ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信 No.20  『内面のいのちの世界のフロンティア』

Feb 22 - 2015

■2015年2月22日 パンセ通信 No.20  『内面のいのちの世界のフロンティア』

皆 様 へ

新春から5回にわたってNHKで放映された特集番組『Next World』では、現在のテクノロジ-の延長で想定される、30年後の未来の世界を描き出してくれました。人工知能が未来を予測し、人間の寿命を延ばし、ロボット装具によって身体機能を高め、アバタ-を通じて遠隔地での疑似体験を楽しむ。そして新たなフロンティアとして火星に移住する。かつて科学技術は、まがいもなく私たちに、限りない夢と希望を与え、想像力を飛躍させてくれました。既存の秩序を引き裂き、生の衝動を掻き立てるフロンティアを提供するために、科学は重要な舞台装置としての役割を担い続けてくれました。それなのに、この番組を見終わった後に私が感じた味気なさは、いったいどういうことなのでしょうか。1970年の大阪万博『人類の進歩と調和』で味わったような、科学が拓く未来に対して、いのちが沸き立つような“わくわくドキドキ感”が得られないのは、どうしてなのでしょうか。しらけきって草食化して生きる現代の私たちには、もはや生の衝動が燃え立つようなタブ-の領域は、テロリズムか、佐世保や名古屋の女子高生のように「1度人を殺してみたかった」というような領域にしか、残されていないのでしょうか。

東大教授の本田由紀さんが、『もじれる社会』という本の中で、現代の日本の若者の閉塞感や自己肯定感の喪失を指摘されています。私たち庶民が、それなりに満足の出来る人生を送っていくためには、仕事や生活の糧の充足だけではなく、そんな消沈した“心の持ち方”を変えていくことも、大切な要因となってきます。生きる力が湧いてきて、現在置かれた所から可能性を拡げ、自分の生活と世界を変えていけるようになるためには、私たちはいったいどういう“心の持ち方”をすれば良いのか。そんなテ-マを念頭に置きつつ、2月24日の火曜日も、パンセの集いを行います。いつものように16時から表参道のフィルムクレッセントです。

さて前回は、私たちは物質的客観的世界に生きると同時に、内面の主観的精神の世界にも生きていて、私たちは、この二つの拮抗する世界を持っているという話を致しました。たとえば子供たちに、昆虫のアリの絵を描かせてみるとします。これは、お寺で幼稚園を経営するあるご住職のお話ですが、子供たちは、手があったり、帽子をかぶったり、リボンをつけたりと、いろいろなアリさんたちの姿を、思いのままに自由に描くそうです。これらはもちろん“実物の蟻”の姿とは異なります。でもそのご住職はおっしゃいます。「子供たちは、実物の世界のアリではなく、子供たちのいのちの世界のアリを描いているんです。自分たちのいのちに映し出された、いのちの目で見た、自分のいのちと共鳴するアリの姿を描いているのです。」確かに子供たちの絵は、図鑑に出てくるような、リアルなアリの姿ではありません。しかし図鑑や大人の絵が、精巧であってもどこか味気無いのと比べて、子供たちが描くいのちの世界のアリの絵は、下手であっても何と生き生きとして、その子らしさにあふれていることでしょうか。
この図鑑に出てくる“実物どおりに精巧”なアリは、私たちが普段その中で生きる物理的客観的世界のアリの姿です。その一方で、子供たちの描くアリは、内面のいのちの世界に生きるアリの姿なのです。このように私たちは、じつは実物のリアルの世界に生きる一方で、内面のいのちの世界をも持って、生きているのです。

ところで現在私たちは、リアルの世界においては、対象を分割して因果法則を見い出し、実験で検証する科学の合理性に生きています。この科学の知恵の信憑性は強烈で、もはや疑いを差し挟むことなど出来ません。たとえば子供たちの描くリボンを付けたアリさんなど、実際には確認できないわけですから、そんなアリさんの存在は否定します。そうすると存在するのはリアルな世界の蟻だけで、子供たちの描くいのちの世界のアリさんは、幼さに起因するものとして退けられ、やがてもっとリアルな蟻の絵が描けるようにと、子供たちは“教育”されていきます。大人になってもこんな絵を描いているようであれば、未成熟とか、非合理とか蔑まれ、場合によっては精神疾患があるのではと疑われてしまいます。こうして現代においては、現実世界が、徹底的に内面のいのちの世界の存在を押しつぶしていきます。だから妖怪も、キツネやタヌキたちも、もはや化けて出てこれなくなってしまったのです。でも、人類の長い歴史から見てみれば、こんな状況はきわめて歪(いびつ)で、現在は例外的な事態が生じていると捉えた方が良いのでしょう。

ほんの400~500年ほど前まで、科学や市場経済がまだ生まれ始める以前の頃には、当然科学や合理思想に現代のような信憑性はありません。またお金を稼ぐことも、卑しい行為と蔑まれていました。従って当然その頃においては、リアルな客観世界に対して、主観的な内的世界の方が、現代よりもはるかに比重が高くなります。客観世界において、人間が自然を支配して自由に富を追及するなんてことよりも、神様や悪魔の存在の方が、当時の人々にとっては、よほどなまなましいリアルさをもって感じられたのです。

