■2017.7.29パンセ通信No.147『消費の本質について-原始共同体の生産・分配・消費』
皆 様 へ
1.社会の目的
明確な自己意識を持ち、役割分担して連携作業により生活資材を生産・分配(協働共生体により)するようになった人間は、その集団を、動物的な群れから人間的な社会へと発展させていきました。そして欲望の中心も、身体由来の即物的・瞬間的なものから、他者や全体との関係の中で自己価値を発揮したい、あるいは自分の存在を普遍的に価値あるものへと高めたいという、時間的にも空間的にも広がったものへと変質させていったのです。
そんな1人1人の人間が、合わさって形成されるのが社会です。従って1人1人の欲望が集積したものを、無意識的にも充足するのが社会の目的となります。要約すれば、1人1人の生存の可能性を拡大し、また自己価値や普遍価値を実現できる条件を高めていくことが、社会の目的となるのです。その目的が充たされず、苦痛の方が大きくなれば、人々は社会から離散するか異議申し立ての抵抗を行うことになります。中世で言えば農民たちが逃散や一揆に走り、現代で言えば難民になったりテロを起こすということになるでしょうか。いずれにせよ社会はその目的を果たせない時、解体の危機に瀕することとなるのです。
それでは社会は、その目的を果たすためにどのような機能や仕組みを持ち、それをこれまでどのように働かせてきたのでしょうか。そのテーマを前回に引き続き検討していってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月31日月曜日の18時からで、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は1975年公開のアメリカ映画「カッコーの巣の上で」を予定しています。監督はミロス・フォアマンで、アカデミー賞の主要5部門を独占した作品です。現在と同様に閉塞感と抑圧感の漂った1970年代後半に、懸命に自由と解放をテーマとして模索を試み、私たちに一抹の希望を与えてくれた作品です。
2.原始共同体における生産と分配の仕組み
(1)社会の3つの機能と4つのシステム
さて人間の欲望との関連で、社会がその目的を実現するために果たす機能というのは、次の3つが仮定されます。1つは人間の欲望を充足し、また拡大させる機能です。しかし欲望が暴走したり衝突すると社会が崩壊しますから、その欲望を調整したり抑制する機能が一方で必要となります。そこで2つ目として、欲望を強制力をもってしてでも抑制・調整する機能が不可欠となってくるのです。更に3つ目としては、強制力ばかりでなく、欲望を自主的にまた内面的にも抑制・調整することによって、社会を安定化させていこうとする機能も必要となってくるのです。
こうした機能を働かせて、社会を構成する1人1人の欲望を充足し、同時に社会を解体させないようにするために形成されてきた仕組みが、経済、政治、文化のシステムであり、また個人のプライベートな生活空間や自由な活動の領域に関わるシステムだったのです。経済というのは、必要な生活資材を分担・連携して生産し、また分配する仕組みであり、政治は社会を統合するための仕組みのことです。文化は人間の内面に規範をつくって、欲望を無意識のうちに抑制・調整すると共に、人間の欲望を社会的な価値創出へと昇華させていく仕組みのことでもあります。そして経済にも政治にも文化にも属さない、個人の休息やリフレッシュを含む趣味的・嗜好的なプライベートな領域が、人間に様々な悲喜劇を経験させて、自由な活動へといざな誘い、創造性が生み出される源泉ともなってくるのです。
(2)原始共同体における生産のプロセス
以上の4つのシステムのメカニズムを用いて、人間の欲望を促進したり抑制したりする3つの機能をそれぞれの過程において働かせて、社会は、人間の生存の条件と価値実現の可能性を拡大するために作動していくのです。その具体的な動きを見るために、まず狩猟採取で生計を賄った原始共同体の社会を例にとり、前々回よりまず経済のシステムから検討を始めております。経済というのは必要な生活物資を供給し、人間の生存の欲望を充足する仕組みで、生産・分配・消費の3つのプロセスから成ります。
生産は人間に必要なものを生み出すプロセスですから、本来欲望を充足するだけでなく欲望を刺激し、また欲望を拡大する機能を作用させます。しかし原始共同体以降の奴隷制、封建農奴制、資本制社会になると、自分の必要や欲望とは無関係な労働を強いられたり、過重な労働が強いられたり、労働が断片化されて価値が利益追求のみに一元化されることで人間性が喪失したりして、生産プロセスは、人間の欲望を制約する苦痛なものへとも変質していきます。従って人間の欲望を刺激し欲望の質を高めていくという、本来生産プロセスにおいて働く機能の割合を再び高めていくことが、これからの生産過程、つまり働き方の課題となってくるのです。
(3)原始共同体における分配のプロセス
