ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.150『 原始共同体社会の目的、及び政治の原理とプロセス』

Aug 19 - 2017

■2017.8.19パンセ通信No.150『 原始共同体社会の目的、及び政治の原理とプロセス』

皆 様 へ

1.現代の課題と日本の役割
(1)現代の課題
現代の世界の課題は4つです。1つは資源・環境が地球的限界を迎えつつあること。2つ目は格差構造の拡大です。これには先進国における中間層の解体と一部の者への富の集中、および途上国と先進国との格差の問題があります。3つ目は国民の生存(生存権)を確実に保障することと、さらに私たちが多様な取り組みの中から新たな価値創造を自由に行っていける社会を実現することです。言い換えれば人間的生活と、すべての人間の能力の発揮による成長と発展の原理の実現です。4つ目は、世界の協力体制の構築です。資源に制約がある中で、各国が新たなビジョンのもとに協調しなければ、必ず力による資源の争奪戦が始まるからです。核兵器を有する現在にあっては、それは人類の滅亡と地球生態系の崩壊を意味します。

こうした課題を解決していくためには、生態系循環を熟知して最大限に活用して、資源・環境制約を将来にわた亘って克服していく普遍循環社会を実現することが不可避です。すでに再生可能エネルギーや地球温暖化対策の取り組みが始まっていますが、この動きを世界規模で加速させていかなければなりません。また新自由主義政策で、経済的成功のみに一元化された価値観を解体し、行き過ぎた競争と格差に歪められた市場原理を、公正に機能するように再生していかなければなりません。そして国家の機能を根本的に見直し、国民の生存の保障のみならず、自由な自己価値の追求を支援し、社会が経済的にも個人の人格的にも、持続的に成長・発展を遂げていくことの出来る構造を実現していかなくてはなりません。さらには当面の資源制約のもとで世界が協調して、それぞれの地域の文化に根差した適切な生活と福利の向上に道筋をつけ、途上国を含めた持続的な発展と格差の縮小のビジョンを現実のものとしていかなければならないでしょう。(このことが抜本的なテロ防止対策につがります。)

(2)日本の役割
食料・エネルギー資源に乏しく、成長が停滞して生き甲斐の喪失状態にある日本、そしてまた縄文以来自然との豊かな共生文化を培い、江戸時代には完全循環社会を実現した日本は、これからの普遍循環と価値創出社会の実現、そしてまた生活大国の実現による新たな経済モデルの構築において、世界に大きく貢献できる立場にあることは間違いの無いことでしょう。そのために、私たちの社会(国家)の仕組みと生き方を現実的に変えていくための具体的な手立てを、人間と社会の原理的なところから考えて明らかにしていく試みを続けていってみたいと思います。

前回は原始共同体社会にまで遡って、その社会の特徴と経済の原理およびその時代の経済の仕組みについて考えてみましたが、今回は、政治の仕組みを明らかにすることにより、現在にも至る普遍的な政治の原理を取り出す作業を行ってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、8月21日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターを会場と致します。また8月28日の月曜日は、月末ですのでホームシアターサ-クルの活動を実施致します。課題映画は私どもフィルム・クレッセントの製作映画で、山口巧監督の「ちぎれ雲~いつか老人介護」(1999年)を予定しています。介護保険制度の成立以前につくられた映画ですが、老人介護に関する本質的な問題を軽快なドラマで提起し、現在もDVDが売れ続けている良質な作品です。
 
2.原始共同体社会の特徴
(1)政治の役割
さて政治というものを理解するためには、社会が何を目的として大事にし、またその目的を実現するためにどんなルールを定め、どのようなゲームを展開しているのかについて考えてみなければなりません。政治というのは、このルールをつくったり守ったりしながら、ゲームをプレイして社会の目的を実現していくためのシステム(仕組み)だからです。

それでは原始共同体社会においては、何が目的として大事にされ、どんなルールのもとにどのようなゲームが展開されていたのでしょうか。それを整理するために、もう1度原始共同体社会の特徴と経済について簡単に振り返っておきたいと思います。

(2)自然の恵みの範囲内での共同体の維持
経済的な特質を含めた原始共同体社会の最も大きな特徴を整理すると、次の3点に要約することが出来ます。1つは自分たちの部族がテリトリーとする領域で、得られる自然の恵みの範囲内で共同体を維持していったということです。2つ目は共同体と個人が、無自覚的に一体となって存在していたということです。そして第3点は、自分たちの生存のニーズや効用(満足)を充たすために、経済を始めとした様々な活動を行っていたということです。

