■2015年3月1日 パンセ通信 No.21 『現実を生き易く変える内面の霊性』
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川崎で13歳の中学1年生が、少年グル-プに凄惨な方法で惨殺され、死体の遺棄と証拠の隠滅が図られるという、またまた私たちの心に重い衝撃を与える事件が発生しました。人のいのちの尊厳を蹂躙することで、抑圧された自分の情念を噴出させるイスラム国の心性が、思想的大義を抜きにして、少年たちの内面にも伝わってしまったのでしょうか。あるいは、現実世界での行き場の無いやりきれなさが、少年たちの内面のいのちを押し潰し、情念だけが抑えの効かない妄想と化して“理性”の枠を突き破り、現実の世界の秩序や価値観を吹きとばしてしまったのでしょうか。
前回までに、私たちが外部の合理が支配する現実世界と、内面の自分のいのちを育む領域と、2つの世界を持って生きる存在であることを見てきました。しかし外部の社会秩序が自分の可能性を奪って生きづらく、しかも現代のように内面のいのちの領域も窒息させられてしまう時、人の心の深層の欲望は、制御を失って妄想と化し、暴発して現実世界を侵食することが起こってきます。犯行に及んだ少年たちにとって、現実の社会の規範よりも、自分の内面に噴出する情念による自分たちの制裁ルール(私刑・リンチ)の方が、その瞬間よほどリアルに正当なものだと思えたのでしょう。今回の場合そうした内面の妄想の暴走が、1人の個人においてだけではなく、かつてのオウム真理教のように、少年グル-プという閉ざされた集団の中で起こったため、その妄想がグル-プの中で一層増幅され、現実世界の秩序やリアリティ-を麻痺させてしまったと思われます。例えばオウム真理教の場合には、ハルマゲドンが起きるなどといった妄想が、自分たちの集団の中では現実世界の秩序よりも一層真実味を帯びて感じられ、妄想が現実世界のリアリティ-を侵食していってしまったのです。そしてもしこの妄想の共有が、社会全体にまで及んで行ってしまったとしたら、その時は戦前のナチズムや日本社会のように、もはや何が現実で何が妄想なのかが解らなくなり、結局は妄想が現実を支配するいう、最悪の事態さえ生じていくことになるのです。
もちろん普通の庶民が、外面の世界と内面の世界のリアリティ-を失して、自分の妄想を現実化させるなどという危険性は、きわめて低いものでしょう。しかし私たちが、こうした危うい狭間を生きる存在であるということは、警鐘として受け留めておかなければなりません。それではどうすれば、そんな危ういバランスの上に立つ私たちが、妄想に飲み込まれず、しかも現実の世界をうまく整えて、生き易く暮らしていくことができるのでしょうか。そんなことをテ-マとしつつ、3月3日桃の節句もパンセの集いを行いたいと思います。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントにおいてです。
さて現実のリアルの世界では、何かおかしい、どうも息苦しいと思っても、社会の秩序は強固に合理的・理性的に組み立てられているものですから、私たちの違和感は、根拠のない個人的な不満と片付けられてしまいます。しかも自由競争が社会を動かす原理となっているものですから、私たちの欲望は、自分の本当の願いとは無関係に、この競争に駆り立てられてエネルギ-を吸い取られていってしまいます。まるで大型のトロ-ル漁船に、私たちの欲望が根こそぎ絡め取られていってしまうかのようです。こうして自分を見失ったままに無益な競争に奔走する結果、私たちは憔悴し、やがて燃え尽きて抜け殻のようになってしまう。それでもまだ社会のレ-ルに乗れた人は良い方で、満足な働き口もなく、社会に居場所さえ見いだせない人は、先の少年グル-プやイスラム国の戦士のように、現実世界やその“理性的秩序”に言い知れぬ憎しみを募らせていくことになってしまいます。
その一方で私たちの内面は、本当に自分にとって良いことなのかどうかを顧みる余裕もないままに、回し車を回すネズミのように目先の課題に駆り立てられる日々が続くものですから、やがて何が本当の自分の願いなのかが解らなくなり、自分というものの内面が、すっかり萎縮して干からびていってしまう。そうでなければ、満たされぬ外界のリアルから目を背け、内面の妄想を膨らませて生きていくことになってしまう。
そこでまず第1に私たちが取り組まなければならないことは、内面の干からびたいのちをもう1度膨らませて、しっかりとした自分をつくり直すことでしょう。そして本当に自分を生かせるように、現実との向き合い方も改めていく。そのために外にばかり向かっている私たちの意識を、まずは自分の内面に向け直し、本当に今自分の外の世界で起こっていることが、自分にとって益となることなのか、害となることなのかを、本音でじっくり問い直してみることが必要となってくるでしょう。こうして徐々にではあるが、自分の内面のいのちの世界を取り戻す試みを進めていく。