次に分配は、生産物を一定のルールを定めて公平に配分するプロセスのことです。人間の欲望を放置すると、少しでも多くの取り分を得ようと争いになりますから、欲望を抑制・調整する機能を作用させる仕組みが、どうしても必要となってくるのです。原始共同体社会においては公正な分配を実現していくために、必要な量の生活物資を全員に供給し、生産に貢献度の高い者には報償を与え、そしてルールを定めて守らせるという方法等を用いて、欲望を調整・抑制していきました。特に重要なのは、禁止事項を明確にしておきて掟や法などのルールを定めて守らせるということであり、また争いがあった場合には公正な裁定を行い、その裁定に従わせるということです。そのためにはルールを破ったり裁定に従わない者に対する罰則が必要で、その罰則を実際に執行するための強制力が必要となってきます。この強制力を司るのが政治のシステムで、分配のプロセスを機能させるために、政治のシステムが入り込んでくることになるのです。
また禁止や掟を内面化して、それを破ることを恐れる(タブー)気持ちをつくり、無意識的に欲望を抑制して、ルールを守っていくようにもしていかなければなりません。あるいは裁定を公正なものとして納得し、受け入れるようにもしていく必要があります。そうした内面的な価値規範を形成していくのが文化のシステムで、分配のプロセスを機能させていくために、文化のシステムもそのプロセスに入り込んでくることになるのです。
(4)現代における分配のプロセスの課題
このように分配のプロセスにおいては、基本的に欲望を抑制・調整する機能が作用することになるのですが、近代においては、市場による調整機能という画期的なメカニズムが生み出されました。人間はもはや分配の過程においても欲望を抑制する必要がなく、市場機能において、欲望を抱いたままでニーズと生産量が自動調整され、最適な分配が施されていくのです。この市場機能の発達によって、人間は欲望を制御することなく拡大させ、持続的に生産量を増大させる資本主義を発展させることが可能となったのです。
しかし市場の需要と供給を均衡させて分配を調整する機能も、万能ではありません。現代における分配のプロセスの問題は、独占や情報の非対称性、また環境問題等によって市場の機能が歪められ、最適な分配が行えなくなり、そのことが格差を助長するなどして社会の成長とダイナミズムを阻害するようになったことです。あくまでも人間の欲望を抑制するのでは無く誘導し、市場の歪みを民主的に調整しつつ市場を最も効率よく機能させていくことが、現代における分配のプロセスの課題となっています。
3.原始共同体における理想的な生産と分配のシステム
(1)魅惑的な生産過程を生む公平な分配と消費の価値観
以上前回までにおいて、原始共同体社会を対象として、経済のシステムの内の生産と分配のプロセスを見てきました。概して言えば生産のプロセスというのは、この時代においては決して抑圧的であったり苦痛を増幅させるものではなく、収穫物を得ることの期待に満ちた、欲望を刺激する工程であったと言えます。その理由は分配のプロセスが公平で、生産物を確かに自分の欲望を充たすものとして、納得できる形で自分の手にすることが出来たからでしょう。それ故に生産性は高く、1日のうちの限られた時間だけの労働で、子供や老人など非生産人員を含めて共同体全員を養う事が出来、残りの時間は思い思いに自分を満たすための生活にいそ勤しむことが出来たのです。
もちろん現在のように、物資の貯蔵を十分に行えた訳ではありませんから、天候異変等自然界の変動により、飢餓状況に陥ったことも少なくなかったでしょう。しかしそれは例外的な状況であって、目を留めるべきは、常態的には生産が消費を上回る水準にあって、むしろ意図的に生産量を調整して、消費の水準に見合う分だけ生産するというコントロールを行っていたことです。つまり必要なもの以上はつくらなかったということです。そのようなことが出来たのは、消費のプロセスが現代とは異なる価値観で支配され、むしろ生物本来の自然な欲望に基づいて機能していたことが大きく影響していると思われます。
(2)公平な分配を可能とするもの
分配のプロセスについても、原始共同体においては不合理に他者から収奪されたり、不安や貪欲に駆られて取り分を競うようなことはありませんでした。それは分配に際してのルールが厳密に守られ、生存に足る配分が保障されていたからでしょう。なおかつルールは公正に適用されて、誰もが納得感をもって受け入れることが出来たからでしょう。しかも政治のシステムと文化のシステムが絶妙に機能し、外部的な強制力と内面的な価値規制があいま相俟って、人々はストレスを感じること少なく妥当感をもって、自分の欲望を調整・抑制して分配のルールに従っていくことが出来たのです。
