■2015年2月8日 パンセ通信 No.18 『人間を人間足らしめる深層のいのちの叡知』
皆 様 へ
「イスラム国」による人質事件は、捕われた二人の日本人が、首を切り落とされて惨殺され、ヨルダン人の捕虜が焼き殺されるという、衝撃の結末に終わりました。ショックではあるのですが、しかしヨルダンの人々ほどには報復の怒りが込み上げてくることのない、自分自身を感じております。原発事故等、考えれば憂鬱になることがあまりに多く、これ以上もう心を掻き乱されたくない、そっとしておいてくれ、とでもいう心境でしょうか。その一方で、安倍首相や政府の対応に疑問を投げかけると、「イスラム国」寄りと批判される風潮が高まり、人質救出で政府批判を展開するマスコミ論調もほとんど見られないという、ちょっと不気味な事態も進展しているのですが。
そんな内に籠った私たちの内面の、さらにその奥底の真相を尋ねるために、2月10日の火曜日も、パンセの集いを行います。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
さて今回は、生命を何億年にもわたって滅びから守り育んできた、私たちの内面のさらに奥底にある、深層のいのちの叡知についてです。私たちを取り巻く大きな仕組みの動きでは、安倍首相のきな臭さはあるものの、トヨタを始めとする上場企業が最高益を計上するなど、当面少しは不安を和らげる状況にあるようです。でも今話題のトマ・ピケティ氏によると、所得階層下位50%の資産保有額は、全体のわずか10%とのこと。つまりNISAなどの制度により、貯蓄から投資が奨励されても、そもそも私たちの二人に一人は、投資しようにも資産、つまり貯金がない。これでは子育ても、老後の準備もあったものではありません。さらに歴史的に見ると、人口の1~10%が、90%の資産を保有していた時代が大部分とか。確かに、江戸時代の庶民がせっせと貯金に励んでいたなんて、聞いたことがありません。それでも浮世絵の美人画に現(うつつ)を抜かし、宵越しの金は持たねぇなどと見得を切りつつ、なんとか生計を賄ってきたのが、大多数の庶民の、大きな経済に対する小さな暮らしのありようでした。
こう考えると、経済の専門家から貯蓄がないと大変だなどと脅されても、なんだみんな結構なんとかなってるじゃないかと、ほっとする思いに駆られるのは、私だけの愚かさでしょうか。資産配分の不平等に対する怒りよりも、貯金が無くてもなんとかなってきたのが人類の歴史だと、とりあえず開き直って、将来の生活の不安から解き放たれる幻想に、ほっとしている自分を感じてしまいます。
このほっとする思いが、現実に目をつぶる単なる愚かさの賜物なのか、あるいは何らかの根拠を持つものなのか。人類が富の余剰を持ち、権力階層が分化して以来、何千年にわたって大多数の庶民は、大きな蓄えも持たずにしたたかに生き抜いてきたわけですけど、その深層にどんな叡智が働いていたのか、少し探っていってみることが出来ればと思います。
さて、アメリカの詩人ナンシ-・ウッドが、白人によってニュ-メキシコの片隅の居留地に追いやられた、タオス・プエブロ・インディアンの古老の言葉を紹介しています。
『白人などほっておいてもそのうちに自滅するだろう。やつらにゃル-ツが無い。ル-ツ無しには、人間だろうが部族だろうが生き残ることはできない。しかし白人文明が崩壊しても、タオスは生き残るだろう。』(「今日は死ぬにはもってこいの日」より)
この予言めいた確信は、いったい何に基づいているのか。そしてこの古老の語るル-ツとはいったい何なのか?恐らくこの“ル-ツ”が、貯蓄の無い庶民を生き延びさせてきたものと密接に関わっており、また庶民が大多数なのですから、人類を生き延びさせてきたものとも関わっているはずでしょう。さらにこのインディアンの古老によると、それが無くなると、人間が生き残れないものでもあるのです。この私たち人間を人間たらしめている根っこの部分にある“ル-ツ”とは、いったい何なのでしょうか?
