■2015年1月25日 パンセ通信No.16 『深層でいのちをつなぐマジョリティ(庶民)の役割』
皆様へ
年明けに生じたフランスの新聞社に対するテロ事件に続き、イスラム国による日本人人質の殺害予告事件が発生して、私たちに衝撃を与えています(このメ-ルを発信する時点では、すでに1人の方の殺害が報道されております)。人質になったお二人の方の、無事な解放を祈るばかりです。一方で私自身の感じ方を省みると、かつて抱いたような、日本は欧米の関わる紛争の埒外という感覚が薄れており、最悪の事態も想定しうる自分があることに驚いております。さて、皆さんはいかがでしょうか。
さらにこの問題に触発されて頭をよぎることは、私たち日本人はメディアの報道に素直に一喜一憂するのですが、海外では、マスメディアの報道をまず疑ってから判断する人が、けっして少なくないということです。そんなことが思い浮かぶとは、やっぱり私の中では、伝統的な日本人の価値観が変質してきているのでしょうか。“世間の目”に流されず、1人1人が過(あやま)つことのない判断の基準を持つことの求められる時代が、日本にも迫ってきているようです。
1月27日の火曜日も、16時からパンセの集いを行います。場所は表参道のフィルムクレッセントです。
前回は、『2対8蟻(あり)さんの法則』により、人間の社会や集団も、エリ-ト、マジョリティ-、異端者という構成に自ずと区分されていくという話をしました。それは、個人の能力の差に由来するからではなく、集団が存続していくために、違った役割と働きが要請されるからです。最新のリ-ダ-シップ論でも、リ-ダ-は教育で育成されるのではなく、“場”がリ-ダ-を生み出すという論が強くなっています。リ-ダ-の立場に立てば、誰でもそれなりにリ-ダ-としての能力を開花させるというのです。また逆に、みんながほんわか安心して働けるようになるためには、釣りバカ日誌のハマちゃんのような、ちょっと落ちこぼれた存在が、どうしても全体のためには必要になってくるのです。
さてそれで、肝心の全体のマジョリティ-を占める“普通の人たち”の役割についてです。エリ-トではないのですから、明確な方向性を指し示すビジョンや緻密な戦略を描くことが、その役割ではありません。そんな面倒なことは、庶民にはやっていられません。またそのビジョン実現のために、リ-ダ-シップを発揮することもその役割ではないでしょう。そんなしんどくて、責任とリスクのあることなんかにうつつを抜かすなんて、全くクールでおしゃれな(伝統的な日本語では“粋な”)生き方とは言えません。
でも考えてみれば、ビジョンを描くなどど言っても、現在の社会や経済の仕組みを前提にして、せいぜい10年程度を展望するのが関の山です。企業でも環境変化の激しさから、10年の長期計画は無意味とされる状況です。たかだか10年。人類史レベルで考えれば、ほんの瞬時の現象に右往左往するために、小賢しくはかりごとを描くにすぎません。お役人をはじめ、エリ-ト層の描くビジョンなど、立派そうに見えても、たかだかそんなものなのです。(もちろん、それはそれで意味のあることなのですが)
でも重要なことは、数百万年前にアフリカの大地のどこかで人類が誕生して以来、いや人類が生まれる
以前の何億年も前から、生命としての私たちは、過(あやま)つことなくいのちを受け継ぎ、受け渡し、滅びの危機を幾度も克服して、今立派に繁栄しているということです。この確かないのちの受け渡しのために、パワ-ポイントで描き出されるカラフルなビジョンや戦略など、1枚も必要でなかったということです。そんな小賢しい人間の表層の知恵のレベルではなく、生命の深層の次元で、私たちには生物としていのちを守り、したたかに生き抜く智慧と戦略が蓄積され、ビルトインされているのです。そうでなければ生物は、とっくの昔にこの地球上から、滅び去っていたことでしょう。その生命としての
深層の叡知に、最もダイレクトにアクセスできるのが、マジョリティ-である庶民だと言えるでしょう。エリ-トの頭の中では、社会や経済を運営する知恵の方がメインに働くので、この深層の叡知が見えにくくなってしまうからです。でも生命にとっては、このいのちの守りと育みの叡知が最も大事です。この叡知にアクセスし、人間がこの叡知からはずれないように全体として意思決定を行っていくために、庶民がマジョリティ-となっているのです。
ここでちょっと話がそれますが、