こうしたことが行えた背景には、1つには共同体を構成する人間は全員が貴重であり、1人でも欠ければ損失であるという意識が当時の人々にはあったからでしょう。役割分担して連携作業により生産活動を行うにしても、共同体を維持する役割を担うにしても、当時は限られた人員しかいませんでしたから、人間の数は資産と捉えられていたのです。従って誰一人おろそ疎かに出来ないという思いは、自然に抱くことが出来たことでしょう。2つ目には、共同体の重要性に対する認識です。動物の群れから進化して、共同で作業することによって始めて自分たちの安全で豊かな生存を保障することが出来るようになった共同体は、規模が小さく親密な人間関係で構成されていたが故に、切実にその不可欠性が意識されたことでしょう。そして3つ目は、資源の供給に対する不安が少なかったことです。自然の実りは圧倒的に豊かで、食料を含めて生活の資材は、いつでも必要なだけ森や草原や川や海から得てくることが出来ました。もちろん自然が荒れて飢餓や脅威にさら晒されることも経験しますが、基本的には自然は、豊かな恵みを与え続けてくれるのです。このように人間は一人一人が資産であり、共同体は重要であり、生活資材の供給に不安は無いという思いが重なる時、自然に誰一人の生存も損なわず、しかも共同体の統合を守るという目的を両立させるルールが生まれ、しかも物資の不足の不安な無さが、そのルールを守ることで決して自分は不利益を被らないという信頼感を生み出すことになるのです。
しかし分配のルールを守り、分配のプロセスがうまく機能するためには、じつはそれだけではなく、生産のプロセスにおいての場合と同様、消費のプロセスにおける現代と異なる価値観も、大きく影響を及ぼしてくることになるのです。次にその、原始共同体における経済のシステムにおける消費のプロセスについて、その仕組みを詳しく見ていきたいと思います。
4.原始共同体における消費の特徴
(1)消費こそが生活と人生の目的
消費というのは、分配された生産物を費消する行為で、大きく分けると次の3つに分類することが出来ます。例えば食料などのように、身体を維持成長させるためにその場で産物を費消する行為と、道具や家屋や衣服など、利便性を享受するために長期間にわたり使用する場合と、石器や土器をつくる土など、生産に必要な道具等(生産財)を生み出すための消費という3つのパターンです。この消費のプロセスにおいては、何よりも欲望を充足する機能が働きます。そしてもっとおいしいものを沢山食べたいとか、道具をもっと便利にしたいとか、人に自慢できるもっときれいなものをつくりたいとかいった、欲望を刺激し、それを拡大する機能も作用するのです。現代のミクロ経済学の言葉を用いれば、効用を与えるプロセスと言えるでしょう。
この消費の分類についての基本的な部分や効用については、現代に至るまで大きく変わるところはありません。しかし消費に対する態度や価値観については、原始共同体の社会では現代とは大きく異なる特徴があったのです。その1つ目として最も根本的なことは、生産・分配・消費で構成される経済のシステムにおいて、消費は最も重要な要素で、消費こそが経済の目的であるということが、現在よりもはるかに明確に意識されていたことです。これは考えてみれば、至極当たり前のことに過ぎないのかもしれません。しかし現代においては、「食べるために働くのか、働くために食べるのか」と問われると、実際は働くことが目的となって、日々の食事は粗末なもので済ませてしまうことも多いのではないでしょうか。衣服や自動車など特別な商品にこだわりを持つ人もいるでしょうが、生活全般にわたって消費に留意する人は多く無いでしょう。もちろん働くことに生き甲斐を感じるという、生産プロセスにおける効用を軽視することは出来ません。しかし現代においては生産や労働がより重視され、消費の本来の効用と価値は、見失われる傾向にあるようにも思われます。(巧みな広告宣伝に踊らされて、本質的に必要ではない商品を買いあさ漁って、無益な消費を行ってしまうことは多々あるかもしれませんが)。
しかし原始共同体の社会においては、紛れもなく消費から得られる効用は、生活と人生の目的であり、その効用を得るためにこそ生産のシステムも分配のシステムもあり、また共同体そのものも存在することが、明確に意識されていたのです。現在のように潤沢な物資を持つことを価値とする文化が無かったが故に、限られた財物の消費で得る効用の価値がより明確であったのかもしれません。
(2)所有に対する価値観の相違
原始共同体における消費の特徴の2つ目は、所有の内容と価値観が、現代に比べて大きく相違することです。所有は分配と消費の間にあって、何者からも侵害されることなく安全な消費が行えるために必要とする権利です。原始共同体は原始共産制社会と思いがちな人々もありますが、当時の社会にあっても所有(帰属)は存在し、重要な意味を持っていました。自己意識を持って、他者からは独立した存在であるという自分を自覚する人間にとって、所有は自立の根拠であって、自由に活動する基盤となるものだからです。しかし現代と異なるのは、所有は最低限のものに限られていたということです。せいぜい身に着けている衣服や狩猟などの道具や装身具などだけで十分であったことでしょう。しかしそうした身の回りの限られたものの所有であっても、共同体全員で帰属が承認され、自分が他の者とは異なる自立した存在であることの証となったのです。それ故に所有の侵害は、大きなもめ事の種となり、また所有物の寄贈(あるいは死者からの遺贈)を受けるということは、寄贈者のいのちの力をも継承するという霊的な意味をさえ持ったのです。
