ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.149『社会の基本構造と原始共同体から学べるもの』

Aug 12 - 2017

■2017.8.12パンセ通信No.149『社会の基本構造と原始共同体から学べるもの』
 
皆 様 へ
 
1.互いを欲し合う欲望の総体としての社会
(1)安定社会としての原始共同体
狩猟採取で生計を賄った原始共同体は、非常に安定した社会で、その基本的な構造は、およそ200万年にわた亘って継続したものと思われます。その理由は、社会が人間の欲望を充たすという目的を果たす上で、原始共同体はかなりの程度有効な機能を果たしていたからです。そのために矛盾や葛藤が少なく、人々にストレスを与えることも多くなかったが故に、社会の構造は安定したものとなっていました。ただしそのために、発展の動力には乏しかったと言えるかもしれません。この当時人々のダイナミズ(生の活力)は、社会の構造を発展させるよりは、むしろ新たに狩猟採取を行える生活の場を求めて、地理的なフロンティアを拡大させることの方に向かっていったのです。なぜならそこには広大な、人類がまだ足を踏み入れたことのない未開の大地が広がっていたのですから。(アフリカの大地溝帯を旅だった人類の祖先が、世界の各地に居住地を広げ、南米パタゴニアの南端にまで行き渡ったのは、わずか12,000年前のことです。)

今回は原始共同体社会を現在と引き比べて、今まで見てきた経済のシステムから参考となる部分を整理しつつ、政治のシステムについてその構造を理解し、現在に連なる政治の原理について考えていくための橋渡しを行ってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、8月14日月曜日はお盆の期間のためお休みとし、8月21日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターを会場と致します。
 
(2)欲望の幻想性が生み出す制度と仕組み
社会は人間の集団が織りなしてつくられるものであり、複雑に絡み合った人間の集合的欲望を充たすものとして形成されます。人間の欲望というのは、単に身体に由来する欲求を充足するために、自然界の具体的な対象物をエサとして求めるようなものではありません。協働連携作業を行って生活に必要な資材を産出するようになった人間は、関係性の中で自己意識を明確にし、他者の欲望を意識出来るようになります。そして他者の欲望を欲望すること、つまり他者に承認されて自己価値を確認することで、自分の存在意義を見出していこうとするのです。このように人間の欲望は、身体的生存の欲望を超えて、自己価値の実現を求めて自由にどこまでも展開していくものとなっていくのです。

私たちはこうして、他者の欲するところのものへと自分自身のありようを向けることで、自己価値の欲望を充たしていこうとします。そして相互に他を欲し合い、自己価値を充たし合っていこうとする欲望の関係の総体として、社会が形成されてくるのです。社会とは、そのような欲望の多数性によって構成される場面であり、従って単に個々人の欲望が個別に併存するのでは無く、各人の欲望が相互に向かい合って織りなされて構成されてくるのです。

このように人間の欲望は、具体的な対象物を求めるのではなく、相互に求め合う中で確認されてくる自己価値を求めるものですから、その欲望は幻想的で、無限に展開していくものとなります。具体的な対象物を求めて、その具体物を得てしまえば、欲望が充足して終わってしまうのですが、人間の欲望はそのようなものではありません。このように人間の欲望は幻想的であるからこそ、共同の幻想として制度を生み出し、こうした制度がいくつも組み合わさって構造化されたものとして、社会が成立してくるのです。また幻想的であるからこそ、人間の欲望は無限に展開し、社会も固定的なものではなくダイナミックに流動化していくことになるのです。
 
2.原始共同体社会の興味深い生産システム
(1)社会の基本システム
互いに求め合う人間の欲望の総体が幻想化し、構造化されて出来た社会は、まずこの人間の共同幻想として生み出された様々の制度を維持するために機能します。そしてまた社会を構成する人間一人一人の生存の欲望と、自己価値が相互に承認されて自分の実存(自己価値)を確認できる欲望を充足するためにも機能するのです。制度を維持するために人間の欲望を抑制・調整する機能と、人間の実存を求める欲望を促す機能がぶつかって、社会のダイナミズムが生まれて発展の原理となり、自己価値を相互に発揮しようとする人間同士の葛藤が、新たな価値創造の源泉となってくるのです。

こうした社会の構造の原理を念頭にして、最も原初的な社会構造である原始共同体社会から見えてくる、社会の基本的な制度(システム)は、経済のシステム、政治のシステム、文化のシステム、そして個人のプライベートで自由な生活領域の4つのシステムです。経済というのは、人間が生きて活動するために必要な生活資材を、生産、分配、供給(消費)するための仕組みで、いわば人間の生存にとっての必要条件を提供するためのシステムです。政治というのは、社会の方向性についての合意形成を図り、その方向に向かってのゲームのルールを定め、またルールを守ってそのゲームを展開出来るようにするためのシステムです。またこのゲームを円滑に実施するために、ゲームのルールを破る者に対して懲罰を与え、強制力をもって従わせる(欲望を抑制・調整する)というシステムでもあります。

