■2017.9.16パンセ通信No.154『 日本の歴史サイクル-今私たちはどんな時代に生きているのか』
皆 様 へ
1.システム化技術で遅れる日本
(1)第4次産業革命に取り残される日本
中国をも含めた世界の主要国が、ガソリン車を廃止してEV(電気自動車)自動車を中心とするNEV(新エネルギー車、自動運転車も含めた)に自動車産業の軸足を移す政策を明確にしてきました。エネルギー産業も、分散供給が主軸となる持続可能な自然循環エネルギーへの投資が主流となり、原発にこだわ拘り続けるのは日本ぐらいものとなってきました。最終製品やサービスの分野を見ても、今まさに急速な構造転換を遂げつつある自動車産業以外に、日本企業に見るべきものは無く、日本初のイノベーションも皆無に等しい状況です。もちろん個別の要素技術がものを言う部品産業の分野では、日本の競争力は今のところは失われていないようです。しかし豪華客船の製造断念やMRJ(三菱航空機の小型旅客機)の大幅な納期遅れに象徴されるように、膨大な要素技術を組み合わせて高度に複雑な製品を生み出そうとする時に必要となる、全体のプロセスをシステム的に構築するためのシステム技術の分野においては、日本は世界の後塵を拝していることに疑いを得ません。
世界は今、農業革命、工業革命を経て、20世紀後半から始まった情報革命(第3次産業革命)がもう一段進化し、IT(情報技術)からさらにIoT(あらゆるモノとインターネットとの接続)やAI(人工知能)技術をベースとした第4次産業革命(システム化革命)による産業構造の大転換の途上にあります。この産業大転換を牽引するのは、AGFA(Apple、Google、Facebook、Amazon)を擁するアメリカのグローバルIT産業ですが、ドイツでもインダストリー4.0を国家プロジェクトとし、中国でも強力な国家イニシアチブのもとで、戦略的なシステム化革命(第4次産業革命)の推進が行われています。未だ国家においても企業においても、この産業構造の大転換への取り組みが戦略化されていない日本は、かつて第二次産業革命(工業革命)に追随し得ずに重商主義しか理解し得なかったスペインやポルトガルのように、もはやこの転換のうねりに取り残されてしまった感があります。
(2)不安から希望へ
こうした状況に対して私たちは、なすすべ術無く現状から目を背け、思考停止して問題の先送りを続けるものですから、目先の政策に右往左往するだけで、得体の定まらぬ不安が心の底を占めるという日々を送ってしまっているようです。どうしてこんな状況になってしまったのでしょうか。どうすればここから新しい希望をはっきりと打ち出していくことが出来るのでしょうか。そのためのビジョンと変革のプロセスを、誰もが共通了解して日常生活から歩みだしていけるように、人間と社会と自然、そしてその関係性について本質から原理的に考えていく取り組みを、パンセ通信では続けていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、9月18日の月曜日が敬老の日の休日にあたるためにお休みとします。その次の9月25日の月曜日は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は 小津安二郎監督の『小早川家の秋』です。小津映画の特質と戦後の世相を、小津監督の晩年の作品から考えていければと思っています。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.周回遅れのメリット
(1)戦後日本の経済発展の背景
さて冒頭に、今日本が世界から取り残されつつある現状について指摘しましたが、実はこうした事態も、長い歴史の展開からみれば、必ずしも悪いことばかりでは無いのかもしれません。この国が世界の潮流から取り残され始めたのは、1980年代、新自由主義がアメリカとイギリスを中心に台頭し始めた頃からです。そしてそれはそれで、道理があることだったのです。日本が世界経済の中で黄金期を迎えたのは、エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版されたのが1979年だったことでも分かるように、1970年代までのことです。それは欧米先進国をモデルに、日本が高度経済成長を成し遂げていった時代と重なります。
その背景には、戦前の軍国主義・国家主義の深い反省から、国民が無意識の内に、本当に国を強くするとはどういうことか、豊かにするとはどういうことかを問い直したことがあります。そして国民の生活水準の向上による豊かな国づくりという、暗黙の共通目標を分かち持つようになっていたことがあるのです。この万民の幸せにつながる確かな希望のもとで、自分たちの活動がこの大きな(普遍的な、全体の)希望の実現と結びついてその一助を成すとの確かな展望が持てたからこそ、それまでに受容した欧米先進国からの技術を用いて、産業の重化学工業化からさらに機械・電機産業の隆盛を図り、徹底した品質管理に基づく生産システムの高度化を達成するという、他国が真似の出来なかった壮大な国家デザインを、私たちの先輩たちは描くことが出来たのです。またそれぞれの産業分野で、見事なシステム思考を展開してその構想を実現していくことが出来たのです。(日本人はけっしてシステム化思考が苦手な訳では無いのです。それではいったいどういう条件の整った時に、私たちは次の時代の社会デザインを描き、社会の構造転換を促せるほどのシステム思考を発揮することが出来るのでしょうか?)