それでは何故所有が最低限のものに限られていたかというと、狩猟採取の原始共同体社会においては、それ以上のものを持つ必要が無かったからです。人間が自分の自立と自由を確保するために、所有は必要ですが、それ以上の所有を求めてしまうのは、不安に由来するからです。将来の欠乏の恐れが、それに備えるための必要から、現在の必要以上の物資の所有を促してしまうのです。また現代のように、他者との競合に勝利することが価値となる社会においては、他者に引けを取らないための所有や、他者に優越するための所有も必要となってくるのです。
しかし原始共同体社会にあっては、物資が欠乏する不安も、競合により自己価値が毀損する不安もありませんでした。自然が豊かな恵みを与え、競合する必要が無かったからです。それ故に人々の関心は、所有を増やすことよりも、自然の恵みが途絶えること無く与え続けられるように、むしろそのための工夫を行うことの方に向けられていました。恵みに感謝し、恵みが与え続けられるための祈祷や、またその祈りを通じた鋭い生態観察によって、自然の循環を壊さないための工夫を行ったのです。こうしてこの時代の人々は、今確かに必要なものしか望まず、余分な自然の産物の収奪は厳しく戒めて、消費の効用を堪能することに欲望の目的を振り向けていったのです。いわば所有という媒介物に目を奪われることなく、自分の存在にとって本当に必要なものを、消費よって得ることに力を注いでいったのです。
5.生産と分配を円滑に機能させる消費
(1)消費が生産と分配に及ぼす影響
さて原始共同体における消費の特徴の3つ目は、今述べたことからも明らかなように、当時の人々は過剰な消費を望まなかったということです。あるいは所有と同じ理由で、人間に本質的に必要な効用を充たす以上の消費を求めなかったのです。これも当たり前のことかもしれませんが、自分が十分に豊かに生きていく以上のものは、本来必要は無いのです。しかしそのために、現在と比べれば当時の人々の消費水準は、物量的にはるかに低いものであったことは確かでしょう。私たちの目から見れば、せいぜい生存を維持するのがやっとのレベルに見えるかもしれません。(実は決してそんなことは無いのですが)。その一方で現代の日本のように、年間2000万トンにも上る食料廃棄物を出すといった、無駄な生産を行うことも無かったのです。(これは7000万人分もの1年間の食料に匹敵します)。
この結果原始共同体においては、生産の規模も小さくて済み、そこに投入するエネルギーの割合もたいしたもので無くて良かったのです。それ故に消費を上回る生産能力を保有することが出来、むしろ消費する量だけの生産を行うことが可能となったのです。そして生産のプロセスは、消費で得られる効用を期待しながら、短時間に集中してわくわくしながら従事出来るものとなったのです。
分配のプロセスについても、消費の水準が小さいが故に、余分な配分が無くとも満足することが出来、また必要なものは確実に配分されるという信頼感を持つことが出来たのです。
(2)原始共同体における消費の効用の大きさ
このように消費に対して現代とは異なる価値観を持っていたが故に、いやむしろ人間にとって本来的な消費の効用を重視したが故に、原始共同体においては、生産のプロセスにおいては欲望を充足・促進する機能がより円滑に機能したのです。また分配の過程においては、欲望を抑制・調整する機能が、ストレスを感じること少なく機能したのです。しかしだからといって、消費から得る効用のレベルが、現代と比べて少なかったわけではありません。本当に必要な限られた産物から、現代人も及びもつかない豊かな効用を得ることが出来ていたのです。そのことの詳細については、個人の自由な活動のシステムについて扱う時に、人間の価値創出の営みと併せて見ていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月31日月曜日の18時からで、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定し、課題映画は1975年公開のアメリカ映画「カッコーの巣の上で」と致します。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.146まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
皆 様 へ
