慧』
皆 さ ま へ
日本の人口の大多数を占める私たち庶民が、老後や子育てなど生活不安を抱えながらも、さほど気にせず、したたかに生きていくためにはどうすれば良いか。また孤独や無意味感に苛(さいな)まれても、一方で人生を楽しむ術(すべ)も知っていて、最期には「オレの人生も悪くは無かった」と、笑って死んでいけるためにはどうすれば良いか。そして、特に無理して知識を得ずとも、普通に暮らしていて、政治や経済が変な方向へ行かないようにするためにはどうすれば良いか。
そんなことを考えつつ、パンセの集いを続けております。2月17日の火曜日も、表参道のフィルムクレッセントでパンセの集いを行います。16時からです。
前回は、歴史的に見ると庶民は、貧しく蓄えがなくても、それなりにしぶとく、心豊かに生きてきたのだけれど、それは何故かということについて、長々と考えてきました。結論を一言でいえば、そのように生きられる心性と能力を、じつは私たちの誰もが心の奥底に潜在的に受け継いで持っており、先人たちはその能力を、ただ素直に働かせて生きてきただけ、ということです。それがどうも現代の私たちに至って、その自然な力をうまく働かせることが、出来なくなってしまっているようなのです。このうまく生きる知恵というのは、私たちの先人たちが途方もなく長い年月をかけて培ってきたものですけれど、現代の社会の表舞台からは、隠されて見えません。でもじつは今でも、“時代遅れ”と思われている伝統宗教の中に、しっかりと保持されて受け継がれているのです。残念ながら、合理的な思考で一辺倒になっている私たちの認識では、かなり見えづらくはなっているのですが。そこでその智慧(ちえ)を、神様とか仏様とかの宗教的概念に頼らずに、わかりやすく取り出してみようというのも、このパンセのプロジェクトが取り組む課題の1つです。
さて、この自然な叡知を見えやすくするために、単純化して考えて、私たちの意識の中に三層の知恵の回路が働いていると仮定してみましょう。
1つ目は、生活の必要を満たすために、外に向かって働きかけ、外から必要なものを得てくるための知恵の回路です。そのために私たちは、まず自分(主観)と外界(客観)とを分けて捉え、外界を自分の目的の対象(手段)として認識するようになります。そして少しでも多くのものを効率よく外界から得るために、対象を要素に分け、それぞれの因果関係を解明し、法則性を見い出していきます。こうしてこの『外に向かって外から得る知恵』から、科学の知が発達してきます。心理学者の河合隼雄さんの言葉で言えば、男性原理の切り分ける知恵とでも言いましょうか。この知恵においては、私たちの欲望は、物的な生活の必要を満たす財貨へと向かっていきます。また、その財貨の富を得るために、私たちは対象を分割する科学の知と、効率良く得るための段取りと順序を工夫する知を用いるので、私たちの捉える外界は、私を中心とした空間と時間という3次元的なものとして整理されていきます。
次にもう1つの知恵の回路についてです。それは外界に向かうのではなく、私たちの内面に向かって働く智慧(ちえ)の回路です。私たちの外界には、様々な情報や刺激が飛び交っています。その1つ1つについて、本当に自分にとって好ましいものなのか、忌むべきものなのかを検証して、確認するための内面の智慧の働きです。『外に向かって得る知恵』が、論理的・理性的に機能するのに対して、この『内面で確認する智慧』は、身体的な実感や直感によって機能します。こうして自分の確かな実感をもって得た自分なりの真実から、私たちは主観の中で、自分なりに納得できる世界を組み上げていきます。冬が去って森に新芽と若葉が芽吹くのは、暗記で覚える複雑な化学のメカニムに因(よ)るよりは、やっぱり森の妖精たちによってなされる恵みのわざなのです。ユング的な深層心理学の言葉で言えば、“神話的な知”とでも言いましょうか。
この内面で世界を基礎づけ直す智慧は、世界を分割して論理で組み立てるのではなく、自分にとっての有意義な意味の連関を持った1つの有機的な全体として、自分と世界の関係を自分なりに捉え直していく働きをします。そしてそこでは、時間と空間を超越して、私たちは自由に思いを馳せて、自分自身が良く生きていくための自分の物語をつくっていきます。だから自分の存在価値は何なのだろう、などといった問いは起こってきません。そんな価値喪失の不安を起こさせないための智慧なのですから。そしてこの世界に位置づけられたもはや崩れようのない自分の存在の基盤からスタ-して、この智慧のもとでの欲望は、自分のいのちの尊厳や、精神の豊かさなどの価値へと向かっていきます。
こうして外界と内界を認知し、『外に向かって得る知恵』と『内面で組み直す智慧』とのバランスの上に立って、“自我”というものが私たちの意識の中に形成されてきます。自我というのは、その人なりの現実への対応の仕方や自分自身の捉え方であり、またその対応や捉え方を生み出すもととなる、ものの見方や感じ方、判断の仕方などのまとまりです。でももし今、この自我のバランスが崩れて、『内面の智慧』が、未成熟な幼さとか恥ずべき前近代の迷信のごとく顧みられなくなり、『外に向かって得る』理屈の知恵ばかりが全面化したら、私たちの生きざまは、いったいどんなことになってしまうのでしょうか?