自然から得られる恵みの範囲内で共同体を維持するということは、次の3点の特質を生み出すことになります。まず第1に、自然からの産物(供給)>共同体の人口(需要)という関係式が成立するので、通常状態においては物資の不足による争いの火種は無かったということです。(共同体の内部においても、共同体相互の間においても)。このことは政治システムとしては、争いの少ない社会なので、常備の警察機能と軍事機能を持つ必要が無かったことを意味します。2つ目の特質は、意図的な人口調整を行ったのではなく、自然からの恵みの量と、一人一人のニーズの総和がバランスする規模に、共同体は自然に保たれていったということです。このバランスを維持するために、自然から必要以上の産物を採取して生態系循環を壊さないといったルールも生み出されていったものと思われます。この結果3点目の特質と現れてくるのは、原始共同体の社会は、非常に安定的な構造を持った社会であったということです。自然環境の大規模な変化や、他部族からの侵略等* 外部からの変化が無い限り、社会構造が内部的に変動する要因は小さく、一定の定常状態を保ち続けたのです。
⋆ この時代に余剰産物の備蓄(富)は始まっておらず、人類は他部族のテリトリーを奪うよりも新天地を目指して大移動を続けていたので、基本的には侵略の原理はありませんでした。

3.個人と共同体の一体化
(1)原始共同体の目的
以上のことから分かる原始共同体の目的は、生産を増やしたり(富を求めたり、生活をさらに豊かにしたり)、共同体の規模を拡大したり、社会構造を高度化(発展)させたりすることでは無く、自然の恵みと自分たちのニーズがバランスする規模や生活水準で、共同体を維持し続けることであったことが明らかになってきます。大切なことは現状のバランスでいつまでも変わること無く、自分たちの部族の存続(生存)を維持し続けることだったのです。

次に共同体と個人が、無自覚的に一体であったということの意味について考えてみたいと思います。近代においては「個」の自覚が生まれ、個人と社会との調和は、「個」が自覚的に自分と社会との関係を担っていくことによってもたらされます。従ってもし社会が個人に対して抑圧的であれば、個人はその社会の構造を変革することによって、新たな調和をもたらそうとするのです。しかし協働共生体としての原始共同体においては、自分の生存と共同体の存続が不可分一体に意識され(実際に両者はそのような関係として存在していました)、自分と共同体の利害が相反することは想定されなかったのです。自己意識がさらに成長して、自分を起点として利害を判断する明確な「個」が確立してくるためには、その後の時代において、個人と社会との美しい調和と一体性が解体していく悲劇と苦悩を人々が味わっていく必要があったのです。

(2)個人と共同体との一体化がもたらす特質
共同体と個人が無自覚的に一体であったことから、次の4つの特質を原始共同体社会にもたらすことになりました。1つは共同体の存続と個人の生存が同等に扱われたのですから、生産物の分配も、公正な基準のもとに行われる必要があったということです。量的には、供給と需要が均衡する生産量を自然の恵みから得ることが出来ていたので、定常状態では不足することは無かったでしょう。そのことはまた、原始共同体の中には階層構造が生まれかったことを意味します。もちろん部族を指揮するためのリーダーは居たでしょうけれども、それは相応に能力のある人物が都度選ばれたのであり、階層的に固定するようなことは無かったのです。

2つ目の特質は、共同体と個人が一体だという絶対的な信頼があったのですから、個人的な(最低限の必要物以外の)所有や備蓄の必要を感じなかったということです。自分一人で自分の生活を守る必要が無かったからです。自然の実りに生きる原始共同体の人々にとって、自然のそのものが備蓄庫であった訳ですから、自分たちで所有するよりも、むしろ自然の生態系循環の維持の方に人々の関心は向かっていったものと思われます。3つ目の特質は、共同体での意思決定は原則全員一致で行われたということです。(ギリシアのポリス世界のように、男は共同体全体のことを配慮し、女性は専ら家族と個人的な事柄を配慮するといったような、性的あるいは年齢階層的な役割分担はあったかもしれませんが)。全員が顔見知りの小規模な一次的人間関係の集団で、階層差が無く、しかも個人と共同体は同等であったわけですから、必然的に全員一致というような意思決定プロセスになっていったことでしょう。しかも同じような境遇で生活して価値観(部族の神話)も共有するのですから、そもそも大きな意見の隔たり(利害の衝突)は生じにくく、また構造変化に乏しい悠久の時間の流れる社会でしたから、意見を一致させるための十分な時間もあったことでしょう。

4つ目の特質は、現代のように個人が独自に自分の存在価値を見出す必要が無かったということです。個人と共同体が一体なのですから、世界の成り立ちや人間の存在理由(死後のあり方までをも含めて)は、共同体の神話によって確かに共有されて疑いようがありません。そして自分自身の存在価値も、共同体と同等のものとして全員に自動的に承認されていたのです。そこに自分の実存的な不安を生じる余地は無かったのです。