昨年京都大学の総長に、なぜか選出されてしまった、ゴリラ研究の世界的第1人者山極寿一先生が、猿と類人猿の大きな違いについて、次のように語っていらっしゃいます。類人猿というのは、ゴリラやチンパンジ-やボノボなど人間に近い仲間のことで、それ故その習性を調べることで、人間の本性がわかってきます。
『猿の群れでは、ボス猿を筆頭に序列が決まっており、エサは必ず序列の高い者から食べる。だからけっして一緒に食事をするということがない。この強い弱いの序列を厳格化させることによって、群れとしてのまとまりと生存を可能にしている。ところが、類人猿は違う。弱い者が強い者からエサを分け与えられ、強い者は弱い者にエサ分け与えざるを得なくなる心性を持っている。だから一緒に睦まじく食事をとる。ゴリラがドラミング(両手で胸をたたく動作)をするのは、自分の強さを誇示するためではなく、自分は弱い者にエサをあげたぞ、こんな立派なことをしたぞ、という誇りを示すための行動である。そして他の類人猿たちは、この与えた者を称賛し、与えた者は、その他者を助ける行為によって、自分の存在価値を見い出すのである。こうして類人猿は、そして私たち人間は、強弱の序列ではなく、この助け合う心性によって滅びずに、共に支えあって生きて繁栄する道を選択したのである。』
※ゴリラの心性になりきっておられる山極先生は、総長に選出された時、研究一筋の自分に務まるかと不安にかられたそうです。でもよく学内を見回してみると、猛獣が跋扈(ばっこ)するジャングルと同じ環境であることに気づき、ジャングルなら慣れたものだと自信を深められたそうです。そして、そのゴリラの視線から見ると、最近人間が、類人猿の心性を忘れ、強い者が弱い者から奪うという猿化現象が
どんどん進んで、退化していっているように見えるとおっしゃっています。
山極先生を通じて、私たちの祖先であるゴリラたちから教えられることは、どうやら人間というのは、自分のいのちへの配慮と、他者のいのちへの配慮が不可分一体(主客未分離)となることによって、人類としての滅びを避け、全体としての繁栄を可能とし、また個人としての生きる意味と価値を見い出してきたようです。それでは、どうして人間は、弱い他者を助けざるを得ない心性から、支え合いの関係をその深層に持つようになってきたのでしょうか?
それについては、18世紀のフランスの思想家であるジャン・ジャック・ルソ-が、「エミ-ル」の第4編で次のようなことを教えてくれます。
『人間に社会性をもたせるのは、その弱さである。我々の心を人間愛に向かわるのは、我々共通の不幸である。人が生きていく以上、誰もが多くの苦しみ、悲しみに襲われざるを得ない。こうして自分自身が、苦しみ悲しみを経験するからこそ、私たちは、他者の苦しみ悲しみに共感することができる(共苦)。不幸な人が苦しんでいるのを見て、誰が同情しないことがあるだろうか。ただ願いさえすればすむのであれば、誰がその人を不幸から救ってやりたいと思わないだろうか。想像力は我々を、幸福な人の立場よりも、むしろ不幸な人の立場に置く。(幸せな人を見ると、他の人々は愛情よりもむしろ羨望とやっかみの気持ちをおこすだけ。) 我々の共通の必要が、利害によって我々を結びつけるとすれば、我々の共通の不幸は、情愛によって我々を結びつける。』
ルソ-の教えは、本当に見事です。人間を結びつけるのは、1つには共通の必要から生じる利害だと言います。必要をよりよく満たすために、人間は科学を発展させ市場経済を高度に発展させてきました。これはこれでとても重要なことです。でもそれだけではダメなのです。それだけでは、プエブロ・インディアンの古老が予言した白人のように、人間は自滅してしまうのです。一方で人間には、“ル-ツ”が必要なのです。すなわち、苦しみを共有し、憐憫の心性を養い、自分が生きるために苦しくとも他者のいのちを支え、また支えられるあり方が必要なのです。禅僧の村上光照師が語るように『取りあって生きるよりも、分けあって生きる方が、人間はよほど楽で嬉しい』ものなのです。勝ち負けの喜びも人間の欲望を活性化して大事なのですけど、いのちを支えあい、心の心底から共に安心して喜びあうことの方が、よっぽど私たちは嬉しく生きられるものなのです。このいのちの喜びを無視すると、私たちは、プエブロ・インディアンの古老だけでなく、ジャングルの奥のゴリラたちからも笑われ、冷たい目で滅びを待たれることになってしまうのです。