1.社会の目的
明確な自己意識を持ち、役割分担して連携作業により生活資材を生産・分配(協働共生体により)するようになった人間は、その集団を、動物的な群れから人間的な社会へと発展させていきました。そして欲望の中心も、身体由来の即物的・瞬間的なものから、他者や全体との関係の中で自己価値を発揮したい、あるいは自分の存在を普遍的に価値あるものへと高めたいという、時間的にも空間的にも広がったものへと変質させていったのです。
そんな1人1人の人間が、合わさって形成されるのが社会です。従って1人1人の欲望が集積したものを、無意識的にも充足するのが社会の目的となります。要約すれば、1人1人の生存の可能性を拡大し、また自己価値や普遍価値を実現できる条件を高めていくことが、社会の目的となるのです。その目的が充たされず、苦痛の方が大きくなれば、人々は社会から離散するか異議申し立ての抵抗を行うことになります。中世で言えば農民たちが逃散や一揆に走り、現代で言えば難民になったりテロを起こすということになるでしょうか。いずれにせよ社会はその目的を果たせない時、解体の危機に瀕することとなるのです。
それでは社会は、その目的を果たすためにどのような機能や仕組みを持ち、それをこれまでどのように働かせてきたのでしょうか。そのテーマを前回に引き続き検討していってみたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月31日月曜日の18時からで、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は1975年公開のアメリカ映画「カッコーの巣の上で」を予定しています。監督はミロス・フォアマンで、アカデミー賞の主要5部門を独占した作品です。現在と同様に閉塞感と抑圧感の漂った1970年代後半に、懸命に自由と解放をテーマとして模索を試み、私たちに一抹の希望を与えてくれた作品です。
2.原始共同体における生産と分配の仕組み
(1)社会の3つの機能と4つのシステム
さて人間の欲望との関連で、社会がその目的を実現するために果たす機能というのは、次の3つが仮定されます。1つは人間の欲望を充足し、また拡大させる機能です。しかし欲望が暴走したり衝突すると社会が崩壊しますから、その欲望を調整したり抑制する機能が一方で必要となります。そこで2つ目として、欲望を強制力をもってしてでも抑制・調整する機能が不可欠となってくるのです。更に3つ目としては、強制力ばかりでなく、欲望を自主的にまた内面的にも抑制・調整することによって、社会を安定化させていこうとする機能も必要となってくるのです。
こうした機能を働かせて、社会を構成する1人1人の欲望を充足し、同時に社会を解体させないようにするために形成されてきた仕組みが、経済、政治、文化のシステムであり、また個人のプライベートな生活空間や自由な活動の領域に関わるシステムだったのです。経済というのは、必要な生活資材を分担・連携して生産し、また分配する仕組みであり、政治は社会を統合するための仕組みのことです。文化は人間の内面に規範をつくって、欲望を無意識のうちに抑制・調整すると共に、人間の欲望を社会的な価値創出へと昇華させていく仕組みのことでもあります。そして経済にも政治にも文化にも属さない、個人の休息やリフレッシュを含む趣味的・嗜好的なプライベートな領域が、人間に様々な悲喜劇を経験させて、自由な活動へといざな誘い、創造性が生み出される源泉ともなってくるのです。
(2)原始共同体における生産のプロセス
以上の4つのシステムのメカニズムを用いて、人間の欲望を促進したり抑制したりする3つの機能をそれぞれの過程において働かせて、社会は、人間の生存の条件と価値実現の可能性を拡大するために作動していくのです。その具体的な動きを見るために、まず狩猟採取で生計を賄った原始共同体の社会を例にとり、前々回よりまず経済のシステムから検討を始めております。経済というのは必要な生活物資を供給し、人間の生存の欲望を充足する仕組みで、生産・分配・消費の3つのプロセスから成ります。
生産は人間に必要なものを生み出すプロセスですから、本来欲望を充足するだけでなく欲望を刺激し、また欲望を拡大する機能を作用させます。しかし原始共同体以降の奴隷制、封建農奴制、資本制社会になると、自分の必要や欲望とは無関係な労働を強いられたり、過重な労働が強いられたり、労働が断片化されて価値が利益追求のみに一元化されることで人間性が喪失したりして、生産プロセスは、人間の欲望を制約する苦痛なものへとも変質していきます。従って人間の欲望を刺激し欲望の質を高めていくという、本来生産プロセスにおいて働く機能の割合を再び高めていくことが、これからの生産過程、つまり働き方の課題となってくるのです。
(3)原始共同体における分配のプロセス