文化というのは、社会の制度を維持することで社会の統合を図り、また政治や経済のルールを守って社会ゲームを安定的に遂行できるように、人間の内面に価値規範を形成し、無意識の内に欲望を抑制・調整させる制度のことです。そしてまた人間が自己価値を発揮し、それを互いに評価しあうことで他者に承認されるように価値を高めていくという、普遍的な価値承認のための文化ゲームを展開するシステムのことでもあります。最後に人間のプライベートで自由な生活領域というのは、そこでこそ個人の趣味的・嗜好的な欲望を含めた様々な欲望が生起し、自己価値の欲望も芽生えて育まれていくようらん揺籃の役割を果たす場所なのです。
 
(2)直接的人間関係のみで形成される社会
後の時代の社会と比べた原始共同体社会の特徴としては、次の5つのことを挙げることが出来ます。1つは集団の規模が小さく、人間関係がすべて直接的であったということです。現在の社会においては、地域社会においてすら人間関係は間接的な場合が多く、さらにその上位に国家や国際社会が取り囲み、交易を通じて遠い彼方の見知らぬ人々と私たちは相互に依存する関係に生きています。しかし原始共同体においては、お互い同士誰もがよく見知る関係にあって、相互に支え合う依存関係や支援関係を明確に意識することが出来たのです。その結果2つ目の特徴として、共同体に属する誰もが共同体を維持するために欠かせぬ貴重な存在として、お互い同士を意識することが出来たということです。

そして3つ目の特徴は、集団が小規模であるが故に、協働共生体として自分の生存が集団に依拠していることが実感としてよく分かり、共同体が不可欠であるという意識がしっかりと持てたということです。さらに集団を構成する人間は全員、共同体を維持するために貴重な存在であるという認識が、共同体のルールを決めるに際して各人の合意を得ることを必要なものとして認識させました。このために共同体は、自分にとって親密で自分が確かに一員としてつくるものであり、自分の利益を反映出来るものとして実感することが出来たのです。
 
(3)生態系循環と定常社会
原始共同体の4つ目の特徴は、生活資源の供給源である自然との関わり方です。狩猟採取に生きた当時の人々は、食料や生活資材が得られて共同体の全員を養える地域に移動して居住したのですから、通常状態では飢えることはありません。極北の過酷な地域に暮らす人々も、針と糸の発明によって動物の皮から防寒着を作ることが出来るようになり、雪原に暮らす豊富なトナカイやマンモスの群れを求めてその地に移住し、自分たちのテリトリーとしたのです。自然からいつでも必要なだけの恵みを得ることが出来たのですから、将来に備えての所有を増やす必要はありません。その代わり必要以上の消費や自然からの過剰採取を避けて、自然の生態系循環を知り尽くしてこれを守ることを最も大切なこととし、けっして生態系に支障をきたさぬ範囲で豊かな恵みを得ることをルールとしていったのです。その意味で当時の人々は、普遍循環社会を実現し、将来の不安が少なく長期的視野でものごとを考えることが出来たのです。

5つ目の特徴は、社会が1部族中心で多層化していなかったが故にシンプルで、人間も人間的欲望の良質な部分を素直に持つことが出来たことです。当時はまだ支配・被支配の社会関係・人間関係は成立していませんでした。顔見知りの人間関係だけで構成される部族で社会は完結しており、自分たちだけの世界観(神話)で生きていくことが出来たのです。つまり同じ部族の人間であれば、考え方が大きく異なることが無く、意見の対立も少なくて済んだのです。交易で他の部族と接することがあっても、お互い同士の自立を尊重して、侵害することはありませんでした。またテリトリーの境界で争い合うことがあったとしても、それは極めて限定的なものだったのです。

