■2017.7.15パンセ通信No.145『原始共同体社会を維持するための欲望制御の仕組み』
皆 様 へ
1.市民社会の危機を越えていくために
(1)協働共生体から市民社会へ
原始共同体社会の私たちの先人たちは、役割を分担して連携作業を行い、狩猟や採取によって産物を共同で生産し、しかもその生産物をルールに基づいて公平に分配して消費するようになりました。この協働共生体という人間関係の仕組みにより、人類の祖先は自己意識をさらに明確化し、言語を発展させ、知恵と道具を発達させていきました。また意識と言語と知恵および道具などの発達が、さらに人間の関係の仕組みを発展させ、現代のような高度な社会を形成し、また自由な価値観をもって可能性に生きようとする人間存在を生み出してきたのです。
現代の社会においては、市場経済と資本主義の発展により、交換と分業が社会の隅々にまで行き渡り、原始共同体では分かり易かった人間の相互依存と相互支援の関係が、もはや見えない網の目となって社会を覆いつくすまでになっています。そして私たちが、個人的に特定の細分化された仕事を行うだけで、社会全体の資産を大きく増やせるようになっているのです。こうして生み出される強大な生産力に支えられて、先進国では本来すべての人間が貧困から解放されて、十分な消費生活を享受し、また誰もが自由に自己価値を発揮させて、新しい価値創造の人生・社会ゲームを展開出来る“市民社会”としての条件が整えられたのです。
(2)市民社会の危機
しかしこの、先人たちが長い労苦を経た後にやっと手にすることが出来るようになった“市民社会”が、今2つの理由で危機に瀕しています。1つは生態系循環を無視した産業発展によって、私たちの文明が資源・エネルギーの制約と環境汚染による危機にひん瀕していることです。これまでの人類の歴史を見ても、生態系循環を乱したがために滅亡した文明はまいきょ枚挙にいとま暇がありません。近代以降人間は、交換と分業を社会の隅々にまで普遍的に行き渡らせ、社会全体で普遍的に資産を生み出し、消費生活をすべての人々が享受することを可能とする仕組みをつくってきたはずでした。しかし今、さらに地球規模での普遍的な生態系循環のシステムを築き上げなければ、持続的な経済循環がやがて維持できなくなることがはっきりしてきたのです。
もう1つは、資本主義そのものに内在する矛盾です。持続的に生産力を拡大することで、すべての人間に生の可能性を自由に追求する条件を開いた資本主義が、一方で本質的に格差拡大の原理を含んでいる問題です。資本主義は、人間の自己利益への欲望を解き放つシステムであり、それ故に富を目掛けた自由な競争によって、人間の欲望をどこまでも駆り立て、しかもその欲望のエネルギーを再生産する仕組みでもあります。しかし競争の勝者は大きな力を獲得し、やがて権力にも影響力を及ぼして、必然的に自分たちが勝ち続けられるように自由な競争ルールを歪めていきます。これによって格差が一段と拡大していってしまうのです。
この結果勝者は、制度的にも自分たちを優位に保つゲームを維持しようと、権力を掌握して抑圧的な国家支配の体制をつくるか、あるいは自由や自助努力を標榜して規制緩和や社会保障を縮小することで、強い者と弱い者が同じ土俵で戦うように仕向け、強者が勝ち続けることを恒常化させていくのです。こうして一握りの勝者(支配階層)と大多数の敗者へと社会は分断されることになり、格差は固定されていくことになってしまうのです。
(3)普遍循環社会の実現に向けて
こうして自由な欲望追及を可能としたはずの資本主義のゲームは、何らかの制御の仕組みがその内部に組み込まれなければ、必然的に専制的な抑圧のシステムに転嫁する運命をたど辿っていくことになるのです。あるいは圧倒的に大多数の人々から、ゲームで優位に立つ可能性を奪い、時に貧困による生活の危機の不安にもさいな苛まれて、欲望を萎えさせていくことになってしまうのです。少数の勝者も、自分の利益を守り、ゲームの支配を維持するためにきゅうきゅう汲々として、偽りとごまかしのパフォ-マンスにエネルギーを浪費し、人間性を消耗させていきます。その結果資本主義は、その本来の目的である欲望の解放と持続的な生産発展という原理を失い、苛烈な格差を生むか、人間も社会も発展と価値創造の活力を失って沈滞し、閉塞した闇へと閉ざされていく運命を辿ってしまうのです。
