ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.159『原始共同体社会の価値観を体系化する神話の役割』

Oct 21 - 2017

■2017.10.21パンセ通信No.159『原始共同体社会の価値観を体系化する神話の役割』

皆 様 へ

1.個人と社会との調整
(1)政党と支持層のマッチング  (2)政治の機能変化の可能性
2.原始共同体の目標とルール
(1)原始共同体社会を形成する集合的欲望  (2)ルールの遵守
3.文化の構造
(1)人間的欲望の特質  (2)個人の欲望と集合的欲望
(3)原始共同体を維持する価値観の形成
4.文化の構造と神話
(1)神話の形成と役割  (2)体系的な価値観の提供
5.原始共同体社会の神話

1.個人と社会との調整
(1)政党と支持層のマッチング
安倍首相の不意打ち解散による衆議院総選挙も大詰めを迎えています。結果はどうなるか分かりませんが、今回の選挙は、前々回のパンセ通信でも述べたとおり、日本の政治構造を大きく変えるものとなりました。これまで利益誘導や利権保持を目的に、業界団体や労働組合が政治支持層の中核を成し、集票マシーンの役割を演じていましたが、新たに個人が政治支持層の中心におど躍り出てくる可能性が生じてきたのです。すでに国民の間では、組織を脱して自分なりに政治を判断する個人の層が生まれ、同じ政治観を共有する個人で構成された政治支持増が形成されていたのですが、それに対応する政治勢力(政党)が出来ていませんでした。既存の政党は、旧来からの団体や組織を支持基盤とするものから脱していなかったからです。

しかし今回、想定外に次ぐ想定外の展開から、まだリベラル層についてだけですが立憲民主党が設立され、始めて個人を基盤とする政治支持層と政党がマッチングするという現象が日本にも現れてきました。そして今後の政治活動が、保守層や中道層においても同じように支持層と政党とのマッチングが進展し、市民(政治的な判断と選択の主体となる個人)中心に実生活の向上と全体利益とのバランスの調整が国民の間でも意識されるようになってくると、日本の政治構造が大きく変質してくる可能性が生じてくるように思われます。

(2)政治の機能変化の可能性
政治というのはこれまで、政党間の駆け引きや、自分の関連する団体や組織にいかに巧みに利益誘導をもたらすか、そしてそのために政権を握って、国家を自分たちにいかに有利に機能させるていくかという力学のもとに動かされてきました。しかし生活者の中からまず政治意識の高い市民が現れ、生活者ニーズの代弁として政治が機能するようになると、政治を動かす力学も一変してくる可能性が出てきます。国家からの利益配分を奪い合うのでは無く、市民を中心に地域や様々な分野で生活ニーズを充たすために活動が展開され、政治はその活動を調整していくものへと変質していくのです。さらに全体が向上していくために、最も戦略的に重要な部分に資源を投資することを意思決定していくようになっていく。そのように政治と国家の機能は、力学を変えていく可能性が出てくるのです。

近代市民社会においては、このように個人と全体を調整して社会をより向上させていくという機能が、本来政治と国家に期待されました。しかしこの機能は、社会が人間の集合的欲望を充たす仕組みとして形成されてくる以上、本来どの社会においても政治の役割として本質的に求められてくる機能です。パンセ通信では、引き続き原始共同体を対象にして、個人と社会全体を調整する政治や文化の機能の本質的な部分を検討していってみたいと思います。原始共同体社会は、直接的な人間関係だけで構成されていてシンプルで、しかも1つの共同体が他の社会(部族・共同体)から受ける影響も少なく独立して観察できるので、これからの個人と社会の関係を考えていくにあたっても、参考となるものが多く取り出していけるように思われます。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、10月23日月曜日の18時から行います。また10月30日(月)は月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は1952年のフランス映画『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)です。この有名な映画を、もう1度じっくりと鑑賞できればと思います。場所は両日とも、谷区本町の本町ホームシアターで行います。

2.原始共同体の目標とルール
(1)原始共同体社会を形成する集合的欲望
社会の目的(進む方向)や、社会がその目的を実現するための仕組みや制度は、その社会を構成する人間の集合的な欲望によって決まり、その存立が支えられます。原始共同体を支えた人間の集合的欲望は、『持続的・安定的に生存(生活)を維持し、人間的欲望も充たして極力不満や葛藤を少なくし、平穏な暮らしを恒常的に継続していく』ということにあり、そういうことを可能とする社会のあり方を求めました。そしてこの集合的欲望を充たしていくために、原始共同体においては次の3つのことが社会を維持していくための目標となりました。