1993年にフィルムクレッセントが制作に携わった『アイランズ/島々』というドキュメンタリ-映画があります。北方領土問題を、国家の領土問題の次元からではなく、そこに暮らす島民の思いから捉えた、秀逸なフィルムです。セミョ-ンD.アラノヴィッチというロシア人が監督した作品です。その中で、日本人の元島民とロシア人の現島民の、北方4島に対する心象風景の相違が、見事に映し出されます。日本人の元島民は、多くの苦難の末に、今は北海道で立派に新たな生活の基盤を築いています。そして皆が、懐かしく北方4島での暮しを思い起こします。しかしただ懐かしんでいるだけではなく、自分たちが育った島々を、今も“故郷(ふるさと)”として、けっして失えぬものとして語ります。“故郷”とは、祖先たちが生活のなりわいと暮らしの礎を築き、それを守り育み、そして死してなお祖霊となって子孫の繁栄を守る土地です。だから“故郷”には、そこで生まれ育った人々の“いのち根”があります。それ故、例えその地を離れたとしても、戻ればいつでも傷ついた自分のいのちが癒される場所となるのです。そして自分もやがてはその地に帰り、子孫を守る祖霊となって、永劫にわたり魂の安住する地ともなるのです。日本人の元島民は、その先人が明治の初めに千島に移住した当初から、当座のなりわいを稼ぐ場としてではなく、“故郷”をつくるために、血の涙と汗を流し、島々と海に深く根を下ろしました。未来に渡って子孫がいのちを育める“故郷”を造りだすためです。だからそこに、確かな生活の基盤をつくり出すことが出来たのです。しかしそのためには、もちろん紙に描いたビジョンも戦略も、けっして必要とはしませんでした。
一方ロシアの現島民は、戦後の移住当初こそ、日本人の残した畑や漁場などの資産で豊かであったのですが、今は生活が極度に悪化し、現実の過酷さに投げやりになっている状況が、登場人物の口から語り出されます。もちろんこの映画の制作された1992~3年という時期が、ソ連邦の崩壊した直後で、ロシアの最も苦難に満ちた時代であったということは考慮されねばなりません。でもはっきり言えることは、ロシアの現島民は、“故郷”をつくることに失敗したということです。“故郷”をつくり出せねば、人はその地で生きぬいていくことは出来ません。ロシア人の女性の島民がこう語ります。『私たちは島を勝ち取ったのかしら。島の行く末は、ロシア人の手には負えない。いくら大勢で入植しても、結局うまくいかなかった。人並みの暮らしの出来ない、今の島の状態をみるのが辛い』
さらに監督のアラノヴィッチは、日本人とロシア人の墓地を象徴的に映し出します。何よりも、島に残
してきた先祖の墓を守り手入れしようとする日本人元島民の姿と、今は砂地と化して、荒れて朽ち果てたロシア人の墓地を対比します。この映画のラストは、ビザなし交流で渡航した日本人元島民と、ロシア人現島民が、いっしょに荒れた日本人墓地を再生するシーンで終わっていきます。まるで北方領土問題の解決は、民族を越えて、共にその地にいのちの“故郷”をつくり出していくことであると、伝えたいかのように。
さて、ちょっと遠回りしてしまいましたが、何億年かを生き抜いてきた私たち生物としての人間には、ビジョンや戦略を描かなくとも、比喩的に言えばこの“故郷”をつくり出す心性と能力がビルトインされています。また、明治になるまでの私たちの先人たちは、はっきりと“生業(なりわい)”と“仕事”を分けていました。なりわいとは、生活を賄うための稼業。仕事とは、今の意味と違って、まちや村で他の人のために役立ち、いのちを励ます働きをすることです。この2つのことが出来て初めて、人は一人前とされたのです。そこで、このなりわいにのみ能力が長けたのがエリ-トで、“仕事”の価値を知り、“故郷”をつくり出す心性を保持するのが、マジョリティ-である庶民ということになるでしょうか。
このように考えてくると、少しうっすらと、マジョリティ-である庶民の役割が見えてくるような気がしてきます。マジョリティ-である私たちは、政治や経済のビジョンを描くことは出来ませんが、エリ-トによって示されたビジョンや戦略に対して、イエス・ノ-の判断を示すことは出来るのです。何億年に渡って培われた、未来に向けて生命を守り育む、集合的な深層意識の判断基準から、何がいのちを守り、何が滅びにつながることなのかを、本能的に判断することが出来るのです。それが庶民の役割なのです。ごまかされずに、自分のいのちの声にしっかりと耳を傾ければ、私たちにはそれが可能なのです。そして過たず、“故郷”をつくり出していくことができるのです。
それでは、この深層のいのちの叡知とはいったい何か、どうすれば庶民が、このごまかされることのない判断の基準にたどり着くことができるのか。そしてその叡知を発現させて、個々人の日々の生活を豊かに導き、社会全体としても、道がそれぬように歯止めをかけていくことが出来るのか。
そんな課題を考えながら、火曜日のパンセの集いを行えればと思っています。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。