しかし私たちはすでに、市場経済と資本主義という人類が到達した生産の仕組みと、その生産力によって実現された消費社会のもとで、人間が自由に自己価値を発揮させあう多様なゲームを展開することの出来る、市民社会の原理を手にしています。この生産の仕組みと自由な価値創造の原理を調整するゲームを新たに開発することによって、私たちが多様な自己価値を発揮させて成長し、創造性と意欲をもって持続的に社会を発展させていくための軌道を取り戻すことは可能なはずです。そして途上国のすべての人々も含めた普遍消費社会を実現して、誰もが自分の生の可能性を開花させる条件を将来に渡って整えるためのビジョンも描けていくはずでしょう。そのためには地球規模での生態系バランスを取り戻し、普遍循環社会を実現していくという新たなフロンティアを拓いてくことが、重要な課題となってきます。そしてそのフロンティアに人類が協力して挑もうとするとき、世界を1つにしてくことも可能なはずです。そうしたゴールを目指して展開することの出来る、新たなゲームの条件を探り出すために、私たちの先人たちがつくってきた社会と生き方の仕組みから、参考となるものを学んでいってみたい思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月17日の月曜日が海の日の休日にあたるためにお休みとし、7月24日の月曜日に行います。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで実施します。
2.欲望の追求と制御のシステム
(1)狩猟採取社会の意識と欲望
さて前回のパンセ通信から、狩猟採取社会における原始共同体の基本的なシステムについて、検討を始めております。この社会の人々にとって最も大切なものとして意識されたのは、協働共生体という連携して食料や生活資材を生産する仕組みの維持と、自然の生態系から有用物を得るための知恵と知識であったと思われます。そして人間関係が身近なものでしかなく無く、自然とも直接に関わって生きていた生存環境から、自分の生存が他者や自然との共生に依拠していることが強く実感され、共生の欲望が自己欲望よりも優位に立って人々に意識されたものと想定されます。
また意識を持つ生物の本性として、より有利な生存条件を得ていくために、何よりも協働による狩猟と採取の仕組みを高度化させて、産物をより安定的かつ豊富に得ていくことが、主な課題として意識されたことでしょう。もちろん自然の生態系循環の知識も深めていったことは疑いを得ません。人間は可能性に生きる生き物ですから、自分たちの生きる条件を高める前向きな(発展的な)取り組みに対しては、意識が積極的に機能するのです。一方発展を維持するために、自分たちの行動や思考を調整したり制御するために不可欠な文化的仕組みについては、むしろ積極的には意識されないままに(無意識的に)、掟や暗黙のルール(慣習)やタブー(禁止)、およびルールを犯した場合の罰則等を通じて、内面的(道徳)規範として次第に形成されていくことになるのです。
(2)原始共同体における生産力の発展
こうして私たちの祖先は、まず生産を増やして、自分たちの生存条件を高めていくことを積極的に意識し、言語によるコミュニケーションと道具を発達させて、協働による生産の効果を高めていったのです。またコミュケーションと道具の進化は、原始共同体内部での役割分担による分業をも進展させて生産性を高め、生産力を拡大していったのです。さらに自然界から産物を恵みとして得たり、危険を回避する知恵と知識を深め、ついには自然の生態系循環を熟知して、現代文明も及ばないほどにそれを使いこなす知恵をも身に着けていったのです。
この結果狩猟採取を基盤とする原始共同体は、その構成メンバーの全員が働かなくても、全員の生活を養うだけの生産力を手にすることが出来るようになりました。そして呪術師(祭儀、精神的なものを含めた医療に従事)や子供と老人といった、直接に生産に従事しない人員を抱えることも出来るようになったのです。
3.欲望や行動を制御していく仕組み
(1)共同体を維持する仕組みの重要性
さてここまで、狩猟採取時代の原始共同体において、私たちの先人たちが、協働共生体の機能を高め、自然の生態循環に対する知識を深めて生活を安定させ、次第に生産力を高めていくプロセスを見てきました。しかしもう1つ重要な側面があって、それは如何にしてこうした自分たちの生存を保障するシステムを維持していったかということです。実はどのような社会においても、生産や人間の生の可能性を高めていく活動に対しては、自ずと欲望が沸いてきますから、その欲望を促すような仕組みについては、さほど留意する必要はないのです。むしろ重要なのは、その欲望が暴走して生産の仕組みを破壊しないように、如何にうまく制御していくかということの方でしょう。欲望は意図しても抑えることが出来ませんから、それを相互に抑制する何らかの仕組みをつくり出して、意図せずとも制御していけるようにしていかなければなりません。さもなければ共同体は解体し、人間は立ちどころに滅んでいってしまうことになるからです。