(2)新自由主義への対応の苦慮
しかしオイルショック(産油国からの格差是正に向けての巻き返し)を契機に先進国が直面することになるスタグレーション(インフレと不況の同時進行)への対策として、サプライサイドやマネタリズムの経済政策が登場してくると、様相は一変してきます。さらに経済政策を越えて、新自由主義というイデオロギーが台頭してくると、日本人はもはや何が起こっているのか分からず、深い戸惑いの淵をさまようことになってしまったのです。(新自由主義が登場してきた背景とその内容、問題点については、パンセ通信No.130
『パンセ通信』のサイト、http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/category/4
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1.システム化技術で遅れる日本
(1)第4次産業革命に取り残される日本
中国をも含めた世界の主要国が、ガソリン車を廃止してEV(電気自動車)自動車を中心とするNEV(新エネルギー車、自動運転車も含めた)に自動車産業の軸足を移す政策を明確にしてきました。エネルギー産業も、分散供給が主軸となる持続可能な自然循環エネルギーへの投資が主流となり、原発にこだわ拘り続けるのは日本ぐらいものとなってきました。最終製品やサービスの分野を見ても、今まさに急速な構造転換を遂げつつある自動車産業以外に、日本企業に見るべきものは無く、日本初のイノベーションも皆無に等しい状況です。もちろん個別の要素技術がものを言う部品産業の分野では、日本の競争力は今のところは失われていないようです。しかし豪華客船の製造断念やMRJ(三菱航空機の小型旅客機)の大幅な納期遅れに象徴されるように、膨大な要素技術を組み合わせて高度に複雑な製品を生み出そうとする時に必要となる、全体のプロセスをシステム的に構築するためのシステム技術の分野においては、日本は世界の後塵を拝していることに疑いを得ません。
世界は今、農業革命、工業革命を経て、20世紀後半から始まった情報革命(第3次産業革命)がもう一段進化し、IT(情報技術)からさらにIoT(あらゆるモノとインターネットとの接続)やAI(人工知能)技術をベースとした第4次産業革命(システム化革命)による産業構造の大転換の途上にあります。この産業大転換を牽引するのは、AGFA(Apple、Google、Facebook、Amazon)を擁するアメリカのグローバルIT産業ですが、ドイツでもインダストリー4.0を国家プロジェクトとし、中国でも強力な国家イニシアチブのもとで、戦略的なシステム化革命(第4次産業革命)の推進が行われています。未だ国家においても企業においても、この産業構造の大転換への取り組みが戦略化されていない日本は、かつて第二次産業革命(工業革命)に追随し得ずに重商主義しか理解し得なかったスペインやポルトガルのように、もはやこの転換のうねりに取り残されてしまった感があります。
(2)不安から希望へ
こうした状況に対して私たちは、なすすべ術無く現状から目を背け、思考停止して問題の先送りを続けるものですから、目先の政策に右往左往するだけで、得体の定まらぬ不安が心の底を占めるという日々を送ってしまっているようです。どうしてこんな状況になってしまったのでしょうか。どうすればここから新しい希望をはっきりと打ち出していくことが出来るのでしょうか。そのためのビジョンと変革のプロセスを、誰もが共通了解して日常生活から歩みだしていけるように、人間と社会と自然、そしてその関係性について本質から原理的に考えていく取り組みを、パンセ通信では続けていきたいと思います。
なお次回のパンセの集いの勉強会は、9月18日の月曜日が敬老の日の休日にあたるためにお休みとします。その次の9月25日の月曜日は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しております。課題映画は 小津安二郎監督の『小早川家の秋』です。小津映画の特質と戦後の世相を、小津監督の晩年の作品から考えていければと思っています。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。
2.周回遅れのメリット
(1)戦後日本の経済発展の背景
さて冒頭に、今日本が世界から取り残されつつある現状について指摘しましたが、実はこうした事態も、長い歴史の展開からみれば、必ずしも悪いことばかりでは無いのかもしれません。この国が世界の潮流から取り残され始めたのは、1980年代、新自由主義がアメリカとイギリスを中心に台頭し始めた頃からです。そしてそれはそれで、道理があることだったのです。日本が世界経済の中で黄金期を迎えたのは、エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版されたのが1979年だったことでも分かるように、1970年代までのことです。それは欧米先進国をモデルに、日本が高度経済成長を成し遂げていった時代と重なります。
その背景には、戦前の軍国主義・国家主義の深い反省から、国民が無意識の内に、本当に国を強くするとはどういうことか、豊かにするとはどういうことかを問い直したことがあります。そして国民の生活水準の向上による豊かな国づくりという、暗黙の共通目標を分かち持つようになっていたことがあるのです。この万民の幸せにつながる確かな希望のもとで、自分たちの活動がこの大きな(普遍的な、全体の)希望の実現と結びついてその一助を成すとの確かな展望が持てたからこそ、それまでに受容した欧米先進国からの技術を用いて、産業の重化学工業化からさらに機械・電機産業の隆盛を図り、徹底した品質管理に基づく生産システムの高度化を達成するという、他国が真似の出来なかった壮大な国家デザインを、私たちの先輩たちは描くことが出来たのです。またそれぞれの産業分野で、見事なシステム思考を展開してその構想を実現していくことが出来たのです。(日本人はけっしてシステム化思考が苦手な訳では無いのです。それではいったいどういう条件の整った時に、私たちは次の時代の社会デザインを描き、社会の構造転換を促せるほどのシステム思考を発揮することが出来るのでしょうか?)