4.自分の満足ための活動
最後に原始共同体の人々は、自分のニーズや効用(満足)を充たすために活動していた、ということについて考えてみたいと思います。この時代の人々にとって、「個」(自己の価値と利害への配慮)の確立は未成熟でしたが、自己意識はありました。それ故に自分の必要や欲望を充たして、満足(効用)を得ることへの求めは確かにあり、この求めに対して素直に活動したのです。これは生物としてきわめて自然なことですが、個人と共同体が一体であった原始共同体の人々は、共同体の求めや要請との無意識的な調整のもとに、自分の必要や満足を充たすための活動を行っていったのです。

このことからまた原始共同体社会に3つほどの特質が見て取れるようになります。まず第1に、現代のように生産と労働が中心の社会では無く、自分にとっての効用を充たすために、様々な活動に時間を配分して従事していったということです。そのために、生活資材を生み出すための部族全体で連携した協働労働に充てる時間は、決して長いものではありませんでした。第2には前回にも説明したところですが、生産・労働のプロセスは苦痛では無く、むしろ自分の効用を充たす資材を生み出す活動でしたから、欲望を刺激し、非常に生産性の高いものであったということです。そして第3に共同体は、協働生産による産物を公正に配分するだけでなく、個人が様々な欲望や効用を享受できるために、その配分をも公正に行う機能も兼ね備えていたということです。

こうして人々は共同体において、性的な欲望や個人の嗜好的・享楽的な欲望から、ある種の美的装飾やダンスや歌など、自己価値を創造的に表現できる効用をも充たしていくことが出来たのです。その意味で原始共同体社会は、人々が不満を覚えて葛藤することが少なく、極力平穏に充たされて生きることを目指して社会を構成し、維持運営していったと言えるのです。尤もそのために、発展の原理には乏しかったと言えるかもしれませんが。

5.政治の本質
(1)政治のプロセス
以上のように原始共同体というのは、自然の実りとの均衡状態のもとで共同体の規模を維持し、共同体内の人々の生存と満足の求めを充たすために、極力恒常的な社会を実現することを目的としていたと言って良いでしょう。それではこの目的を充たすために、原始共同体の社会はどのようなルールを設定し、どのようなゲームを展開していたのでしょうか。

ここで経済のシステムが、生産と分配と消費の3つのプロセスから構成されていたように、政治のシステムについてもそのプロセスを考え、原理を整理してみたいと思います。政治のシステムは、その社会の目的に沿って、ルールを設定・改変するプロセスと、そのルールに基づいて目的を実現するためのゲームを展開するプロセスと、そしてルールを守らせ社会を維持するためのプロセスに分かれます。ルールを守らせるためには強制力が必要ですが、じつはルールをつくるにしても、ゲームを展開するにしても、皆がその手続きに従うためには合意に基づく強制力が必要となってきます。その意味では政治のプロセスというのは、その社会の構成員の合意に基づく強制力によって、初めて可能となるものであり、またこの強制力が無ければ、社会は成立しないとも言えるのです。

(2)原始共同体の政治を考えるために
この全員の明示的あるいは黙示的合意により委託された強制力のことを、権力と言い、それは実力(武力)を背景として人々に強いる力のことです。そしてまた、自発的あるいは無意識的に服従させる力については、これを権威と称するようになったのです。このように政治というのは、権力(強制力)を背景に、何らかのルールを定め、ルールに基づきゲームを展開し、またルールを守らせるプロセスを経て、その社会の目的を実現することを本質とするシステムなのです。その意味では政治のシステムが作動する時には、それはもはや単なる力の強弱の関係による、全く恣意的な支配被支配の関係からは一線を画する秩序をもった状況が生じてくることになるのです。

政治のシステムが本格的に稼働するためには、この後農耕牧畜社会に移行して、国家が出現するのを待たなければなりません。しかし狩猟採取の原始共同体社会においても、政治の各プロセスが機能していなかった訳ではありません。その詳細を次回に見ていきながら、現在に至るまでのその後の社会の政治のシステムとの相違についても考えていってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、8月21日月曜日の18時から行います。場所は渋谷区本町の本町ホームシアターを会場と致します。また8月28日の月曜日は、月末ですのでホームシアターサ-クルの活動を実施します。課題映画は私どもフィルム・クレッセントの製作映画で、山口巧監督の「ちぎれ雲~いつか老人介護」(1999年)を予定しています。お時間許す方はご参加下さい。

P.S. 現在パンセ通信は、No.146まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

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