それでは原始共同体において私たちの先人たちは、協働共生体や自然の生態系循環を維持していくために、どのように自分たちの欲望や行動を規制していったのでしょうか。その仕組みについて、分配や消費といった経済活動、貪欲な自己利益の抑制、所有と交換(婚姻を含む)、危機への対応、人間である以上必然的に生じる個人的な欲望や自己価値の充足などについて、順を追って、どのような文化的装置や掟、慣習、タブー、罰則等を共同体の内部に設けていったのかを見ていきたいと思います。併せて子供や老人の役割、成人の男女の役割、死者や精霊の役割等についても考えていってみたいと思います。
(2)生産物の分配基準の重要性
人間が自分たちの集団の機能を、動物的な群れから協働共生体へと進化させて、役割分担による連携作業で生産量を拡大していったことは、確かに画期的なことです。しかしそうして共同の力で効率良く仕留めた獲物や収穫物を、どのように分配するかは、実は収穫のための生産性を上げる工夫以上に大きな問題で、ノウハウを要する課題です。もし不平等に分配すれば、不満が溜まって争いを生み、共同体は崩壊してしまうことになるでしょう。その一方で、努力したり功績のあった者に報いることが無ければ、逆に貢献した者の不満が高まり、また人々の労働への意欲も低下して、生産性が下がってしまうことになるでしょう。
そのために私たちの先人たちは、長い年月をかけて次第に誰もが納得し、最も合理的な分配の基準を見出していったのです。実は複数の個体が役割分担して連携し、狩りを行う行為だけであるならば、オオカミやライオンなどの群れでも見られることです。しかしそれを何らかの基準で個々人の欲望を制御して、公平に分配する仕組みを生み出したのは、まぎ紛れもなく人間だけに限られることなのです。こうして協働作業による生産と、その一方で生産物を公平に分配・消費するための基準が出来上って初めて、人間は協働共生体という経済活動の仕組みを確立し、動物の群れから明確に分かれて、その意識の能力と社会を発展させていくことが出来るようになったのです。
4.必要な分配を行えるための3つの条件
(1)生存を保障する分配
それではどのような原則で、分配の基準は定まっていくことになったのでしょうか。まず第1に共同体の構成員の全員に、生存に必要な最低限の食料と生活資材を分け与えるということは必須だったでしょう。さもなければ生存の危機に瀕した者たちの捨て身の抵抗によって、共同体は崩壊してしまう危機に陥るからです。全員への必要な生活資材の分配が可能となるためには、さらに3つの条件が必要となってきます。1つ目の条件は、全員の生活を支えるために十分な収穫物を確保できるということです。しかしこれは、人間の人口に対して圧倒的に自然の産物が豊かであった当時の社会にあっては、それほど困難なことではありませんでした。その理由は簡単で、数百万年前に熱帯雨林の樹上から降り立って、アフリカの大地溝帯からサバンナを二足歩行で暮らし始めた人類の祖先は、十分な獲物や産物の得られる地を目指して、移動していけば良かったからです。他の部族からの圧迫や、人口の増加や、部族内での分裂等があれば、他の食える場所へ1グループが連れ立って移住していけば良かったのです。この当時の人類にとって大地は広大で、フロンティアに溢れていました。食えない心配をするのでは無く、食える所へ行けば良かったのです。もちろん天候不順や気候変動によって、一時的に食料が得られないこともあったでしょうが、それは例外的な事項と考えた方が良いでしょう。こうして人類の部族は、およそ1万2千年前に南米のパタゴニアの果てに行き着くまで、大地の全土を自分たちのテリトリーとして覆い尽くしていったのです。そしてもはや狩猟採取で共同体が生活するための、新たなテリトリーが地上から無くなった時と同じくして、メソポタミヤ地方で農耕・牧畜が始まったのです。
共同体の構成員全員に、必要な生活資材を分け与えることを可能とする2つ目の条件は、他のメンバーの全員が、自分の生存のためには必要不可欠な存在であると、一人一人に意識されることです。狩猟採取で生きる1つの共同体の成員の数は、けっして多いものではありません。共同で連携して収穫物を得るために、程よい人数がいれば良いからです。最大でも150名程度だったと推察されます。(ダンバー数:互いを認知し、安定した集団を形成できる人数の上限が150名程度)。こうした少ない人間で連携して作業するのですから、人間の数こそがパワーで、一人の人間が欠けることも脅威に感じられたものと思われます。そしてまた狩猟採取の社会では、現在のように経済活動のみが、人間の生活と社会の主要関心を占めていたのではありません。それ故に労働力としては大きく寄与しない老人や子供や傷病者、そして死者や精霊でさえも、共同体の維持を担い自然の恵みを与えるために、大事な役割を担うものとして意識されていたのです。
(2)安心、信頼、いのちの励まし