(2)新自由主義への対応の苦慮
しかしオイルショック(産油国からの格差是正に向けての巻き返し)を契機に先進国が直面することになるスタグレーション(インフレと不況の同時進行)への対策として、サプライサイドやマネタリズムの経済政策が登場してくると、様相は一変してきます。さらに経済政策を越えて、新自由主義というイデオロギーが台頭してくると、日本人はもはや何が起こっているのか分からず、深い戸惑いの淵をさまようことになってしまったのです。(新自由主義が登場してきた背景とその内容、問題点については、パンセ通信No.130
『サッチャリズムとレーガノミクスの登場と政治ゲームの変質』
http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/136を参照)
その後21世紀に入って小泉政権や安倍政権下で、日本も遅ればせながら新自由主義的な政治・経済政策が採られるようになりました。しかし国の豊かさの実現という意味では、国民全体の生活向上と一体となった経済成長期に比ぶるべくもなく、少子高齢化や膨大な財政赤字問題の深刻化など、国民が将来への希望を描けずに、不安のみを高める状況が続くこととなりました。案の定現在に至るその結果は、企業の内部留保は400兆円に近づくほどまでに増えたのですが、その分庶民の可処分所得と国の財政赤字が拡大し、そのために内需が拡大しないものですから企業自身も成長に苦慮し、国民の活力と需要が落ち込むことからイノベーションも起こりにく難い状況が続くこととなってしまったのです。
(3)システム化思考を発揮できる条件
こうした状況になることを本能的に直感していたからこそ、この国の国民は、新自由主義に熱を上げることが出来なかったのでしょう。私たちが優れてシステム化思考(全体をふかん俯瞰して、目的実現のために各部分を最適に連携させて戦略的に対処を行えるための思考)を発揮できるのは、国民全体にとっての真に利益になる政策が推進され、その一環として自分の役割が担える時です。自分の生活の向上や幸せと、全体の向上とがはっきりと結びついて理解される時のみなのです。
新自由主義というのは、企業の競争力を強化し、有能で生産性の高い金持ちがインセンティブを高めることで利益を増やし、その利益をその他の国民に還元する(トリクルダウン)ことで、全体の豊かさを高める政策です。しかし企業がいくら競争力を増して利益を増やし、金持ちがさらに能力と生産性を高めて裕福さを増しても、ただそれだけでは国全体が豊かにならないことを、この国の国民は当初より直感しており、それが世界の潮流に対する戸惑いとなったのです。ある意味で、自分の利益と全体の利益を切り分けて、ドライに自分の利益だけを求めて先進技術を活用し、システム思考を発揮できる欧米(特に米英)のエリート層の方が、よほど人間の自然な求めからは反していると言った方が良いのかもしれません。
3.海外からのインパクトで始まる歴史サイクル
(1)日本の歴史周期
ところで日本の歴史の流れを追っていくと、1つの大きなうねりがあって、それに基づいた変化が周期的にやってきていることが分かります。そのうねり(サイクル)とは、まず海外からの先進的な文化や技術のインパクトを受け、それを消化して自国文化と融合させ、そして国の形態を構造転換して新たなオリジナル文化を開花させていくというサイクルです。日本はユーラシア大陸の東の果てに浮かぶ隔絶された島国のように思われますが、決してそんなことはありません。太古からグローバルな人と文化とモノとの交流の中で、この国はその歴史を刻んできているのです。
記録に残るその最初は、紀元前の弥生時代の始めの頃だったと思われます。それまで私たちの先人たちは、森の豊かな恵みを中心に、自然の生態系循環を高度に活用して狩猟採取を営む縄文文化を発達させて生きていました。そのころの日本の平野部は湿地帯で、一面にあし葦やすすき薄が生い茂っていたことでしょう。そこに恐らく大陸から朝鮮半島を経て(あるいは対馬暖流に乗って中国から直接か、南西諸島ルートで)稲作が伝わり、それに伴う技術と文化と人が流入してきたのです。この新しい技術と文化の流入と、その受容期間を経て、やがて『豊葦原瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)』という古事記に現れる日本の国を現わす古い呼称が用いられるようになったのです。一見日本を美しく称える美称に過ぎないように思われるのですが、実はこれは見事なスローガン(キャッチコピー)で、私たちの先人たちのすさまじいまでの構想力が表されているのです。
(2)稲作文化の受容と構造転換
それは一面のあしはら葦原であったこの国の低湿地帯を、あたり一帯稲穂たなびく豊かな水田に変えていこうという壮大なビジョンです。そして実際に新たな稲作の技術と文化を取り入れ、恐らく数百年の時間を要しながら、葦原の湿地帯を何万平方キロメートルにわた亘って実り豊かな水田へと変えていったのです。同時に生産様式や生活様式も、森や台地に生きて豊かな自然の恵みを活用する狩猟採取から、平地部に住んで農耕を行うものへと大きく転換していったのです。