第1は共同体の存続に必要な食料や生活資材を安定的に得ていくために、自然の生態系循環から得られる実りの範囲内で、共同体の規模を維持していくこと。これによって後世の世代にわた亘って、自分たちの共同体が永続する確信を得られるようになります。第2は役割分担した共同作業(分業)により、1人で生産するよりもはるかに大きな財を生み出すことの出来る協働共生体(共同体)を守り維持していくこと。そして第3は、協働共生体という狩猟採取社会における経済の仕組みによって生み出される食料や生活資材の生産力をもとにして、人間の多様な欲望を充たして満足度の高い生活を実現していくこと。満足度が高く不満が少なければ、社会(共同体)は自ずと安定的に維持されていくことになります。

(2)ルールの遵守
こうした集合的欲望と社会(共同体)目標を実現するために、(それ故にその集合的欲望に支えられて)原始共同体社会の仕組みや制度は生まれてくるのですが、その社会の仕組みが壊れないように維持する役割を果たすのが、社会の共通ルール(掟・法)ということになります。ルールは、社会的な強制力(政治のシステムにおける権力プロセス)と人間の内面の価値規範(文化のシステムにおける文化構造と生活文化)によって、主に禁止事項(タブー)として遵守されるようになってきます。

このうち社会的な強制力によるルールの遵守については、原始共同体社会における政治のシステムについて扱ったパンセ通信No.150、151等ですでに触れてきたので、今回は人間が自らの内面からルールを遵守するように仕向けていく、文化構造・生活文化という文化のシステムに焦点を当てて考えていってみたいと思います。

3.文化の構造
(1)人間的欲望の特質
例えば原始共同体の共通目標である「自然の生態系循環から得られる実りの範囲内で、共同体の規模を維持していく」という1番目のテーマを、なぜ人々は個人においても自分の内面からの目標としていくことが出来たのでしょうか。またこの目標を実現していくために、どのように制度や仕組みをつくり、またつくった制度や仕組みを保持していくために、どのような社会のルールを定めていったのでしょうか。そしてこのルールの遵守を共同体の共有の求めとして、どのように個々人自らも守るように仕向けていったのでしょうか。そのことについて順を追って考えていってみたいと思います。

欲望というのは、最も原初的には目の前の必要物を消費して、自分の満足を充たしていくという衝動のことです。例えば動物プランクトンが、目の前の植物ブランクトンをエサとして求めて食べるような場合です。しかし人間の場合は異なります。自己意識を持ち、さらに経験によって自分が良く生きられるための知恵を積み重ねて、意味と価値の序列(体系)を自己意識の内に形成する(自我・パーソナリティー)のが人間です。その人間の欲望は、生物のように即物的短絡的で単純なものではありません。他者との関係性を考慮し、また時間的空間的連関を推し量り、自分の求めるものを得るために有用な連関は意味あるものとして意識され、また目的の成就に至るプロセスで、効果のあるものは価値あるものとして意識されて、意味と価値を求めるようになってくるのが人間の欲望です。つまり人間の欲望は、目の前の対象物を求め、それを消費すれば充足されるような身体反応的なものでは無く、自分なりの意味と価値を求め、それを実現することで初めて満足を得られるような自我の欲望なのです。

(2)個人の欲望と集合的欲望
さて以上のように人間の欲望が単純な身体由来のものでは無く、自分なりの意味と価値の序列(体系)から生じる自我の欲望であることを抑えた上で、原始共同体社会の集合的欲望と自我の欲望との関連を考えていってみたいと思います。原始共同体社会というのは、直接的な人間関係からだけで成り立つシンプルな社会で、しかも共同体ごとに経済基盤が自立していて、他の共同体から受ける影響も多くはありません。現代のように間接的な人間関係が幾層にも積み重ねって、しかもグローバルにも影響しあうような複雑な社会では無く、個人が社会(共同体)から隔絶した気分を味わうようなことは無かったのです。

こうした直接的な人間関係だけで出来た規模の小さな共同体社会においては、他の共同体内の人々の思いやニーズを身近に共感することも、共同体全体としての集合的なニーズや求めを個人が把握することも比較的容易です。それでも人間も生物である以上、身体由来の短絡的な欲望の影響も避けられません。特に子供や若者の場合は自我が成長途上で、人間的な自我の欲望も未成熟な状態にあります。また人の欲望が自我(価値観の体系)の欲望である限り、人ごとの感受性の相違により、原始共同体と言えども人それぞれに価値観の相違は生じてきます。そして個人の欲望が共同体の集合的欲望とそご齟齬をきたす場合も、自制が無ければ頻繁に生じてきてしまうのです。