3つ目の条件は、自分の生存に対する安心と信頼、そして親密さに由来するいのちの励ましが自覚できるということです。そのことによって、精神的な必要においても、他者との相互依存と他者の不可欠さが意識できるようになり、全員への生活資材の公平な分配が可能となるのです。相互に支え合って生きていることが自覚できる共同体の中で、年老いたり、弱ったりした者も決して見捨てられず、必要な生活物質の提供と援助が行なわれ続けたなら、それは共同体の成員に対して大きな安心と信頼を与えることになるでしょう。自分がそのように弱った場合にも、見捨てられないという信頼が得られるからです。これは共同体の維持にとってきわめて重要なことです。
仮に止むを得ずであったとしても、身近に接して育ってきた誰かを見捨てなければならないという事態が生じた場合には、それは残った者に大きな心の負担と後悔(トラウマ)を与えます。見知らぬ他人では無く、小さな頃から心を通わせて、共に生の物語を紡いできた人間だから、その人を見捨てるということは、自分自身のドラマが断ち切られるような思いになるのです。さらに小さな者、年老いた者、弱った者にも手を差し伸べることは、自分自身が弱った場合の保障や彼らを見捨てる苦悩から逃れるためであるばかりで無く、弱い者たちから感謝を受けたり、祈り支えられたりして、逆に自分自身のいのちが励まされたり、生きる力の与えられることを実感することが出来たのです。
しかしそうは言っても、共同体全体の生存の条件が悪化すれば、弱者や他者を省みる余裕は無くなってしまいます。それ故に当時の人々は、何よりも注意を払って、十分な収穫物を得ることに力を注いだものと思われます。
5.分配の3基準
(1)功績への報奨
さて分配の基準の第1が、共同体の成員全員への必要な生活資材の分配であるとしたなら、第2の基準は、より多く働いたり功績のあった者に対して、報奨を与えるということでしょう。それは1つには、功績のあった者が最初に獲物に手を付けるとか、最もおいしい部分を食べるとかの権利を与えることで報いたものと思われます。あるいは何らかの栄誉を称える歌や儀式が行われかもしれません。常に獲物をよく仕留め、貢献度の高い者には、“勇者”などの称号が付与されることもあったでしょう。いずれにしても大切なことは、貢献のあった者に対して、一同でその功績を認め称賛するということです。
しかし貢献のあった者に、より多くを配分するなどの行為は、慎重に行われたものと思われます。何故ならそのことを機に分配の不公正が生じていったなら、共同体の共生の原理を危機にさら晒すことになってしまうからです。重要な点は、ある者の貢献をみんなで認めて称賛するということです。こうしてみんなから認められて栄誉を与えられ、今後の活躍が期待されるならば、功績のあった者は自分の存在価値を確かに確認できて励みとなり、これからもみんな(共同体)のために頑張ろうという意欲が沸いてくるのです。
(2)裁定とルールと罰則
分配の基準の第3は、裁定とルールと罰則を明確化するということです。共同体の成員の全員に、必要な分配が行われているかどうかを判断し、また誰かからクレームがあれば、それにも対処せねばなりません。功績についても、誰が狩猟や採取活動等において功績があったと認められるのかを判断し、またその功績が正当に評価されるよう対処せねばなりません。恐らくそうした判断と裁定は、族長や古老などの共同体の中で権威あるものが行ったのでしょう。
そして分配や報償について、その基準が明確にされてルール化されることもあったでしょうけれども、それよりは重要なことは、ずる狡いことを行って、こっそり自分の取り分を多くしたり、力ずくで他者の分配物を取り上げるなど、共同体内部での分配を巡る公正と秩序を乱す行為に対処することです。そのために明確に禁止事項が掟やタブーとして定められ、それを破った者に対する罰則が規定されたことでしょう。ルール、特に禁止事項には、罰則が伴わないとルールの維持は不可能です。それでは、誰が、どんな罰則を与えたのでしょうか。そこには共同体の権力構造が浮かび上がってくることになります。その問題の詳細と、共同体を維持するための他の様々な仕組みについて、次回のパンセ通信で検討していきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月17日の月曜日が海の日の休日にあたるためにお休みとし、7月24日の月曜日に行います。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.142まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
皆 様 へ
1.市民社会の危機を越えていくために