ここで注意しなくてはいけないのは、内的世界がリアルな世界に対して、決して稚拙なものだなどど言うのではなく、質が異なる世界だということです。そこでは人々は、自分の確かな実感で自分のものとして世界を経験し、意識の中で自分なりの世界を組み立てていきます。合理的な科学の知の代わりに、自分が確認できる要素だけを用いて、世界と人間とを全体として生き生きと把握していく神話的な知の回路が働きます。だからそこでは誰でも、自分が主人公で、自由に世界の果てまで思いを致すことができるし、夢などを通して離れた恋人とも死者とも出会うことができるのです。むしろ、この内的な神話世界の比重の方が大きかったのが、人類の歴史の大部分です。だから客観的合理的世界に踏み出すことは、当時の人々にとって、今の私たちには想像もできないほどの勇気と冒険が必要なことだったのです。しかし16世紀にさしかかる頃には、このかくも長きに渡って優位を保ってきた内的いのちの世界も、ヨ-ロッパでは形骸化が始まり、教会による“免罪符”の販売に象徴されるように、もはや内面で自
由にいのちを飛翔させるよりも、精神の自由を塞ぐ桎梏となっていきました。だからコペルニクスもガリレオも、いのち躍動させる新たな領域として、自然科学の貫くリアルな世界へと、命懸けで踏み出していったのです。またタブ-恐れず、都市の住民たちはブルジョアジ-への道を歩み始めていったのです。その時科学と経済で荘厳された合理的客観世界は、まさに未踏のフロンティアとして人々の前に立ち現われ、人々は燃え立つようにそのフロンティアを拓くために、いのちのエネルギ-を注ぎ込んでいったのです。こうして内的神話世界から、合理的客観世界へと踏み出す無数のヒ-ロ-が生まれ、宗教改革がその動きを後押ししました。

しかし現在はどうでしょうか?16世紀に内的神話世界が行き詰まり、形骸化して干からびてしまったように、現代では、逆にリアルな合理的世界が行き詰まり、窒息しそうになっているのではないでしょうか。ユング派の深層心理学者である河合隼雄さんが、すでに1970年代の後半に『現代人が抑圧しているのは、もはや“性”の領域などではない。私たちが抑圧しているのは、“霊”あるいは“魂”の領域ではないだろうか。』と指摘されています。確かに、子供たちが蝶ネクタイを締めたアリさんを描くような内的世界の表出を、私たちはリアルな世界に適合できない心性として、圧殺してしまいます。しかし自分なりに、自分の確かな実感でいのちを感じ、そのいのちを育む世界を内的に形成していく営みは、
私たちが外的世界に引きずり回されないで、確かな自分の価値に生きて行く上で非常に重要なことです。そして現代の私たちの求めも、そのことに集まり始めているのではないでしょうか。一方で、リアルな合理的世界が行き詰って形骸化しているとすれば、今度は逆に、現代の抑圧とタブ-を破って、内面のいのちの世界に踏み出していくことにこそ、いのちを掻き立てる、新たなフロンティアの発見につながっていくのではないでしょうか。かつて16世紀に、私たちの先人たちが、客観世界に科学と経済というニュ-フロンティアを見い出していったように。

俳優の美和明宏さんが、あるテレビの対談で『ヨイトマケの唄』を作った時の経緯を語られていました。あの唄で、日雇い労働をしながら女手一つで子供を育てる母親のモデルとなったのは、実在した幼なじみの母親だったそうです。リアルな世界では、貧しさと仕事の卑しさに蔑まれる母。またその幼い子供も、身なりの汚さと母親の土方仕事のために、いじめられ、度々泣いて家に帰ってきたそうです。しかしその度に母親は、『人間の中で一番偉いのは、お金持ちでも地位の高い人でもない。どんなつらいことがあっても、真面目に一生懸命に働き、正直に生きる人間が、人間の中で一番偉くて誇れる存在なんだ』と、けっして負け惜しみではなく、強い矜持をもってその子を諭したそうです。このリアルな世界では見えない、内面のいのちの世界の尊厳に生きたからこそ、この母親は何の取り得が無くても、女手1つで立派に子供を育て上げることが出来たのです。そしてこの母親の姿が、その友人の成長を支えると共に、今日まで美和明宏さんの生き様をも支え続けたのです。そして『ヨイトマケの唄』を生みだし、本当にたくさんの人々の魂をも支えたのです。このヨイトマケの母親が伝えた、内面のいのちの世界の尊厳は、私たちの魂を震わせないでしょうか。そこに現代の合理主義に代わる、いのちの内奥に触れるフロンティアは見い出せないでしょうか。

このように考えてくると、私たち庶民の描く『Next World』は、NHKが描く世界とは、少し違ったものになってきそうです。テクノロジ-の拓く未来の一方で、私たちの抑圧された魂を、内面のいのちの世界へと解き放つフロンティアについても目を向けなればなりません。テクノロジ-と経済が、私たちの内面のいのちの世界を育み、その育まれたいのちが、今度はすべてのいのちとの調和と繁栄をもたらすために、テクノロジ-と経済の仕組みを変えていく。そこに、閉塞感に消沈する私たちのいのちの力を再び奮い立たせる、『Next World』のビジョンが見えてきはしないでしょうか。

このように現代において、内面のいのちのフロンティアを拓いていくために、かつての客観世界の科学と経済に相当するものとして、内面世界の何がキ-ファクタ-となっていくのか。また私たちは、そのためにどこからどう具体的に手をつけていけば良いのか。2月24日のパンセの集いでは、そんなことも考えていければと思います。お時間許す方は、ご参加ください。

P.S. 内面のいのちの世界を、私たちのいのちが燃えるフロンティアとして拓いていくために、私たちの無意識の更に奥底にある『深層のいのちの叡知』の回路にも触れていかねばならないのですが、またまた寄り道をしてしまいました。次回こそそれに触れて、皆さんの実感で検証していただければと思っております。