(3)原始共同体を維持する価値観の形成
そのために共同体の集合欲望や、それが結実して生まれてくる共同体の社会目標を、疑いようの無い価値として共同体の全員が無意識の内に分かち持つようになり、その価値観を常識(コモンセンス)として人々が自らの判断の基準としていくようにしなければなりません。またこの社会目標を実現するために整えられた制度や仕組みや社会ルールは、正しいものとして意識され、それを犯すことは“悪”であり、それを守ることは“善”であるという意識が働くようにしていかなければならないのです。

確かにシンプルな構造の原始共同体社会にあっては、共同体の集合欲望と個人の自我欲望が大きく乖離するようなことはありません。人々がまだ力の強弱に基づく支配被支配の悲惨を体験せず、自我欲望と社会の支配権力の欲望とが乖離するという経験を経ていないからです。また理性的に考えれば、共同体が存続して自分たちが生き長らえていくためには、自然との共生および自然の恵みの範囲内での生活の維持(共同体の規模の維持)が必要なことは判断できるはずです。しかしそれでも、理性的判断と欲望や感性は異なります。個人の欲望や感性までが、共同体の目標を自分のものとして求めるようになり、またそれを逸脱する行為は“悪い”と意識されるようになるまでの価値観を、人々の無意識のレベルで構造化(文化構造)していかなければならないのです。それでは原始共同体の人々は、どのようにしてそうした価値観を個人の内面に形成していくことが出来たのでしょうか。

4.文化の構造と神話
(1)神話の形成と役割
さて人間の欲望が目前の対象を消費して充足するようなものでなく、自我の欲望であることはすでに説明してきました。自分なりの意味と価値を求める欲望は幻想的で、1つの求めにたど辿り着いても、またさらにその先に新たな欲望が立ち現れてきます。こうして人間の欲望は際限なく広がっていく本質を持つのですが、それに伴って人間の意識の領野も拡大し、ついには世界の存在の成り立ち(宇宙の創生と終焉)や人間が生きる意味についても納得が得られるまでは、意識の求めは止むことがありません。

こうして人間は、意識の上でも自分の存在を安定させていくために、世界の生成と自分の生存の意味が納得できるための物語をつくり、それを共同体で共有して他者と共に確認していくのでなければ、生の不安を克服できない存在なのです。そしてこうして創られた物語が“神話”なのです。さらに“神話”は、人間の集合的欲望を充たすための知恵(共有知)と共同体を維持するルールを、大きな価値観のもとに体系化する役割も果たすようになっていくのです。

(2)体系的な価値観の提供
ところで「自然の生態系循環から得られる実りの範囲内で、共同体の規模を維持していく」という共同体の社会目標を実現していくためには、この目標を達成するための様々な仕組みやルールが無数に生み出されてくることになります。例えば「○○の森の柿の実は、葉が色づくまでは採ってはならない」等々です。しかしこうした仕組みやルールも、その場の都合で脈絡無く生み出されてくるのでは無く、共同体の集合的目標を充足するために、相互に関連づけられた知恵の体系として形成されてきます。

この体系的に整備された無数の仕組みやルールに対して、個別の妥当性ではなく、その全体の正当性を判断して自分の求めとして遵守していくようになるためには、やはり体系的な価値観が必要となってくるのです。この体系的な価値観を提供するのが神話であり、この神話の中に、共同体の集合的な欲望を充たしていくために様々に受け継がれ、また増し加えられてきた知恵も組み込まれて伝承されていくことになるのです。

5.原始共同体社会の神話
それでは社会の集合的欲望や目標を体系的な価値観として現した、原始共同体における“神話”とはいったいどのようなものだったのでしょうか。またその神話の中に、どのように共同体を維持する知恵が組み込まれ、それが伝承されていったのでしょうか。そしてこの神話が、人々が内面から共同体のルールに従うようになっていくために、実際にどのように機能していったのでしょうか。

天皇陛下の退位が決まり、平成という時代の終焉が見えた現代にあって、平成という時代に共有された神話と、次の時代の神話を考えてみる手掛かりを得るためにも、原始共同体社会の人々がどのような神話に生き、それを伝承していったのかについて考えていってみたいと思います。

なお次回のパンセの集いの勉強会は、10月23日月曜日の18時から行います(台風の影響で誰も来られないかもしれませんが)。また10月30日(月)は月末ですのでホームシアターサークルの活動を予定しています。課題映画は1952年のフランス映画『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)です。場所は両日とも、谷区本町の本町ホームシアターで行います。お時間許す方はご参加下さい。

P.S. 現在パンセ通信は、No.157まで校正・加筆したものをパンセ・ドゥ・高野山のホームページにアップしております。ご興味のある方は、以下のサイトをご覧下さい。

 『パンセ・ドゥ・高野山』トップページ、http://www.pensee-du-koyasan.com/
 『パンセ通信』のサイト、http://www.pensee-du-koyasan.com/posts/category/4