(1)協働共生体から市民社会へ
原始共同体社会の私たちの先人たちは、役割を分担して連携作業を行い、狩猟や採取によって産物を共同で生産し、しかもその生産物をルールに基づいて公平に分配して消費するようになりました。この協働共生体という人間関係の仕組みにより、人類の祖先は自己意識をさらに明確化し、言語を発展させ、知恵と道具を発達させていきました。また意識と言語と知恵および道具などの発達が、さらに人間の関係の仕組みを発展させ、現代のような高度な社会を形成し、また自由な価値観をもって可能性に生きようとする人間存在を生み出してきたのです。
現代の社会においては、市場経済と資本主義の発展により、交換と分業が社会の隅々にまで行き渡り、原始共同体では分かり易かった人間の相互依存と相互支援の関係が、もはや見えない網の目となって社会を覆いつくすまでになっています。そして私たちが、個人的に特定の細分化された仕事を行うだけで、社会全体の資産を大きく増やせるようになっているのです。こうして生み出される強大な生産力に支えられて、先進国では本来すべての人間が貧困から解放されて、十分な消費生活を享受し、また誰もが自由に自己価値を発揮させて、新しい価値創造の人生・社会ゲームを展開出来る“市民社会”としての条件が整えられたのです。
(2)市民社会の危機
しかしこの、先人たちが長い労苦を経た後にやっと手にすることが出来るようになった“市民社会”が、今2つの理由で危機に瀕しています。1つは生態系循環を無視した産業発展によって、私たちの文明が資源・エネルギーの制約と環境汚染による危機にひん瀕していることです。これまでの人類の歴史を見ても、生態系循環を乱したがために滅亡した文明はまいきょ枚挙にいとま暇がありません。近代以降人間は、交換と分業を社会の隅々にまで普遍的に行き渡らせ、社会全体で普遍的に資産を生み出し、消費生活をすべての人々が享受することを可能とする仕組みをつくってきたはずでした。しかし今、さらに地球規模での普遍的な生態系循環のシステムを築き上げなければ、持続的な経済循環がやがて維持できなくなることがはっきりしてきたのです。
もう1つは、資本主義そのものに内在する矛盾です。持続的に生産力を拡大することで、すべての人間に生の可能性を自由に追求する条件を開いた資本主義が、一方で本質的に格差拡大の原理を含んでいる問題です。資本主義は、人間の自己利益への欲望を解き放つシステムであり、それ故に富を目掛けた自由な競争によって、人間の欲望をどこまでも駆り立て、しかもその欲望のエネルギーを再生産する仕組みでもあります。しかし競争の勝者は大きな力を獲得し、やがて権力にも影響力を及ぼして、必然的に自分たちが勝ち続けられるように自由な競争ルールを歪めていきます。これによって格差が一段と拡大していってしまうのです。
この結果勝者は、制度的にも自分たちを優位に保つゲームを維持しようと、権力を掌握して抑圧的な国家支配の体制をつくるか、あるいは自由や自助努力を標榜して規制緩和や社会保障を縮小することで、強い者と弱い者が同じ土俵で戦うように仕向け、強者が勝ち続けることを恒常化させていくのです。こうして一握りの勝者(支配階層)と大多数の敗者へと社会は分断されることになり、格差は固定されていくことになってしまうのです。
(3)普遍循環社会の実現に向けて
こうして自由な欲望追及を可能としたはずの資本主義のゲームは、何らかの制御の仕組みがその内部に組み込まれなければ、必然的に専制的な抑圧のシステムに転嫁する運命をたど辿っていくことになるのです。あるいは圧倒的に大多数の人々から、ゲームで優位に立つ可能性を奪い、時に貧困による生活の危機の不安にもさいな苛まれて、欲望を萎えさせていくことになってしまうのです。少数の勝者も、自分の利益を守り、ゲームの支配を維持するためにきゅうきゅう汲々として、偽りとごまかしのパフォ-マンスにエネルギーを浪費し、人間性を消耗させていきます。その結果資本主義は、その本来の目的である欲望の解放と持続的な生産発展という原理を失い、苛烈な格差を生むか、人間も社会も発展と価値創造の活力を失って沈滞し、閉塞した闇へと閉ざされていく運命を辿ってしまうのです。