こうした壮大な国家デザインとシステム思考を駆使して文明の構造転換を果たして行くことが出来たのは、個別の階層や個人の利益ではなく、日本に住むすべての民の生存と福利への思いが動機としてあったからです。縄文文化は、現代文明も真似の出来ないほどの高度な生態系循環を活用した持続可能社会であったのですが、その後期には気候の寒冷化が始まり、人口が急減する危機に見舞われていました。この危機を回避して万人の安寧に資するために稲作という新たな生産技術を用いようとしたからこそ、次世代の国家ビジョンを描き、その実現のためのシステム思考を発揮することが出来たのです。この構造転換の結果、日本列島の人口は縄文時代の20万人足らずから100万人台へと急増し、やがて大和政権を中心とした日本独自の古墳時代へと社会は移行していったのです。(魏志倭人伝に見られる邪馬台国の時代の倭国大乱から、古墳時代までの期間は、約150年程度と推測されます。)
4.古代から近世に至る歴史サイクル
(1)律令・平安時代の社会への転換
2番目の海外からの文化・技術の受容のサイクルが始まるのは、それから約300年の時を経た6世紀末から7世紀にかけてです。中国大陸では長い戦乱の時期を経て、強大な隋・唐統一帝国が成立してきます。そしてこうした大陸の超大国の圧力もあって、朝鮮半島ではまず任那日本府が滅び、日本と友好関係にあった百済が唐と組んだ新羅に滅ぼされ、百済救援に向かった日本軍も白村江で大敗を喫することになるのです。つまりこの時代は、大陸からの侵略の脅威があり、日本は国家(民族)存亡の危機にさら晒されていたのです。この危機に対処するために、大宰府を始めとする九州北部から畿内に至る防衛網が築かれることになるのですが、その一方で私たちの先人たちは、遣隋使・遣唐使を派遣し積極的に大陸の進んだ文化・技術・制度を取り入れる努力を行うのです。また朝鮮半島を経由して仏教を受容し、仏教思想や文化と一体となった先進技術や人材も受け入れていくことになるのです。
こうしてこの時代の日本は、国家存亡の危機を契機に大陸からの新しい文化・技術を受容し、大化の改新や壬申の乱などの混乱を経る中で、新たな社会ビジョンを練り鍛えていきました。そして8世紀の平城京・平安京に至る律令制と仏教思想に基づく新しい経済・政治体制へと構造転換を果たし、日本独自の平安文化を開花させていったのです。こうして新しい外来文化と制度をそしゃく咀嚼して、日本固有の文化と制度に昇華させて新しい社会デザイン構想していくために、150年ほどの期間を要していたのです。
この時にも、律令制と仏教を基盤とする社会構造の転換という壮大なビジョンが構想され実行に移されていくのですが、それが出来た背景には、大陸からの脅威に備えて中央集権的な統一国家を形成し、それによって先進国家を生み出すことによって国内の物流なども促進し、国と民の豊かさを向上させようという思いがあったからです。こうしてこの時も、国家デザインとシステム思考による社会の構造転換が果たされていくのですが、そのモチベーションとなったのは、全体の豊かさと福祉の向上への強い思いであったのです。そしてこの構造転換により、日本の人口も数百万人台へと上昇していくことになるのです。
(2)武家社会(封建性)への転換
次いで3番目に海外からの文化・技術の受容が始まるのが、それから300年ほどの時を経た12世紀の初め頃からです。中国大陸では金・元と続く、漢民族とは異なる満州族やモンゴル民族による勢力が北方に台頭し、中国はその脅威に晒されることになるのです。一方華北から逃れてきた人々の流入もあって、華中・華南では経済・文化の発展が遂げられていきます。こうした経済・文化の隆盛が日本にも波及して、9世紀末に遣唐使が停止されて以来の日宋(南宋)貿易が活発化していきます。この交易に目をつけて勢力を拡大していったのが平清盛を始めとする武士階層で、こうした武士階層はやがて、在地領主として領地経営をも熱心に行うようになり、律令制のもとになる荘園制を解体していくことになるのです。
こうして南宋の豊かな経済と文化の影響を受け、またその後の元による脅威(元寇)への対応もあって、日本では貴族から武士がリーダーとなる封建制社会のビジョンが構想され、またその実現のための社会構造転換が推進されていったのです。これによって、領主が在住してきめ細かな領地経営を行うことによる生産性の向上が図られ、また日宋貿易による交易の発展と、もたらされた宋銭による貨幣経済の進展により、商業流通経済の発展が遂げられていったのです。さらに南宋からもたらされた美術工芸品やあらたな仏教思想が、浄土・法華・禅などの鎌倉新仏教の勃興をもたらし、また日本の伝統文化の礎となる室町文化をも発展させていく源流となっていったのです。
この時の南宋の豊かな経済・文化に触れたインパクトから、貴族社会から武家社会(封建社会)への構造転換を図るという新たな国家ビジョンを描き、システム思考により実際に社会の転換が成し遂げられていった背景にあるモチベーションは、丹念な領地経営による生産性の向上と、貨幣商業経済・流通交易の促進による国と民全体の豊かさの向上という理念であったのです。この後鎌倉・室町期を通じて、日本の人口は1000万人台にまで増大していくことになります。そしてまた日宋交易が始まって以来、平安末期の末法思想の流布する混乱や源平の争乱を経て、新たな武家社会の実現としての鎌倉幕府の基盤が確立するまで、やはり150年ほどの期間を要することになるのです。
(3)徳川時代への転換
それからまた300年ほどの武家文化・室町文化という日本化された文化の爛熟機を経て、4番目に海外からの文化・技術のインパクトの波が押し寄せてくるのは、16世紀の中頃、鉄砲やキリスト教の伝来に始まる南蛮貿易の時代です。その前兆となるのは15世紀から始まる日明貿易と民間の倭寇による交易網の拡大です。この交易網が、当初スペイン・ポルトガル(後にオランダ・イギリス)により主導された大航海時代のグローバル交易ネットワ-クと結びつき、ルネッサンスを経て科学的思考のもとで発達した、ヨーロッパの最先端の実用技術と学術・文化が日本に流入してきたのです。