自分のいのちへの配慮という智慧のたがが外れてしまうのですから、私たちの価値観は、物質的な富の追求とそれを多く得ることによる称賛という方向に、一方的に向かって行きます。またある事態が起こった時、それが自分の実感によって本当に自分にとって好ましいことなのか、不十分なことなのかという検証の作用が無くなってしまいますから、物質的な欲望の追及自体が生きる目的にすりかわって暴走し、満足することなくどこまでも欲望が拡大していくことになります(貪欲)。そして1人1人が、自分中心に少しでも多く得ようと欲望を追及して取り合いをするものですから、競争が常態化していきます。また自分の実感で、価値を確認する作用が顧みられなくなりますから、世の中の価値感に翻弄されることになります。私たちはもはや、自分の身体といのちのリズムで生きるなんてことは出来なくなってしまいます。ミヒャエル・エンデの『モモと時間泥棒』の世界そのものですね。こうして私たちは、競争から脱落する不安に怯(おび)え、どこまで行っても充たされぬ不満につきまとわれ、ついには競争に疲れ果て、自分自身の喪失感に苛(さいな)まれるということになります。いのちが干からびてしまうと
いう感覚でしょうか。そしてこれが、現代の私たちが抱える状況ということになるのでしょう。科学と市場経済の発展によって、全体としての物の富は豊かになったが、自分はさほどでもない。それどころか魂は、貧困のどん底にあえいでいる。
もちろんだからといって、科学の知や財貨の富が不要なんて野暮なことは言いません。それは第1に大切なことだからです。でも『内面の智慧』とのバランスを取り戻さないと、私たちが現代の行き詰まりを解消していく術(すべ)は、本当には見えて来ません。DNAをいくらミクロの次元にまで解析していっても、私たちの生きる意味と価値の答えなど出てきやしないからです。経済がいかに飛躍的に成長しても、格差が拡大するだけで、私たちのいのちは豊かに充たされなどしやしません。だから一方で、いのちの富を充足させる仕組み働いてバランスさせないと、もはや経済そのものが、ますますその軋(きし)みの度合いを強めていくことになるでしょう。
さて、そこでもう1つ触れなくてはいけないのが、最後に残った知恵の回路、ここ何回かにわたって考えてきた『深層のいのちの叡知(えいち)』についてです。生命が地球上に誕生して以来36億年にわたって、滅びることなく繁栄するために、受け継ぎ受け渡してきた叡知で、私たちの無意識の深層で生きづいている叡知です。そして私たちに、死と再生の繰り返しから、はかりしれない生のエネルギーと永遠への望みを与えてくれる叡智です。
2月17日のパンセの集いは、この『深層のいのちの叡知』から3つの知の回路の関係を捉え直し、私たちの暮らしや仕事を、どう組み立て直していけば良いのかを考えていってみたいと思います。
16時からフィルムクレッセントです。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。
皆 さ ま へ
日本の人口の大多数を占める私たち庶民が、老後や子育てなど生活不安を抱えながらも、さほど気にせず、したたかに生きていくためにはどうすれば良いか。また孤独や無意味感に苛(さいな)まれても、一方で人生を楽しむ術(すべ)も知っていて、最期には「オレの人生も悪くは無かった」と、笑って死んでいけるためにはどうすれば良いか。そして、特に無理して知識を得ずとも、普通に暮らしていて、政治や経済が変な方向へ行かないようにするためにはどうすれば良いか。
そんなことを考えつつ、パンセの集いを続けております。2月17日の火曜日も、表参道のフィルムクレッセントでパンセの集いを行います。16時からです。