しかし私たちはすでに、市場経済と資本主義という人類が到達した生産の仕組みと、その生産力によって実現された消費社会のもとで、人間が自由に自己価値を発揮させあう多様なゲームを展開することの出来る、市民社会の原理を手にしています。この生産の仕組みと自由な価値創造の原理を調整するゲームを新たに開発することによって、私たちが多様な自己価値を発揮させて成長し、創造性と意欲をもって持続的に社会を発展させていくための軌道を取り戻すことは可能なはずです。そして途上国のすべての人々も含めた普遍消費社会を実現して、誰もが自分の生の可能性を開花させる条件を将来に渡って整えるためのビジョンも描けていくはずでしょう。そのためには地球規模での生態系バランスを取り戻し、普遍循環社会を実現していくという新たなフロンティアを拓いてくことが、重要な課題となってきます。そしてそのフロンティアに人類が協力して挑もうとするとき、世界を1つにしてくことも可能なはずです。そうしたゴールを目指して展開することの出来る、新たなゲームの条件を探り出すために、私たちの先人たちがつくってきた社会と生き方の仕組みから、参考となるものを学んでいってみたい思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月17日の月曜日が海の日の休日にあたるためにお休みとし、7月24日の月曜日に行います。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで実施します。
2.欲望の追求と制御のシステム
(1)狩猟採取社会の意識と欲望
さて前回のパンセ通信から、狩猟採取社会における原始共同体の基本的なシステムについて、検討を始めております。この社会の人々にとって最も大切なものとして意識されたのは、協働共生体という連携して食料や生活資材を生産する仕組みの維持と、自然の生態系から有用物を得るための知恵と知識であったと思われます。そして人間関係が身近なものでしかなく無く、自然とも直接に関わって生きていた生存環境から、自分の生存が他者や自然との共生に依拠していることが強く実感され、共生の欲望が自己欲望よりも優位に立って人々に意識されたものと想定されます。
また意識を持つ生物の本性として、より有利な生存条件を得ていくために、何よりも協働による狩猟と採取の仕組みを高度化させて、産物をより安定的かつ豊富に得ていくことが、主な課題として意識されたことでしょう。もちろん自然の生態系循環の知識も深めていったことは疑いを得ません。人間は可能性に生きる生き物ですから、自分たちの生きる条件を高める前向きな(発展的な)取り組みに対しては、意識が積極的に機能するのです。一方発展を維持するために、自分たちの行動や思考を調整したり制御するために不可欠な文化的仕組みについては、むしろ積極的には意識されないままに(無意識的に)、掟や暗黙のルール(慣習)やタブー(禁止)、およびルールを犯した場合の罰則等を通じて、内面的(道徳)規範として次第に形成されていくことになるのです。
(2)原始共同体における生産力の発展
こうして私たちの祖先は、まず生産を増やして、自分たちの生存条件を高めていくことを積極的に意識し、言語によるコミュニケーションと道具を発達させて、協働による生産の効果を高めていったのです。またコミュケーションと道具の進化は、原始共同体内部での役割分担による分業をも進展させて生産性を高め、生産力を拡大していったのです。さらに自然界から産物を恵みとして得たり、危険を回避する知恵と知識を深め、ついには自然の生態系循環を熟知して、現代文明も及ばないほどにそれを使いこなす知恵をも身に着けていったのです。
この結果狩猟採取を基盤とする原始共同体は、その構成メンバーの全員が働かなくても、全員の生活を養うだけの生産力を手にすることが出来るようになりました。そして呪術師(祭儀、精神的なものを含めた医療に従事)や子供と老人といった、直接に生産に従事しない人員を抱えることも出来るようになったのです。
3.欲望や行動を制御していく仕組み
(1)共同体を維持する仕組みの重要性
さてここまで、狩猟採取時代の原始共同体において、私たちの先人たちが、協働共生体の機能を高め、自然の生態循環に対する知識を深めて生活を安定させ、次第に生産力を高めていくプロセスを見てきました。しかしもう1つ重要な側面があって、それは如何にしてこうした自分たちの生存を保障するシステムを維持していったかということです。実はどのような社会においても、生産や人間の生の可能性を高めていく活動に対しては、自ずと欲望が沸いてきますから、その欲望を促すような仕組みについては、さほど留意する必要はないのです。むしろ重要なのは、その欲望が暴走して生産の仕組みを破壊しないように、如何にうまく制御していくかということの方でしょう。欲望は意図しても抑えることが出来ませんから、それを相互に抑制する何らかの仕組みをつくり出して、意図せずとも制御していけるようにしていかなければなりません。さもなければ共同体は解体し、人間は立ちどころに滅んでいってしまうことになるからです。