どうやら、この苦しみを媒介として、自分のいのちと他者のいのちが不可分に結びつくようないのちへの配慮が、私たちの深層で私たちを守り、私たちのいのちを育んでいるようです。
共に苦しみを分かち合い、共に幸せを願ういのち。自分を生かすと共に他者を生かすいのちのあり方。先人たちは、その“いのち”あり方を守り、後世の私たちが滅びることの無いように、祈りと叡知の限りを尽くしてきました。その先人たちの叡知に学び、“いのち”のあり方受け継ぎ、次の世代の繁栄のために受け渡していくのが、物質文明の繁栄と並んで、この時代に生きる私たちのもう1つの重要な役割ということになるでしょう。そしてこの“いのち”のあり方こそが、高野山金剛峯寺の唱える『いかせいのち』のいのちであり、法然上人の教える『共生』(ともいき)であり、聖書や法華経で教える『永遠のいのち』に関わるものとなってくるのです。
庶民が担う、この“いのち”についてさらに考え、また、必要を満たす利害競争というメインのシステムの裏側で、いかにこの“いのち”のサブシステムを動かしていくのか。そして私たちの人生を生き易く、いかに意味と価値に満ちたものとしていくのか。それを可能とする条件について、順々に考えていければと思っています。そんな課題を念頭に置きつつ、2月10日火曜日もパンセの集いを持てればと思っております。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。
皆 様 へ
「イスラム国」による人質事件は、捕われた二人の日本人が、首を切り落とされて惨殺され、ヨルダン人の捕虜が焼き殺されるという、衝撃の結末に終わりました。ショックではあるのですが、しかしヨルダンの人々ほどには報復の怒りが込み上げてくることのない、自分自身を感じております。原発事故等、考えれば憂鬱になることがあまりに多く、これ以上もう心を掻き乱されたくない、そっとしておいてくれ、とでもいう心境でしょうか。その一方で、安倍首相や政府の対応に疑問を投げかけると、「イスラム国」寄りと批判される風潮が高まり、人質救出で政府批判を展開するマスコミ論調もほとんど見られないという、ちょっと不気味な事態も進展しているのですが。
そんな内に籠った私たちの内面の、さらにその奥底の真相を尋ねるために、2月10日の火曜日も、パンセの集いを行います。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
さて今回は、生命を何億年にもわたって滅びから守り育んできた、私たちの内面のさらに奥底にある、深層のいのちの叡知についてです。私たちを取り巻く大きな仕組みの動きでは、安倍首相のきな臭さはあるものの、トヨタを始めとする上場企業が最高益を計上するなど、当面少しは不安を和らげる状況にあるようです。でも今話題のトマ・ピケティ氏によると、所得階層下位50%の資産保有額は、全体のわずか10%とのこと。つまりNISAなどの制度により、貯蓄から投資が奨励されても、そもそも私たちの二人に一人は、投資しようにも資産、つまり貯金がない。これでは子育ても、老後の準備もあったものではありません。さらに歴史的に見ると、人口の1~10%が、90%の資産を保有していた時代が大部分とか。確かに、江戸時代の庶民がせっせと貯金に励んでいたなんて、聞いたことがありません。それでも浮世絵の美人画に現(うつつ)を抜かし、宵越しの金は持たねぇなどと見得を切りつつ、なんとか生計を賄ってきたのが、大多数の庶民の、大きな経済に対する小さな暮らしのありようでした。
