■2015年3月8日 パンセ通信 No.22 『常識を破り、創造性を生む純粋経験』
皆 様 へ
私たちは誰でも、ああしたいとか、こうなれば良いのにといった、願いや不満をもって生きています。しかし現実はなかなか自分の思うようには変わりません。そこで、現実をもっとリアルに見る目を養って戦略を見つけるとか、自分の思いを貫き通す強い意志力を持つとか、そんな思いが湧き上がってきます。でもそんな能力が無いから、いつまでも悶々(もんもん)としているのですから、このままでは袋小路ですね。そこでまず、自分の現実を変えられるだけの能力を身に着けることを考えてみます。今のままの自分ではそれが出来ないのですから、自分を変えなくてはなりません。でも、いったい自分をどう変えれば良いのでしょうか。また自分の意志だけで自分を変えられるものなら、とっくの昔にそれが出来ているはずなのですから、やっぱり環境が変わらないと、自分は変われないということになります。でも環境は変わらない。こうして結局は、世の中が悪いから自分が変われない、自分が変わらないから世の中が生き易くならないという、ジレンマが続いていってしまうことになります。
この堂々巡りのジレンマから脱することができないで、毎日を過ごしていくのが、私たち庶民なのですけれど、でも世の中には、果敢に現実に挑んで、その堅い殻を打ち破って、世の中を変えていった人たちがいます。また、思い通りにならない現実を思い通りにして、成功を収めていった人たちもいるのです。じつはこの自分の内面と外部の現実をト-タルに捉えて、自分を変えて世界を変えるノウハウこそが、伝統宗教の中に伝えられた智慧なのです。
3月10日の火曜日も、表参道のフィルムクレッセントでパンセの集いを行いますが、今回は、この智慧の中身についてご一緒に考えていければと思っています。
さてこれまでの通信で、私たちの外界の世界が、私たちの意識の中で組み立てられる仕組みと、私たちの内面の世界の構造を見てきました。そして外界の現実に私たちのいのちが押しつぶされたり、私たちの内面の妄想が暴発して、現実を侵食する状況も見てきました。それでは、この内面と外界は、私たちの中のいったいどこで、どのようにつながり、関わっているのでしょうか。またこの内面と外界を、どのように統一的に捉えていけば、私たちは自分のいのちを高め、また現実を生き易く変えていける自分と外界との良い循環をつくっていくことが出来るのでしょうか?
禅の体験を元として、日本人が培ってきた深層の意識を、哲学としてまとあげた人に西田幾多郎さんという方がいらっしゃいます(またまた戦前の古い人で申し訳ありません)。この哲学者の西田先生が『自他の区別のない主客身分な状態(純粋経験・直接経験)』ということをおっしゃっています。これはどういうことかというと、たとえば公園を歩いていて、そこに一本の木があるとします。そしてそれを見た私が、それはドングリの実のなる樫の木だと気づいたとします。でもそこに“木”があるとか、それは“樫”だとか思った瞬間、それはもう純粋経験ではなくなると西田先生はおっしゃるのです。なぜならその時、私たちは、これは自分とは区別されて自分の目の前にあるものであって、自分の生(なま)の感覚とは別に、世の中一般で“樫の木”と呼ばれるものだという『概念』が沸き起こり、その概念を通してその木を見ている(経験している)からです。なるほど、概念には私以外の世の中の一般の感覚が入ってきているのですから、もはや純粋な私の感覚ではないと言われれば、そんな気もしてきます。それでは、西田先生のおっしゃる“純粋経験”とは、いったい何なのでしょうか。素直に考えれば簡単なことなのですが、私たちがそれを“木”だとか“樫”だとか判断する前に、まず私たちの目に飛び込んでくるものは、「茶色のなにか表面がざらざらした大きな柱」といったようなものでしょう。その像がまず捉えられて、私たちの知性が働く前に、それが感覚・感触として伝わってきます。その感触を、今度は世の中の常識がいっぱい詰まった私たちの知性が、“樫の木”と判断するのです。でも樫の木といっても、実際は大きさも色合いも千差万別あるのであって、ましてやその表面にカブトムシでも止まっていようものなら、私にとってその“樫の木”は、樫の木一般である以上に、“カブトムシのお家”という