次に分配は、生産物を一定のルールを定めて公平に配分するプロセスのことです。人間の欲望を放置すると、少しでも多くの取り分を得ようと争いになりますから、欲望を抑制・調整する機能を作用させる仕組みが、どうしても必要となってくるのです。原始共同体社会においては公正な分配を実現していくために、必要な量の生活物資を全員に供給し、生産に貢献度の高い者には報償を与え、そしてルールを定めて守らせるという方法等を用いて、欲望を調整・抑制していきました。特に重要なのは、禁止事項を明確にしておきて掟や法などのルールを定めて守らせるということであり、また争いがあった場合には公正な裁定を行い、その裁定に従わせるということです。そのためにはルールを破ったり裁定に従わない者に対する罰則が必要で、その罰則を実際に執行するための強制力が必要となってきます。この強制力を司るのが政治のシステムで、分配のプロセスを機能させるために、政治のシステムが入り込んでくることになるのです。
また禁止や掟を内面化して、それを破ることを恐れる(タブー)気持ちをつくり、無意識的に欲望を抑制して、ルールを守っていくようにもしていかなければなりません。あるいは裁定を公正なものとして納得し、受け入れるようにもしていく必要があります。そうした内面的な価値規範を形成していくのが文化のシステムで、分配のプロセスを機能させていくために、文化のシステムもそのプロセスに入り込んでくることになるのです。
(4)現代における分配のプロセスの課題
このように分配のプロセスにおいては、基本的に欲望を抑制・調整する機能が作用することになるのですが、近代においては、市場による調整機能という画期的なメカニズムが生み出されました。人間はもはや分配の過程においても欲望を抑制する必要がなく、市場機能において、欲望を抱いたままでニーズと生産量が自動調整され、最適な分配が施されていくのです。この市場機能の発達によって、人間は欲望を制御することなく拡大させ、持続的に生産量を増大させる資本主義を発展させることが可能となったのです。
しかし市場の需要と供給を均衡させて分配を調整する機能も、万能ではありません。現代における分配のプロセスの問題は、独占や情報の非対称性、また環境問題等によって市場の機能が歪められ、最適な分配が行えなくなり、そのことが格差を助長するなどして社会の成長とダイナミズムを阻害するようになったことです。あくまでも人間の欲望を抑制するのでは無く誘導し、市場の歪みを民主的に調整しつつ市場を最も効率よく機能させていくことが、現代における分配のプロセスの課題となっています。
3.原始共同体における理想的な生産と分配のシステム
(1)魅惑的な生産過程を生む公平な分配と消費の価値観
以上前回までにおいて、原始共同体社会を対象として、経済のシステムの内の生産と分配のプロセスを見てきました。概して言えば生産のプロセスというのは、この時代においては決して抑圧的であったり苦痛を増幅させるものではなく、収穫物を得ることの期待に満ちた、欲望を刺激する工程であったと言えます。その理由は分配のプロセスが公平で、生産物を確かに自分の欲望を充たすものとして、納得できる形で自分の手にすることが出来たからでしょう。それ故に生産性は高く、1日のうちの限られた時間だけの労働で、子供や老人など非生産人員を含めて共同体全員を養う事が出来、残りの時間は思い思いに自分を満たすための生活にいそ勤しむことが出来たのです。
もちろん現在のように、物資の貯蔵を十分に行えた訳ではありませんから、天候異変等自然界の変動により、飢餓状況に陥ったことも少なくなかったでしょう。しかしそれは例外的な状況であって、目を留めるべきは、常態的には生産が消費を上回る水準にあって、むしろ意図的に生産量を調整して、消費の水準に見合う分だけ生産するというコントロールを行っていたことです。つまり必要なもの以上はつくらなかったということです。そのようなことが出来たのは、消費のプロセスが現代とは異なる価値観で支配され、むしろ生物本来の自然な欲望に基づいて機能していたことが大きく影響していると思われます。
(2)公平な分配を可能とするもの
分配のプロセスについても、原始共同体においては不合理に他者から収奪されたり、不安や貪欲に駆られて取り分を競うようなことはありませんでした。それは分配に際してのルールが厳密に守られ、生存に足る配分が保障されていたからでしょう。なおかつルールは公正に適用されて、誰もが納得感をもって受け入れることが出来たからでしょう。しかも政治のシステムと文化のシステムが絶妙に機能し、外部的な強制力と内面的な価値規制があいま相俟って、人々はストレスを感じること少なく妥当感をもって、自分の欲望を調整・抑制して分配のルールに従っていくことが出来たのです。