このように争いあったり、争いに敗れて従属するようなことが少なければ、屈辱や憎しみから葛藤や挫折を味合うことも少なく、人間は信頼をベースにお互い同士の関係性において充たされて生きていくことが出来ます。自分を損なわず、他の仲間や共同体全体のために生きることが素直に了解しあえて、自分の価値を実感して生きていくことが容易だったのです。しかしその反面、原始共同体の人々の認識は、自分たちの部族の人間とテリトリーの範囲に限られ、世界観・宇宙観も自分たちの解釈に基づくものだけで固定的でした。また葛藤や挫折が少ないので、「本当はもっとこうあるべきなのに」という理想や理念を求める思いも強くなく、人間の欲望は限定的で、貪欲さを含めてどこまでも膨らんでいくものでは無かったのです。その意味では発展の原理には乏しかったとも言えるのです。実際に原始共同体社会においては、自然の生態系循環から得られる範囲の恵みで部族の生活を養ったことから、部族の人口は一定し、社会構造的には定常状態を保っていったのです。(もちろん生活圏を全地表に拡大するという面的広がりにおいて、人間の人口は増大していったのですが)。
 
3.原始共同体が現在に教えるもの
(1)供給に不安の無い社会
さて以上のような原始共同体社会の特徴から、生活に必要な資材を生産・分配・供給(消費)する経済のシステムにおいても、現在の私たちの目から見て興味深い構造が、6点ほど浮かび上がってきます。その第1の点は、自然の恵みから得られる物資の範囲内で、共同体の生活が営まれていたことから、日常的には生活物資の供給に不安が無かったということです。天候が荒れて、獲物や収穫物が得られずに飢えに苦しむことがあったとしても、それは例外事象で、時が過ぎれば自然はまた豊かな恵みを与えてくれたのです。もし氷河期と温暖期が入れ替わるような本格的な気候変動が生じたり、大規模な火山の噴火等が起きてその地が荒廃したような場合には、人々は現在の居住地域を捨てて、自然の実りを求めて新たな別のテリトリーへと旅立って行けば良かったのです。ところで生活物資の供給に不安が無かったということは、人々に余分な備蓄(蓄財)を行う必要を生じさせず、所有も最低限のものだけで済むようにしたのです。

備蓄や所有が限定的であったことは、消費のプロセスにおいて2点目の興味深い状況を示してくれます。消費の水準が、現在よりもはるかに少ないレベルで済んだということです。このことはまた、原始共同体社会が均質な社会で、階層構造によるステータスを誇示するための、競合的消費を行う必要が無かったことにも由来します。人々は他者の評価や流行を過剰に気にする必要が無く、本当に自分が満足を得られるだけの消費を行ったのです。
 
(2)短い労働時間と生産性の高さ
消費水準が低かったことにより、生産のプロセスにおいて3点目の興味深い展開が見られるようになります。生産の規模も大規模に拡大する必要が無く、本来的な消費を賄えるだけの生産を行えば良かったのです。元来原始共同体の人々は、自然の稔りが豊かな地域をテリトリーとして居住していましたから、その気になれば生産量を拡大することが出来たのですが、低い水準の消費量を賄えるだけの生産で良ければ、生産に割く労力や資源も大きくなくて済みます。この結果人々の生産活動に従事する労働時間は、後の時代に比べてはるかに短いもので十分だったのです。尤もこの時代の労働時間の短さは、まだ支配階級が成立しておらず、支配階級の贅沢な消費のために働かなければならかった時間が無かったことにも由来します。

生産のプロセスにおいてもう1点、4つ目として興味深い点は、労働が苦痛ではなく極めて生産効率の高いプロセスであったということです。労働が苦痛で無かったというのは、第1には労働時間が短く、集中して作業を行えたということがあるでしょう。しかしそれ以上に、元来生産のプロセスというのは、ゲーム性が高く、人間の欲望を刺激して面白く行える過程なのです。狩りを行うにしても、熟れ頃の果実や木の実を収穫するにあたっても、経験や技術がものを言うでしょうし、他の人と連携したり競ったり、ゲーム的にプレーとして行うことが出来るものなのです。このことが労働が苦痛でなかった2番目の理由で、むしろわくわくドキドキして興味を掻き立てるプロセスでもあったのです。第3の理由は、生産物が紛れもなく自分のものになったということです。あるいは自分の価値を認めてくれるみんなのもの、共同体全体のものとなったということです。奴隷制社会における奴隷労働のように、自分の労働の成果が他者に奪われるということはありませんでした。このために原始共同体社会に生きる人々は、まさに自分が満足いく消費を行えるように、その必要のために生産を行い、労働が疎外を引き起こすようなことは無かったのです。

労働が苦痛では無かった4つ目の理由は、特に産業革命以降に顕著になったように、生産工程が細かく分断されて、一部の単純作業を繰り返すようなものでは無かったからです。労働は例え役割分担して連携して行われるようなものであったとしても、全員が全体のプロセスと自分の役割をよく理解し、自分自身の価値表出として、意味のある作業を行うことが出来たのです。この結果労働のプロセスは、単なる労働力の切り売りとして消耗するようなものではなく、自分自身の価値創造の場となり、またそのために自分の能力を培い、人間的成長を図る場でもあったのです。