こう考えると、経済の専門家から貯蓄がないと大変だなどと脅されても、なんだみんな結構なんとかなってるじゃないかと、ほっとする思いに駆られるのは、私だけの愚かさでしょうか。資産配分の不平等に対する怒りよりも、貯金が無くてもなんとかなってきたのが人類の歴史だと、とりあえず開き直って、将来の生活の不安から解き放たれる幻想に、ほっとしている自分を感じてしまいます。
このほっとする思いが、現実に目をつぶる単なる愚かさの賜物なのか、あるいは何らかの根拠を持つものなのか。人類が富の余剰を持ち、権力階層が分化して以来、何千年にわたって大多数の庶民は、大きな蓄えも持たずにしたたかに生き抜いてきたわけですけど、その深層にどんな叡智が働いていたのか、少し探っていってみることが出来ればと思います。
さて、アメリカの詩人ナンシ-・ウッドが、白人によってニュ-メキシコの片隅の居留地に追いやられた、タオス・プエブロ・インディアンの古老の言葉を紹介しています。
『白人などほっておいてもそのうちに自滅するだろう。やつらにゃル-ツが無い。ル-ツ無しには、人間だろうが部族だろうが生き残ることはできない。しかし白人文明が崩壊しても、タオスは生き残るだろう。』(「今日は死ぬにはもってこいの日」より)
この予言めいた確信は、いったい何に基づいているのか。そしてこの古老の語るル-ツとはいったい何なのか?恐らくこの“ル-ツ”が、貯蓄の無い庶民を生き延びさせてきたものと密接に関わっており、また庶民が大多数なのですから、人類を生き延びさせてきたものとも関わっているはずでしょう。さらにこのインディアンの古老によると、それが無くなると、人間が生き残れないものでもあるのです。この私たち人間を人間たらしめている根っこの部分にある“ル-ツ”とは、いったい何なのでしょうか?
昨年京都大学の総長に、なぜか選出されてしまった、ゴリラ研究の世界的第1人者山極寿一先生が、猿と類人猿の大きな違いについて、次のように語っていらっしゃいます。類人猿というのは、ゴリラやチンパンジ-やボノボなど人間に近い仲間のことで、それ故その習性を調べることで、人間の本性がわかってきます。
『猿の群れでは、ボス猿を筆頭に序列が決まっており、エサは必ず序列の高い者から食べる。だからけっして一緒に食事をするということがない。この強い弱いの序列を厳格化させることによって、群れとしてのまとまりと生存を可能にしている。ところが、類人猿は違う。弱い者が強い者からエサを分け与えられ、強い者は弱い者にエサ分け与えざるを得なくなる心性を持っている。だから一緒に睦まじく食事をとる。ゴリラがドラミング(両手で胸をたたく動作)をするのは、自分の強さを誇示するためではなく、自分は弱い者にエサをあげたぞ、こんな立派なことをしたぞ、という誇りを示すための行動である。そして他の類人猿たちは、この与えた者を称賛し、与えた者は、その他者を助ける行為によって、自分の存在価値を見い出すのである。こうして類人猿は、そして私たち人間は、強弱の序列ではなく、この助け合う心性によって滅びずに、共に支えあって生きて繁栄する道を選択したのである。』
※ゴリラの心性になりきっておられる山極先生は、総長に選出された時、研究一筋の自分に務まるかと不安にかられたそうです。でもよく学内を見回してみると、猛獣が跋扈(ばっこ)するジャングルと同じ環境であることに気づき、ジャングルなら慣れたものだと自信を深められたそうです。そして、そのゴリラの視線から見ると、最近人間が、類人猿の心性を忘れ、強い者が弱い者から奪うという猿化現象が
どんどん進んで、退化していっているように見えるとおっしゃっています。
山極先生を通じて、私たちの祖先であるゴリラたちから教えられることは、どうやら人間というのは、自分のいのちへの配慮と、他者のいのちへの配慮が不可分一体(主客未分離)となることによって、人類としての滅びを避け、全体としての繁栄を可能とし、また個人としての生きる意味と価値を見い出してきたようです。それでは、どうして人間は、弱い他者を助けざるを得ない心性から、支え合いの関係をその深層に持つようになってきたのでしょうか?