前回は、歴史的に見ると庶民は、貧しく蓄えがなくても、それなりにしぶとく、心豊かに生きてきたのだけれど、それは何故かということについて、長々と考えてきました。結論を一言でいえば、そのように生きられる心性と能力を、じつは私たちの誰もが心の奥底に潜在的に受け継いで持っており、先人たちはその能力を、ただ素直に働かせて生きてきただけ、ということです。それがどうも現代の私たちに至って、その自然な力をうまく働かせることが、出来なくなってしまっているようなのです。このうまく生きる知恵というのは、私たちの先人たちが途方もなく長い年月をかけて培ってきたものですけれど、現代の社会の表舞台からは、隠されて見えません。でもじつは今でも、“時代遅れ”と思われている伝統宗教の中に、しっかりと保持されて受け継がれているのです。残念ながら、合理的な思考で一辺倒になっている私たちの認識では、かなり見えづらくはなっているのですが。そこでその智慧(ちえ)を、神様とか仏様とかの宗教的概念に頼らずに、わかりやすく取り出してみようというのも、このパンセのプロジェクトが取り組む課題の1つです。
さて、この自然な叡知を見えやすくするために、単純化して考えて、私たちの意識の中に三層の知恵の回路が働いていると仮定してみましょう。
1つ目は、生活の必要を満たすために、外に向かって働きかけ、外から必要なものを得てくるための知恵の回路です。そのために私たちは、まず自分(主観)と外界(客観)とを分けて捉え、外界を自分の目的の対象(手段)として認識するようになります。そして少しでも多くのものを効率よく外界から得るために、対象を要素に分け、それぞれの因果関係を解明し、法則性を見い出していきます。こうしてこの『外に向かって外から得る知恵』から、科学の知が発達してきます。心理学者の河合隼雄さんの言葉で言えば、男性原理の切り分ける知恵とでも言いましょうか。この知恵においては、私たちの欲望は、物的な生活の必要を満たす財貨へと向かっていきます。また、その財貨の富を得るために、私たちは対象を分割する科学の知と、効率良く得るための段取りと順序を工夫する知を用いるので、私たちの捉える外界は、私を中心とした空間と時間という3次元的なものとして整理されていきます。
次にもう1つの知恵の回路についてです。それは外界に向かうのではなく、私たちの内面に向かって働く智慧(ちえ)の回路です。私たちの外界には、様々な情報や刺激が飛び交っています。その1つ1つについて、本当に自分にとって好ましいものなのか、忌むべきものなのかを検証して、確認するための内面の智慧の働きです。『外に向かって得る知恵』が、論理的・理性的に機能するのに対して、この『内面で確認する智慧』は、身体的な実感や直感によって機能します。こうして自分の確かな実感をもって得た自分なりの真実から、私たちは主観の中で、自分なりに納得できる世界を組み上げていきます。冬が去って森に新芽と若葉が芽吹くのは、暗記で覚える複雑な化学のメカニムに因(よ)るよりは、やっぱり森の妖精たちによってなされる恵みのわざなのです。ユング的な深層心理学の言葉で言えば、“神話的な知”とでも言いましょうか。
この内面で世界を基礎づけ直す智慧は、世界を分割して論理で組み立てるのではなく、自分にとっての有意義な意味の連関を持った1つの有機的な全体として、自分と世界の関係を自分なりに捉え直していく働きをします。そしてそこでは、時間と空間を超越して、私たちは自由に思いを馳せて、自分自身が良く生きていくための自分の物語をつくっていきます。だから自分の存在価値は何なのだろう、などといった問いは起こってきません。そんな価値喪失の不安を起こさせないための智慧なのですから。そしてこの世界に位置づけられたもはや崩れようのない自分の存在の基盤からスタ-して、この智慧のもとでの欲望は、自分のいのちの尊厳や、精神の豊かさなどの価値へと向かっていきます。
こうして外界と内界を認知し、『外に向かって得る知恵』と『内面で組み直す智慧』とのバランスの上に立って、“自我”というものが私たちの意識の中に形成されてきます。自我というのは、その人なりの現実への対応の仕方や自分自身の捉え方であり、またその対応や捉え方を生み出すもととなる、ものの見方や感じ方、判断の仕方などのまとまりです。でももし今、この自我のバランスが崩れて、『内面の智慧』が、未成熟な幼さとか恥ずべき前近代の迷信のごとく顧みられなくなり、『外に向かって得る』理屈の知恵ばかりが全面化したら、私たちの生きざまは、いったいどんなことになってしまうのでしょうか?