このように原始共同体社会にあっては、生産のプロセスが欲望を刺激するものとなり、生産物が収奪されずに自分自身の消費のためのものとなり、また労働が自分の成長となり、そして自然の生態系を熟知して最も適切な時期に採取を行えば短時間に集中して作業を行うことが出来る等の要素が組み合わさって、労働の生産性を大いに高めることとなったのです。
 
(3)公正に実施された分配
さて自然の生態系循環から得られる恵みの範囲で共同体の規模を維持し、原則的には生活資材の供給に不安が無かったことは、原始共同体社会における分配の仕組みにおいても、現在に示唆を与える5つ目の興味深い状況を示してくれます。供給量に不安が無かったのですから、分配は共同体の構成員全員に対して、生存を維持し、人間として意義ある活動を行うために必要な量が与えられました。そうしたことが出来たもう1つの理由は、自分たちの生存にとって不可欠な共同体を維持するためには、一人一人の人間が貴重で、欠かせない役割(存在意義)を担っているという意識があったからでしょう。

この一人一人の人間は、存在意義としては対等で貴重であるという意識は、さらに分配のプロセスにおいて6つ目の興味深い状況を示唆してくれます。それは各人に必要最低限の分配を保証した上で、全員が納得できるルールを定めて公正な分配が行われたということです。妊婦や乳幼児を育てる者にはそれなりの配慮がなされたでしょうし、生産に成果や貢献の大きかった者に対しては褒賞が与えられたことでしょう。しかし褒賞は分配の格差を生んで固定されていく契機ともなります。そのようなことが生じないよう注意を払い、しかしよく働く者、貢献度の高い者に対しては、皆でその功績を称え、その者も自分の価値が認められたことを自覚し、さらにみんなのため、共同体全体のために頑張ろうと思うようになる方法で、功績を顕彰していくというルールを定めていったのです。
 
4.原始共同体が現代に教えるもの
(1)原始共同体経済が示唆する5つのポイント
さて以上のように原始共同体社会の特徴と経済システムの興味深い点を整理してきたのですが、そこから現代の私たちが学べる点は、以下の5点でしょう。第1に原始共同体においては、原則的に供給に不安の無い社会を実現していたということです。供給に不安があれば、必ず資源を求めて争いが起こり、弱肉強食の後に強者が弱者を支配する社会がやってきます。第2には、供給に不安の無い社会を実現するために、自然の生態系循環から得られる恵みの範囲内で、共同体の規模を維持していたということです。その意味では完全循環社会を実現し、経済システムとしては永続性ある仕組みをつくり出していたことです。第3には過剰な消費を行わず、本当に自分の身体と価値を維持したり向上させるために必要なだけの量の消費を行っていたということです。

第4には、誰もが納得のいくルールに基づく、公正な分配が行われたということです。これは十分な供給と、一人一人の人間は貴重で共同体の維持に欠かせないという認識と、共同体存続の必要性の理解とが相まって可能となったことなのでしょう。そして第5には、生産効率が非常に高かったということです。それを可能としたのは、労働のプロセスが欲望を刺激し、人間的能力を向上させ、自己価値を発揮させる場でもあったからです。そして無駄な消費を行わなかったがために、生産規模が小さくても十分で、労働時間が短くて済んだことも影響しているでしょう。このように公正さと欲望を充足する仕組みがあったからこそ、原始共同体は社会構造的にも安定的に存続することが出来たのです。
 
(2)現代社会に当てはめていくために
もちろん以上のような諸点は、これをそのまま現代に当てはめる訳にはいきません。しかし現在の経済を考えるにあたって、様々な示唆を与えてくれることには間違いが無いでしょう。原始共同体というのは、人間の生存を恒常的に維持するという目的においては、きわめて安定的な社会を実現しました。しかしその後人類は、様々な苦難を経て自己価値や理想を求める欲望を大きく膨らませて現在に至っています。そのことが発展の原動力となり、巨大な人口増をもたらしたのです。現在と原始共同体社会の成立の条件を入念に精査に、今後原始共同体から学べるものを現在に適用していくための条件とプロセスを明らかにしていってみたいと思います。

そのための作業の一環として、次回は原始共同体社会が一体どのような基本ルールのもとに成立し、機能していたのかについて明らかにすることから、原始共同体における政治のシステムを検討し、現在にも至る政治の原理を取り出していってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、8月14日月曜日はお盆の期間のためお休みとし、8月21日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターを会場と致します。お時間許す方はご参加下さい。

P.S. 現在パンセ通信は、No.146まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

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