特別な意味合いを持った樫の木ということになります。そう考えると、個別の相違を無視して、この樫の木も抽象的な世間一般でいう樫の木という概念で捉えるのも、変な具合だなということに気づいてきます。
このように私たちの知性が働いて、“樫の木”という判断が働いた瞬間に、私たちの生(なま)のみずみずしい自分にしか感じられない感触は失われ、世の中一般で常識的に判断されている見方(概念)に、私たちの意識は絡め取られ、ありきたりのものの見方しか出来なくなるようにされてしまいます。でもこの知性が概念化する前の一瞬の直覚的な段階、つまり「茶色のなにか表面がざらざらした大きな柱」という感触の段階では、木の感触と私たちの感覚が、直接に絡み合って、その存在の感触を互いに確かめあって、これは何だろうといぶかるような状況が生まれてきます。だから西田先生は、この直接経験のことを、自他未分離、また主客未分離の状態とおっしゃるのです。仏教の唯識(ゆいしき)論の用語で言えば、人間の意識の一番奥底にある阿頼耶識(あらやしき)ということになるでしょか。あるいはキリスト教で言えば、啓示の領域ということになりましょうか。
さて、この普段は気づくことのない純粋経験、自他未分離の領域に、偶然にも意識が注がれるとすると、いったいどういうことが起こるのでしょうか。通常公園にある樫の木は、私たちの文化と価値観で構成された知性が働いている限り、私の目にはいつも通る公園にある、以前からある樫の木として、なんら珍しいものとしては映りません。“樫の木”という言葉で括られる、単なる概念的存在として、その個別的ないのちとしてのありようが、顧みられなくなってしまうからです。しかしこの“樫の木”という概念を取り外して、意識の自由な感触で樫の木に触れて見る時、その茶色でざらざらした巨大な柱は、なまなましく私たち迫ってきます。それはもはや一般的に抽象化された樫の木ではなく、大地のほとばしるいのちの力を啓示する息吹として、私たちに立ち現れるかもしれません。また自分の前に立ちふさがる暗褐色の強大な脅威として、不安に映し出されるかもしれません。いずれにしてもそこには、いつも見慣れて気にも留めず通り過ぎていく樫の木ではなく、自分の生の感触と触れ合い、その感触から今までの自分の常識を切り裂く、新鮮な驚きとしての樫の木が立ち現れてきます。じつは芸術というのは、この囚われた知性と、既成化した文化の概念を打ち破って、そこからから噴出してくるものを、捉えて表現する試みなのです。
この自他未分離の純粋経験は、まぎれもなく自分の感触です。概念という他者(世間一般)のものの見方は入っていません。そしてこの自分の確かなオリジナルな感触から“樫の木”を再構成していく時、それはもう何も、管理の厳しい公園にあるいつもの樫の木でなくて良くなるのです。この樫の木を心柱として、屋根を貫くおしゃれな建物をつくって、枝にはテラス席を設け、カブトムシを見ながら小鳥やリスたちとおしゃべりしながら食事のとれるレストランを見て取ったって構わないのです。このように、純粋経験の領域まで遡り、そこで感じる自分の生(なま)の感性が働くままに、それが何かとあやしみながら自由に意識が対象を構成する営みにまかせる時、私たちの常識と既成概念に囚われた知性は吹き飛ばされ、新鮮な驚きと、これまで気づかなかったものの見方を得ることが出来るようになるのです。これが真の意味でタブ-を破るということであり、既成概念を破る創造活動であり、またいのちを解き放つ驚きと新鮮さを与える芸術活動ということになるのです。この自他未分離の常識を破る自分独自のオリジナルな感触に立ち戻る時、ある人の目には、町の寂(さび)れた万屋(よろずや)が、コンビニエンスストアに見えてきて、また幹線輸送の大型トラックから、宅配便のシスムテが見えてきたのです。
しかし自他未分離の純粋経験は、これだけに止まるものではありません。私たちのいのちを既成概念から解き放つのみならず、そのいのちを再生する経験をも与えてくれるのです。