この西欧実用技術と南蛮交易による巨額の利益は、当時領国をもとに群雄割拠する戦国大名による覇権闘争を促進させ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による全国統一へと至らせることになるのです。また国内産業と流通網をグローバル交易網と結びつけることで、産業・商業の隆盛へと導くことにもなっていったのです。加えて進んだ西欧の技術をもとに、治水灌漑等のインフラ投資や新田開発も進展し、経済の主軸である農業部門の生産性も大幅に向上していくことになったのです。 こうしてやはりまた150年ほどの激動の海外技術・文化の受容期を経て、私たちの先人たちは、江戸時代という人類史上においても画期的な社会デザインを構想し、システム思考をフル稼働させてその社会を実現していったのです。そこで構想されたのは、南蛮交易と国内に発達した産業・商業の水準を十分に活用しながら、海外貿易の窓口を長崎に集中して貿易管理を徹底させ、海外からの国内産業への影響を最小限に留める中で、国内だけで自立した持続可能な完全循環社会を実現させていくことだったのです。その背景にあったのは、戦国動乱を経た後の安定社会への希求であり、民百姓のすべてが平和に、また飢えることなく暮らせるようにという全体の福祉を求めてのモチベーションだったのです。そして私たち先人たちは、この構想についても見事にシステム思考を発揮して実現し、江戸時代の日本の人口は3,000万人までにも増えることになったのです。
5.新しく社会デザインを描く時期
(1)幕末・明治維新期のインパクト
それから世界史にもまれ稀に見る太平の江戸時代が、およそ300年間続いた後、5番目で最も直近の海外からの技術・学術・文化によるインパクトとして、日本は幕末・明治維新を経験することになるのです。その契機は帝国主義的植民地政策を遂行する欧米列強諸国のアジア進出であり、やはりこの時日本は、国家と民族の存亡の危機に立たされることになったのです。そして私たちの先人たちは、懸命に西欧の先進文明を受容して消化し、欧米先進諸国に必死で追いつこうとしていったのです。
その結果当初の100年は、産業革命と工業化による富国強兵政策を推進し、西欧列強のごとく帝国主義的政策を推進し、隣国との戦争に明け暮れることになりました。そしてついに第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けるに至るのですが、その後は高度経済成長に表される裕民富国政策を推進し、産業構造の高度化を達成することで、1億人を超えるまでの人々が高い生活水準で暮らせるまでになったのです。
(2)現在の私たちの立ち位置
さて以上のように日本の歴史を辿ってみると、周期的に海外からの技術と文化の流入のインパクトに晒されることを契機として危機が深化することに始まり、次にその技術と文化を受容して自国文化と融合させていく時期があって、その期間はおよそ150年を要しています。次いでこの受容期の間の必死の模索の中で、次第にオリジナルで壮大な独自の社会構想が煮詰められながら描き出されて共有されていき、システム思考を発揮してそのビジョンを実現していくための社会構造の転換が図られていくのです。そしてこの構造展開によって生み出された新しい社会体制は、約300年間続くことになるのです。日本の歴史はこのサイクルを繰り返しています。また新たな社会デザインとシステム思考を発揮した構造転換が可能となるためには、条件として必ず個的な利益のみならず全体の福利と利益、つまり普遍的利益(個と普遍利益との一体的実現)の実現が、モチベーションとして意識されることが必要となってくるのです。
このように整理してくると現在私たちは、この国の歴史が辿れる範囲で5回目の海外からの技術・文化のインパクトを受けたことに始まるサイクルの過程の中にあり、そのインパクトのあった幕末・明治維新期から約150年の時を経た地点にあることが分かってきます。そして恐らく日本が、重化学工業から機械・電機産業の発展を軸に国民の生活水準の高度化を成し遂げた1980年頃には、幕末から続く欧米列強からの技術・文化・学術の受容期は、終わりを迎える時期に差し掛かっていたのです。そして今私たちの歴史の流れは、もはや軽薄な新自由主義などに翻弄されることなく、新たな普遍福祉と普遍利益(もちろん個的利益と融合させた)をモチベーションとして、新たな日本発のオリジナルな社会デザインの構想をビジョン化し、それをシステム思考の駆使によって実際に構造転換していく地点に差し掛かっているのです。国民すべての福祉を求めるモチベーションが無ければ、システム化技術をもとにした第4次産業革命も、人間の幸福を増進させることにつながらず、目的を違えた用い方をされるがために、結局やがては発展の動力の地位を失っていくことになるのです。
