ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.14 - 『想定外と日本人の自然観の変容』

Jan 11 - 2015

■2015年1月11日パンセ通信No.14 - 『想定外と日本人の自然観の変容』

皆 様 へ

仕事始めからはや1週間、そろそろ正月気分が許されなくなってくる頃ですね。頑張る人にも、そうでない人にも、今年も本格的に“日常”が始まります。

パンセの集いも、いつも通り1月13日の火曜日16時から、表参道のフィルムクレッセントで行います。特に何の役に立つこともない集いですが、伝統宗教に残された先人たちの智慧とわざから、ぼんやり自分自身を内観し、見落としているものに気づき、そのうち自分自身を支える術(すべ)にたどり着ければと、普段用いない脳神経を使って、のびやかに模索を楽しんでおります。

さて、前回は日本の自然の特質から、自然に翻弄されながらも、自然と共に生きてきた私たち日本人の自然観を見てきました。荒ぶる自然の災害によって、強制的にそれまでの生活と生き方を奪われ、しかしその一方で、穏やかな自然の恵みに抱かれて、途方に暮れる災害の荒廃の中から、新たな生き直しの復興を始めていく。

しかしこの日本人の自然観が、私のようなキリスト者にとっては難物で、キリスト教の信仰の核である“主イエス・キリストの十字架と復活”の理解を妨げるものとなってきました。
大仏次郎さんの天皇の世紀の中でも、いのちへの配慮に基づいたみごとな隠れキリスタンの信仰が紹介されているのですが、結局彼らも、マリア観音に仮託した信仰、祖先崇拝、葬儀による死の宗教的処理はあっても、“主イエス・キリストの十字架と復活”の信仰は、うまく受け継いでこなかったようです。

では、“主イエス・キリストの十字架と復活”とは何か。それは、自分自身の救いである神を、自分のねたみや鬱積や利害得失から、自分の手で十字架につけて殺してしまったということです。自分の救い・望みを、自らの手で葬り去ってしまうという究極のニヒリズム。
キリスト教が十字架をシンボルとするのは、この自分の生き方の愚かさに気づいて、痛切に悔い改めを行い、これまでの自分をリセットするための(人為的な)装置とするためです。そして金でも地位でも名誉でもない、一番大切ないのちの価値から、主イエス・キリストを通じてその罪を赦され、また支えらえれて、新たな生き直しの歩みを始めていく、それが“復活”です。

こうした生き方のリセットは、個人でも集団でも人間にとっては必要なことで、これをしなければやがて行き詰って、滅びへとつながっていきます。

日本の場合、このリセットと再生が、荒ぶる自然(荒魂・あらたま)と和みの自然(和魂・にぎたま)によって、一定のサイクルで外からの自然のメカニズムとしてもたらされたために、主体的な悔い改めの装置としての“主イエス・キリストの十字架と復活”の仕組みは、改まって受け入れる必要が無かったのだと思います。
でもそのために、先の敗戦によって国土が焦土と化し、膨大な人命が奪われたことに対しても、一種の“自然災害”とみなしてしまうきらいもあるのですけれども。

ところが、ここ最近になって厄介なことは、この日本人の自然観が、少し変調をきたし始めているのではないかと思われることです。3.11東北大震災以降、原発事故の対応とも相まって、“想定外”という言葉が、頻繁に用いられるようになりました。
不思議な言葉です。もともと自然の猛威は、想定できるようなものなどではありません。だからこそ私たちの先人たちは、自然に対して謙虚に畏怖と尊崇の念を抱き、自然の禍を、人智を越えた警鐘として受け取って反省し、都度生き直しを図り続け、この国をつくり直し続けてきたのです。

でも“想定外”という言葉には、基本的にはすべてのことを想定できる、自分の手の中で自在に操ることが出来るという尊大な思いが、暗黙の前提におかれているのではないかと思われます。本来はすべて“想定”できるのだけれども、たまたま今回の災害は例外だった! そしてこの想定外という言葉が、最近の頻発する自然災害に対して、私たちの抱く思いを結構うまく言い当てた言葉として、違和感なく受け入れられているように感じます。しかしもしそうだとしたなら、災害を通じた自然界からの警鐘があっても、そして私たちが強制的に茫然自失の過酷な状況に追い込まれたとしても、もはやそうした事態でさえも、何%かの確率でたまたま生じる例外的事項に過ぎず、もともとの“想定”を根本的に問い直し、新たな価値からの再生を果たすことには、至らなくなってしまうのではないでしょうか。
そして、同じ過ちを繰り返す。