それでは原始共同体において私たちの先人たちは、協働共生体や自然の生態系循環を維持していくために、どのように自分たちの欲望や行動を規制していったのでしょうか。その仕組みについて、分配や消費といった経済活動、貪欲な自己利益の抑制、所有と交換(婚姻を含む)、危機への対応、人間である以上必然的に生じる個人的な欲望や自己価値の充足などについて、順を追って、どのような文化的装置や掟、慣習、タブー、罰則等を共同体の内部に設けていったのかを見ていきたいと思います。併せて子供や老人の役割、成人の男女の役割、死者や精霊の役割等についても考えていってみたいと思います。
(2)生産物の分配基準の重要性
人間が自分たちの集団の機能を、動物的な群れから協働共生体へと進化させて、役割分担による連携作業で生産量を拡大していったことは、確かに画期的なことです。しかしそうして共同の力で効率良く仕留めた獲物や収穫物を、どのように分配するかは、実は収穫のための生産性を上げる工夫以上に大きな問題で、ノウハウを要する課題です。もし不平等に分配すれば、不満が溜まって争いを生み、共同体は崩壊してしまうことになるでしょう。その一方で、努力したり功績のあった者に報いることが無ければ、逆に貢献した者の不満が高まり、また人々の労働への意欲も低下して、生産性が下がってしまうことになるでしょう。
そのために私たちの先人たちは、長い年月をかけて次第に誰もが納得し、最も合理的な分配の基準を見出していったのです。実は複数の個体が役割分担して連携し、狩りを行う行為だけであるならば、オオカミやライオンなどの群れでも見られることです。しかしそれを何らかの基準で個々人の欲望を制御して、公平に分配する仕組みを生み出したのは、まぎ紛れもなく人間だけに限られることなのです。こうして協働作業による生産と、その一方で生産物を公平に分配・消費するための基準が出来上って初めて、人間は協働共生体という経済活動の仕組みを確立し、動物の群れから明確に分かれて、その意識の能力と社会を発展させていくことが出来るようになったのです。
4.必要な分配を行えるための3つの条件
(1)生存を保障する分配
それではどのような原則で、分配の基準は定まっていくことになったのでしょうか。まず第1に共同体の構成員の全員に、生存に必要な最低限の食料と生活資材を分け与えるということは必須だったでしょう。さもなければ生存の危機に瀕した者たちの捨て身の抵抗によって、共同体は崩壊してしまう危機に陥るからです。全員への必要な生活資材の分配が可能となるためには、さらに3つの条件が必要となってきます。1つ目の条件は、全員の生活を支えるために十分な収穫物を確保できるということです。しかしこれは、人間の人口に対して圧倒的に自然の産物が豊かであった当時の社会にあっては、それほど困難なことではありませんでした。その理由は簡単で、数百万年前に熱帯雨林の樹上から降り立って、アフリカの大地溝帯からサバンナを二足歩行で暮らし始めた人類の祖先は、十分な獲物や産物の得られる地を目指して、移動していけば良かったからです。他の部族からの圧迫や、人口の増加や、部族内での分裂等があれば、他の食える場所へ1グループが連れ立って移住していけば良かったのです。この当時の人類にとって大地は広大で、フロンティアに溢れていました。食えない心配をするのでは無く、食える所へ行けば良かったのです。もちろん天候不順や気候変動によって、一時的に食料が得られないこともあったでしょうが、それは例外的な事項と考えた方が良いでしょう。こうして人類の部族は、およそ1万2千年前に南米のパタゴニアの果てに行き着くまで、大地の全土を自分たちのテリトリーとして覆い尽くしていったのです。そしてもはや狩猟採取で共同体が生活するための、新たなテリトリーが地上から無くなった時と同じくして、メソポタミヤ地方で農耕・牧畜が始まったのです。
共同体の構成員全員に、必要な生活資材を分け与えることを可能とする2つ目の条件は、他のメンバーの全員が、自分の生存のためには必要不可欠な存在であると、一人一人に意識されることです。狩猟採取で生きる1つの共同体の成員の数は、けっして多いものではありません。共同で連携して収穫物を得るために、程よい人数がいれば良いからです。最大でも150名程度だったと推察されます。(ダンバー数:互いを認知し、安定した集団を形成できる人数の上限が150名程度)。こうした少ない人間で連携して作業するのですから、人間の数こそがパワーで、一人の人間が欠けることも脅威に感じられたものと思われます。そしてまた狩猟採取の社会では、現在のように経済活動のみが、人間の生活と社会の主要関心を占めていたのではありません。それ故に労働力としては大きく寄与しない老人や子供や傷病者、そして死者や精霊でさえも、共同体の維持を担い自然の恵みを与えるために、大事な役割を担うものとして意識されていたのです。
(2)安心、信頼、いのちの励まし