ところが私たちの頭は、寸暇を惜しんで外部から情報を取り、外に向かって働きかけることに専心しているものですから、立ち止まって自分を振り返るなどという、時間を無駄にする作業には慣れていません。しかも自分を取り戻すということは、頭で理屈を解ることではなく、疑いようのない“実感”として、自分なりに何が真実なのかを納得し、1つ1つ確信を積み上げて自分を築き直していく他ありません。しかしこの作業にも、私たちは慣れていないのです。本当の自分って何?という答えを、心理学の本や偉い人の意見からコピペ(抜粋してつなぎ合わせる)することでは、自分をつくることにはならないのです。しかもそれは、頭で考えるのではなく、“身体で実感”して確認していく作業でなくてはなりません。残念ながら私たちが受けてきた教育は、知性を詰め込むばかりの教育で、感性の豊かさを開発することは、全く等閑(なおざり)にされてきました。ですから私たちは“身体で感じて”、自分の実感で確認して確かな自分の確信の集合としての内面をつくる営みに、全く鈍感となってしまっているのです。
しかもそうして内面が再生出来たとしても、1つ間違えると情念が妄想となって暴走を始め、現実世界との見境が無くなり、とんでもないことをしでかしてしまいます。いったいどうすれば、前回紹介した美和明宏さんの『ヨイトマケの唄』の母親のように、リアルな世界での貧しさ苦しさに挫けず、自分の内面のいのちの誇りを立ち上げて、しっかりと現実を生きていくことができるのでしょうか。そして内面の自分のいのちを生かせるように、自分の周囲の現実を生き易いものへと変えていくしたたかさを、持つことが出来るようになるのでしょうか。
日本の禅思想を世界に紹介した鈴木大拙さんが、文化の段階が発達した民族における宗教意識として、『霊性』という言葉を用いていらっしゃいます。これは、人間の精神世界についてのみ語る言葉ではありません。むしろ無批判に私は神を信じる、仏を信じるというような宗教のあり方は、大拙さんは原始性の宗教意識として、退けていらっしゃいます。霊性とは、「精神と物質を対峙させるのではなく、精神を物質に入れ、物質を精神に入れる」ものだとおっしゃっています。つまり私たちの外的な現実世界と内的ないのちの世界は、どちらが重要だというのではなく、両方が同等のウエィトでなくてはいけないということでしょう。しかも現実の世界でのリアルな営みが、私たちの内的ないのちを育み、その育まれたいのちの強さが、今度は現実世界の生活を豊かに変えていくという絡み合いを持っていなければなりません。こうして内と外が日常生活のすみずみの営みにおいて、豊かに関わって成長する循環をつくっていく。このような外界と内界の在り様を捉えることのできる内面のいのちの働きを、大拙さんは“霊性あるいは宗教意識”とおっしゃっているのでしょう。
確かに、私たちがしっかりと良く生きていくためには、外的世界と内的世界の両方が大切で、その関わりあいがうまく働くようにバランスさせていかなければなりません。しかしここで言う霊性に至るためには、“覚醒”が必要で、また思想や論理を媒介とするのではなく、直覚力によらねばならないとも大拙先生はおっしゃっています。要するに私たちが学校や会社で教わってきたような分かり方では、“霊性”には至れず、自分を生かす外界と内界のあり方も、見えてこないということでしょう。
それでは、どういう解り方をしていけば良いのでしょうか。ここでさらにもう1つやっかいな課題が出てきます。外的世界の事実を、1つ1つ自分の実感で検証して、自分の内的世界を再生し、自我を編み直していくのは良いのですが、自他のいのちを共に育む“内的感性・共感性”が、近代合理主義の社会以降私たの中ですっかり脆弱になっているものですから、私たちの自我は、基本的に“自分本位”なものとなってしまいます。外的世界を自分の思い通りに動かそうとするのですが、思いどおりにはならない。そこでわがままな自分を爆発させて、周囲に当たり散らすか周囲を恨む。あるいは当たり散らす先が無い時は、そんな無力な自分を責めて、憔悴して自分の中に引きこもってしまう。
外的世界と内的世界を、自分のいのちの育みのためにバランスよく絡み合わせ、しかも内面が押しつぶされたり、妄想が膨らんだりしないようにするためには、いったいどうしていけば良いのか。しかも“自分本位”に堕して苦しまないように、自我を編みかえていくためには、どのようにしていけば良いのでしょうか。そこで求められてくるのが、過去にも何回か触れてきた『深層のいのちの叡知』という“悟り”あるいは、私たちのいのちを励ます物語なのです。
3月3日のパンセの集いでは、その『深層のいのちの叡知』の内容と、私たちの外的世界、内的世界の捉え方について、考えていければと思っております。お時間許す方は、ご参加ください。