あるアルコ-ル依存症の患者だった方は、ある時自分が、幼い時から母親に褒められたいがために、必死で“良い子”を演じてきたことに気づきます。そして社会人になっても、“いい人”を演じ続けてきた苦しさを紛(まぎら)わすために、お酒が必要な手段となっていたことに気がつきます。でもまたある時に悟るです。人はなにも、いつでも“良い人”である必要はないのだということに。ありのままの自分でいいのだと。これは頭で考えると簡単なことのようなのですけど、本当に自分の実感として、心底そう思えるようになるためには、たいへんな時間と紆余曲折を要します。でもこの方は、心底そう思えるにようになったのです。そしてほんとうに楽になって、お酒に頼る必要が無くなり、アルコ-ル依存症を克服したのです。
この方の場合、母親に振り向いてもらいたいという思いから形成された、“良い人”にならねばという囚われの観念を解体して、純粋な自分の心の領域にまで立ち返ることの出来た時、まったく違う世界が開けてきて、自分のいのちを楽に導く道筋が見えてきたのです。こうしてこの人は、自他未分離の純粋な自分を経験することにより、自分を変え、そして自分を取り巻く外界の環境を変え、アルコ-ル依存の古い自分が死んで、新しい自分へと再生を果たしていく道を歩み始めることが出来たのです。
それではいったい、どうすれば私たちはこの自他未分離な純粋経験に至ることが出来るのか。そしてその領域で、どんな物語を紡いで行けば、私たちは本当に創造的に、自分を変え世界を変えて生きていくことが出来るようになるのか。そしてそのプロセスを促進するためには、どんな環境と仕組みが必要となってくるのか。いよいよ宗教の智慧の出番です。(この領域は論理の働く以前の直覚の世界なので、私たちが慣れ親しむ“法則”の通用する世界ではありません。それで“物語を紡ぐ”というなじみの無い表現を使わさせて頂きました。)そんなことも考えあわせながら、3月10日火曜日のパンセの集いを持てればと思います。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。
皆 様 へ
私たちは誰でも、ああしたいとか、こうなれば良いのにといった、願いや不満をもって生きています。しかし現実はなかなか自分の思うようには変わりません。そこで、現実をもっとリアルに見る目を養って戦略を見つけるとか、自分の思いを貫き通す強い意志力を持つとか、そんな思いが湧き上がってきます。でもそんな能力が無いから、いつまでも悶々(もんもん)としているのですから、このままでは袋小路ですね。そこでまず、自分の現実を変えられるだけの能力を身に着けることを考えてみます。今のままの自分ではそれが出来ないのですから、自分を変えなくてはなりません。でも、いったい自分をどう変えれば良いのでしょうか。また自分の意志だけで自分を変えられるものなら、とっくの昔にそれが出来ているはずなのですから、やっぱり環境が変わらないと、自分は変われないということになります。でも環境は変わらない。こうして結局は、世の中が悪いから自分が変われない、自分が変わらないから世の中が生き易くならないという、ジレンマが続いていってしまうことになります。
この堂々巡りのジレンマから脱することができないで、毎日を過ごしていくのが、私たち庶民なのですけれど、でも世の中には、果敢に現実に挑んで、その堅い殻を打ち破って、世の中を変えていった人たちがいます。また、思い通りにならない現実を思い通りにして、成功を収めていった人たちもいるのです。じつはこの自分の内面と外部の現実をト-タルに捉えて、自分を変えて世界を変えるノウハウこそが、伝統宗教の中に伝えられた智慧なのです。
3月10日の火曜日も、表参道のフィルムクレッセントでパンセの集いを行いますが、今回は、この智慧の中身についてご一緒に考えていければと思っています。
さてこれまでの通信で、私たちの外界の世界が、私たちの意識の中で組み立てられる仕組みと、私たちの内面の世界の構造を見てきました。そして外界の現実に私たちのいのちが押しつぶされたり、私たちの内面の妄想が暴発して、現実を侵食する状況も見てきました。それでは、この内面と外界は、私たちの中のいったいどこで、どのようにつながり、関わっているのでしょうか。またこの内面と外界を、どのように統一的に捉えていけば、私たちは自分のいのちを高め、また現実を生き易く変えていける自分と外界との良い循環をつくっていくことが出来るのでしょうか?