こうしたことが行えた背景には、1つには共同体を構成する人間は全員が貴重であり、1人でも欠ければ損失であるという意識が当時の人々にはあったからでしょう。役割分担して連携作業により生産活動を行うにしても、共同体を維持する役割を担うにしても、当時は限られた人員しかいませんでしたから、人間の数は資産と捉えられていたのです。従って誰一人おろそ疎かに出来ないという思いは、自然に抱くことが出来たことでしょう。2つ目には、共同体の重要性に対する認識です。動物の群れから進化して、共同で作業することによって始めて自分たちの安全で豊かな生存を保障することが出来るようになった共同体は、規模が小さく親密な人間関係で構成されていたが故に、切実にその不可欠性が意識されたことでしょう。そして3つ目は、資源の供給に対する不安が少なかったことです。自然の実りは圧倒的に豊かで、食料を含めて生活の資材は、いつでも必要なだけ森や草原や川や海から得てくることが出来ました。もちろん自然が荒れて飢餓や脅威にさら晒されることも経験しますが、基本的には自然は、豊かな恵みを与え続けてくれるのです。このように人間は一人一人が資産であり、共同体は重要であり、生活資材の供給に不安は無いという思いが重なる時、自然に誰一人の生存も損なわず、しかも共同体の統合を守るという目的を両立させるルールが生まれ、しかも物資の不足の不安な無さが、そのルールを守ることで決して自分は不利益を被らないという信頼感を生み出すことになるのです。
しかし分配のルールを守り、分配のプロセスがうまく機能するためには、じつはそれだけではなく、生産のプロセスにおいての場合と同様、消費のプロセスにおける現代と異なる価値観も、大きく影響を及ぼしてくることになるのです。次にその、原始共同体における経済のシステムにおける消費のプロセスについて、その仕組みを詳しく見ていきたいと思います。
4.原始共同体における消費の特徴
(1)消費こそが生活と人生の目的
消費というのは、分配された生産物を費消する行為で、大きく分けると次の3つに分類することが出来ます。例えば食料などのように、身体を維持成長させるためにその場で産物を費消する行為と、道具や家屋や衣服など、利便性を享受するために長期間にわたり使用する場合と、石器や土器をつくる土など、生産に必要な道具等(生産財)を生み出すための消費という3つのパターンです。この消費のプロセスにおいては、何よりも欲望を充足する機能が働きます。そしてもっとおいしいものを沢山食べたいとか、道具をもっと便利にしたいとか、人に自慢できるもっときれいなものをつくりたいとかいった、欲望を刺激し、それを拡大する機能も作用するのです。現代のミクロ経済学の言葉を用いれば、効用を与えるプロセスと言えるでしょう。
この消費の分類についての基本的な部分や効用については、現代に至るまで大きく変わるところはありません。しかし消費に対する態度や価値観については、原始共同体の社会では現代とは大きく異なる特徴があったのです。その1つ目として最も根本的なことは、生産・分配・消費で構成される経済のシステムにおいて、消費は最も重要な要素で、消費こそが経済の目的であるということが、現在よりもはるかに明確に意識されていたことです。これは考えてみれば、至極当たり前のことに過ぎないのかもしれません。しかし現代においては、「食べるために働くのか、働くために食べるのか」と問われると、実際は働くことが目的となって、日々の食事は粗末なもので済ませてしまうことも多いのではないでしょうか。衣服や自動車など特別な商品にこだわりを持つ人もいるでしょうが、生活全般にわたって消費に留意する人は多く無いでしょう。もちろん働くことに生き甲斐を感じるという、生産プロセスにおける効用を軽視することは出来ません。しかし現代においては生産や労働がより重視され、消費の本来の効用と価値は、見失われる傾向にあるようにも思われます。(巧みな広告宣伝に踊らされて、本質的に必要ではない商品を買いあさ漁って、無益な消費を行ってしまうことは多々あるかもしれませんが)。
しかし原始共同体の社会においては、紛れもなく消費から得られる効用は、生活と人生の目的であり、その効用を得るためにこそ生産のシステムも分配のシステムもあり、また共同体そのものも存在することが、明確に意識されていたのです。現在のように潤沢な物資を持つことを価値とする文化が無かったが故に、限られた財物の消費で得る効用の価値がより明確であったのかもしれません。
(2)所有に対する価値観の相違
原始共同体における消費の特徴の2つ目は、所有の内容と価値観が、現代に比べて大きく相違することです。所有は分配と消費の間にあって、何者からも侵害されることなく安全な消費が行えるために必要とする権利です。原始共同体は原始共産制社会と思いがちな人々もありますが、当時の社会にあっても所有(帰属)は存在し、重要な意味を持っていました。自己意識を持って、他者からは独立した存在であるという自分を自覚する人間にとって、所有は自立の根拠であって、自由に活動する基盤となるものだからです。しかし現代と異なるのは、所有は最低限のものに限られていたということです。せいぜい身に着けている衣服や狩猟などの道具や装身具などだけで十分であったことでしょう。しかしそうした身の回りの限られたものの所有であっても、共同体全員で帰属が承認され、自分が他の者とは異なる自立した存在であることの証となったのです。それ故に所有の侵害は、大きなもめ事の種となり、また所有物の寄贈(あるいは死者からの遺贈)を受けるということは、寄贈者のいのちの力をも継承するという霊的な意味をさえ持ったのです。