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川崎で13歳の中学1年生が、少年グル-プに凄惨な方法で惨殺され、死体の遺棄と証拠の隠滅が図られるという、またまた私たちの心に重い衝撃を与える事件が発生しました。人のいのちの尊厳を蹂躙することで、抑圧された自分の情念を噴出させるイスラム国の心性が、思想的大義を抜きにして、少年たちの内面にも伝わってしまったのでしょうか。あるいは、現実世界での行き場の無いやりきれなさが、少年たちの内面のいのちを押し潰し、情念だけが抑えの効かない妄想と化して“理性”の枠を突き破り、現実の世界の秩序や価値観を吹きとばしてしまったのでしょうか。
前回までに、私たちが外部の合理が支配する現実世界と、内面の自分のいのちを育む領域と、2つの世界を持って生きる存在であることを見てきました。しかし外部の社会秩序が自分の可能性を奪って生きづらく、しかも現代のように内面のいのちの領域も窒息させられてしまう時、人の心の深層の欲望は、制御を失って妄想と化し、暴発して現実世界を侵食することが起こってきます。犯行に及んだ少年たちにとって、現実の社会の規範よりも、自分の内面に噴出する情念による自分たちの制裁ルール(私刑・リンチ)の方が、その瞬間よほどリアルに正当なものだと思えたのでしょう。今回の場合そうした内面の妄想の暴走が、1人の個人においてだけではなく、かつてのオウム真理教のように、少年グル-プという閉ざされた集団の中で起こったため、その妄想がグル-プの中で一層増幅され、現実世界の秩序やリアリティ-を麻痺させてしまったと思われます。例えばオウム真理教の場合には、ハルマゲドンが起きるなどといった妄想が、自分たちの集団の中では現実世界の秩序よりも一層真実味を帯びて感じられ、妄想が現実世界のリアリティ-を侵食していってしまったのです。そしてもしこの妄想の共有が、社会全体にまで及んで行ってしまったとしたら、その時は戦前のナチズムや日本社会のように、もはや何が現実で何が妄想なのかが解らなくなり、結局は妄想が現実を支配するいう、最悪の事態さえ生じていくことになるのです。
もちろん普通の庶民が、外面の世界と内面の世界のリアリティ-を失して、自分の妄想を現実化させるなどという危険性は、きわめて低いものでしょう。しかし私たちが、こうした危うい狭間を生きる存在であるということは、警鐘として受け留めておかなければなりません。それではどうすれば、そんな危ういバランスの上に立つ私たちが、妄想に飲み込まれず、しかも現実の世界をうまく整えて、生き易く暮らしていくことができるのでしょうか。そんなことをテ-マとしつつ、3月3日桃の節句もパンセの集いを行いたいと思います。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントにおいてです。
さて現実のリアルの世界では、何かおかしい、どうも息苦しいと思っても、社会の秩序は強固に合理的・理性的に組み立てられているものですから、私たちの違和感は、根拠のない個人的な不満と片付けられてしまいます。しかも自由競争が社会を動かす原理となっているものですから、私たちの欲望は、自分の本当の願いとは無関係に、この競争に駆り立てられてエネルギ-を吸い取られていってしまいます。まるで大型のトロ-ル漁船に、私たちの欲望が根こそぎ絡め取られていってしまうかのようです。こうして自分を見失ったままに無益な競争に奔走する結果、私たちは憔悴し、やがて燃え尽きて抜け殻のようになってしまう。それでもまだ社会のレ-ルに乗れた人は良い方で、満足な働き口もなく、社会に居場所さえ見いだせない人は、先の少年グル-プやイスラム国の戦士のように、現実世界やその“理性的秩序”に言い知れぬ憎しみを募らせていくことになってしまいます。
その一方で私たちの内面は、本当に自分にとって良いことなのかどうかを顧みる余裕もないままに、回し車を回すネズミのように目先の課題に駆り立てられる日々が続くものですから、やがて何が本当の自分の願いなのかが解らなくなり、自分というものの内面が、すっかり萎縮して干からびていってしまう。そうでなければ、満たされぬ外界のリアルから目を背け、内面の妄想を膨らませて生きていくことになってしまう。
そこでまず第1に私たちが取り組まなければならないことは、内面の干からびたいのちをもう1度膨らませて、しっかりとした自分をつくり直すことでしょう。そして本当に自分を生かせるように、現実との向き合い方も改めていく。そのために外にばかり向かっている私たちの意識を、まずは自分の内面に向け直し、本当に今自分の外の世界で起こっていることが、自分にとって益となることなのか、害となることなのかを、本音でじっくり問い直してみることが必要となってくるでしょう。こうして徐々にではあるが、自分の内面のいのちの世界を取り戻す試みを進めていく。
