵をつくって統制する手法は、政権の力が有無を言わせぬ強さのある時は良いのですが、少しでも弱みが見えると、排除されて恨みを抱いていた者が逆襲してきます。また元来がメディア操作による印象政治ですから、“裸の王様”と同様、その幻想が解けた時には、一挙に信用が瓦解していくのです。実際にアベノミクスは、国家財政の赤字と日銀の国債買い入れによる資産増大という巨額の負債と引き換えに、企業の内部留保を高めることには成功しましたが、国内市場を成長させることには成功しませんでした。また東京証券取引所に上場する20世紀型の企業にとっては、手厚い支援があって良いのですが、IT&AI技術とその関連産業という21世紀前半の主戦場となる産業においては、日本の技術も企業活動もさんたん惨憺たる状況に陥っているのです。そしてまたトランプ政権が誕生して世界が流動化する中で、近隣諸国を仮想敵国化する戦略も、企業収益へのマイナス要因が大きくなる可能性が出て来てきているのです。
こうした状況にあって、安倍政権の行く末は世論の動向次第といったところになっています。未だ国家主権による強権統治体制が法制度的に確立していない以上、やはり世論の支持が、政治を決める最大の要因です。もともとあからさまな強権支配というのは、世論の反発も引き起こしやすくもろ脆い面もあります。現在の地位と利益を確保したい勢力にとっては、「特定秘密保護法」、「安保関連法」、「共謀罪」が成立した現段階において、武器輸出という国際軍事マーケットに参画出来るビジネスチャンスが開け、また現在のゲームに異議申し立てする勢力の芽を事前に摘み取る法制も出来たので、支配の体制としては、顕在的なものであれ潜在的なものであれどちらでも良いのです。
(2)新しいフロンティアの創造
ところが忘れてはいけないもう1つの選択肢があります。それが今までと異なるゲームとルールをつくって、新しいフロンティアを生み出していく選択です。野党は民主主義を無視した安倍政権の横暴さを非難しますが、安倍政権がつくったゲームのルールの上でパワーゲームを挑んでも、勝ち目が無いのは当然のことでしょう。ここで安倍政権を批判する訳ではありません。このままでもある時期まで私たちは、そこそこの生活を送っていくことが出来るでしょう。しかしそれは問題の先送りであって、累積する財政赤字を解消し、エネルギーと食料の安全保障を解決し、新しいフロンティアを拓いていく原理は、現状のゲームが持ち合わせるものでは無いのです。しかしそれが無ければ、やがて1989年の東欧・ソ連邦の解体のように、ある日を境に現在の社会ゲームは崩壊することになるでしょう。
大切なことは、新しいフロンティア拓くもう1つのゲームを明確にして、現在の社会ゲームとの比較を行い、私たちが選択を行えるようにしていくことです。その時に社会の活力は取り戻され、人間の未来も拓けてくるものと思われます。パンセ通信では、人間と社会の原理から、もう1つの人間社会ゲームを構築する試みを続けていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いは、6月19日月曜日18時30分より行います。場所は東京ドームに移して、アメリカンフットボールの決勝戦を鑑賞しながら行います。入場招待なので、ご興味のある方は下記の白鳥までご連絡下さい。また6月26日月曜日のパンセの集いは、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は、1960年製作の大映映画「大菩薩峠(三隈研次監督)」です。
P.S. 現在パンセ通信は、No.139まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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