このように私たちは、日本の歴史サイクルの中での現在の立ち位置を意識しつつ、パンセ通信においてこれからの社会デザイン、人生デザインを描く作業を続けていってみたいと思います。そして第4次産業革命をそのための手段として、有効に活用して急速に発展させていく道筋についても模索していってみたいと思います。なお次回のパンセの集いの勉強会は、9月18日の月曜日が敬老の日の休日にあたるためにお休みとし、9月25日の月曜日に行います。9月25日は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定し、課題映画は小津安二郎監督の『小早川家の秋』と致します。小津映画の特質と戦後の世相を、小津監督の晩年の作品から考えていければと思っています。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.153まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
『パンセ・ドゥ・高野山』トップページhttp://www.pensee-du-koyasan.com/(3)システム化思考を発揮できる条件
こうした状況になることを本能的に直感していたからこそ、この国の国民は、新自由主義に熱を上げることが出来なかったのでしょう。私たちが優れてシステム化思考(全体をふかん俯瞰して、目的実現のために各部分を最適に連携させて戦略的に対処を行えるための思考)を発揮できるのは、国民全体にとっての真に利益になる政策が推進され、その一環として自分の役割が担える時です。自分の生活の向上や幸せと、全体の向上とがはっきりと結びついて理解される時のみなのです。
新自由主義というのは、企業の競争力を強化し、有能で生産性の高い金持ちがインセンティブを高めることで利益を増やし、その利益をその他の国民に還元する(トリクルダウン)ことで、全体の豊かさを高める政策です。しかし企業がいくら競争力を増して利益を増やし、金持ちがさらに能力と生産性を高めて裕福さを増しても、ただそれだけでは国全体が豊かにならないことを、この国の国民は当初より直感しており、それが世界の潮流に対する戸惑いとなったのです。ある意味で、自分の利益と全体の利益を切り分けて、ドライに自分の利益だけを求めて先進技術を活用し、システム思考を発揮できる欧米(特に米英)のエリート層の方が、よほど人間の自然な求めからは反していると言った方が良いのかもしれません。
3.海外からのインパクトで始まる歴史サイクル
(1)日本の歴史周期
ところで日本の歴史の流れを追っていくと、1つの大きなうねりがあって、それに基づいた変化が周期的にやってきていることが分かります。そのうねり(サイクル)とは、まず海外からの先進的な文化や技術のインパクトを受け、それを消化して自国文化と融合させ、そして国の形態を構造転換して新たなオリジナル文化を開花させていくというサイクルです。日本はユーラシア大陸の東の果てに浮かぶ隔絶された島国のように思われますが、決してそんなことはありません。太古からグローバルな人と文化とモノとの交流の中で、この国はその歴史を刻んできているのです。
記録に残るその最初は、紀元前の弥生時代の始めの頃だったと思われます。それまで私たちの先人たちは、森の豊かな恵みを中心に、自然の生態系循環を高度に活用して狩猟採取を営む縄文文化を発達させて生きていました。そのころの日本の平野部は湿地帯で、一面にあし葦やすすき薄が生い茂っていたことでしょう。そこに恐らく大陸から朝鮮半島を経て(あるいは対馬暖流に乗って中国から直接か、南西諸島ルートで)稲作が伝わり、それに伴う技術と文化と人が流入してきたのです。この新しい技術と文化の流入と、その受容期間を経て、やがて『豊葦原瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)』という古事記に現れる日本の国を現わす古い呼称が用いられるようになったのです。一見日本を美しく称える美称に過ぎないように思われるのですが、実はこれは見事なスローガン(キャッチコピー)で、私たちの先人たちのすさまじいまでの構想力が表されているのです。
(2)稲作文化の受容と構造転換
それは一面のあしはら葦原であったこの国の低湿地帯を、あたり一帯稲穂たなびく豊かな水田に変えていこうという壮大なビジョンです。そして実際に新たな稲作の技術と文化を取り入れ、恐らく数百年の時間を要しながら、葦原の湿地帯を何万平方キロメートルにわた亘って実り豊かな水田へと変えていったのです。同時に生産様式や生活様式も、森や台地に生きて豊かな自然の恵みを活用する狩猟採取から、平地部に住んで農耕を行うものへと大きく転換していったのです。
こうした壮大な国家デザインとシステム思考を駆使して文明の構造転換を果たして行くことが出来たのは、個別の階層や個人の利益ではなく、日本に住むすべての民の生存と福利への思いが動機としてあったからです。縄文文化は、現代文明も真似の出来ないほどの高度な生態系循環を活用した持続可能社会であったのですが、その後期には気候の寒冷化が始まり、人口が急減する危機に見舞われていました。この危機を回避して万人の安寧に資するために稲作という新たな生産技術を用いようとしたからこそ、次世代の国家ビジョンを描き、その実現のためのシステム思考を発揮することが出来たのです。この構造転換の結果、日本列島の人口は縄文時代の20万人足らずから100万人台へと急増し、やがて大和政権を中心とした日本独自の古墳時代へと社会は移行していったのです。(魏志倭人伝に見られる邪馬台国の時代の倭国大乱から、古墳時代までの期間は、約150年程度と推測されます。)
4.古代から近世に至る歴史サイクル
(1)律令・平安時代の社会への転換