それについては、18世紀のフランスの思想家であるジャン・ジャック・ルソ-が、「エミ-ル」の第4編で次のようなことを教えてくれます。
『人間に社会性をもたせるのは、その弱さである。我々の心を人間愛に向かわるのは、我々共通の不幸である。人が生きていく以上、誰もが多くの苦しみ、悲しみに襲われざるを得ない。こうして自分自身が、苦しみ悲しみを経験するからこそ、私たちは、他者の苦しみ悲しみに共感することができる(共苦)。不幸な人が苦しんでいるのを見て、誰が同情しないことがあるだろうか。ただ願いさえすればすむのであれば、誰がその人を不幸から救ってやりたいと思わないだろうか。想像力は我々を、幸福な人の立場よりも、むしろ不幸な人の立場に置く。(幸せな人を見ると、他の人々は愛情よりもむしろ羨望とやっかみの気持ちをおこすだけ。) 我々の共通の必要が、利害によって我々を結びつけるとすれば、我々の共通の不幸は、情愛によって我々を結びつける。』
ルソ-の教えは、本当に見事です。人間を結びつけるのは、1つには共通の必要から生じる利害だと言います。必要をよりよく満たすために、人間は科学を発展させ市場経済を高度に発展させてきました。これはこれでとても重要なことです。でもそれだけではダメなのです。それだけでは、プエブロ・インディアンの古老が予言した白人のように、人間は自滅してしまうのです。一方で人間には、“ル-ツ”が必要なのです。すなわち、苦しみを共有し、憐憫の心性を養い、自分が生きるために苦しくとも他者のいのちを支え、また支えられるあり方が必要なのです。禅僧の村上光照師が語るように『取りあって生きるよりも、分けあって生きる方が、人間はよほど楽で嬉しい』ものなのです。勝ち負けの喜びも人間の欲望を活性化して大事なのですけど、いのちを支えあい、心の心底から共に安心して喜びあうことの方が、よっぽど私たちは嬉しく生きられるものなのです。このいのちの喜びを無視すると、私たちは、プエブロ・インディアンの古老だけでなく、ジャングルの奥のゴリラたちからも笑われ、冷たい目で滅びを待たれることになってしまうのです。
どうやら、この苦しみを媒介として、自分のいのちと他者のいのちが不可分に結びつくようないのちへの配慮が、私たちの深層で私たちを守り、私たちのいのちを育んでいるようです。
共に苦しみを分かち合い、共に幸せを願ういのち。自分を生かすと共に他者を生かすいのちのあり方。先人たちは、その“いのち”あり方を守り、後世の私たちが滅びることの無いように、祈りと叡知の限りを尽くしてきました。その先人たちの叡知に学び、“いのち”のあり方受け継ぎ、次の世代の繁栄のために受け渡していくのが、物質文明の繁栄と並んで、この時代に生きる私たちのもう1つの重要な役割ということになるでしょう。そしてこの“いのち”のあり方こそが、高野山金剛峯寺の唱える『いかせいのち』のいのちであり、法然上人の教える『共生』(ともいき)であり、聖書や法華経で教える『永遠のいのち』に関わるものとなってくるのです。
庶民が担う、この“いのち”についてさらに考え、また、必要を満たす利害競争というメインのシステムの裏側で、いかにこの“いのち”のサブシステムを動かしていくのか。そして私たちの人生を生き易く、いかに意味と価値に満ちたものとしていくのか。それを可能とする条件について、順々に考えていければと思っています。そんな課題を念頭に置きつつ、2月10日火曜日もパンセの集いを持てればと思っております。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。