皆様へ
年明けに生じたフランスの新聞社に対するテロ事件に続き、イスラム国による日本人人質の殺害予告事件が発生して、私たちに衝撃を与えています(このメ-ルを発信する時点では、すでに1人の方の殺害が報道されております)。人質になったお二人の方の、無事な解放を祈るばかりです。一方で私自身の感じ方を省みると、かつて抱いたような、日本は欧米の関わる紛争の埒外という感覚が薄れており、最悪の事態も想定しうる自分があることに驚いております。さて、皆さんはいかがでしょうか。
さらにこの問題に触発されて頭をよぎることは、私たち日本人はメディアの報道に素直に一喜一憂するのですが、海外では、マスメディアの報道をまず疑ってから判断する人が、けっして少なくないということです。そんなことが思い浮かぶとは、やっぱり私の中では、伝統的な日本人の価値観が変質してきているのでしょうか。“世間の目”に流されず、1人1人が過(あやま)つことのない判断の基準を持つことの求められる時代が、日本にも迫ってきているようです。
1月27日の火曜日も、16時からパンセの集いを行います。場所は表参道のフィルムクレッセントです。
前回は、『2対8蟻(あり)さんの法則』により、人間の社会や集団も、エリ-ト、マジョリティ-、異端者という構成に自ずと区分されていくという話をしました。それは、個人の能力の差に由来するからではなく、集団が存続していくために、違った役割と働きが要請されるからです。最新のリ-ダ-シップ論でも、リ-ダ-は教育で育成されるのではなく、“場”がリ-ダ-を生み出すという論が強くなっています。リ-ダ-の立場に立てば、誰でもそれなりにリ-ダ-としての能力を開花させるというのです。また逆に、みんながほんわか安心して働けるようになるためには、釣りバカ日誌のハマちゃんのような、ちょっと落ちこぼれた存在が、どうしても全体のためには必要になってくるのです。
さてそれで、肝心の全体のマジョリティ-を占める“普通の人たち”の役割についてです。エリ-トではないのですから、明確な方向性を指し示すビジョンや緻密な戦略を描くことが、その役割ではありません。そんな面倒なことは、庶民にはやっていられません。またそのビジョン実現のために、リ-ダ-シップを発揮することもその役割ではないでしょう。そんなしんどくて、責任とリスクのあることなんかにうつつを抜かすなんて、全くクールでおしゃれな(伝統的な日本語では“粋な”)生き方とは言えません。
でも考えてみれば、ビジョンを描くなどど言っても、現在の社会や経済の仕組みを前提にして、せいぜい10年程度を展望するのが関の山です。企業でも環境変化の激しさから、10年の長期計画は無意味とされる状況です。たかだか10年。人類史レベルで考えれば、ほんの瞬時の現象に右往左往するために、小賢しくはかりごとを描くにすぎません。お役人をはじめ、エリ-ト層の描くビジョンなど、立派そうに見えても、たかだかそんなものなのです。(もちろん、それはそれで意味のあることなのですが)
でも重要なことは、数百万年前にアフリカの大地のどこかで人類が誕生して以来、いや人類が生まれる
以前の何億年も前から、生命としての私たちは、過(あやま)つことなくいのちを受け継ぎ、受け渡し、滅びの危機を幾度も克服して、今立派に繁栄しているということです。この確かないのちの受け渡しのために、パワ-ポイントで描き出されるカラフルなビジョンや戦略など、1枚も必要でなかったということです。そんな小賢しい人間の表層の知恵のレベルではなく、生命の深層の次元で、私たちには生物としていのちを守り、したたかに生き抜く智慧と戦略が蓄積され、ビルトインされているのです。そうでなければ生物は、とっくの昔にこの地球上から、滅び去っていたことでしょう。その生命としての
深層の叡知に、最もダイレクトにアクセスできるのが、マジョリティ-である庶民だと言えるでしょう。エリ-トの頭の中では、社会や経済を運営する知恵の方がメインに働くので、この深層の叡知が見えにくくなってしまうからです。でも生命にとっては、このいのちの守りと育みの叡知が最も大事です。この叡知にアクセスし、人間がこの叡知からはずれないように全体として意思決定を行っていくために、庶民がマジョリティ-となっているのです。
ここでちょっと話がそれますが、