3つ目の条件は、自分の生存に対する安心と信頼、そして親密さに由来するいのちの励ましが自覚できるということです。そのことによって、精神的な必要においても、他者との相互依存と他者の不可欠さが意識できるようになり、全員への生活資材の公平な分配が可能となるのです。相互に支え合って生きていることが自覚できる共同体の中で、年老いたり、弱ったりした者も決して見捨てられず、必要な生活物質の提供と援助が行なわれ続けたなら、それは共同体の成員に対して大きな安心と信頼を与えることになるでしょう。自分がそのように弱った場合にも、見捨てられないという信頼が得られるからです。これは共同体の維持にとってきわめて重要なことです。
仮に止むを得ずであったとしても、身近に接して育ってきた誰かを見捨てなければならないという事態が生じた場合には、それは残った者に大きな心の負担と後悔(トラウマ)を与えます。見知らぬ他人では無く、小さな頃から心を通わせて、共に生の物語を紡いできた人間だから、その人を見捨てるということは、自分自身のドラマが断ち切られるような思いになるのです。さらに小さな者、年老いた者、弱った者にも手を差し伸べることは、自分自身が弱った場合の保障や彼らを見捨てる苦悩から逃れるためであるばかりで無く、弱い者たちから感謝を受けたり、祈り支えられたりして、逆に自分自身のいのちが励まされたり、生きる力の与えられることを実感することが出来たのです。
しかしそうは言っても、共同体全体の生存の条件が悪化すれば、弱者や他者を省みる余裕は無くなってしまいます。それ故に当時の人々は、何よりも注意を払って、十分な収穫物を得ることに力を注いだものと思われます。
5.分配の3基準
(1)功績への報奨
さて分配の基準の第1が、共同体の成員全員への必要な生活資材の分配であるとしたなら、第2の基準は、より多く働いたり功績のあった者に対して、報奨を与えるということでしょう。それは1つには、功績のあった者が最初に獲物に手を付けるとか、最もおいしい部分を食べるとかの権利を与えることで報いたものと思われます。あるいは何らかの栄誉を称える歌や儀式が行われかもしれません。常に獲物をよく仕留め、貢献度の高い者には、“勇者”などの称号が付与されることもあったでしょう。いずれにしても大切なことは、貢献のあった者に対して、一同でその功績を認め称賛するということです。
しかし貢献のあった者に、より多くを配分するなどの行為は、慎重に行われたものと思われます。何故ならそのことを機に分配の不公正が生じていったなら、共同体の共生の原理を危機にさら晒すことになってしまうからです。重要な点は、ある者の貢献をみんなで認めて称賛するということです。こうしてみんなから認められて栄誉を与えられ、今後の活躍が期待されるならば、功績のあった者は自分の存在価値を確かに確認できて励みとなり、これからもみんな(共同体)のために頑張ろうという意欲が沸いてくるのです。
(2)裁定とルールと罰則
分配の基準の第3は、裁定とルールと罰則を明確化するということです。共同体の成員の全員に、必要な分配が行われているかどうかを判断し、また誰かからクレームがあれば、それにも対処せねばなりません。功績についても、誰が狩猟や採取活動等において功績があったと認められるのかを判断し、またその功績が正当に評価されるよう対処せねばなりません。恐らくそうした判断と裁定は、族長や古老などの共同体の中で権威あるものが行ったのでしょう。
そして分配や報償について、その基準が明確にされてルール化されることもあったでしょうけれども、それよりは重要なことは、ずる狡いことを行って、こっそり自分の取り分を多くしたり、力ずくで他者の分配物を取り上げるなど、共同体内部での分配を巡る公正と秩序を乱す行為に対処することです。そのために明確に禁止事項が掟やタブーとして定められ、それを破った者に対する罰則が規定されたことでしょう。ルール、特に禁止事項には、罰則が伴わないとルールの維持は不可能です。それでは、誰が、どんな罰則を与えたのでしょうか。そこには共同体の権力構造が浮かび上がってくることになります。その問題の詳細と、共同体を維持するための他の様々な仕組みについて、次回のパンセ通信で検討していきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月17日の月曜日が海の日の休日にあたるためにお休みとし、7月24日の月曜日に行います。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターです。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.142まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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