それでは何故所有が最低限のものに限られていたかというと、狩猟採取の原始共同体社会においては、それ以上のものを持つ必要が無かったからです。人間が自分の自立と自由を確保するために、所有は必要ですが、それ以上の所有を求めてしまうのは、不安に由来するからです。将来の欠乏の恐れが、それに備えるための必要から、現在の必要以上の物資の所有を促してしまうのです。また現代のように、他者との競合に勝利することが価値となる社会においては、他者に引けを取らないための所有や、他者に優越するための所有も必要となってくるのです。
しかし原始共同体社会にあっては、物資が欠乏する不安も、競合により自己価値が毀損する不安もありませんでした。自然が豊かな恵みを与え、競合する必要が無かったからです。それ故に人々の関心は、所有を増やすことよりも、自然の恵みが途絶えること無く与え続けられるように、むしろそのための工夫を行うことの方に向けられていました。恵みに感謝し、恵みが与え続けられるための祈祷や、またその祈りを通じた鋭い生態観察によって、自然の循環を壊さないための工夫を行ったのです。こうしてこの時代の人々は、今確かに必要なものしか望まず、余分な自然の産物の収奪は厳しく戒めて、消費の効用を堪能することに欲望の目的を振り向けていったのです。いわば所有という媒介物に目を奪われることなく、自分の存在にとって本当に必要なものを、消費よって得ることに力を注いでいったのです。
5.生産と分配を円滑に機能させる消費
(1)消費が生産と分配に及ぼす影響
さて原始共同体における消費の特徴の3つ目は、今述べたことからも明らかなように、当時の人々は過剰な消費を望まなかったということです。あるいは所有と同じ理由で、人間に本質的に必要な効用を充たす以上の消費を求めなかったのです。これも当たり前のことかもしれませんが、自分が十分に豊かに生きていく以上のものは、本来必要は無いのです。しかしそのために、現在と比べれば当時の人々の消費水準は、物量的にはるかに低いものであったことは確かでしょう。私たちの目から見れば、せいぜい生存を維持するのがやっとのレベルに見えるかもしれません。(実は決してそんなことは無いのですが)。その一方で現代の日本のように、年間2000万トンにも上る食料廃棄物を出すといった、無駄な生産を行うことも無かったのです。(これは7000万人分もの1年間の食料に匹敵します)。
この結果原始共同体においては、生産の規模も小さくて済み、そこに投入するエネルギーの割合もたいしたもので無くて良かったのです。それ故に消費を上回る生産能力を保有することが出来、むしろ消費する量だけの生産を行うことが可能となったのです。そして生産のプロセスは、消費で得られる効用を期待しながら、短時間に集中してわくわくしながら従事出来るものとなったのです。
分配のプロセスについても、消費の水準が小さいが故に、余分な配分が無くとも満足することが出来、また必要なものは確実に配分されるという信頼感を持つことが出来たのです。
(2)原始共同体における消費の効用の大きさ
このように消費に対して現代とは異なる価値観を持っていたが故に、いやむしろ人間にとって本来的な消費の効用を重視したが故に、原始共同体においては、生産のプロセスにおいては欲望を充足・促進する機能がより円滑に機能したのです。また分配の過程においては、欲望を抑制・調整する機能が、ストレスを感じること少なく機能したのです。しかしだからといって、消費から得る効用のレベルが、現代と比べて少なかったわけではありません。本当に必要な限られた産物から、現代人も及びもつかない豊かな効用を得ることが出来ていたのです。そのことの詳細については、個人の自由な活動のシステムについて扱う時に、人間の価値創出の営みと併せて見ていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、7月31日月曜日の18時からで、渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定し、課題映画は1975年公開のアメリカ映画「カッコーの巣の上で」と致します。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.146まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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