禅の体験を元として、日本人が培ってきた深層の意識を、哲学としてまとあげた人に西田幾多郎さんという方がいらっしゃいます(またまた戦前の古い人で申し訳ありません)。この哲学者の西田先生が『自他の区別のない主客身分な状態(純粋経験・直接経験)』ということをおっしゃっています。これはどういうことかというと、たとえば公園を歩いていて、そこに一本の木があるとします。そしてそれを見た私が、それはドングリの実のなる樫の木だと気づいたとします。でもそこに“木”があるとか、それは“樫”だとか思った瞬間、それはもう純粋経験ではなくなると西田先生はおっしゃるのです。なぜならその時、私たちは、これは自分とは区別されて自分の目の前にあるものであって、自分の生(なま)の感覚とは別に、世の中一般で“樫の木”と呼ばれるものだという『概念』が沸き起こり、その概念を通してその木を見ている(経験している)からです。なるほど、概念には私以外の世の中の一般の感覚が入ってきているのですから、もはや純粋な私の感覚ではないと言われれば、そんな気もしてきます。それでは、西田先生のおっしゃる“純粋経験”とは、いったい何なのでしょうか。素直に考えれば簡単なことなのですが、私たちがそれを“木”だとか“樫”だとか判断する前に、まず私たちの目に飛び込んでくるものは、「茶色のなにか表面がざらざらした大きな柱」といったようなものでしょう。その像がまず捉えられて、私たちの知性が働く前に、それが感覚・感触として伝わってきます。その感触を、今度は世の中の常識がいっぱい詰まった私たちの知性が、“樫の木”と判断するのです。でも樫の木といっても、実際は大きさも色合いも千差万別あるのであって、ましてやその表面にカブトムシでも止まっていようものなら、私にとってその“樫の木”は、樫の木一般である以上に、“カブトムシのお家”という
特別な意味合いを持った樫の木ということになります。そう考えると、個別の相違を無視して、この樫の木も抽象的な世間一般でいう樫の木という概念で捉えるのも、変な具合だなということに気づいてきます。
このように私たちの知性が働いて、“樫の木”という判断が働いた瞬間に、私たちの生(なま)のみずみずしい自分にしか感じられない感触は失われ、世の中一般で常識的に判断されている見方(概念)に、私たちの意識は絡め取られ、ありきたりのものの見方しか出来なくなるようにされてしまいます。でもこの知性が概念化する前の一瞬の直覚的な段階、つまり「茶色のなにか表面がざらざらした大きな柱」という感触の段階では、木の感触と私たちの感覚が、直接に絡み合って、その存在の感触を互いに確かめあって、これは何だろうといぶかるような状況が生まれてきます。だから西田先生は、この直接経験のことを、自他未分離、また主客未分離の状態とおっしゃるのです。仏教の唯識(ゆいしき)論の用語で言えば、人間の意識の一番奥底にある阿頼耶識(あらやしき)ということになるでしょか。あるいはキリスト教で言えば、啓示の領域ということになりましょうか。
さて、この普段は気づくことのない純粋経験、自他未分離の領域に、偶然にも意識が注がれるとすると、いったいどういうことが起こるのでしょうか。通常公園にある樫の木は、私たちの文化と価値観で構成された知性が働いている限り、私の目にはいつも通る公園にある、以前からある樫の木として、なんら珍しいものとしては映りません。“樫の木”という言葉で括られる、単なる概念的存在として、その個別的ないのちとしてのありようが、顧みられなくなってしまうからです。しかしこの“樫の木”という概念を取り外して、意識の自由な感触で樫の木に触れて見る時、その茶色でざらざらした巨大な柱は、なまなましく私たち迫ってきます。それはもはや一般的に抽象化された樫の木ではなく、大地のほとばしるいのちの力を啓示する息吹として、私たちに立ち現れるかもしれません。また自分の前に立ちふさがる暗褐色の強大な脅威として、不安に映し出されるかもしれません。いずれにしてもそこには、いつも見慣れて気にも留めず通り過ぎていく樫の木ではなく、自分の生の感触と触れ合い、その感触から今までの自分の常識を切り裂く、新鮮な驚きとしての樫の木が立ち現れてきます。じつは芸術というのは、この囚われた知性と、既成化した文化の概念を打ち破って、そこからから噴出してくるものを、捉えて表現する試みなのです。