1993年にフィルムクレッセントが制作に携わった『アイランズ/島々』というドキュメンタリ-映画があります。北方領土問題を、国家の領土問題の次元からではなく、そこに暮らす島民の思いから捉えた、秀逸なフィルムです。セミョ-ンD.アラノヴィッチというロシア人が監督した作品です。その中で、日本人の元島民とロシア人の現島民の、北方4島に対する心象風景の相違が、見事に映し出されます。日本人の元島民は、多くの苦難の末に、今は北海道で立派に新たな生活の基盤を築いています。そして皆が、懐かしく北方4島での暮しを思い起こします。しかしただ懐かしんでいるだけではなく、自分たちが育った島々を、今も“故郷(ふるさと)”として、けっして失えぬものとして語ります。“故郷”とは、祖先たちが生活のなりわいと暮らしの礎を築き、それを守り育み、そして死してなお祖霊となって子孫の繁栄を守る土地です。だから“故郷”には、そこで生まれ育った人々の“いのち根”があります。それ故、例えその地を離れたとしても、戻ればいつでも傷ついた自分のいのちが癒される場所となるのです。そして自分もやがてはその地に帰り、子孫を守る祖霊となって、永劫にわたり魂の安住する地ともなるのです。日本人の元島民は、その先人が明治の初めに千島に移住した当初から、当座のなりわいを稼ぐ場としてではなく、“故郷”をつくるために、血の涙と汗を流し、島々と海に深く根を下ろしました。未来に渡って子孫がいのちを育める“故郷”を造りだすためです。だからそこに、確かな生活の基盤をつくり出すことが出来たのです。しかしそのためには、もちろん紙に描いたビジョンも戦略も、けっして必要とはしませんでした。
一方ロシアの現島民は、戦後の移住当初こそ、日本人の残した畑や漁場などの資産で豊かであったのですが、今は生活が極度に悪化し、現実の過酷さに投げやりになっている状況が、登場人物の口から語り出されます。もちろんこの映画の制作された1992~3年という時期が、ソ連邦の崩壊した直後で、ロシアの最も苦難に満ちた時代であったということは考慮されねばなりません。でもはっきり言えることは、ロシアの現島民は、“故郷”をつくることに失敗したということです。“故郷”をつくり出せねば、人はその地で生きぬいていくことは出来ません。ロシア人の女性の島民がこう語ります。『私たちは島を勝ち取ったのかしら。島の行く末は、ロシア人の手には負えない。いくら大勢で入植しても、結局うまくいかなかった。人並みの暮らしの出来ない、今の島の状態をみるのが辛い』
さらに監督のアラノヴィッチは、日本人とロシア人の墓地を象徴的に映し出します。何よりも、島に残
してきた先祖の墓を守り手入れしようとする日本人元島民の姿と、今は砂地と化して、荒れて朽ち果てたロシア人の墓地を対比します。この映画のラストは、ビザなし交流で渡航した日本人元島民と、ロシア人現島民が、いっしょに荒れた日本人墓地を再生するシーンで終わっていきます。まるで北方領土問題の解決は、民族を越えて、共にその地にいのちの“故郷”をつくり出していくことであると、伝えたいかのように。
さて、ちょっと遠回りしてしまいましたが、何億年かを生き抜いてきた私たち生物としての人間には、ビジョンや戦略を描かなくとも、比喩的に言えばこの“故郷”をつくり出す心性と能力がビルトインされています。また、明治になるまでの私たちの先人たちは、はっきりと“生業(なりわい)”と“仕事”を分けていました。なりわいとは、生活を賄うための稼業。仕事とは、今の意味と違って、まちや村で他の人のために役立ち、いのちを励ます働きをすることです。この2つのことが出来て初めて、人は一人前とされたのです。そこで、このなりわいにのみ能力が長けたのがエリ-トで、“仕事”の価値を知り、“故郷”をつくり出す心性を保持するのが、マジョリティ-である庶民ということになるでしょうか。
このように考えてくると、少しうっすらと、マジョリティ-である庶民の役割が見えてくるような気がしてきます。マジョリティ-である私たちは、政治や経済のビジョンを描くことは出来ませんが、エリ-トによって示されたビジョンや戦略に対して、イエス・ノ-の判断を示すことは出来るのです。何億年に渡って培われた、未来に向けて生命を守り育む、集合的な深層意識の判断基準から、何がいのちを守り、何が滅びにつながることなのかを、本能的に判断することが出来るのです。それが庶民の役割なのです。ごまかされずに、自分のいのちの声にしっかりと耳を傾ければ、私たちにはそれが可能なのです。そして過たず、“故郷”をつくり出していくことができるのです。
それでは、この深層のいのちの叡知とはいったい何か、どうすれば庶民が、このごまかされることのない判断の基準にたどり着くことができるのか。そしてその叡知を発現させて、個々人の日々の生活を豊かに導き、社会全体としても、道がそれぬように歯止めをかけていくことが出来るのか。
そんな課題を考えながら、火曜日のパンセの集いを行えればと思っています。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。