自分のいのちへの配慮という智慧のたがが外れてしまうのですから、私たちの価値観は、物質的な富の追求とそれを多く得ることによる称賛という方向に、一方的に向かって行きます。またある事態が起こった時、それが自分の実感によって本当に自分にとって好ましいことなのか、不十分なことなのかという検証の作用が無くなってしまいますから、物質的な欲望の追及自体が生きる目的にすりかわって暴走し、満足することなくどこまでも欲望が拡大していくことになります(貪欲)。そして1人1人が、自分中心に少しでも多く得ようと欲望を追及して取り合いをするものですから、競争が常態化していきます。また自分の実感で、価値を確認する作用が顧みられなくなりますから、世の中の価値感に翻弄されることになります。私たちはもはや、自分の身体といのちのリズムで生きるなんてことは出来なくなってしまいます。ミヒャエル・エンデの『モモと時間泥棒』の世界そのものですね。こうして私たちは、競争から脱落する不安に怯(おび)え、どこまで行っても充たされぬ不満につきまとわれ、ついには競争に疲れ果て、自分自身の喪失感に苛(さいな)まれるということになります。いのちが干からびてしまうと
いう感覚でしょうか。そしてこれが、現代の私たちが抱える状況ということになるのでしょう。科学と市場経済の発展によって、全体としての物の富は豊かになったが、自分はさほどでもない。それどころか魂は、貧困のどん底にあえいでいる。
もちろんだからといって、科学の知や財貨の富が不要なんて野暮なことは言いません。それは第1に大切なことだからです。でも『内面の智慧』とのバランスを取り戻さないと、私たちが現代の行き詰まりを解消していく術(すべ)は、本当には見えて来ません。DNAをいくらミクロの次元にまで解析していっても、私たちの生きる意味と価値の答えなど出てきやしないからです。経済がいかに飛躍的に成長しても、格差が拡大するだけで、私たちのいのちは豊かに充たされなどしやしません。だから一方で、いのちの富を充足させる仕組み働いてバランスさせないと、もはや経済そのものが、ますますその軋(きし)みの度合いを強めていくことになるでしょう。
さて、そこでもう1つ触れなくてはいけないのが、最後に残った知恵の回路、ここ何回かにわたって考えてきた『深層のいのちの叡知(えいち)』についてです。生命が地球上に誕生して以来36億年にわたって、滅びることなく繁栄するために、受け継ぎ受け渡してきた叡知で、私たちの無意識の深層で生きづいている叡知です。そして私たちに、死と再生の繰り返しから、はかりしれない生のエネルギーと永遠への望みを与えてくれる叡智です。
2月17日のパンセの集いは、この『深層のいのちの叡知』から3つの知の回路の関係を捉え直し、私たちの暮らしや仕事を、どう組み立て直していけば良いのかを考えていってみたいと思います。
16時からフィルムクレッセントです。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。