2番目の海外からの文化・技術の受容のサイクルが始まるのは、それから約300年の時を経た6世紀末から7世紀にかけてです。中国大陸では長い戦乱の時期を経て、強大な隋・唐統一帝国が成立してきます。そしてこうした大陸の超大国の圧力もあって、朝鮮半島ではまず任那日本府が滅び、日本と友好関係にあった百済が唐と組んだ新羅に滅ぼされ、百済救援に向かった日本軍も白村江で大敗を喫することになるのです。つまりこの時代は、大陸からの侵略の脅威があり、日本は国家(民族)存亡の危機にさら晒されていたのです。この危機に対処するために、大宰府を始めとする九州北部から畿内に至る防衛網が築かれることになるのですが、その一方で私たちの先人たちは、遣隋使・遣唐使を派遣し積極的に大陸の進んだ文化・技術・制度を取り入れる努力を行うのです。また朝鮮半島を経由して仏教を受容し、仏教思想や文化と一体となった先進技術や人材も受け入れていくことになるのです。
こうしてこの時代の日本は、国家存亡の危機を契機に大陸からの新しい文化・技術を受容し、大化の改新や壬申の乱などの混乱を経る中で、新たな社会ビジョンを練り鍛えていきました。そして8世紀の平城京・平安京に至る律令制と仏教思想に基づく新しい経済・政治体制へと構造転換を果たし、日本独自の平安文化を開花させていったのです。こうして新しい外来文化と制度をそしゃく咀嚼して、日本固有の文化と制度に昇華させて新しい社会デザイン構想していくために、150年ほどの期間を要していたのです。
この時にも、律令制と仏教を基盤とする社会構造の転換という壮大なビジョンが構想され実行に移されていくのですが、それが出来た背景には、大陸からの脅威に備えて中央集権的な統一国家を形成し、それによって先進国家を生み出すことによって国内の物流なども促進し、国と民の豊かさを向上させようという思いがあったからです。こうしてこの時も、国家デザインとシステム思考による社会の構造転換が果たされていくのですが、そのモチベーションとなったのは、全体の豊かさと福祉の向上への強い思いであったのです。そしてこの構造転換により、日本の人口も数百万人台へと上昇していくことになるのです。
(2)武家社会(封建性)への転換
次いで3番目に海外からの文化・技術の受容が始まるのが、それから300年ほどの時を経た12世紀の初め頃からです。中国大陸では金・元と続く、漢民族とは異なる満州族やモンゴル民族による勢力が北方に台頭し、中国はその脅威に晒されることになるのです。一方華北から逃れてきた人々の流入もあって、華中・華南では経済・文化の発展が遂げられていきます。こうした経済・文化の隆盛が日本にも波及して、9世紀末に遣唐使が停止されて以来の日宋(南宋)貿易が活発化していきます。この交易に目をつけて勢力を拡大していったのが平清盛を始めとする武士階層で、こうした武士階層はやがて、在地領主として領地経営をも熱心に行うようになり、律令制のもとになる荘園制を解体していくことになるのです。
こうして南宋の豊かな経済と文化の影響を受け、またその後の元による脅威(元寇)への対応もあって、日本では貴族から武士がリーダーとなる封建制社会のビジョンが構想され、またその実現のための社会構造転換が推進されていったのです。これによって、領主が在住してきめ細かな領地経営を行うことによる生産性の向上が図られ、また日宋貿易による交易の発展と、もたらされた宋銭による貨幣経済の進展により、商業流通経済の発展が遂げられていったのです。さらに南宋からもたらされた美術工芸品やあらたな仏教思想が、浄土・法華・禅などの鎌倉新仏教の勃興をもたらし、また日本の伝統文化の礎となる室町文化をも発展させていく源流となっていったのです。
この時の南宋の豊かな経済・文化に触れたインパクトから、貴族社会から武家社会(封建社会)への構造転換を図るという新たな国家ビジョンを描き、システム思考により実際に社会の転換が成し遂げられていった背景にあるモチベーションは、丹念な領地経営による生産性の向上と、貨幣商業経済・流通交易の促進による国と民全体の豊かさの向上という理念であったのです。この後鎌倉・室町期を通じて、日本の人口は1000万人台にまで増大していくことになります。そしてまた日宋交易が始まって以来、平安末期の末法思想の流布する混乱や源平の争乱を経て、新たな武家社会の実現としての鎌倉幕府の基盤が確立するまで、やはり150年ほどの期間を要することになるのです。
(3)徳川時代への転換
それからまた300年ほどの武家文化・室町文化という日本化された文化の爛熟機を経て、4番目に海外からの文化・技術のインパクトの波が押し寄せてくるのは、16世紀の中頃、鉄砲やキリスト教の伝来に始まる南蛮貿易の時代です。その前兆となるのは15世紀から始まる日明貿易と民間の倭寇による交易網の拡大です。この交易網が、当初スペイン・ポルトガル(後にオランダ・イギリス)により主導された大航海時代のグローバル交易ネットワ-クと結びつき、ルネッサンスを経て科学的思考のもとで発達した、ヨーロッパの最先端の実用技術と学術・文化が日本に流入してきたのです。