この自他未分離の純粋経験は、まぎれもなく自分の感触です。概念という他者(世間一般)のものの見方は入っていません。そしてこの自分の確かなオリジナルな感触から“樫の木”を再構成していく時、それはもう何も、管理の厳しい公園にあるいつもの樫の木でなくて良くなるのです。この樫の木を心柱として、屋根を貫くおしゃれな建物をつくって、枝にはテラス席を設け、カブトムシを見ながら小鳥やリスたちとおしゃべりしながら食事のとれるレストランを見て取ったって構わないのです。このように、純粋経験の領域まで遡り、そこで感じる自分の生(なま)の感性が働くままに、それが何かとあやしみながら自由に意識が対象を構成する営みにまかせる時、私たちの常識と既成概念に囚われた知性は吹き飛ばされ、新鮮な驚きと、これまで気づかなかったものの見方を得ることが出来るようになるのです。これが真の意味でタブ-を破るということであり、既成概念を破る創造活動であり、またいのちを解き放つ驚きと新鮮さを与える芸術活動ということになるのです。この自他未分離の常識を破る自分独自のオリジナルな感触に立ち戻る時、ある人の目には、町の寂(さび)れた万屋(よろずや)が、コンビニエンスストアに見えてきて、また幹線輸送の大型トラックから、宅配便のシスムテが見えてきたのです。
しかし自他未分離の純粋経験は、これだけに止まるものではありません。私たちのいのちを既成概念から解き放つのみならず、そのいのちを再生する経験をも与えてくれるのです。
あるアルコ-ル依存症の患者だった方は、ある時自分が、幼い時から母親に褒められたいがために、必死で“良い子”を演じてきたことに気づきます。そして社会人になっても、“いい人”を演じ続けてきた苦しさを紛(まぎら)わすために、お酒が必要な手段となっていたことに気がつきます。でもまたある時に悟るです。人はなにも、いつでも“良い人”である必要はないのだということに。ありのままの自分でいいのだと。これは頭で考えると簡単なことのようなのですけど、本当に自分の実感として、心底そう思えるようになるためには、たいへんな時間と紆余曲折を要します。でもこの方は、心底そう思えるにようになったのです。そしてほんとうに楽になって、お酒に頼る必要が無くなり、アルコ-ル依存症を克服したのです。
この方の場合、母親に振り向いてもらいたいという思いから形成された、“良い人”にならねばという囚われの観念を解体して、純粋な自分の心の領域にまで立ち返ることの出来た時、まったく違う世界が開けてきて、自分のいのちを楽に導く道筋が見えてきたのです。こうしてこの人は、自他未分離の純粋な自分を経験することにより、自分を変え、そして自分を取り巻く外界の環境を変え、アルコ-ル依存の古い自分が死んで、新しい自分へと再生を果たしていく道を歩み始めることが出来たのです。
それではいったい、どうすれば私たちはこの自他未分離な純粋経験に至ることが出来るのか。そしてその領域で、どんな物語を紡いで行けば、私たちは本当に創造的に、自分を変え世界を変えて生きていくことが出来るようになるのか。そしてそのプロセスを促進するためには、どんな環境と仕組みが必要となってくるのか。いよいよ宗教の智慧の出番です。(この領域は論理の働く以前の直覚の世界なので、私たちが慣れ親しむ“法則”の通用する世界ではありません。それで“物語を紡ぐ”というなじみの無い表現を使わさせて頂きました。)そんなことも考えあわせながら、3月10日火曜日のパンセの集いを持てればと思います。お時間許す方は、ご参加頂ければ幸いです。