原発事故への対応などを見ていると、これまでの日本の自然観に支えられた再生の仕組みは、どうも私たちの中で揺らぎ始めているのではないかという疑いが、込み上げてきます。仕方のないことかもしれません。科学が発達して、日本人も自然を“支配”できるようになったのですから。

でももしそうだとしたら、西欧のように“主イエス・キリストの十字架と復活”といった、自分の存在を懸けた罪との決死の格闘による、厳しい主体的なリセットの仕組みにはなじまず、一方で自然による再生の術をも失った私たち日本人は、いったいどこへ流れて行ってしまうのでしょうか。

高野山真言宗の宗務総長を務めておられる添田隆昭さんが、その著書の中で、次のように語っていらっしゃいます。
「仏教はついに日本人に、輪廻転生自業自得の観念を植え付けることが出来なかった。私たちは心底では地獄の存在を信じていない。だから、この世の因果があの世で罰せられるという自制心も持てなくなる。そうなると気にしているのは、神様でも自業自得でもなく、『世間』であり、『他人の目』だけということになってしまう。」

確かに私たちの道徳基準は、“神様・仏様”や“主体である個人の確信”というよりも、世間の評価や他人の目です。だから他人から指弾されることのないよう、空気を読んで、風潮にあわせて行動することを、過敏なまでに意識してしまいます。
しかしその『世間』という道徳基準の漂流を押し止めていたのが、自然への畏怖と、災害からの警鐘による強制的な生き方のリセットと再生でした。

ところがもはや、私たちは自然をも想定できるものとし、それに対する畏怖の念をも失ってしまったとしたなら、残るのはただ、世間の目を道徳基準とする漂流だけということになってしまうのではないでしょうか。
その結果、戦前の社会のように世間から『非国民』と呼ばれるのが恐ろしくて、誰も歯止めがかけられなくなり、とうとう“敗戦”という破滅にまで押し流されていってしまう。あるいは、現代のいじめのように、自分の思いとは別にいじめに加担せざるを得なくなり、被害者であり加害者となる地獄絵図に生きるようになる。そしてこうして陥った悲惨な事態にも、いったい誰がその責任の主体なのか、なぜそうなったのか、わからないままに、大きな傷跡だけを残して、事態が過ぎ去っていってしまうということになりかねません。

このように現代の私たちが、再び『世間』という責任主体の曖昧な空気に押し流されて、破滅へと歩んでいく危険の淵にあるのは、確かなことではないでしょうか。
とまあ、こうしたロジックで考えてくると、少々深刻ぶった結論に至ってしまいます。
でもまあその一方で、私たちの頭のおバカさ加減とは別に、私たちの“身体”に焼き付けられた、経験の“記憶”が蓄積されていることも、もっと確かな事実でしょう。
長い年月にわたって、先人たちが記憶に刻み付けてきた自然への畏怖の念も、敗戦とその痛烈な反省も、阪神淡路と東北の大震災の経験も、そして最近のいじめの体験も、“共通の記憶”としてしっかりと刻印されて、その経験を私たちは受け継いでいます。

こうして私たち自身が、そして先人たちが、傷つき倒れながらも体験の中から見出し、受け継ぎ受け渡してきた叡知の集積が、私たちの中に“経験”として息づいているとしたなら、この“経験”を経る前の過去と現在とでは、私たちは異なります。私たちがこの自分の中に集積された“経験”の叡知にしっかりと向き合い、そこから響いてくる心底からの自分たちの“求め”に、素直に耳を澄ますなら、私たちが再び自然を畏怖にしながらも一方で、『世間』に押し流されることなく確かな“主体”としての支え・判断の核を見い出して、“再生”していく仕組みをつくっていくことも、そろそろ出来るようになってくるのかもしれません。

そしてその確かな“支え”から、これからの1人1人の生き方と、新しい社会の仕組みをつくっていく。

とまあちょっと筆がすべって大げさなことを書きましたが、そんなことなんかも頭のどこか片隅において、それぞれ自身の“経験”に聞いていきながら、次のパンセの集いを行っていければと思います。

お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。

P.S. 1月12日夜7時からテレビ朝日『ぶっちゃけ寺ゴールデン3時間SP』に、 尼僧の芳賀妙純先生が出演なさいます。あまり発言の機会が持てず、悔しがって おられましたが、お時間許す方は、ご視聴のうえ、今後の先生のご活躍をご期待下さい。(応援もお願いします!)