ところが私たちの頭は、寸暇を惜しんで外部から情報を取り、外に向かって働きかけることに専心しているものですから、立ち止まって自分を振り返るなどという、時間を無駄にする作業には慣れていません。しかも自分を取り戻すということは、頭で理屈を解ることではなく、疑いようのない“実感”として、自分なりに何が真実なのかを納得し、1つ1つ確信を積み上げて自分を築き直していく他ありません。しかしこの作業にも、私たちは慣れていないのです。本当の自分って何?という答えを、心理学の本や偉い人の意見からコピペ(抜粋してつなぎ合わせる)することでは、自分をつくることにはならないのです。しかもそれは、頭で考えるのではなく、“身体で実感”して確認していく作業でなくてはなりません。残念ながら私たちが受けてきた教育は、知性を詰め込むばかりの教育で、感性の豊かさを開発することは、全く等閑(なおざり)にされてきました。ですから私たちは“身体で感じて”、自分の実感で確認して確かな自分の確信の集合としての内面をつくる営みに、全く鈍感となってしまっているのです。
しかもそうして内面が再生出来たとしても、1つ間違えると情念が妄想となって暴走を始め、現実世界との見境が無くなり、とんでもないことをしでかしてしまいます。いったいどうすれば、前回紹介した美和明宏さんの『ヨイトマケの唄』の母親のように、リアルな世界での貧しさ苦しさに挫けず、自分の内面のいのちの誇りを立ち上げて、しっかりと現実を生きていくことができるのでしょうか。そして内面の自分のいのちを生かせるように、自分の周囲の現実を生き易いものへと変えていくしたたかさを、持つことが出来るようになるのでしょうか。
日本の禅思想を世界に紹介した鈴木大拙さんが、文化の段階が発達した民族における宗教意識として、『霊性』という言葉を用いていらっしゃいます。これは、人間の精神世界についてのみ語る言葉ではありません。むしろ無批判に私は神を信じる、仏を信じるというような宗教のあり方は、大拙さんは原始性の宗教意識として、退けていらっしゃいます。霊性とは、「精神と物質を対峙させるのではなく、精神を物質に入れ、物質を精神に入れる」ものだとおっしゃっています。つまり私たちの外的な現実世界と内的ないのちの世界は、どちらが重要だというのではなく、両方が同等のウエィトでなくてはいけないということでしょう。しかも現実の世界でのリアルな営みが、私たちの内的ないのちを育み、その育まれたいのちの強さが、今度は現実世界の生活を豊かに変えていくという絡み合いを持っていなければなりません。こうして内と外が日常生活のすみずみの営みにおいて、豊かに関わって成長する循環をつくっていく。このような外界と内界の在り様を捉えることのできる内面のいのちの働きを、大拙さんは“霊性あるいは宗教意識”とおっしゃっているのでしょう。
確かに、私たちがしっかりと良く生きていくためには、外的世界と内的世界の両方が大切で、その関わりあいがうまく働くようにバランスさせていかなければなりません。しかしここで言う霊性に至るためには、“覚醒”が必要で、また思想や論理を媒介とするのではなく、直覚力によらねばならないとも大拙先生はおっしゃっています。要するに私たちが学校や会社で教わってきたような分かり方では、“霊性”には至れず、自分を生かす外界と内界のあり方も、見えてこないということでしょう。
それでは、どういう解り方をしていけば良いのでしょうか。ここでさらにもう1つやっかいな課題が出てきます。外的世界の事実を、1つ1つ自分の実感で検証して、自分の内的世界を再生し、自我を編み直していくのは良いのですが、自他のいのちを共に育む“内的感性・共感性”が、近代合理主義の社会以降私たの中ですっかり脆弱になっているものですから、私たちの自我は、基本的に“自分本位”なものとなってしまいます。外的世界を自分の思い通りに動かそうとするのですが、思いどおりにはならない。そこでわがままな自分を爆発させて、周囲に当たり散らすか周囲を恨む。あるいは当たり散らす先が無い時は、そんな無力な自分を責めて、憔悴して自分の中に引きこもってしまう。
外的世界と内的世界を、自分のいのちの育みのためにバランスよく絡み合わせ、しかも内面が押しつぶされたり、妄想が膨らんだりしないようにするためには、いったいどうしていけば良いのか。しかも“自分本位”に堕して苦しまないように、自我を編みかえていくためには、どのようにしていけば良いのでしょうか。そこで求められてくるのが、過去にも何回か触れてきた『深層のいのちの叡知』という“悟り”あるいは、私たちのいのちを励ます物語なのです。
3月3日のパンセの集いでは、その『深層のいのちの叡知』の内容と、私たちの外的世界、内的世界の捉え方について、考えていければと思っております。お時間許す方は、ご参加ください。