この西欧実用技術と南蛮交易による巨額の利益は、当時領国をもとに群雄割拠する戦国大名による覇権闘争を促進させ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康による全国統一へと至らせることになるのです。また国内産業と流通網をグローバル交易網と結びつけることで、産業・商業の隆盛へと導くことにもなっていったのです。加えて進んだ西欧の技術をもとに、治水灌漑等のインフラ投資や新田開発も進展し、経済の主軸である農業部門の生産性も大幅に向上していくことになったのです。 こうしてやはりまた150年ほどの激動の海外技術・文化の受容期を経て、私たちの先人たちは、江戸時代という人類史上においても画期的な社会デザインを構想し、システム思考をフル稼働させてその社会を実現していったのです。そこで構想されたのは、南蛮交易と国内に発達した産業・商業の水準を十分に活用しながら、海外貿易の窓口を長崎に集中して貿易管理を徹底させ、海外からの国内産業への影響を最小限に留める中で、国内だけで自立した持続可能な完全循環社会を実現させていくことだったのです。その背景にあったのは、戦国動乱を経た後の安定社会への希求であり、民百姓のすべてが平和に、また飢えることなく暮らせるようにという全体の福祉を求めてのモチベーションだったのです。そして私たち先人たちは、この構想についても見事にシステム思考を発揮して実現し、江戸時代の日本の人口は3,000万人までにも増えることになったのです。
5.新しく社会デザインを描く時期
(1)幕末・明治維新期のインパクト
それから世界史にもまれ稀に見る太平の江戸時代が、およそ300年間続いた後、5番目で最も直近の海外からの技術・学術・文化によるインパクトとして、日本は幕末・明治維新を経験することになるのです。その契機は帝国主義的植民地政策を遂行する欧米列強諸国のアジア進出であり、やはりこの時日本は、国家と民族の存亡の危機に立たされることになったのです。そして私たちの先人たちは、懸命に西欧の先進文明を受容して消化し、欧米先進諸国に必死で追いつこうとしていったのです。
その結果当初の100年は、産業革命と工業化による富国強兵政策を推進し、西欧列強のごとく帝国主義的政策を推進し、隣国との戦争に明け暮れることになりました。そしてついに第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けるに至るのですが、その後は高度経済成長に表される裕民富国政策を推進し、産業構造の高度化を達成することで、1億人を超えるまでの人々が高い生活水準で暮らせるまでになったのです。
(2)現在の私たちの立ち位置
さて以上のように日本の歴史を辿ってみると、周期的に海外からの技術と文化の流入のインパクトに晒されることを契機として危機が深化することに始まり、次にその技術と文化を受容して自国文化と融合させていく時期があって、その期間はおよそ150年を要しています。次いでこの受容期の間の必死の模索の中で、次第にオリジナルで壮大な独自の社会構想が煮詰められながら描き出されて共有されていき、システム思考を発揮してそのビジョンを実現していくための社会構造の転換が図られていくのです。そしてこの構造展開によって生み出された新しい社会体制は、約300年間続くことになるのです。日本の歴史はこのサイクルを繰り返しています。また新たな社会デザインとシステム思考を発揮した構造転換が可能となるためには、条件として必ず個的な利益のみならず全体の福利と利益、つまり普遍的利益(個と普遍利益との一体的実現)の実現が、モチベーションとして意識されることが必要となってくるのです。
このように整理してくると現在私たちは、この国の歴史が辿れる範囲で5回目の海外からの技術・文化のインパクトを受けたことに始まるサイクルの過程の中にあり、そのインパクトのあった幕末・明治維新期から約150年の時を経た地点にあることが分かってきます。そして恐らく日本が、重化学工業から機械・電機産業の発展を軸に国民の生活水準の高度化を成し遂げた1980年頃には、幕末から続く欧米列強からの技術・文化・学術の受容期は、終わりを迎える時期に差し掛かっていたのです。そして今私たちの歴史の流れは、もはや軽薄な新自由主義などに翻弄されることなく、新たな普遍福祉と普遍利益(もちろん個的利益と融合させた)をモチベーションとして、新たな日本発のオリジナルな社会デザインの構想をビジョン化し、それをシステム思考の駆使によって実際に構造転換していく地点に差し掛かっているのです。国民すべての福祉を求めるモチベーションが無ければ、システム化技術をもとにした第4次産業革命も、人間の幸福を増進させることにつながらず、目的を違えた用い方をされるがために、結局やがては発展の動力の地位を失っていくことになるのです。
このように私たちは、日本の歴史サイクルの中での現在の立ち位置を意識しつつ、パンセ通信においてこれからの社会デザイン、人生デザインを描く作業を続けていってみたいと思います。そして第4次産業革命をそのための手段として、有効に活用して急速に発展させていく道筋についても模索していってみたいと思います。なお次回のパンセの集いの勉強会は、9月18日の月曜日が敬老の日の休日にあたるためにお休みとし、9月25日の月曜日に行います。9月25日は、月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定し、課題映画は小津安二郎監督の『小早川家の秋』と致します。小津映画の特質と戦後の世相を、小津監督の晩年の作品から考えていければと思っています。時間は18時からで、場所は渋谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 現在パンセ通信は、No.153まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。
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